チンダラコッチさまから、貴重な北朝鮮の画像をいただきましたので、今回はちょっと北朝鮮のお話を。いま手元に、北朝鮮に関する本がありませんので、多少、お話が不正確になるかもしれないのですが、ご容赦のほどを。
私とチンダラコッチさまとの出会いは、朝鮮半島と在日に関する討論BBSにおけるものでした。
えーと、そこで私がなにをしていたかといいますと、どーも、喧嘩を売っていたような気がしないでもないのですが、とりあえず当初は、朝鮮半島の歴史的知識を求めて訪れたように覚えています。しかし、そこはそういう掲示板ではなく、政治的色彩が濃く、いつのまにか私は、バトルを楽しむようになっていたのですが、やはり比較的、歴史関係の書き込みが多かったのでしょう。ロムっていらしたチンダラコッチさまが、私を歴史の専門家と勘違いされて、メールをくださったのが最初でした。
チンダラコッチさまは、併合時代の朝鮮半島に、日本人植民者の子供として生を受けられ、半島で育たれ、旧制中学校まで半島で教育を受けられました。戦時中に予科練入学で内地へ帰られ、そのまま終戦を迎えられたのです。
そしてチンダラコッチさまは、その少年時代、半島にて「王世子・李垠殿下のご学友として日本の陸軍士官学校へ留学していたキム・イルソン将軍が、いつか朝鮮を独立に導いてくれる」という伝説を聞いておられた、というのです。
ところが、日本の敗戦により、ソ連が北朝鮮に連れてきた金日成は、伝説のキム・イルソン将軍にしては年が若すぎ、「偽物ではないか」と騒ぎになったわけでして、チンダラコッチさまは、「李垠殿下のご学友だった本物のキム・イルソン将軍についてご存じないか」と、私に問い合わせメールをくださったのです。
えー、私、朝鮮の歴史にさほど詳しいわけではありませんで、メールをいただいて驚いたのですが、たまたま、直前に下の本を読んでおりました。
現在、手元に本が無くて不正確ですが、確か著者の李命英氏は、現在の北朝鮮地域のご出身で、38度線を超えて韓国側に逃れた方でして、金日成への恨み骨髄、というかんじで書かれた本ですが、かんたんにいいますと、統合時代に朝鮮半島にひろまっていたキム・イルソン伝説には複数のモデルがあった、ということでして、その点では、なるほどと思わせますし、二人目のモデル金光瑞は、チンダラコッチさまが聞いておられたという「李垠殿下のご学友として陸軍士官学校に留学」という伝説に、かなり近い経歴です。
陸士23期卒で、29期卒の李垠殿下のご学友というには年上すぎるのですが、日本で騎兵中尉となり、半島に帰った後、満州における抗日運動に身を投じ、白馬に乗って軍(まあ朝鮮族の馬賊のようなものだったみたいですが)を指揮したという話です。3代目、4代目のキム・イルソンのモデルより、はるかに時代が古く、大正期、シベリア出兵前後の話なんですね。結局、ソ連に裏切られてよるべなく病没したらしいんですが、日本陸軍時代の写真が残っていまして、とてもいい男です。
生まれも育ちもいいですし、日本の士官学校を、おそらくは優秀な成績で卒業した元騎兵中尉で、ソウルの妓生たちの憧れの的で、白馬に乗って抗日軍を指揮していたって、いかにも伝説になりそうな実在の人物なんです。
ちなみに、李命英氏は、現実にソ連が連れてきた金日成は抗日運動はろくにしていない、としているのですが、それについては異論もありまして、私も以降、いろいろと金日成に関する著作を読んでみたのですが、3代目、4代目のキム・イルソンのモデルと現実の金日成の関係は、なにが事実やら、ちょっとわけがわかりませんでした。
金光瑞の死亡は、はっきり確かめられていたわけではありませんでしたので、昭和になり、中朝国境付近で武装集団が「抗日」をかかげますと、その長は、どうも代々、伝説のキム・イルソンを名乗ったようなのですね。
で、ソ連が連れてきた金日成については、まったく抗日運動をしていなかったわけではなさげなのですが、果たして、どれほどの活動をしていたかについては、いろいろと話がありまして、とりあえず、よくはわからない、としておきます。
しかし、「白馬に乗ったキム・イルソン将軍が、いつか朝鮮を独立に導いてくれる」という統合時代の半島の伝説についていいますならば、モデルの中核は金光瑞だったわけですし、だとすれば、確かにソ連が連れてきた金日成では、若すぎたでしょう。
