昔、韓国へ行ってみたかったのは、朝鮮半島の歴史、それも近代史ではなく、古代史に興味を抱いていたから、です。
時は流れて、なぜかけっこう近代史にも詳しくなり、半島オタクの端の端くらいには連なれるかな、といったところで、急に、板門店が見たくなりました。
といいますか、北朝鮮に行ってみたくなり、その絶好の機会がなかったわけじゃあないんですが、その時は家庭の事情で行けませんでした。
ようやく、なんとか時間がとれるかな、という状態になってみたら、家族が大反対するような状況です。いえ、観光するだけならば危険はないはずなんですが、そんなことを説明しても、北朝鮮へ行くというだけでいやがられそうですし、高い金額を払って、値段のわりには待遇がいまひとつのツアーに、いっしょに行ってくれそうな友人も、身近にはいません。
それならば、とりあえず韓国へ行って、板門店だけでも見ておこう、となったわけです。
北朝鮮旅行に最初に興味を持ったのは、1992年に発行された関川夏央著『退屈な迷宮』を読んで、でした。北朝鮮へツアー旅行で行けるようになった、ということにまず驚いたんですが、その旅行が、旅行というよりは苦行のようで、「疲れたから今日はホテルで休みたい」と言っても休ませてもらえず、強行スケジュールで、向こうの見せたいところばかり無理矢理見せられる、といったツアー解禁当初の状況は、うそだろ~! と目をむきつつ、いや北朝鮮ならば観光客相手でもそうなのかも、と妙に納得したりもしたものです。
小泉訪朝で、金正日が拉致を認めたとき、朝日新聞に載った関川夏央氏の文章は忘れられません。わざわざコンビニまで、朝日新聞を買いに走ってしまいました。たしか、現在『「世界」とはいやなものである』(日本放送出版協会発行)におさめられている一文です。
韓国は北朝鮮の轍を踏んではならない。それは破滅への道である。すでに先進国水準に達して久しい韓国は、自分の民族主義を相対化しなければならないと考える。国内と対日だけの狭くて深い井戸のなかから出て、中国と、また世界と対峙し共存したらよいと思う。そのためには北朝鮮に対する正当な評価と正当な態度が必要である。
同民族といい、「ひとつのコリア」といいつづけるのなら、韓国は北朝鮮のテロと、人災としての飢餓の責任を、まさにわがこととして引き受けなければならない。北朝鮮という病気が同民族の体内から発したものと理解しなくてはならない。
ああ、さすがは半島とのつき合いが長いお方、よくぞ言ってくださった、それも朝日で……、と思ったのですが、現実はなかなか、そうすっきりとはいかないままに経緯しています。
今年の2月に、半島に詳しい方たち……、まあ平たくいえば半島オタクの方々と、大阪は鶴橋の焼肉店でオフ会をしたのですが、「北の自壊を促して、嫌でも韓国が北を吸収するしかないでしょ?」という私に、半島とつながりの深いお二人が、口をそろえて、「韓国は絶対にしない」とおっしゃるのです。「韓国は、ようやく先進国並みの暮らしになったんだよ? 北といっしょになって生活レベルを下げることに、国民が耐えられるわけがない」と。
それはその通りですし、だからこそ、韓国の現政権が、なんとか北の現政権を保たせようと必死になっているのはわかっているのですが、関川夏央氏ではありませんが、「南北分断はアメリカや日本のせいで、北とは同じ民族だ」と言い募るのならば、なおさら責任があるでしょうよ、と、釈然としない気分になってしまいます。
韓国へ旅行をしたのは、六カ国協議に向けて、アメリカのライス国務長官が訪韓した直後のことでした。
たしか当時、六カ国協議に北朝鮮が参加を決めたのは、アメリカのステルス戦闘機に平壌上空を脅かされて、怯えたからだという噂がネット上に出回っていて、韓国の米軍基地にステルスがいたことは事実なんですが、半信半疑でした。しかし、北朝鮮に詳しいジャーナリストの惠谷治氏がサピオにそのことを書いておられて、北が暴発しないかぎり、もはや板門店が最前線ではない時代だな、と実感していたのです。
