えーと、その、このお題でなんの写真? といわれると困るのですが、実は、ですね、若い頃に着たこの振袖を姪に譲るつもりでいましたところが、裄丈(ゆきたけ)がさっぱりあいません。「最近の子は腕が長いから、着られないかもしれませんよ」と、着物の古着屋さん(神楽坂 路地裏 ふくねこ堂)をやっている友人に忠告されてまして、昔買ったデパート(昔はそごうで、今は高島屋なんですが)の呉服売り場へ持っていって、直してもらおうとしたのですが、姪の腕の長さがはんぱじゃなく、どうにもなりません。
「じゃあ、安いものを新調するか」という話になりまして、売り場の方が、「こちらがご奉仕品でございます」とおっしゃるものですから、私、そこにあるものはぜーんぶ同じサービス価格かと思いまして、とびついたものが、下の写真です。群をぬいて品が良く、好みでした。
姪によく似合って、スポンサーの母(姪にとってはおばあちゃん)も気に入り、しかしまだ十六の姪はといえば、もっと派手な、赤とかピンクの地色のものがよかったみたいなんですが、そういうものを姪が手にしますと、売り場の方が、「そういうのは、軽々しくてあきがきますよ」とかいってらっしゃるので、もしかして、これはーと不安になり、「で、おいくらですの?」と聞きましたところが………、はじかれた電卓の数字を見て、もう………、仰天しました。
まして帯まで含めますと、とんでもないお値段だったのですが、上の帯は母の若い頃のもので、相当にくたびれていますし、第一、こちらには似合いそうもありません。
しかし、もう、他のものではだめだめな気分になっていますし、母が「たった一人の女の孫の一生に一度のものだから」と思い切りまして、このたび、このように仕立て上がってきましたような次第です。
総絞り(白地の部分も絞りです)なんですが、染め分けが大胆で、一部、辻が花が入っていて、なんとなく、安土桃山から江戸中期までの小袖の雰囲気が、あるような気がしたんですよねえ。
最初の写真の私の若い頃の振袖は、地紋のある綸子地に、水彩画を描くように花を描いて、色止めしたものです。
総絞りほど高価なものではないんですが、一点もので、けっこう気に入っていました。
これ、いろいろな色の綸子地に、多数の絵描きさんが、それぞれに好きな花を描いた企画ものの一つでして、例えばクリーム地に水仙とか、薄い水色の地にあやめとか、淡い桃色地に藤とか、もう、どれもステキでして、目移りがして選び難かったのですが、なんとなく、飛び抜けて洋風の趣があるこの薔薇を選んだものです。
母がデパートの案内で企画を知り、大学の春休みか夏休みかに帰省していたとき、呉服売り場に連れていかれてのことでした。
日本の上流女性の晴れの衣装は、歴史時代に入り、はっきり記録に残る最初のころは、中華王朝のものを、あまりアレンジしないでそのまま取り入れた、という感じがしますよね。明治、鹿鳴館の貴婦人たちのドレスと似たようなものではなかったんでしょうか。
それが、平安時代に入り、いわゆる「十二単」、単色の色をいろいろ重ね着する、日本独自のものになっていったのですが、土台になる単(ひとえ)の模様はいわゆる地紋でして、単色です。行事のときなどに一番上に着る表着(おもてぎ)が、二倍織物で、二色使いだったりしますが、あとは白い裳(も)に絵が描いてあるくらいで、基本的に、単色で模様のない薄い袿(うちぎ)を色とりどりに重ねることで、季節感を表したりしたわけです。
で、ですね、現在、主に帯として使われます唐織りは、京都における宮廷衣装製作の伝統の上に、さらに中華王朝からの新しい技法が導入され、金銀をまじえた色とりどりのきらびやかなものに発展していくのですが、日本独自のもの、というならば、室町時代くらいから現れ、現在の着物の原型となりました小袖の模様の方が、そういう感じが強いですよね。
小袖の原型は、平安時代の庶民の衣装で、鎌倉あたりの上流女性にとっては下着、でした。