ともかく、そんなわけで、チンダラコッチさまとはお近づきになり、現実にお目にもかかったわけなのですが、そんな中で、ふと思い出したことがありました。我が家の親戚にも、北朝鮮から引き上げてきた一家がありました。統合時代、祖父の姉が、半島北部の鉱山で技師をしていた日本人に嫁ぎ、平壌に住んでいたんです。
その子供たち(母のいとこになるわけですが)は、やはり平壌で旧制中学を卒業した後は、内地の学校へ進学していまして、終戦時、平壌にいましたのは、祖父の姉夫婦と年頃の長女のみ、だったようです。
朝鮮半島からの日本人の引き上げは、ソ連が進駐してきた北部では、非常に悲惨なものであったことが知られています。引き上げ船を待つ間の収容所で、飢え死にさせられた例もかなりあったような話です。
うちの母は、東京にいた大学生のころ、平壌から引き上げて来たいとこ(長女)夫婦の世話になりまして、そのいとこの死去を知り、いつかお参りしたい、といっておりました。で、つい先年、母を連れて仏前を訪れたのですが、私たちを待っていてくださったその旦那さまから、平壌引き上げの話をお聞きすることができたんです。
実のところ、母のいとこの女性は、敗戦のどさくさに、鴨緑江水力発電株式会社の日本人技師だったその方と結婚したのであったようです。ちょっと驚いたのですが、電力会社の技師などは、ソ連軍にも地元の人々にも、代わりになる人材がなかったため、日本人でも優遇され、ちゃんと給料をもらって残留を求められたのだというのですね。もちろん、食べるに困るようなこともなく、お話をうかがっていて、なにしろ日本女性の強姦など日常茶飯事だったという当時の状況ですから、祖父の姉夫婦が急遽、年頃の長女を、優遇された電気会社の技師にゆだねたのではないか、と推察いたしました。
日本人の北朝鮮引き上げにも、いろいろなケースがあったんですね。
チンダラコッチさまがかつて住まわれていた新義州市は、中朝国境の北朝鮮の町です。鴨緑江をはさんで、向こう岸は中国の丹東市です。通常、日本人が観光で北朝鮮を訪れても、新義州市へは行くことができません。立ち入りが制限されているのだそうです。
チンダラコッチさまは、幾度か訪れることがおできになったそうでして、貴重な画像をくださいました。なお、詳しくは新義州市ーwikiをご覧ください。
このwikiのメーデーの写真で、市民はけっこういい服装をしているように見えますが、チンダラコッチさまのお話でも、TVで報道される北朝鮮地方都市の貧しさとは、ちょっとちがっていて、みなこざっぱりとした様子で、飢えに苦しむような様子はうかがえない、とのことです。
また、商取り引きがさかんな様子であったというお話ですが、最近の報道で、中朝国境地帯は中国との交易で潤っている、といっていたのは、どうも本当のことのようです。
経済的には、すでに中国の影響下に呑み込まれている、といえなくもないような気がするのですが、一方、総連の活動も盛んだそうでして、どんなものなのでしょうか。金王朝の三代目ともいわれる三男の母、亡き高英姫は、鶴橋出身、ですしねえ。
といいますか、先日のTBSの番組といい、時折メディアで評論家などが口にする台詞といい、どうも北朝鮮は、またしても日本へ融和世論形成の工作をしかけているような気がするのですが、いいかげん、拉致問題を置き去りにしては何事も始まらないのだと、わからないものなのでしょうか。
以下、写真の説明につきましては、すべてチンダラコッチさまのお教えに基づくものです。
鴨緑江大橋(中朝友誼橋)です。手前が北朝鮮・新義州市。対岸に見えている丹東市側からの写真は多いのですが、新義州市側からの写真は、きわめて珍しいと思います。
右が大橋、左は鴨緑江断橋の橋桁です。丹東市側には途中まで橋が残っているのですが、北朝鮮側は橋桁のみになっています。
いずれも朝鮮総督府鉄道局、つまり日本人によってかけられたものです。鴨緑江断橋の方が先で、1911年(明治44年)に完成しました。鴨緑江大橋の方は、1943年(昭和18年)、輸送力のアップをはかってできたものです。双方、朝鮮戦争中にアメリカの空爆で破損しましたが、大橋の方は修復され、中朝友誼橋と名付けられ、いまなお活躍している、というわけです。
断橋の方も、丹東市側では、観光資源になっているようですね。
ともかく、チンダラコッチさま、貴重な写真を、ありがとうございました。
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私とチンダラコッチさまとの出会いは、朝鮮半島と在日に関する討論BBSにおけるものでした。