そんなこちらの実感にはかかわりなく、事前に渡された板門店ツアーの注意書きには、「Tシャツ、ジーンズ、衿なし袖なし、ミニスカート、サンダル、スニーカーなどなど、ラフな服装はだめ」とありまして、?????となりました。
えーと、行き先は一応、最前線といわれるところのはず、です。動きやすい服装がだめ? それに、7月です。今どき、真夏の女性の服で、衿があって袖があってって、さがす方が難しい気がするんですが。
なんのためにこんな服装規定があるのかわからず、韓国居住の方などが多いBBSへ行きまして、質問しました。
「パンツスーツにしようかと思うのですが、インナーがノースリーブの衿なしカットソーというのもだめなんでしょうか?」なんぞと書き込みましたところ、さっそく親切なお方が、「OK」と答えてくださいました。なんでも、「韓国はアメリカの退廃文化に染まっている」と北に宣伝させないために、板門店では正装をする、というような伝統があるのだとか、です。
で、当日です。
板門店行きのバスツアーは、それ専門のもので、事前予約した日本人観光客のみを大型観光バス数台に集めて出発します。
ガイドさんの説明では、韓国人が板門店へ行くのは審査があって大変なのだそうなのです。その審査を通過したのか、あるいは在日ならばOKなのか、通路を隔てた隣の席のご夫婦は、関西の在日韓国人のようでした。
なんでわかったか、ですって? 関西弁とパスポートです。
やがて車窓に、南北の国境を流れるイムジン河が見えたときには、これなのねーと、感慨深かったのですが、しかし、ガイドさんが突然カセットを仕掛け、「さあ、みなさん、ごいっしょに歌ってください」と、ザ・フォーク・クルセダーズの『イムジン河』をかけたときには、あらま、と苦笑してしまいました。
『イムジン河』は、日本における半島南北対立の因縁の歌なんです。
リアルタイムで知った話ではなく、人に聞いたり、なにかで読んで得た知識なんですが、1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズというフォークグループが、『イムジン河』という北朝鮮の歌をうたっていました。訳詞は松山猛です。
イムジン河水清く とうとうと流る 水鳥自由に むらがり飛びかうよ
我が祖国南の地 思いははるか イムジン河水清く とうとうと流る
歌は、知っていました。昔、この歌が好きな知り合いがいて、教わったんです。
レコードにはなっていませんでした。
1968年、シングルレコード発売が予定されていたにもかかわらず、突然、中止になったといいます。それは当時、「堕落した西側退廃文化で汚すな」という朝鮮総連からのクレームがあったからだ、といわれていたのですが、現在では、少々ちがうお話が出てきています。
総連のクレームは、訳詞が正確ではないことと、朝鮮民主主義人民共和国という国名と作詞作曲者の名前をちゃんと入れろ、ということで、これに、レコード会社がびびったというのです。
作詞の朴世永は、戦前からのプロレタリア文学者で、南から北へ行った南労党員だったのです。当時の韓国からすれば、裏切り者、であったわけでして、「朝鮮民主主義人民共和国 朴世永」などと名前を入れますと、今度は韓国大使館や民団から強い抗議を受ける怖れがあった、といいますか、実際に圧力を受けてやめた、ということのようです。
ただ、この話も、どうなのだろう、と、私は疑っています。
当初、北朝鮮で歓迎されていた南労党の芸術家たちは、やがて粛正され、かなりの数の人々が、悲惨な境遇に置かれて獄死したり、しているんですけれども、朴世永はどうだったのでしょうか。
そして、この訳詞が意訳であるにしても、これが「南の故郷を恋う」歌であることは、確かなのです。当時の北朝鮮が、この歌を歓迎していたとはとても思えません。朝鮮総連もまた、レコード発売を望まず、難癖をつけてみたのではなかったのでしょうか。
総連と民団と両方が騒げば、それは発売中止にもなるでしょう。
今年、この歌を主題歌とした映画が、封切られましたよね。『パッチギ』です。
朝鮮総連のプロパガンダか、と思える部分がなきにしもあらずでしたけれども、悪くない映画でした。
