生麦事件と薩藩海軍史 vol4の続きです。
なにしろ私、これまでほとんど興味をもってなかったこと(生麦事件の事実関係)に、突然関心を抱き、調べながらこれを書いていますので、話がわかり辛くなっているようですが、史料については、まだまだ先になりますが、調べ終わった時点でまとめて書きたいと思いますので、お許しください。
そして、とりあえず現在、私は、久木村治休本人が、事件から50年後の明治45年、鹿児島新聞のインタビューに答えて、「リチャードソンを斬った!!! 心臓ころころ」と宣言しておりますのに、「いや、久木村が斬ったのはクラーク一人で、リチャードソンは斬っていない」と、証明不可能なことを推測して書いておりますので、話がくどくなることも、お許しください。
リチャードソン落馬後の斬殺は別にしまして、久光の行列本隊における無礼討ちとして、現在、私は、「奈良原喜左衛門がリチャードソンに二太刀(最初は左上腕に浅手、次いで左脇腹に深手)、マーシャルに一太刀(左脇腹に浅手)、久木村治休がクラークに一太刀(左肩に深手)をあびせた」と結論づけております。真説生麦事件 下、生麦事件考 vol2、生麦事件と薩藩海軍史 vol3と考えてきた結果なのですが、「久木村が斬ったのはクラーク一人」という点においては、最初から、私の考えは変わっておりません。
で、なぜ喜左衛門が斬ったのが二人とも左脇腹で、久木村が斬ったのは左肩であったか、なのですが、これはクラークの宣誓口述書に理由が述べられています。
「私は、先導部隊、つまり私がいま列をなして進んで来る、と申しました隊列の中の一部分、約30名ほどの者が、私に殺到してくるのを見ました。これを見たとき、私はすぐ馬を疾駆(ハンド・ギャロップ)させ、彼らの中を駆け抜けたのであります。このとき、私は左肩に負傷し、私の馬も左臀部に傷を受けました。私は、数本の剣が引き抜かれ、私目がけて、振りおろされるのを目撃しましたが、おそらく私が身をかがめ、しかも馬が早く走ったので、難をのがれることができたのでありましょう」
このときのクラークの傷については、以下の通りです。
左肩において深さ骨に達し、左肩骨を切断する刀傷。
つまり、喜左衛門の位置においては、リチャードソンもマーシャルも、むらがる中小姓集団に行く手をさえぎられ、馬のスピードをゆるめ、身体を垂直に起こしていました。
しかし、馬首をめぐらせ、逃げるときは全速力です。身体を馬体に伏せる姿勢になっていた、というわけです。
久木村は、刀がまがったと言っています。
「ところが二人も人間を切ったので、わしの刀はまがってしまって、どうしても鞘に入らぬ。仕方がないから、そのまま手拭いかなにかでグル巻にして、その晩ひと晩宿舎の床の間に立てかけて置くと、不思議なもので翌朝はよく鞘に入るように伸びていた。どうも感心なものじゃった」
これは、二人の人間の脇腹を斬ったから、というよりは、「クラークの肩の骨を斬ったから」と考えた方が、自然です。脇腹に骨はありませんので。
また、久木村が二人斬った、つまり「マーシャルも斬った」と述べている点についてなのですが、これは、「生麦村騒擾記」に、マーシャルについての以下の話があるからでしょう。
「これ(リチャードソン)と相並んで駈来りし一人は、急に手綱を引返し、のがれ去らんとなすところを、近侍の人々後より二つになれと切付けしが、かれの運の強かりけん、腰部へ浅手を負いしのみにて、痛手を耐えて一丁(100メートル)ばかり逃げ行きしが、ここに前駈の一人、御駕籠前の騒動を顧て、これかならず近侍の人々、夷人の無礼にたえかね刑戮せんとして撃ちもらせしならん、あにここをばや逃すべきと、太刀ぬき放ちて待ちかけたり。英人目ざとくこれを見て、恐懼のあまり狼狽せしが、あるいは虚勢を示さんとてが、洋酒の入りたる小瓶を逆さまに持ち、あたかも拳銃を持って発砲するがごとく抜いたれど、もとより勇猛血気の九州男子、いずくんぞ砲弾に怖るべき、ますます怒って飛びかかり肩先四五寸斬下げたり」
「生麦村騒擾記」において、行列前方で斬られた描写はこれしかありませんで、だとするならば、幾度も見てきましたように、これはマーシャルではなく、クラークです。