絞り染めも、例えば麻とか、庶民の小袖に施された模様だったわけなのですが、安土桃山期に、辻が花となって、刷り泊や刺繍と組み合わされ、上流の小袖を飾るようになったわけです。
江戸時代前期ころまでに、刷り泊、刺繍、絞り、といった絢爛豪華な技法が完成し、中期ころに、そういった手間のかかる模様を、もう少し手軽に、そしてもっと鮮やかに染め付けで表現する友禅染めが考案されまして、現在の振袖や訪問着などの晴れ着に使われる技法は、ほぼ出そろいました。
江戸時代に入っても、呉服製作の中心は京都でした。
三代将軍家光の妹、東福門院和子が後水尾帝に嫁ぎまして、無理強いした徳川幕府は威信をかけて、多額の化粧料で盛り立てます。朝廷に渡した扶持が1万石そこそこなのに、化粧料は10万石を超えた、といわれますので、徳川から嫁いだ奥様の方が、はるかにお金持ちだったわけなのです。
で、和子さんは、この化粧料を、けっこうかしこく使うのです。
京都の地場産業といえば、平安の昔から絹織物なわけでして、和子さんが金にあかして衣装を注文すれば、京の庶民は潤います。自分や子供の着物だけではなく、近親者や侍女の着物も多量に注文するんですね。
この東福門院の豪華衣装を一手に引き受けましたのが、雁金屋という高級呉服商でして、尾形光琳は、雁金屋の息子です。
和子さんの娘時代の小袖は、慶長小袖といわれるものですが、和子さんがファッションリーダーとなって、小袖は華麗な発展をしていきます。絞り染めで地色を大きく染め分ける、というのは、慶長小袖の特色でして、この染め分けがけっこう大胆でして、例えば白、紅、黒紅と三色の絞り染めでくっきりと染め分けた地に、細かく花や風景、扇面などが配され、刺繍や刷り泊がほどこされる、という、大胆かつ豪華な全面模様、という感じです。
和子さんは、周囲の人々のために、でしょうか、晩年の方が多量の衣装を作っていまして、三代将軍家光の死後に現れた寛文小袖こそが、ファッションリーダーとしての東福門院の面目躍如たるものでした。
ともかく、デザインが絵画的で、大胆なんです。金の刷り泊が姿を消し、鹿の子絞りと刺繍で、その刺繍に金糸を使うようになったのですが、余白が大きく、アンシンメトリー。まさに、いまなお日本的、といわれるデザインセンスなんですが、斬新さに目を奪われます。
余白とアンシンメトリーは、19世紀西洋のジャポニズムにおいて、注目された日本のデザインの特徴です。
尾形光琳は、子供の頃から青年期にかけて、東福門院御用の雁金屋で、このすばらしいデザインを見て育ったわけなのです。
左が慶長小袖、右が寛文小袖です。
この光琳などが、ですね、後に白い小袖地に淡く、しかし大胆な構図で植物の日本画を描いて色止めする、といったようなことをしはじめまして、ですからまあ、一見洋風の私の振袖にも、小袖の伝統は息づいているわけなのです。
一方、寛文小袖は、アンシンメトリーで大胆な構図はそのままに、余白が減り、豪華さをまして、元禄小袖となります。絞りと刺繍の分量が増えたわけですから、豪華にはなったんですが、模様の大胆さは、減じます。
で、ここらへんになってきますと、ファッションの中心はすでに江戸に移っておりまして、ファッションリーダーは大奥の女性たちです。
下、左が元禄小袖、右が光琳の弟子・酒井抱一画の墨絵小袖、です。
去年の大河ドラマ、篤姫でも、さまざまな打ち掛け、小袖(振袖含む)が出てきましたが、幕末の時点においては、すっかりデザインに大胆さがなくなり、びっしりと細かな模様なんですよねえ。
もしかしますと、すでにこのころ、江戸のファッションリーダーは粋な芸者さんたちで、大奥はその座を降りていた、といえるのかもしれないですね。
私、どうもこの、全体びっしり華やか模様が好きにはなれませんで、元禄小袖までのデザインがいいよなあ、と思ってしまいます。
デザインとしては、中でも寛文小袖が最高ですけれども、これはけっこう、着こなしがむつかしそうなんですよね。