といいますか、音楽の使い方は、非常にすぐれています。オダギリが歌う『悲しくてやりきれない』に続き、主人公がラジオで歌う『イムジン河』の歌に、在日と日本人の河原での乱闘と、そして、在日と日本人の間の子供の誕生の知らせが重なる……。
ただ、けっこうよかっただけに、もう少し多面的な、深みのあるとらえ方をして、プロパガンダ臭を脱することができなかったものかと、残念でなりませんでした。
話がそれました。
私が観光バスの中で苦笑してしまったのは、作詞者の朴世永が焦がれた南の祖国では、この歌はまったく知られておらず、その南の祖国を訪れた日本人観光客のためにのみ、イムジン河のそばで歌が流されている図が、なんとも奇妙なものに思えたからです。
板門店でもっとも印象的だったのは、若いアメリカ兵の笑顔です。
米軍は念願かなって、大多数が板門店から引き上げたのです。
わずかな数が残っているのですが、変わって重責を担った韓国兵が、堅く、緊張しきった様子なのにくらべ、アメリカさんは、実にお気楽な感じで、ニコニコとバスに手を振ってくれたので振りかえしましたが、緊張したその場の空気とのアンバランスが、ちょっと不気味ではありました。
板門店では、服装だけではなく、「並んで整然と行動してくれ」だとか、細かいことは忘れましたが、あれこれと注意が多く、あるいは乗客から文句でも出たのでしょうか。
といいますのも、私たちの前に、アメリカ人の観光バスがいまして、こちらは服装もラフで、あまり注意深く動いている様子はなかったんですね。
ともかく、ガイドさんは、必死になって、「ここではアメリカが一番強いから」とか「みなさんは韓国人に見えるから、なにか事が起これば韓国人と同じに攻撃される」とか、説明なさってました。
そのあたりは、私もおとなしく聞いていたのですが、しかしガイドさんが、「最近では北朝鮮側にも観光客が来るようになっていますから、北の一般の人たちも、ここで遠目ながら韓国側の観光客を見て、様子を知るようになっています」と言い出したときには、さすがにばかばかしくなりまして、つい友達に、「北の一般人が板門店観光になんか来るわけないじゃない、ねえ。北側の観光客なら、中国人か日本人か在日が多いし、北の人で来られるのは特別な人たちだけよ。板門店観光は、北の方が自由にさせてくれるって」としゃべってしまいました。
いえね、北朝鮮旅行記は、ネットでも読んでいましたし、北朝鮮側から板門店へ観光に行くと、かなり自由に行動させてくれるようなのですね。
私は、そう大きな声でしゃべったわけではないので、聞こえたはずはないと思うのですが、他にも私のようなオタクがいらしたのでしょうか。
どこかを見学し、再びバスが動き出したとき、ガイドさんは、「知らなかったんですが、日本の方は北の板門店ツアーにも参加できるんですね。韓国より自由に観光できるというお話ですが……」とか、説明と言いわけをはじめまして、あらら、と肩をすくめました。
写真は、板門店国境のプレハブ小屋で、テーブルの旗の位置が国境なんです。
この小屋は、南から観光客が入るときは韓国兵が中を警備し、北から観光客が入るときは、北朝鮮兵が警備するのだそうです。
この日、北側からは軍人さんが見学に訪れていたのですが、私たちと時間が重なったため、プレハブ小屋へは入れないで帰りました。
なんだかんだと、ガイドさんには迷惑な客だったでしょうけれども、広大な緩衝地帯に生息する野鳥の群を見せてもらい、しかしそこは地雷原で、統一がなってもすべての地雷を取り除くには多大な時間がかかるだろうだとか、緩衝地帯の中だったかすぐそばだったかにも村があり、そこの村人は軍の護衛付きで耕作していて、地雷除去の名人だとか、初めて聞くお話もたくさんあって、行ったかいがありました。
ガイドさんは、「生活レベルが下がっても私は統一を願う」と断言しておられましたが、ぜひ、そうあってください。私も心より、そうあれかしと祈っております。
時は流れて、なぜかけっこう近代史にも詳しくなり、半島オタクの端の端くらいには連なれるかな、といったところで、急に、板門店が見たくなりました。