それにいたしましても………、あらためて今気づいたのですが、これはまるで、ただ一人、行列前方にいて英国人を斬った「前駈」が、日露戦争、第六師団の勇士だと知っていたかのような書き方です。「もとより勇猛血気の九州男子、いずくんぞ砲弾に怖るべき」なのですから。
これはますますもって、明治28年の「生麦村騒擾記」写本と、明治40ー42年の間に「横浜貿易新報」に掲載されたものと、文章が同じなのかどうか確かめる必要がありますが、それには「横浜貿易新報」のバックナンバーを確かめると同時に、横浜開港資料館が所蔵しておられる写本の写本を見る必用がありまして、時間がかかりそうです。
といいますのも、久木村治休は明治32年(1899)、 陸軍歩兵大尉で後備役となりましたが、日露戦争において招集を受け、「最後のご奉公」だと62歳にして前線部隊の中隊長を務め、「壮年をして恥死せしめる」抜群の武功で、金鵄勲章を受けていたんです。
さらに想像をたくましくしますと、年齢からいって、この活躍は異例で、もしかすると………、小さな記事でも新聞に出て、「かつて生麦事件で英人を斬った」くらいのことは載った可能性が、あるのではないんでしょうか。これを調べるのは、実に骨が折れそうですが。
で、その久木村が、です。明治45年の鹿児島新聞のインタビューにおいて、「生麦村騒擾記」と事件直後のジャパン・ヘラルドの記事(同年11月28日にロンドン・タイムズに転載)をあわせて、「リチャードソンを斬った!!! 心臓ころころ」宣言をしたのだと、前回推測しました。
「生麦村騒擾記」はともかく、英字紙について、「久木村に英語が読めるのか???」という、当然の疑問がわきます。
いえ………、あくまでも憶測なのですが、英字紙を読んだのは、久木村の実の甥、竹下勇だったのではないでしょうか。
久木村は、姶良郡の郷士・山元家の三男として生まれ、久木村家の養子となった人です。
竹下勇は、山元家を継いだ久木村の兄の二男として、明治2年に生まれ、明治7年に竹下家の養子となり、西南戦争後の明治12年、当時、東京で巡査をしていたらしい久木村に引き取られて、上京しました。
よくはわからないのですが、当時の久木村は、山元家の実の母を東京に引き取って暮らしていたらしく、ここに竹下勇もくわわったようです。
竹下は海軍兵学校に進学しますが、抜群の語学の才能を示し、卒業時の席次は3番。海軍大学、ヨーロッパ視察などの経験を経て、日露戦争時はアメリカ公使館付き武官としてワシントン駐在。柔道を介して、ルーズベルト大統領と友達づきあいをしたといわれます。ポーツマス講和会議では、海軍代表でした。
久木村が、なぜ突然の「斬った斬った宣言」をしたのか。
私はそこに、竹下勇がかかわっていたのではないかと、妄想しているのです。
生麦事件と薩藩海軍史 vol3で書きましたが、明治40ー42年の間に「横浜貿易新報」に掲載された「生麦村騒擾記」(あるいは「生麦事件の真相」)は、行列の無礼討ちとリチャードソン落馬後の斬殺を、くっきりと書き分けているんです。
先の引用でもわかりますように、久光の行列本隊の藩士は、行列に無礼を加えた異人を「刑戮」しようとしたのであって、それは正当な行為であり、彼らは勇敢であったと、記述しているんです。
しかし、落馬後のリチャードソンに加えられた残虐行為は、ものかげから見ていた里人たちが、「身の毛よだち、身体ふるえ物言う事もならざりし」、悪鬼の仕業でした。
実際、これがどれほどのものだったかといえば、私が考えていますように、リチャードソンが落馬以前に被っていた傷が、喜左衛門による左上腕の浅手と、左脇腹に横に加えられた深手のみだったとすれば、残りの傷は以下にのぼります。
まずは前回書きました大傷二つ。
身体左正面、鎖骨の5センチほど下に、ほぼ横ではあるが、前後左右にのびて、肋骨2本を切断し、心臓をあらわにしている13センチほどの傷。
身体背面左、肩胛骨のすぐ下からのびて、肋骨を切断し、胃や肺をのぞかせて、しかもそこから腸をひっぱりだした形跡のある、非常に大きな縦長の傷。
そして、これも前回述べました腹の刺し傷二つ。