で、着物ではなく、帯の方、なんですけれど、小袖の模様が大胆さをなくしたにあたっては、帯幅が広くなったこともかかわる、といわれているようです。
細かった帯が、広くなっていくのは、やはり江戸中期からでして、このころから、着物と帯のコーディネイトが、相当、重要になってきます。
明治初頭、はじめてだったか二度目だったか、京都を訪れたバーティ・ミットフォードが西陣に案内され、唐織りの帯地を見て感心しているのですが、「洋服に使うには生地が硬すぎるし、インテリア・ファブリックにするには高価すぎる」というようなことを言っています。
しかし、ですね、鹿鳴館の時代、伊藤博文が、「日本の絹地をドレスに」というようなことを唱えまして、実際、帯地を使ったドレスとか、貴婦人たちはいろいろ考えたようです。「勝海舟の嫁 クララの明治日記」 (中公文庫)にも、そういう話がでてまいります。
西洋ファッションにおけるジャポニズムについては、ちょっとこれも調べていまして、また、取りあげることがあるかもしれません。
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「じゃあ、安いものを新調するか」という話になりまして、売り場の方が、「こちらがご奉仕品でございます」とおっしゃるものですから、私、そこにあるものはぜーんぶ同じサービス価格かと思いまして、とびついたものが、下の写真です。群をぬいて品が良く、好みでした。
姪によく似合って、スポンサーの母(姪にとってはおばあちゃん)も気に入り、しかしまだ十六の姪はといえば、もっと派手な、赤とかピンクの地色のものがよかったみたいなんですが、そういうものを姪が手にしますと、売り場の方が、「そういうのは、軽々しくてあきがきますよ」とかいってらっしゃるので、もしかして、これはーと不安になり、「で、おいくらですの?」と聞きましたところが………、はじかれた電卓の数字を見て、もう………、仰天しました。
まして帯まで含めますと、とんでもないお値段だったのですが、上の帯は母の若い頃のもので、相当にくたびれていますし、第一、こちらには似合いそうもありません。
しかし、もう、他のものではだめだめな気分になっていますし、母が「たった一人の女の孫の一生に一度のものだから」と思い切りまして、このたび、このように仕立て上がってきましたような次第です。
総絞り(白地の部分も絞りです)なんですが、染め分けが大胆で、一部、辻が花が入っていて、なんとなく、安土桃山から江戸中期までの小袖の雰囲気が、あるような気がしたんですよねえ。
最初の写真の私の若い頃の振袖は、地紋のある綸子地に、水彩画を描くように花を描いて、色止めしたものです。
総絞りほど高価なものではないんですが、一点もので、けっこう気に入っていました。
これ、いろいろな色の綸子地に、多数の絵描きさんが、それぞれに好きな花を描いた企画ものの一つでして、例えばクリーム地に水仙とか、薄い水色の地にあやめとか、淡い桃色地に藤とか、もう、どれもステキでして、目移りがして選び難かったのですが、なんとなく、飛び抜けて洋風の趣があるこの薔薇を選んだものです。
母がデパートの案内で企画を知り、大学の春休みか夏休みかに帰省していたとき、呉服売り場に連れていかれてのことでした。
日本の上流女性の晴れの衣装は、歴史時代に入り、はっきり記録に残る最初のころは、中華王朝のものを、あまりアレンジしないでそのまま取り入れた、という感じがしますよね。明治、鹿鳴館の貴婦人たちのドレスと似たようなものではなかったんでしょうか。
それが、平安時代に入り、いわゆる「十二単」、単色の色をいろいろ重ね着する、日本独自のものになっていったのですが、土台になる単(ひとえ)の模様はいわゆる地紋でして、単色です。行事のときなどに一番上に着る表着(おもてぎ)が、二倍織物で、二色使いだったりしますが、あとは白い裳(も)に絵が描いてあるくらいで、基本的に、単色で模様のない薄い袿(うちぎ)を色とりどりに重ねることで、季節感を表したりしたわけです。