といいますか、北朝鮮に行ってみたくなり、その絶好の機会がなかったわけじゃあないんですが、その時は家庭の事情で行けませんでした。
ようやく、なんとか時間がとれるかな、という状態になってみたら、家族が大反対するような状況です。いえ、観光するだけならば危険はないはずなんですが、そんなことを説明しても、北朝鮮へ行くというだけでいやがられそうですし、高い金額を払って、値段のわりには待遇がいまひとつのツアーに、いっしょに行ってくれそうな友人も、身近にはいません。
それならば、とりあえず韓国へ行って、板門店だけでも見ておこう、となったわけです。
北朝鮮旅行に最初に興味を持ったのは、1992年に発行された関川夏央著『退屈な迷宮』を読んで、でした。北朝鮮へツアー旅行で行けるようになった、ということにまず驚いたんですが、その旅行が、旅行というよりは苦行のようで、「疲れたから今日はホテルで休みたい」と言っても休ませてもらえず、強行スケジュールで、向こうの見せたいところばかり無理矢理見せられる、といったツアー解禁当初の状況は、うそだろ~! と目をむきつつ、いや北朝鮮ならば観光客相手でもそうなのかも、と妙に納得したりもしたものです。
小泉訪朝で、金正日が拉致を認めたとき、朝日新聞に載った関川夏央氏の文章は忘れられません。わざわざコンビニまで、朝日新聞を買いに走ってしまいました。たしか、現在『「世界」とはいやなものである』(日本放送出版協会発行)におさめられている一文です。
韓国は北朝鮮の轍を踏んではならない。それは破滅への道である。すでに先進国水準に達して久しい韓国は、自分の民族主義を相対化しなければならないと考える。国内と対日だけの狭くて深い井戸のなかから出て、中国と、また世界と対峙し共存したらよいと思う。そのためには北朝鮮に対する正当な評価と正当な態度が必要である。
同民族といい、「ひとつのコリア」といいつづけるのなら、韓国は北朝鮮のテロと、人災としての飢餓の責任を、まさにわがこととして引き受けなければならない。北朝鮮という病気が同民族の体内から発したものと理解しなくてはならない。
ああ、さすがは半島とのつき合いが長いお方、よくぞ言ってくださった、それも朝日で……、と思ったのですが、現実はなかなか、そうすっきりとはいかないままに経緯しています。
今年の2月に、半島に詳しい方たち……、まあ平たくいえば半島オタクの方々と、大阪は鶴橋の焼肉店でオフ会をしたのですが、「北の自壊を促して、嫌でも韓国が北を吸収するしかないでしょ?」という私に、半島とつながりの深いお二人が、口をそろえて、「韓国は絶対にしない」とおっしゃるのです。「韓国は、ようやく先進国並みの暮らしになったんだよ? 北といっしょになって生活レベルを下げることに、国民が耐えられるわけがない」と。
それはその通りですし、だからこそ、韓国の現政権が、なんとか北の現政権を保たせようと必死になっているのはわかっているのですが、関川夏央氏ではありませんが、「南北分断はアメリカや日本のせいで、北とは同じ民族だ」と言い募るのならば、なおさら責任があるでしょうよ、と、釈然としない気分になってしまいます。
韓国へ旅行をしたのは、六カ国協議に向けて、アメリカのライス国務長官が訪韓した直後のことでした。
たしか当時、六カ国協議に北朝鮮が参加を決めたのは、アメリカのステルス戦闘機に平壌上空を脅かされて、怯えたからだという噂がネット上に出回っていて、韓国の米軍基地にステルスがいたことは事実なんですが、半信半疑でした。しかし、北朝鮮に詳しいジャーナリストの惠谷治氏がサピオにそのことを書いておられて、北が暴発しないかぎり、もはや板門店が最前線ではない時代だな、と実感していたのです。
そんなこちらの実感にはかかわりなく、事前に渡された板門店ツアーの注意書きには、「Tシャツ、ジーンズ、衿なし袖なし、ミニスカート、サンダル、スニーカーなどなど、ラフな服装はだめ」とありまして、?????となりました。
えーと、行き先は一応、最前線といわれるところのはず、です。動きやすい服装がだめ? それに、7月です。今どき、真夏の女性の服で、衿があって袖があってって、さがす方が難しい気がするんですが。