2.5センチ程度のものが二つ。刺し傷で、腹に口をあけさせている。
大傷がまだ二つあります。
のどを斜めに横切る創傷。一方の下あごの角から反対側の角にいたるもの。脊椎骨に達する組織を切断。脊椎の一部に創傷。外傷はのどぼとけの軟骨部の上部より、披裂軟骨の上部に達している。左側の血管は深く切られている。右側のものは無傷である。
左側の烏口突起(肩胛骨)にはじまる大きな創傷。腕(右)を斜めに切り、反対側の後ろまで達するもので、関節のおよそ5センチ下の上腕骨(右)を切断。
左右の手の損傷も、大きなものでした。
手指に始まる左腕は、ほとんど完全に切断されている。
右の手首のおよそ2.5センチ上に、斜めに横の創傷。上の方へのび、前腕の両方の骨を切断。手は皮一枚によってくっついている。
たしかに、これは決して介錯といえるようなものではなく、「全身をズタズタに切り刻んだ悪鬼の仕業」といわれても仕方がありません。
そして………、すでにこのとき、この数人の「悪鬼」の中心が、海江田信義と奈良原繁であったことは、市来四郎の史談会速記録と、春山育次郎のエッセイ「生麦駅」によって、明かされていたのです。
横浜貿易新報の記事掲載当時、海江田信義はすでに世を去り、奈良原繁は生存していましたが、元薩摩藩士たち、おそらく中心は帝国海軍の薩摩閥だったと思うのですが、ともかく、彼らによって気遣われたのは、「日本が世界に誇る日本海海戦の名将・東郷平八郎元帥の義父にあたる、海江田信義の名誉」だったのではないでしょうか。
生麦事件の相手は、イギリス人です。
日本海軍は、薩の海軍といわれたほどに、元薩摩藩士が中心となって、大英帝国の海軍を手本にし、そのイギリスと同盟を結び、日本海海戦の勝利によって、世界に名がとどろくまでになったのです。
これは、島津斉彬にはじまり、幕末の薩摩が海軍に力を入れてきたことと、生麦事件に端を発した薩英戦争により、真の攘夷にめざめ、維新を成立させ、近代海軍の創成を果たしてここまできたのだという、海軍薩摩閥の誇りにもかかわる問題です。海軍は海外とのつきあいも多く、いくら過去のこととはいえ、不名誉な事実が公になることは、避けたかったでしょう。
海江田信義の妹・勢似子は、東郷家を継いだ平八郎の兄と結婚していました。
この勢似子のとりもちで、平八郎は海江田信義の娘と結婚していたのです。
さらに勢似子は、自分の息子・東郷吉太郎にも海江田の娘を嫁に迎えさせますが、この吉太郎が、海軍兵学校で、竹下勇の二期上なのです。なお東郷吉太朗海軍中将(最終)は、「海江田信義の幕末維新 」(文春新書)の著者、東郷尚武氏の祖父にあたられます。
「生麦村騒擾記」が、生麦事件において、「勇者」と認めたのは、久光の行列本隊にいて、正当に馬上の異人を無礼討ちした者のみ、です。
それは、当時の庶民感情を反映していた、と見て、いいのではないでしょうか。
奈良原喜左衛門は、すでに幕末に死去しています。
そして、もう一人、その正当な無礼討ちをなしていた久木村治休は、偶然にも、竹下勇の叔父だったのです。
久木村が、実はリチャードソンをも斬ったのであったならば、リチャードソンはすでに落馬以前、正当な無礼討ちによって瀕死の状態だったのであり、海江田信義はリチャードソンを介錯したのだと、強弁できます。
そして実際、薩藩海軍史はそれをやってしまうのですが、そこにいきつくまでに、藩閥政治を嫌悪した尾佐竹猛博士の登場があります。
長くなりましたので、続きます。
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なにしろ私、これまでほとんど興味をもってなかったこと(生麦事件の事実関係)に、突然関心を抱き、調べながらこれを書いていますので、話がわかり辛くなっているようですが、史料については、まだまだ先になりますが、調べ終わった時点でまとめて書きたいと思いますので、お許しください。
そして、とりあえず現在、私は、久木村治休本人が、事件から50年後の明治45年、鹿児島新聞のインタビューに答えて、「リチャードソンを斬った!!! 心臓ころころ」と宣言しておりますのに、「いや、久木村が斬ったのはクラーク一人で、リチャードソンは斬っていない」と、証明不可能なことを推測して書いておりますので、話がくどくなることも、お許しください。