で、ですね、現在、主に帯として使われます唐織りは、京都における宮廷衣装製作の伝統の上に、さらに中華王朝からの新しい技法が導入され、金銀をまじえた色とりどりのきらびやかなものに発展していくのですが、日本独自のもの、というならば、室町時代くらいから現れ、現在の着物の原型となりました小袖の模様の方が、そういう感じが強いですよね。
小袖の原型は、平安時代の庶民の衣装で、鎌倉あたりの上流女性にとっては下着、でした。
絞り染めも、例えば麻とか、庶民の小袖に施された模様だったわけなのですが、安土桃山期に、辻が花となって、刷り泊や刺繍と組み合わされ、上流の小袖を飾るようになったわけです。
江戸時代前期ころまでに、刷り泊、刺繍、絞り、といった絢爛豪華な技法が完成し、中期ころに、そういった手間のかかる模様を、もう少し手軽に、そしてもっと鮮やかに染め付けで表現する友禅染めが考案されまして、現在の振袖や訪問着などの晴れ着に使われる技法は、ほぼ出そろいました。
江戸時代に入っても、呉服製作の中心は京都でした。
三代将軍家光の妹、東福門院和子が後水尾帝に嫁ぎまして、無理強いした徳川幕府は威信をかけて、多額の化粧料で盛り立てます。朝廷に渡した扶持が1万石そこそこなのに、化粧料は10万石を超えた、といわれますので、徳川から嫁いだ奥様の方が、はるかにお金持ちだったわけなのです。
で、和子さんは、この化粧料を、けっこうかしこく使うのです。
京都の地場産業といえば、平安の昔から絹織物なわけでして、和子さんが金にあかして衣装を注文すれば、京の庶民は潤います。自分や子供の着物だけではなく、近親者や侍女の着物も多量に注文するんですね。
この東福門院の豪華衣装を一手に引き受けましたのが、雁金屋という高級呉服商でして、尾形光琳は、雁金屋の息子です。
和子さんの娘時代の小袖は、慶長小袖といわれるものですが、和子さんがファッションリーダーとなって、小袖は華麗な発展をしていきます。絞り染めで地色を大きく染め分ける、というのは、慶長小袖の特色でして、この染め分けがけっこう大胆でして、例えば白、紅、黒紅と三色の絞り染めでくっきりと染め分けた地に、細かく花や風景、扇面などが配され、刺繍や刷り泊がほどこされる、という、大胆かつ豪華な全面模様、という感じです。
和子さんは、周囲の人々のために、でしょうか、晩年の方が多量の衣装を作っていまして、三代将軍家光の死後に現れた寛文小袖こそが、ファッションリーダーとしての東福門院の面目躍如たるものでした。
ともかく、デザインが絵画的で、大胆なんです。金の刷り泊が姿を消し、鹿の子絞りと刺繍で、その刺繍に金糸を使うようになったのですが、余白が大きく、アンシンメトリー。まさに、いまなお日本的、といわれるデザインセンスなんですが、斬新さに目を奪われます。
余白とアンシンメトリーは、19世紀西洋のジャポニズムにおいて、注目された日本のデザインの特徴です。
尾形光琳は、子供の頃から青年期にかけて、東福門院御用の雁金屋で、このすばらしいデザインを見て育ったわけなのです。
左が慶長小袖、右が寛文小袖です。
この光琳などが、ですね、後に白い小袖地に淡く、しかし大胆な構図で植物の日本画を描いて色止めする、といったようなことをしはじめまして、ですからまあ、一見洋風の私の振袖にも、小袖の伝統は息づいているわけなのです。
一方、寛文小袖は、アンシンメトリーで大胆な構図はそのままに、余白が減り、豪華さをまして、元禄小袖となります。絞りと刺繍の分量が増えたわけですから、豪華にはなったんですが、模様の大胆さは、減じます。
で、ここらへんになってきますと、ファッションの中心はすでに江戸に移っておりまして、ファッションリーダーは大奥の女性たちです。