なんのためにこんな服装規定があるのかわからず、韓国居住の方などが多いBBSへ行きまして、質問しました。
「パンツスーツにしようかと思うのですが、インナーがノースリーブの衿なしカットソーというのもだめなんでしょうか?」なんぞと書き込みましたところ、さっそく親切なお方が、「OK」と答えてくださいました。なんでも、「韓国はアメリカの退廃文化に染まっている」と北に宣伝させないために、板門店では正装をする、というような伝統があるのだとか、です。
で、当日です。
板門店行きのバスツアーは、それ専門のもので、事前予約した日本人観光客のみを大型観光バス数台に集めて出発します。
ガイドさんの説明では、韓国人が板門店へ行くのは審査があって大変なのだそうなのです。その審査を通過したのか、あるいは在日ならばOKなのか、通路を隔てた隣の席のご夫婦は、関西の在日韓国人のようでした。
なんでわかったか、ですって? 関西弁とパスポートです。
やがて車窓に、南北の国境を流れるイムジン河が見えたときには、これなのねーと、感慨深かったのですが、しかし、ガイドさんが突然カセットを仕掛け、「さあ、みなさん、ごいっしょに歌ってください」と、ザ・フォーク・クルセダーズの『イムジン河』をかけたときには、あらま、と苦笑してしまいました。
『イムジン河』は、日本における半島南北対立の因縁の歌なんです。
リアルタイムで知った話ではなく、人に聞いたり、なにかで読んで得た知識なんですが、1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズというフォークグループが、『イムジン河』という北朝鮮の歌をうたっていました。訳詞は松山猛です。
イムジン河水清く とうとうと流る 水鳥自由に むらがり飛びかうよ
我が祖国南の地 思いははるか イムジン河水清く とうとうと流る
歌は、知っていました。昔、この歌が好きな知り合いがいて、教わったんです。
レコードにはなっていませんでした。
1968年、シングルレコード発売が予定されていたにもかかわらず、突然、中止になったといいます。それは当時、「堕落した西側退廃文化で汚すな」という朝鮮総連からのクレームがあったからだ、といわれていたのですが、現在では、少々ちがうお話が出てきています。
総連のクレームは、訳詞が正確ではないことと、朝鮮民主主義人民共和国という国名と作詞作曲者の名前をちゃんと入れろ、ということで、これに、レコード会社がびびったというのです。
作詞の朴世永は、戦前からのプロレタリア文学者で、南から北へ行った南労党員だったのです。当時の韓国からすれば、裏切り者、であったわけでして、「朝鮮民主主義人民共和国 朴世永」などと名前を入れますと、今度は韓国大使館や民団から強い抗議を受ける怖れがあった、といいますか、実際に圧力を受けてやめた、ということのようです。
ただ、この話も、どうなのだろう、と、私は疑っています。
当初、北朝鮮で歓迎されていた南労党の芸術家たちは、やがて粛正され、かなりの数の人々が、悲惨な境遇に置かれて獄死したり、しているんですけれども、朴世永はどうだったのでしょうか。
そして、この訳詞が意訳であるにしても、これが「南の故郷を恋う」歌であることは、確かなのです。当時の北朝鮮が、この歌を歓迎していたとはとても思えません。朝鮮総連もまた、レコード発売を望まず、難癖をつけてみたのではなかったのでしょうか。
総連と民団と両方が騒げば、それは発売中止にもなるでしょう。
今年、この歌を主題歌とした映画が、封切られましたよね。『パッチギ』です。
朝鮮総連のプロパガンダか、と思える部分がなきにしもあらずでしたけれども、悪くない映画でした。
といいますか、音楽の使い方は、非常にすぐれています。オダギリが歌う『悲しくてやりきれない』に続き、主人公がラジオで歌う『イムジン河』の歌に、在日と日本人の河原での乱闘と、そして、在日と日本人の間の子供の誕生の知らせが重なる……。