リチャードソン落馬後の斬殺は別にしまして、久光の行列本隊における無礼討ちとして、現在、私は、「奈良原喜左衛門がリチャードソンに二太刀(最初は左上腕に浅手、次いで左脇腹に深手)、マーシャルに一太刀(左脇腹に浅手)、久木村治休がクラークに一太刀(左肩に深手)をあびせた」と結論づけております。真説生麦事件 下、生麦事件考 vol2、生麦事件と薩藩海軍史 vol3と考えてきた結果なのですが、「久木村が斬ったのはクラーク一人」という点においては、最初から、私の考えは変わっておりません。
で、なぜ喜左衛門が斬ったのが二人とも左脇腹で、久木村が斬ったのは左肩であったか、なのですが、これはクラークの宣誓口述書に理由が述べられています。
「私は、先導部隊、つまり私がいま列をなして進んで来る、と申しました隊列の中の一部分、約30名ほどの者が、私に殺到してくるのを見ました。これを見たとき、私はすぐ馬を疾駆(ハンド・ギャロップ)させ、彼らの中を駆け抜けたのであります。このとき、私は左肩に負傷し、私の馬も左臀部に傷を受けました。私は、数本の剣が引き抜かれ、私目がけて、振りおろされるのを目撃しましたが、おそらく私が身をかがめ、しかも馬が早く走ったので、難をのがれることができたのでありましょう」
このときのクラークの傷については、以下の通りです。
左肩において深さ骨に達し、左肩骨を切断する刀傷。
つまり、喜左衛門の位置においては、リチャードソンもマーシャルも、むらがる中小姓集団に行く手をさえぎられ、馬のスピードをゆるめ、身体を垂直に起こしていました。
しかし、馬首をめぐらせ、逃げるときは全速力です。身体を馬体に伏せる姿勢になっていた、というわけです。
久木村は、刀がまがったと言っています。
「ところが二人も人間を切ったので、わしの刀はまがってしまって、どうしても鞘に入らぬ。仕方がないから、そのまま手拭いかなにかでグル巻にして、その晩ひと晩宿舎の床の間に立てかけて置くと、不思議なもので翌朝はよく鞘に入るように伸びていた。どうも感心なものじゃった」
これは、二人の人間の脇腹を斬ったから、というよりは、「クラークの肩の骨を斬ったから」と考えた方が、自然です。脇腹に骨はありませんので。
また、久木村が二人斬った、つまり「マーシャルも斬った」と述べている点についてなのですが、これは、「生麦村騒擾記」に、マーシャルについての以下の話があるからでしょう。
「これ(リチャードソン)と相並んで駈来りし一人は、急に手綱を引返し、のがれ去らんとなすところを、近侍の人々後より二つになれと切付けしが、かれの運の強かりけん、腰部へ浅手を負いしのみにて、痛手を耐えて一丁(100メートル)ばかり逃げ行きしが、ここに前駈の一人、御駕籠前の騒動を顧て、これかならず近侍の人々、夷人の無礼にたえかね刑戮せんとして撃ちもらせしならん、あにここをばや逃すべきと、太刀ぬき放ちて待ちかけたり。英人目ざとくこれを見て、恐懼のあまり狼狽せしが、あるいは虚勢を示さんとてが、洋酒の入りたる小瓶を逆さまに持ち、あたかも拳銃を持って発砲するがごとく抜いたれど、もとより勇猛血気の九州男子、いずくんぞ砲弾に怖るべき、ますます怒って飛びかかり肩先四五寸斬下げたり」
「生麦村騒擾記」において、行列前方で斬られた描写はこれしかありませんで、だとするならば、幾度も見てきましたように、これはマーシャルではなく、クラークです。
それにいたしましても………、あらためて今気づいたのですが、これはまるで、ただ一人、行列前方にいて英国人を斬った「前駈」が、日露戦争、第六師団の勇士だと知っていたかのような書き方です。「もとより勇猛血気の九州男子、いずくんぞ砲弾に怖るべき」なのですから。
これはますますもって、明治28年の「生麦村騒擾記」写本と、明治40ー42年の間に「横浜貿易新報」に掲載されたものと、文章が同じなのかどうか確かめる必要がありますが、それには「横浜貿易新報」のバックナンバーを確かめると同時に、横浜開港資料館が所蔵しておられる写本の写本を見る必用がありまして、時間がかかりそうです。