えーと、そこで私がなにをしていたかといいますと、どーも、喧嘩を売っていたような気がしないでもないのですが、とりあえず当初は、朝鮮半島の歴史的知識を求めて訪れたように覚えています。しかし、そこはそういう掲示板ではなく、政治的色彩が濃く、いつのまにか私は、バトルを楽しむようになっていたのですが、やはり比較的、歴史関係の書き込みが多かったのでしょう。ロムっていらしたチンダラコッチさまが、私を歴史の専門家と勘違いされて、メールをくださったのが最初でした。
チンダラコッチさまは、併合時代の朝鮮半島に、日本人植民者の子供として生を受けられ、半島で育たれ、旧制中学校まで半島で教育を受けられました。戦時中に予科練入学で内地へ帰られ、そのまま終戦を迎えられたのです。
そしてチンダラコッチさまは、その少年時代、半島にて「王世子・李垠殿下のご学友として日本の陸軍士官学校へ留学していたキム・イルソン将軍が、いつか朝鮮を独立に導いてくれる」という伝説を聞いておられた、というのです。
ところが、日本の敗戦により、ソ連が北朝鮮に連れてきた金日成は、伝説のキム・イルソン将軍にしては年が若すぎ、「偽物ではないか」と騒ぎになったわけでして、チンダラコッチさまは、「李垠殿下のご学友だった本物のキム・イルソン将軍についてご存じないか」と、私に問い合わせメールをくださったのです。
えー、私、朝鮮の歴史にさほど詳しいわけではありませんで、メールをいただいて驚いたのですが、たまたま、直前に下の本を読んでおりました。
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現在、手元に本が無くて不正確ですが、確か著者の李命英氏は、現在の北朝鮮地域のご出身で、38度線を超えて韓国側に逃れた方でして、金日成への恨み骨髄、というかんじで書かれた本ですが、かんたんにいいますと、統合時代に朝鮮半島にひろまっていたキム・イルソン伝説には複数のモデルがあった、ということでして、その点では、なるほどと思わせますし、二人目のモデル金光瑞は、チンダラコッチさまが聞いておられたという「李垠殿下のご学友として陸軍士官学校に留学」という伝説に、かなり近い経歴です。
陸士23期卒で、29期卒の李垠殿下のご学友というには年上すぎるのですが、日本で騎兵中尉となり、半島に帰った後、満州における抗日運動に身を投じ、白馬に乗って軍(まあ朝鮮族の馬賊のようなものだったみたいですが)を指揮したという話です。3代目、4代目のキム・イルソンのモデルより、はるかに時代が古く、大正期、シベリア出兵前後の話なんですね。結局、ソ連に裏切られてよるべなく病没したらしいんですが、日本陸軍時代の写真が残っていまして、とてもいい男です。
生まれも育ちもいいですし、日本の士官学校を、おそらくは優秀な成績で卒業した元騎兵中尉で、ソウルの妓生たちの憧れの的で、白馬に乗って抗日軍を指揮していたって、いかにも伝説になりそうな実在の人物なんです。
ちなみに、李命英氏は、現実にソ連が連れてきた金日成は抗日運動はろくにしていない、としているのですが、それについては異論もありまして、私も以降、いろいろと金日成に関する著作を読んでみたのですが、3代目、4代目のキム・イルソンのモデルと現実の金日成の関係は、なにが事実やら、ちょっとわけがわかりませんでした。
金光瑞の死亡は、はっきり確かめられていたわけではありませんでしたので、昭和になり、中朝国境付近で武装集団が「抗日」をかかげますと、その長は、どうも代々、伝説のキム・イルソンを名乗ったようなのですね。
で、ソ連が連れてきた金日成については、まったく抗日運動をしていなかったわけではなさげなのですが、果たして、どれほどの活動をしていたかについては、いろいろと話がありまして、とりあえず、よくはわからない、としておきます。
しかし、「白馬に乗ったキム・イルソン将軍が、いつか朝鮮を独立に導いてくれる」という統合時代の半島の伝説についていいますならば、モデルの中核は金光瑞だったわけですし、だとすれば、確かにソ連が連れてきた金日成では、若すぎたでしょう。
ともかく、そんなわけで、チンダラコッチさまとはお近づきになり、現実にお目にもかかったわけなのですが、そんな中で、ふと思い出したことがありました。我が家の親戚にも、北朝鮮から引き上げてきた一家がありました。統合時代、祖父の姉が、半島北部の鉱山で技師をしていた日本人に嫁ぎ、平壌に住んでいたんです。