下、左が元禄小袖、右が光琳の弟子・酒井抱一画の墨絵小袖、です。
去年の大河ドラマ、篤姫でも、さまざまな打ち掛け、小袖(振袖含む)が出てきましたが、幕末の時点においては、すっかりデザインに大胆さがなくなり、びっしりと細かな模様なんですよねえ。
もしかしますと、すでにこのころ、江戸のファッションリーダーは粋な芸者さんたちで、大奥はその座を降りていた、といえるのかもしれないですね。
私、どうもこの、全体びっしり華やか模様が好きにはなれませんで、元禄小袖までのデザインがいいよなあ、と思ってしまいます。
デザインとしては、中でも寛文小袖が最高ですけれども、これはけっこう、着こなしがむつかしそうなんですよね。
で、着物ではなく、帯の方、なんですけれど、小袖の模様が大胆さをなくしたにあたっては、帯幅が広くなったこともかかわる、といわれているようです。
細かった帯が、広くなっていくのは、やはり江戸中期からでして、このころから、着物と帯のコーディネイトが、相当、重要になってきます。
明治初頭、はじめてだったか二度目だったか、京都を訪れたバーティ・ミットフォードが西陣に案内され、唐織りの帯地を見て感心しているのですが、「洋服に使うには生地が硬すぎるし、インテリア・ファブリックにするには高価すぎる」というようなことを言っています。
しかし、ですね、鹿鳴館の時代、伊藤博文が、「日本の絹地をドレスに」というようなことを唱えまして、実際、帯地を使ったドレスとか、貴婦人たちはいろいろ考えたようです。「勝海舟の嫁 クララの明治日記」 (中公文庫)にも、そういう話がでてまいります。
西洋ファッションにおけるジャポニズムについては、ちょっとこれも調べていまして、また、取りあげることがあるかもしれません。
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ありがとうございます。母は元気になりまして、ちょうどこの書き込みをいただいた直後くらい、前々から予約しておりまして、母の希望により、東京へ行き、若いころの思い出がつまりました歌舞伎座の最後を見せて参りました。
母は、大島つむぎを仕立て直しましたコート、私は振袖コートで、歌舞伎座の前で入れ替えを待っていましたところ、まわりの方々から、コートについて話しかけられました。
「えり萬」のお話、そのひっつけ帯といいますのは、魅力的ですね。行ってみたいと思うのですが、なぜか母が、京都はもういい、という感じでして、なかなか関西には足を運べませんのです。残念です。
ほんとうに!そんな感じで、もう、びっくりしました。
直せる、などという範囲ではなかったんですの。
12月、鹿児島から帰ってまもなく、ニュージーランドへ一年間留学する姪が、おばあちゃんのご機嫌うかがいに参りまして、そのときの出来事でしたの。「最近は反物の幅が違う」ということも、そのとき、はじめて知りましたです。
総絞りの仕立ては難しいんだそうで、出来上がったのは、つい先日です。
譲れなかった振袖を、ドレスにしようかと思うのですが、もう、私が着るには派手すぎで、NZから帰ってきたら、姪のドレスを作ってやろうかな、と。
帯地バックのリフォームも、やってみたいなあ、と思っていますです。
デパートの呉服売り場の隣に、そういうコーナーがありまして、いま、母が買ったまま一度も着なかった大島紬を、コートにしてもらおうと、頼んでいるところです。
洋服と違って 着物は 一目瞭然~のところが…
写真うつりもばっちり!
これをお召しになった姪御様~楽しみですね。
私の着物など娘は肘までしか裄が…
親子兼用とはなりませんです。
最近は反物の幅が違うらしいですね。
親戚の披露宴で親御様が黒留をドレスに直して着てました。
素敵でしたよ。
でも帯は・・・確かに服では。。。
義母は しみの付いた帯が捨てがたく「バック」にリフォーム。。。
買ったのとどっちが。。。値段になりましたが 素敵ですよ。