ただ、けっこうよかっただけに、もう少し多面的な、深みのあるとらえ方をして、プロパガンダ臭を脱することができなかったものかと、残念でなりませんでした。
話がそれました。
私が観光バスの中で苦笑してしまったのは、作詞者の朴世永が焦がれた南の祖国では、この歌はまったく知られておらず、その南の祖国を訪れた日本人観光客のためにのみ、イムジン河のそばで歌が流されている図が、なんとも奇妙なものに思えたからです。
板門店でもっとも印象的だったのは、若いアメリカ兵の笑顔です。
米軍は念願かなって、大多数が板門店から引き上げたのです。
わずかな数が残っているのですが、変わって重責を担った韓国兵が、堅く、緊張しきった様子なのにくらべ、アメリカさんは、実にお気楽な感じで、ニコニコとバスに手を振ってくれたので振りかえしましたが、緊張したその場の空気とのアンバランスが、ちょっと不気味ではありました。
板門店では、服装だけではなく、「並んで整然と行動してくれ」だとか、細かいことは忘れましたが、あれこれと注意が多く、あるいは乗客から文句でも出たのでしょうか。
といいますのも、私たちの前に、アメリカ人の観光バスがいまして、こちらは服装もラフで、あまり注意深く動いている様子はなかったんですね。
ともかく、ガイドさんは、必死になって、「ここではアメリカが一番強いから」とか「みなさんは韓国人に見えるから、なにか事が起これば韓国人と同じに攻撃される」とか、説明なさってました。
そのあたりは、私もおとなしく聞いていたのですが、しかしガイドさんが、「最近では北朝鮮側にも観光客が来るようになっていますから、北の一般の人たちも、ここで遠目ながら韓国側の観光客を見て、様子を知るようになっています」と言い出したときには、さすがにばかばかしくなりまして、つい友達に、「北の一般人が板門店観光になんか来るわけないじゃない、ねえ。北側の観光客なら、中国人か日本人か在日が多いし、北の人で来られるのは特別な人たちだけよ。板門店観光は、北の方が自由にさせてくれるって」としゃべってしまいました。
いえね、北朝鮮旅行記は、ネットでも読んでいましたし、北朝鮮側から板門店へ観光に行くと、かなり自由に行動させてくれるようなのですね。
私は、そう大きな声でしゃべったわけではないので、聞こえたはずはないと思うのですが、他にも私のようなオタクがいらしたのでしょうか。
どこかを見学し、再びバスが動き出したとき、ガイドさんは、「知らなかったんですが、日本の方は北の板門店ツアーにも参加できるんですね。韓国より自由に観光できるというお話ですが……」とか、説明と言いわけをはじめまして、あらら、と肩をすくめました。
写真は、板門店国境のプレハブ小屋で、テーブルの旗の位置が国境なんです。
この小屋は、南から観光客が入るときは韓国兵が中を警備し、北から観光客が入るときは、北朝鮮兵が警備するのだそうです。
この日、北側からは軍人さんが見学に訪れていたのですが、私たちと時間が重なったため、プレハブ小屋へは入れないで帰りました。
なんだかんだと、ガイドさんには迷惑な客だったでしょうけれども、広大な緩衝地帯に生息する野鳥の群を見せてもらい、しかしそこは地雷原で、統一がなってもすべての地雷を取り除くには多大な時間がかかるだろうだとか、緩衝地帯の中だったかすぐそばだったかにも村があり、そこの村人は軍の護衛付きで耕作していて、地雷除去の名人だとか、初めて聞くお話もたくさんあって、行ったかいがありました。
ガイドさんは、「生活レベルが下がっても私は統一を願う」と断言しておられましたが、ぜひ、そうあってください。私も心より、そうあれかしと祈っております。
あんなつたない文章にTBしてくださって。
私は1週間前に行ってきたんです。
でも、こんなにたくさんの文章にすることが出来なくて…。
すごい、色々考えさせられる場所ですよね。
確か、展望台のようなところから、写真を撮ったのは覚えて居るんですが・・・。
たぶん、これ以上は行けませんって言われたような気がするんですよね。
やはり、映画がヒットしたのと、南北雪解けが大きかったのでは?