その子供たち(母のいとこになるわけですが)は、やはり平壌で旧制中学を卒業した後は、内地の学校へ進学していまして、終戦時、平壌にいましたのは、祖父の姉夫婦と年頃の長女のみ、だったようです。
朝鮮半島からの日本人の引き上げは、ソ連が進駐してきた北部では、非常に悲惨なものであったことが知られています。引き上げ船を待つ間の収容所で、飢え死にさせられた例もかなりあったような話です。
うちの母は、東京にいた大学生のころ、平壌から引き上げて来たいとこ(長女)夫婦の世話になりまして、そのいとこの死去を知り、いつかお参りしたい、といっておりました。で、つい先年、母を連れて仏前を訪れたのですが、私たちを待っていてくださったその旦那さまから、平壌引き上げの話をお聞きすることができたんです。
実のところ、母のいとこの女性は、敗戦のどさくさに、鴨緑江水力発電株式会社の日本人技師だったその方と結婚したのであったようです。ちょっと驚いたのですが、電力会社の技師などは、ソ連軍にも地元の人々にも、代わりになる人材がなかったため、日本人でも優遇され、ちゃんと給料をもらって残留を求められたのだというのですね。もちろん、食べるに困るようなこともなく、お話をうかがっていて、なにしろ日本女性の強姦など日常茶飯事だったという当時の状況ですから、祖父の姉夫婦が急遽、年頃の長女を、優遇された電気会社の技師にゆだねたのではないか、と推察いたしました。
日本人の北朝鮮引き上げにも、いろいろなケースがあったんですね。
チンダラコッチさまがかつて住まわれていた新義州市は、中朝国境の北朝鮮の町です。鴨緑江をはさんで、向こう岸は中国の丹東市です。通常、日本人が観光で北朝鮮を訪れても、新義州市へは行くことができません。立ち入りが制限されているのだそうです。
チンダラコッチさまは、幾度か訪れることがおできになったそうでして、貴重な画像をくださいました。なお、詳しくは新義州市ーwikiをご覧ください。
このwikiのメーデーの写真で、市民はけっこういい服装をしているように見えますが、チンダラコッチさまのお話でも、TVで報道される北朝鮮地方都市の貧しさとは、ちょっとちがっていて、みなこざっぱりとした様子で、飢えに苦しむような様子はうかがえない、とのことです。
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経済的には、すでに中国の影響下に呑み込まれている、といえなくもないような気がするのですが、一方、総連の活動も盛んだそうでして、どんなものなのでしょうか。金王朝の三代目ともいわれる三男の母、亡き高英姫は、鶴橋出身、ですしねえ。
といいますか、先日のTBSの番組といい、時折メディアで評論家などが口にする台詞といい、どうも北朝鮮は、またしても日本へ融和世論形成の工作をしかけているような気がするのですが、いいかげん、拉致問題を置き去りにしては何事も始まらないのだと、わからないものなのでしょうか。
以下、写真の説明につきましては、すべてチンダラコッチさまのお教えに基づくものです。
鴨緑江大橋(中朝友誼橋)です。手前が北朝鮮・新義州市。対岸に見えている丹東市側からの写真は多いのですが、新義州市側からの写真は、きわめて珍しいと思います。
右が大橋、左は鴨緑江断橋の橋桁です。丹東市側には途中まで橋が残っているのですが、北朝鮮側は橋桁のみになっています。
いずれも朝鮮総督府鉄道局、つまり日本人によってかけられたものです。鴨緑江断橋の方が先で、1911年(明治44年)に完成しました。鴨緑江大橋の方は、1943年(昭和18年)、輸送力のアップをはかってできたものです。双方、朝鮮戦争中にアメリカの空爆で破損しましたが、大橋の方は修復され、中朝友誼橋と名付けられ、いまなお活躍している、というわけです。
断橋の方も、丹東市側では、観光資源になっているようですね。
ともかく、チンダラコッチさま、貴重な写真を、ありがとうございました。
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専門の歴史から離れて朝鮮の片隅だった新義州府に関していろいろとご興味を頂きありがとうございます。私も何の因果か朝鮮コロニーの二世(本当は三世)に生まれて日本では朝鮮の人ですか?と言われたりした経験があります。
朝鮮の李垠殿下と金日成こと金光
端とが陸士の同級生といいましたっけ?
