郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

昌徳宮と李王朝の末裔

2005年12月31日 | 韓国旅行
今年の韓国旅行は、一応、ソウル世界遺産の旅、というようなものでした。それを2日間延長して、水原華城と板門店を追加したんです。
去年、ある日曜日に、突然、高校時代からの友人が訪ねて来まして、なにごとかと思いましたら、延々、ペ氏について語るんですね。
私はペ氏にはなんの興味もなかったのですが、彼女はペ氏の国、韓国にも関心を持ったようで、韓国語まで勉強しはじめたと言います。
それは好都合と、「実はまだ韓国に行ってないのよ。行くならつきあうわよ」と言っておいたところが、年明けに電話がかかってきまして、ともかく行こうと、なったわけです。
2月に、うっかり、「韓国に詳しいおじさんたちに会いに大阪へ行く」ともらしましたところが、彼女曰く、「韓国のネットで、スターのスキャンダルが出回っているんだけど、どれがだれのことかよくわからないから、聞いてきてほしい」。
いや、あのー、そんな、えーと。あのおじさんたちに、スターのスキャンダルの話なんかしても……。
とはいうものの、彼女も少々変わっているのか、「ドラマのロケ地とか行きたいの?」と聞きましたところが、そうでもない、とのことなので、なにやらほとんど、行き先は私の希望したところになってしまいました。
ソウルにある宮殿を見たかったので、結局、世界遺産の旅になった次第です。

ソウル市内には、いくつか李朝時代の宮殿があるのですが、ほとんどのものがごく新しい再建で、世界遺産になっているのは、昌徳宮(チャンドックン)のみです。
ここも、『チャングムの誓い』のロケ地のひとつですが、李王朝最後の皇太子妃で、梨本宮家の女王、方子妃殿下が晩年を過ごされた場所でもあります。
写真は、昌徳宮仁政殿の玉座です。

方子妃殿下が住まわれた御殿は、楽善斎と呼ばれ、遺品などが展示されていると、昔なにかで読んでいたのですが、最初に昌徳宮を訪れた日は楽善斎の公開日ではなく、板門店へ行った日の夕刻、再び訪れました。
ところが、ようやく楽善斎を見ることができて、驚きました。
楽善斎は、1847年、24代憲宗が建てたものです。韓国の宮殿は極彩色で彩られているのですが、この宮殿は民間を模したもので、色は塗られておらず、主に未亡人が住む建物でした。
昌徳宮が世界遺産となったためなのでしょうか。楽善斎も創建当時の姿にもどされていて、遺品はおろか、方子妃殿下がおられたころの面影は、まったくなくなっていたのです。

最後の皇太子だった李垠殿下は、10歳で日本へ留学され、祖国が日本に併合されたために、日本の王族となられ、陸軍に奉職されていました。梨本宮方子女王を妃殿下とされ、生活の拠点は日本でした。現在、赤坂プリンスホテルにある洋館が、戦前は李王家の邸宅だったのです。朝鮮半島に莫大な資産を持っていたため、世界でも有数の裕福な王族であったそうです。
日本の敗戦により、半島は解放されたのですが、アメリカが後押しして大韓民国の大統領となった李承晩は、李王家に連なる家柄で、李垠殿下の帰国を望まなかったといわれます。また殿下ご自身も、政治的に利用されることを嫌われ、日本に留まられた、という話もあります。
ともかく、李垠殿下が祖国の地を踏まれたのは、朴正熙大統領になってからのことで、しかも帰国時にはすでに、脳軟化症で意識が混濁した状態でおられたとのことです。ソウルはこのとき、殿下のご帰国を祝う人並みであふれた、といいます。
殿下が薨去された後、方子妃殿下は楽善斎に住まわれ、福祉事業に打ち込まれて、生涯を終えられました。

楽善斎から妃殿下の痕跡が消し去られた今、日韓近代史のはざまにゆれたその生涯を偲ぶことができるのは、同じく世界遺産である宗廟だけなのでしょうか。
李王朝歴代王族の位牌を祀った宗廟には、さすがに、李垠殿下と方子妃殿下のお名があり、現在ただ一人、お二人の血を引かれる李玖氏は、どうしておられるのだろうか、と、宗廟にたたずんで、ふと思いをはせました。
アメリカに留学して、アメリカ人の女性と結婚され、長期間アメリカで暮らされていたけれども、韓国へ帰国され、離婚されたという話は、なにかで読んでいました。お子はおられません。
ところが、私が日本へ帰って間もなくのことです。李玖氏が、赤坂プリンスホテルで死去された、というニュースが流れました。
李玖氏は、生まれた日本の地へ帰っておられたのです。

なお、併合時代、楽善斎には、純宗の正妃で、李垠殿下には義母にあたられる尹妃が、未亡人となって住まわれておりました。そこには、李王朝最後の女官たちがお仕えしていて、チャングムのような料理女官もいたんですね。
『チャングムの誓い』で、宮廷料理指導をなさったのは、宮廷料理の研究で韓国の人間国宝になった、黄慧性女史の娘さんです。
黄慧性女史は、裕福な両班の娘で、戦前の日本に留学し、帰国して家庭科の教師になりましたが、奉職した女学校の日本人校長から、「あなたは朝鮮人なのだから朝鮮の料理を研究しなさい」と、楽善斎に紹介され、最後の料理女官から宮廷料理を学んだんです。、
黄慧性女史がいなければ、宮廷料理は伝わらず、『チャングムの誓い』というドラマもできなかっただろう、と思えます。
嘘かほんとうかわからないのですが、併合時代のソウルを知る方のお話では、宮殿のオンドルはボタンの花を燃料にしていて、ほんのり甘い花の香りがただよっていたんだそうです。

みなさん、よいお年を。

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2 コメント

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Unknown (がーこ)
2006-01-02 16:50:42
トラックバックありがとうございました。

それと、あけましておめでとうございます!

とても興味深いお話、読ませてもらいました。私も日本の歴史に興味がありますが、昌徳宮、水原華城へ行ってから、急に韓国の歴史にも興味を持ちました。

「高校時代からの友人“ぺ氏のファン”」の方同様、私も韓国から帰って、ハングルの勉強を始めましたが、…がなかなか難しくて…全然進んでいません!
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あけましておめでとうございます (郎女)
2006-01-02 17:51:23
コメント、ありがとうございます。

実は私、半島オタクではあるのですが、韓国語はさっぱり、です。昔、一度、勉強しようと思ったことがあるのですが、ハングルを見たら頭が痛くなって、挫折いたしました。

最近勉強をはじめた友人の方が、一生懸命看板など読んでくれまして、助かりました。

華城行宮の売店で、突然サイレンが鳴り響いたときに、お店のおばさんが、「ケンチャナヨ!」と言ってくれたのだけは、よく意味がわかりました(笑)

『チャングムの誓い』は、おもしろかったですよね。

韓国の李王朝の歴史の本は、日本での出版が少ないので不自由していたのですが、これから増えてくるのではないかと期待しているところです。

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