郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍と故国山川 vol5

2012年05月07日 | 伝説の金日成将軍

 今回もう一度、幕末を離れます。
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol4の続きといえば続き、なんですが、このシリーズを書いておりました当時には、シベリアのロシア内戦におきますチェコ軍団の活躍を書き、金光瑞はそれを手本に朝鮮独立を達成しようと思ったのではないか、というところへ話をもっていくはずでした。

中欧の分裂と統合―マサリクとチェコスロヴァキア建国 (中公新書)
林 忠行
中央公論社


 上の本を主な参考書に、草稿の冒頭は書いていたのですが、面倒になりまして、さらにはハングルサイトの機械翻訳で、金光瑞の詳しい事績と子孫の行方が、現在の韓国では知られていて、建国勲章まで追敍されているとわかったものですから、wiki-金擎天を立ち上げることにしました。
 戸籍に載っています本名の金光瑞ではなく、金擎天で立ち上げましたのは、先にあった韓国語wikiがそうだったからです。

 このブログで書くよりは、wikiに書いた方が多くの方が読んでくださるわけですし、金光瑞の生涯について、韓国でははっきりと伝わっているにもかかわらず、日本語では間違えたままの情報しかない、という状況を、なんとかしたいと思ったような次第です。

 wikiに金擎天を書いた当時、ついでに金日成に関連しても、wikiの記事にいくつか訂正、加筆しました。
 私がほとんど書き換えたといっていいのは、東北抗日聯軍抗日パルチザンなんですが、金日成につきましても、経歴のうちの出生からソ連への退却と、最後の別人説に手を入れています。

 その別人説なのですが、最近、あまりにもひどい説を読みまして。
 トンデモなのですから放っておけばいいんですけれども、中途半端に事実を含み、いかにもありそうな雰囲気をかもし出しておいて、結論がありえないトンデモになっているのですが、それがまた、現代日本人の朝鮮半島への無知につけこみ、結果的に親北朝鮮、反米論調に傾きすぎまして、あげく「金王朝の三代世襲を、日本人には擁護する義務がある!!!」と訴えるにいたっては、「かつての左翼でもここまで脳天気ではなかったなあ。戦前右翼、戦後左翼に受け継がれたアジア主義のなれの果てにしてもひどすぎるよねえ」と、著者の頭の構造を疑わずにはいられません。

金正日は日本人だった
佐藤 守
講談社


 この本なんですけれども、著者の佐藤守氏は、元航空自衛隊空将というご経歴で、それが、どちらかといえば保守よりの陰謀論好き読者を捕らえ、説得してしまう大きな要因であるようなのですが、北朝鮮という国は、以前から、和田春樹東大名誉教授のような左巻きの学者さんだけではありませんで、保守よりの政治家にも食い込み、長い間、日本において、拉致事件をまるでなかったことのようにしてきた前歴がありまして、右だろうが左だろうが、油断がならないんですよねえ。

 佐藤守氏は、昭和14年(1939)樺太に生まれ、終戦の年に6歳。防衛大学校は7期でおられますから、教官には、旧軍関係者が多かったのではないんでしょうか。ご自身がブログに「中国空軍設立秘話」を書いておられるんですが、終戦時、満州にいました帝国陸軍関東軍第2航空部隊の一部は、通化において、八路軍(中国共産党軍)の空軍設立に協力しました。(参照「人民中国」中国空軍創設につくした日本人教官/元空軍司令官が回想する
 で、その通化には朝鮮人民義勇軍といいます中国共産党系の朝鮮人部隊がいまして、この人たちは、ソ連に逃げ込みました金日成たちとはちがい、北朝鮮へ帰国後は延安派と呼ばれ、上層部は大方粛正されることになるんですけれども、終戦直後に関東軍の航空隊と接触があったことは確かです。

 また、北朝鮮空軍を創設しました李闊(リ・ファル)は、名古屋の民間飛行学校でパイロットになり、読売新聞社の専属パイロットになっていたといわれるのですが、どうも北朝鮮の記録では、日本帝国陸軍の軍人だった経歴を消しているみたいなんですね。
 終戦直後の9月、李闊(リ・ファル)は新義州にいて、日本軍にいた朝鮮人を集め、日本軍の飛行機で航空隊の育成を始めた、とも伝えられていまして、これはどうも、金日成が帰国する以前の話みたいですし、新義州は満州の通化に近いんです。
 憶測にすぎないんですが、李闊(リ・ファル)の活動は、当初、八路軍の空軍設立と連動して、延安派のもとで行われたものだったのではなかったでしょうか。