私の記憶では朝鮮出身の劉昇烈大佐(我が母校の配属将校と洪思翊
中将が陸士の同級であったと書いた積もりでした。仰せの通り李垠
殿下は26期でしたか金日成こと
金光瑞とは年齢が違いますね!
勘違いしまして済みません。加齢故ご容赦を!
水豊ダムの完成記念行事の旗行列行進に参加した写真が残っています。あれは昭和14年だったと思います(小学校6年生時)
満州皇帝の溥儀氏も行幸でわが町
定州に来られ知り合いの機関士が
運転していました。
私は日露戦争前に祖父が仲間三人と平安道に行き鉱山を当て金儲けしたのですがその金を持って中国に行き日本人興行師に全部巻き上げられてスッテンテンになったのだと父親から聞かされていました
父親は京都で学校に通っていましたがそんなことで母親(祖母)と
定州まで訊ねていったそうです。
その頃は鉄道が無く鎮南甫まで船で平壌から馬で行ったとのことを
聞かされました。祖父の妹の大叔母が旅館業で成功して父を内地から呼んで商売を始めてのだそうです。姉二人、兄は学徒出陣で戦死
両親は二人で家族の引き揚げを待っていると期待していてがっかりしたそうです。何とも親不孝な私でした。
母は熊本の八代出身で西南戦争で
西郷方に付き大正の初め没落して
新義州にいた親戚の紹介で父の所に来たのだそうです。
母は良く父親のことを「オデー様」とか言って身分の低い父親を怒らしていました。(^。^);
本題に戻り、鴨緑江の流れは冬に
なると2mの厚さに凍るのですが
水豊ダムが完成、発電開始後の昭和17年の冬から凍らなくなりました。今でも凍りませんが稀に全面凍ることも戦後2度ほどあったそうです。(中国人の話)
戦後北朝鮮では30万人くらいの日本人居留者がいて多くは朝鮮人に財産などを奪われ生活困窮して
その上満州からの疎開者を保護するため日本人会が助力して一年余
の後、歩いて或いは船で身包みを
剥がれながら38度線を目標に命懸けで南鮮にたどり着いたのです
幸い父は朝鮮人の実力者と仲良くしていたお陰でりんご園に匿われ
船を買い仁川沖まで辿り着いたのですが祖父は83歳で老衰死して
佐世保で荼毘にしたそうです。
朝鮮では定州~安東、平壌まで年上の機関車運転士が機関車に乗せてくれましたのでこの経路は夢に
見たものです。3度の北朝鮮渡航で汽車で或いは街道を車で3,4回往復してきました。
拉致された「めぐみさん」の韓国出身の旦那の勤め先の「ルンラ
888貿易会社の代表「金秀吉」
からはインビテーションも来ています。今はリタイアで僅かな家賃と同じく僅かな年金で生活していますので高価なお土産を持参できなくなりました。
旧制中学校の同窓会も最下級生が
76歳ですから再来年同窓会を閉鎖することになりました。他の朝鮮の中等学校同窓会は既に閉じております。
最近の同窓会も出席者が最盛期の五分の一の出席人員で寂しいものです。
平成4年から10年までは中国東北部、北京、上海などに旅行していましたので、頼まれて中国の要人の子供の日本留学を保障していました。丹東市には亡妻も連れて
いったりして歓待を受けていましたが家内は中国より朝鮮のほうが
可哀想と同情していました。
確かに一般の北朝鮮人のほうが日本のことが好きなようです。
父が存命の時は南越した定州の町の朝鮮の人がソウルに招待してくれていましたが一度だけ行ったようですが、同じく子供達が国際キリスト教大学留学の時は両親が家で面倒を見ていました。
朝鮮には縁が深いようです。
さて上記にあるように母校の朝鮮人配属将校の劉昇烈大佐の子息は
同じ同窓で陸士55期の出身で朝鮮戦争では第五師団の師団長でした。先日回顧録を日本で出版したいとのことでお世話しましたが、
翻訳や専門用語のことがあって多額な費用になるのでペンデイング
中です。
先に新義州の町を車で一周した時に写した町の日本時代の建物の写真も多数あります。道庁、府庁、
郵便局、女学校、東中学校、図書館、道立病院、王子製紙工場、カネボウ工場、税関、等などです。
最近はグーグルアースで新義州市内ばかりでなく金小日の別荘までが見えることもあります。
北朝鮮は外国人を入れても全部は
見せませんですし、写真を撮るのもガイドと称する保安隊員が目を光らしています。あの国は全てにおいて弱い国ですので、犬の遠吠えと言いますか、タイトロープを渡るような崖っぷち外交をするしか体制を保持出来ないではないでしょうか!いずれ何らかの形で崩壊するとは思いますが、アメリカ相手でも恫喝出来る器量があるようです。アメリカも小さな国には優しいような態度で何時もだまされますね!