イムジン川の歌はリアルタイムで聴いてたのですが、そういう深いいきさつがあったというのは、後日、驚き桃の木20世紀というテレビ番組で初めて知りました(笑)。
ともあれ、今、新年になったようです。
今年もよろしくお願いします。
いえ、私は年寄りの上に半島オタクでして、北の暴走はありえない、したがってあそこは今前線ではない、と見切って行ったものですから、さっぱり緊張もなにもしていなかったんです。
やはり、若いということはうらやましいな、と。
今回、TBのために「板門店」で検索しまして、つくづく私はオタクだったんだと、自認しました。
これまでのネット上の知り合いが、異常に半島に詳しい方々ばかりだった上に、「米軍が引いた今どきの板門店に行くのは半島オタクばかりだろう」という先入観を持っていまして、「日本人は半島を知らない」と決めつけているようなガイドさんの説明が、ばかばかしく感じられて仕方がなかったんですけれども、そうではなかったんですね。
あー、もしかして、あのガイドさんのホローの数々は、ほとんど私に向けられていたのかと、反省。
いえ……、でも、私たちのバスには、かなり年輩のおじさんたちのグループがいまして、彼らはかなり詳しそうでした。
いつのまにか、感動できる心がうらやましい年齢になってしまいました。
もっと若いときに時間を作って、行っておくべきでした。
えー、17年前はそうだったんですか? 板門店まで行けないってー。もしかすると、東西冷戦の終結は関係しているかもしれませんが、かなり前から行けるようになったはず、です。
米軍が仕切っていたときは、米軍といっしょにランチ~♪(味はさっぱりいけてなかったそうですが)が、売りのツアーで、現在より自由に行動できたそうです。一昨年でしたっけ? 米軍が引き、韓国軍が仕切るようになって、あれもだめ、これもだめと、うるさくなったとか。
あー、現在でも、緊張が高まると、板門店までは行けなくなるそうですよ。そのときも、米軍主催のツアーはOKだったりするとかで、在韓アメリカ人の紹介とかがあれば、それにもぐりこめたりもするらしいです。そちらで行くと、日本人でもジーンズもTシャツもOKらしくて、ガイドさんが言い訳するはずですね(笑)
こちらこそ、どうぞよろしく。
今年もよろしくお願いします。
最近では、大姉様(?)のブログを拝見するのが楽しみになっております。
本年もいい記事を御願い致します。
で、38度線に行ったのは平成元年暮れでしたから、あるいは、ヨーロッパピクニック、ひいては直後のベルリンの壁崩壊に至る時期でしたから、ある意味、北朝鮮が一番ピリピリしていた時期だったのかもしれません。
ていうか、やっぱ、映画の影響が大きいのでは?
一応女のはしくれですので、年齢はお聞きになられませんように。
そういえば、5年ほど前、さるBBSの常連になって書き込みをしておりましたところ、それを見ていたおじさんが、私の書く内容から、「50代の着物が似合うご婦人」を想像していたと後でお聞きして、ものすごくショックを受けましたわ。いえ、おじさんも実物を見て、あまりに想像とちがってショックを受けられたかもしれませんけれど(笑)
今、板門店ツアーがけっこう人気なのは、映画の影響があるから、なんだと思うんですが、映画の前から、ツアーはあったような気がします。って、私、実は、その映画を見ていなかったり、します。
お年の方は、私より上などとは露ほどにも思っておらず・・・、妙齢の女性とのみ認識しており・・・、でもって、大姉様というのは、あの、その、お姉様という意味ではなく・・・、「戒名」です(爆!)。
(もちろん、冗談ですよ!(汗!)。)
ちなみに、私もあの映画見てません。
シュリ見たときに、あの、ザコにしか弾の当たらない展開を見て、アリエネーと思い、それ以来、見なくなりました。
いくら何でも、包囲された方が、誰も弾に当たらないというのは・・・。
ということで、至らぬ私ですが、何卒、よろしくお願いします。
私は、高校卒業まで下関市(駅舎の火事はショックです。)で過ごしたのですが、「冬ソナ」を見て韓国に行って見たくなりました。行ってみて、朝鮮半島のことを何も知らないことに今更ながら驚いています。ブログで紹介されていた関川さんの本、早速読んでみたいと思います。それにしても、郎女様の知識の深いこと、ただただ感心するばかりです。これをご縁にときどき寄らせていただきます。
下関は大変でしたね。実は、長府まで行きながら、下関に行ってないんです。
関川夏央氏は、『ソウルの練習問題』がたしか、半島に関する最初の著作だったかと思うのですが、これは、さすがに今読んでみると、時代の差を感じます。
韓国は、それだけ急速に変わってきているんだと思うんです。北朝鮮を題材とした『退屈な迷宮』は、まったく古さを感じません。今なお、なにも変わっていない感じです。
私も突然韓国好きになってくれた友人のおかげで、初めての韓国旅行ができまして、お仲間が増えるのは嬉しいことです。どうぞ、いつでもいらしてくださいませ。