 ともかく、です。
 いずれにせよ、終戦を満州、北朝鮮で迎えました帝国陸軍航空隊の中には、中共、北朝鮮の航空隊創設にかかわって教官となり、教え子はそれなりにかわいいでしょうから、彼らの新しい祖国に親近感を持ち、日本へ帰国した人々が複数いた、ということなんです。
 それにだいたい、当時の日本は、アジア主義をかかげて欧米と戦争をして敗れたわけでして、反欧米でありさえしましたら、共産主義であってもなかっても、とりあえず肩入れしたくなる、といった心情を、多くの日本人が持ち合わせていた、ということもあります。

 さて、佐藤守氏の「金正日は日本人だった」です。
 この本の幕開けが、金日成別人説です。
 根拠は、北朝鮮新義州ー中朝国境の町伝説の金日成将軍と故国山川 vol3でもご紹介しました、下の本です。
 
金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
クリエーター情報なし
成甲書房


 この李命英氏の「金日成は四人いた」は、けっしてトンデモ本ではないんですけれども、中国共産党系の資料ですとか、ソ連の崩壊で出てきました証言ですとか、李命英氏の目には触れなかった材料が近年出てきておりますので、ちょっとそのままは、鵜呑みにできない内容なんです。

 簡単に言ってしまいますと、「伝説のキム・イルソン将軍には実は四人のモデルがいたのだけれども、現在の北朝鮮の金日成は、そのうちの誰でもない偽物だ」ということなのですけれども、その四人のうち最初の二人、金一成と金光瑞は、北朝鮮の金日成より二十数歳年上です。
 このシリーズは、金光瑞について書こうとして始めたものでして、結果、冒頭に書きましたようにwikiの記事となりました。
 金一成につきましては、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1伝説の金日成将軍と故国山川 vol2に書いております。
 
 wiki金日成の「別人説」にも書いたのですが、佐々木春隆著「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」 (1985年)では、次のように述べられています。
 「伝説のキム・イルソン将軍については、李命英氏が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという金一成(キム・イルソン)と、陸士出身で白馬に乗って活躍した金擎天(金光瑞)が、生まれた年がともに1888年、出身地も同じ咸鏡南道であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないだろうか」

 「1920年代後半以降の消息が知れず」という部分につきましては、近年、ちょっとちがってきておりますが、当時の朝鮮民衆にとりましてはそうだったでしょうし、また、日本の敗戦後、ソ連によりまして、金日成が平壌に姿を現すことになりましたとき、騒ぎが起こりましたのは「若すぎる!」ということだったんです。

朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀 (文春文庫)
萩原 遼
文藝春秋


 荻原遼氏の「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」の中に、金日成のロシア語の通訳を務めていた高麗人の兪成哲(ユ・ソンチョル)の回想が出て参ります。彼は、金日成お披露目の会場にいて、「にせ者だ」「ありゃ子どもじゃないか。なにが金日成将軍なもんか」という民衆の声を聞いたと語っているんです。
 また荻原氏によりますと、事実上の北朝鮮の国歌である『金日成将軍の歌』の作詞者が、当時金日成を称えて書いた『歓迎・金日成将軍』という詩には、「将軍がもどって来られることは誰も知らなかったが、将軍がもどって来られたことは誰もが知った。ー中略ー 誰もが将軍は若いという。そのとおり、将軍は若い」とあるのだそうです。

 つまり、北朝鮮の伝説のキム・イルソン将軍は、現実の金日成よりも一世代上と考えてよく、金一成の事績から「義兵闘争のころから活躍していた」「白頭山を根城にして戦った」といわれ、金光瑞の事績から「日本陸軍士官学校を出ている」「白馬に乗って野山を駆けた」ということになったのだとすれば、佐々木春隆氏のおっしゃることはもっともに、私には思えます。