これは休戦会談から続いています
今は朝鮮総連も落ちぶれていますが、一時は北朝鮮から研究者、演劇団などが来日していました、時々招待で行きましたが日本人の
有名な人たちも良く招待されていました。金小日の愛人も子供と共に神奈川に住んでいて私も稀に電話で連絡することもあります。
朝鮮大学出身で父親は私と同年で
東大出身です。朴さんと言います
あまり公にはしたくありませんのでこのくらいにします。
郎女様は近代日本歴史の研究をなされておれれるようですね。色々とご教示下さい。
19日(日)はJAXAに勤める外孫が航空宇宙センターの一般公開だから来て見てと言うので三女の孫達を連れて行ってきました。
航空機操縦シュミレーションを一度やって見たかったので席に座って操縦しましたが着陸で何度もバウンドしてしまいました。実物なら何度も死んでいますね!アイゴー!
拉致問題が終わらないのは北朝鮮が日本からまだお金が取れると踏んでいるからです。恐らく今の体制が終わらない限り結着は無理かと思います。北朝鮮国内は日本の
マスコミが言うようなチェッコビばかりがいる国ではありません。
結構市場には商品が溢れています
北朝鮮ウオッチャーも皆金儲け主義で本当の北朝鮮国情を見ていないようです。
人民に言わせれば、日本はアメリカに負けたでは無いか、ウリナラはアメリカに勝っているぞ!と人民は信じているようです。
そこが日本帝国の時代に似ている
ような気がします。
昔から南の朝鮮人よりも北の方が頭が良いと言われていましたが、
北の政府は目先の外交上手です。
ではご自愛のほどを祈ります。
金正男が税関でひっかかったときのことを思い出します。
李垠殿下と金光端ですが、チンダラコッチさまが同期とおっしゃったのではなく、最初、メールをくださったとき、「本物の金日成は李垠殿下のご学友で陸士に留学していたという話を昔聞いていたが」と、おっしゃっておられたのです。
それで、私が勝手に、「ご学友なら同期なんだろう」と思い込んだだけです。しかし、秋山好古は旧藩主久松伯爵のお供で、フランスのサン・シールへ留学しましたが、年は上ですし、同期ではなくともご学友といえますよね。当時の陸士では、休日は出身別に休憩所をもっていた、というような話ですし。
メールをいただいて、私が「金日成は四人いた」をご紹介しましたところが、チンダラコッチさまは、読まれた上でさらに、金光端について調べられた、ということだったかと覚えております。
李英和氏がサピオに書かれていましたところでは、今回の世界同時不況の影響で、北朝鮮が中国へ輸出している鉱物資源が買いたたかれるようになり、鉱山は操業停止状態、外貨不足で食料が買えず、この夏、下手をするとまた飢餓に襲われる可能性があるので、韓国以外の国とは融和を模索するだろう、とのことです。
どうも最近、政治家やら評論家やらがテレビなどで、「強硬姿勢だけではミサイルも拉致も解決しない」とか「北に強硬なばかりでは日本が孤立する」とか、盛んに言い出したところを見ますと、私は、李英和氏の情報はかなり正確であるように思うのですが、いかがでしょうか。
拉致問題はおっしゃるように、北の体制が変わらなければ、解決のしようがないものだと、私も思います。
その日が近からんことを記念しつつ、一度、それまでにあの国を、この目で見てみたいものだとも思っております。
どうぞ、またお話をお聞かせくださいませ。