 ところが佐藤守氏は、以下のようにおっしゃるのです。
 だが、この金日成は、金光瑞(金擎天)でも、白頭山のパルチザンの一人であった金昌希(金一成)でもあり得ない。後で詳述するが、二人とも、後に北朝鮮に入った自称金日成とは年齢が違い過ぎるからだ。
 金日成将軍を自称し、有名になった人物は他にもいる。いや、金光瑞も金昌希も英雄伝説のモデルでない可能性の方が高い。植民地時代、救世主として朝鮮の人々の脳裏に刻まれた金日成将軍の本命は別にいる。
 金日成の名を轟かせ、英雄伝説が流布するきっかけをつくったのは、一九三七年の「普天堡(ポチョンボ)の戦い」だった。


 いや、だから、伝説のキム・イルソン(金日成)将軍は、現実の金日成よりはるかに年上なんです。
 そして、「一九三七年の「普天堡(ポチョンボ)の戦い」って、伝説の金日成将軍と故国山川 vol2に書いたんですけれども、再録します。
 後年のことですが、普天堡襲撃に参加していた北朝鮮のある老将軍は、自国の新聞記者に、軍糧調達、つまりは、軍資金と食料を強奪することが目的であったのだと正直に語り、さらには、「寝ぼけ眼の倭奴が、ズボンもはかずに飛び出してきて哀願するのを殺した」と、自慢げにつけくわえて、それを知った金日成の怒りを買いました。(「北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 」より)
 普天堡は、およそ300戸ほど(うち日本人は26戸)の村役場所在地にすぎませんで、「寝ぼけ眼の倭奴」とは、交番の近くで食堂を経営していた日本人です。農事試験場や営林署、消防署、村役場、学校、郵便局に火を付け、同胞の民家で強盗を働いてまわった、という、匪賊とかわらない行為だったのです。それが北朝鮮では、「朝鮮人民に希望を与えためざましい抗日の戦い」だったと評価され、金日成の業績として美化されようとしていて、金日成は老将軍の正直な回顧談を、許しておくわけにはいかなかったわけなのです。


 そして、wiki金日成の注釈に書いたのですが、徐大粛著、林茂訳「金日成(キムイルソン)―その思想と支配体制」によりますと、1937年(昭和12年)、普天堡襲撃当時の金日成部隊に関する朝鮮半島内の報道は、おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、襲われる満州の朝鮮人農民の苦しみに同情を寄せたものが多かったわけでして、1920年代前半(大正10~15年ころ)、シベリアにおきます金光瑞の独立闘争が、東亜日報や朝鮮日報で英雄のように報じられましたのとは、大きくちがっているんです。

 実際、金日成が属して普天堡襲撃を引き起こしました中国共産党指導下の抗日パルチザン組織・東北抗日聯軍は、詳しくは後述しますが、やっていることが匪賊と変わりませんで、しかも同胞、つまり朝鮮人を多々襲っているんです。
 金光瑞は普天堡襲撃のころ、ソ連にいて、スパイ容疑で当局に逮捕されておりますが、金一成は、といえば、東北抗日聯軍の活動範囲でありました白頭山にいたのではないかと、私は、伝説の金日成将軍と故国山川 vol2で推測しております。
 ともかく、金一成の方も、東北抗日聯軍とはちがって、「古武士的な風格を持っていた」のだそうでして、品格がちがいます。

 普天堡襲撃がいくら有名になったところで、それで英雄扱いはありえないですし、なにをもって佐藤守氏が普天堡を大層なことのように評価なさっておられるのか、謎です。
 また佐藤守氏は、「金光瑞は一九二五年に満州に移ってから消息を絶っており、その後の足取りはつかめていない」と断言なさっているんですが、金光瑞が1936年以来、スターリンの大粛清にひっかかり、1942年、アルハンゲリスクのラーゲリで心臓疾患により死亡したとされていますことは、子孫によって伝えられた確実な情報です。

 金光瑞と東北抗日聯軍にも縁がなかったわけではないこと、そして普天堡襲撃の金日成は、果たして北朝鮮・金王朝の金日成なのかどうか、そういったことを書きたかったのですが、長くなりましたので、次回に続きます。

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