といいますのも、久木村治休は明治32年(1899)、 陸軍歩兵大尉で後備役となりましたが、日露戦争において招集を受け、「最後のご奉公」だと62歳にして前線部隊の中隊長を務め、「壮年をして恥死せしめる」抜群の武功で、金鵄勲章を受けていたんです。
さらに想像をたくましくしますと、年齢からいって、この活躍は異例で、もしかすると………、小さな記事でも新聞に出て、「かつて生麦事件で英人を斬った」くらいのことは載った可能性が、あるのではないんでしょうか。これを調べるのは、実に骨が折れそうですが。
で、その久木村が、です。明治45年の鹿児島新聞のインタビューにおいて、「生麦村騒擾記」と事件直後のジャパン・ヘラルドの記事(同年11月28日にロンドン・タイムズに転載)をあわせて、「リチャードソンを斬った!!! 心臓ころころ」宣言をしたのだと、前回推測しました。
「生麦村騒擾記」はともかく、英字紙について、「久木村に英語が読めるのか???」という、当然の疑問がわきます。
いえ………、あくまでも憶測なのですが、英字紙を読んだのは、久木村の実の甥、竹下勇だったのではないでしょうか。
久木村は、姶良郡の郷士・山元家の三男として生まれ、久木村家の養子となった人です。
竹下勇は、山元家を継いだ久木村の兄の二男として、明治2年に生まれ、明治7年に竹下家の養子となり、西南戦争後の明治12年、当時、東京で巡査をしていたらしい久木村に引き取られて、上京しました。
よくはわからないのですが、当時の久木村は、山元家の実の母を東京に引き取って暮らしていたらしく、ここに竹下勇もくわわったようです。
竹下は海軍兵学校に進学しますが、抜群の語学の才能を示し、卒業時の席次は3番。海軍大学、ヨーロッパ視察などの経験を経て、日露戦争時はアメリカ公使館付き武官としてワシントン駐在。柔道を介して、ルーズベルト大統領と友達づきあいをしたといわれます。ポーツマス講和会議では、海軍代表でした。
久木村が、なぜ突然の「斬った斬った宣言」をしたのか。
私はそこに、竹下勇がかかわっていたのではないかと、妄想しているのです。
生麦事件と薩藩海軍史 vol3で書きましたが、明治40ー42年の間に「横浜貿易新報」に掲載された「生麦村騒擾記」(あるいは「生麦事件の真相」)は、行列の無礼討ちとリチャードソン落馬後の斬殺を、くっきりと書き分けているんです。
先の引用でもわかりますように、久光の行列本隊の藩士は、行列に無礼を加えた異人を「刑戮」しようとしたのであって、それは正当な行為であり、彼らは勇敢であったと、記述しているんです。
しかし、落馬後のリチャードソンに加えられた残虐行為は、ものかげから見ていた里人たちが、「身の毛よだち、身体ふるえ物言う事もならざりし」、悪鬼の仕業でした。
実際、これがどれほどのものだったかといえば、私が考えていますように、リチャードソンが落馬以前に被っていた傷が、喜左衛門による左上腕の浅手と、左脇腹に横に加えられた深手のみだったとすれば、残りの傷は以下にのぼります。
まずは前回書きました大傷二つ。
身体左正面、鎖骨の5センチほど下に、ほぼ横ではあるが、前後左右にのびて、肋骨2本を切断し、心臓をあらわにしている13センチほどの傷。
身体背面左、肩胛骨のすぐ下からのびて、肋骨を切断し、胃や肺をのぞかせて、しかもそこから腸をひっぱりだした形跡のある、非常に大きな縦長の傷。
そして、これも前回述べました腹の刺し傷二つ。
2.5センチ程度のものが二つ。刺し傷で、腹に口をあけさせている。
大傷がまだ二つあります。
のどを斜めに横切る創傷。一方の下あごの角から反対側の角にいたるもの。脊椎骨に達する組織を切断。脊椎の一部に創傷。外傷はのどぼとけの軟骨部の上部より、披裂軟骨の上部に達している。左側の血管は深く切られている。右側のものは無傷である。
左側の烏口突起(肩胛骨)にはじまる大きな創傷。腕(右)を斜めに切り、反対側の後ろまで達するもので、関節のおよそ5センチ下の上腕骨(右)を切断。
左右の手の損傷も、大きなものでした。
手指に始まる左腕は、ほとんど完全に切断されている。
右の手首のおよそ2.5センチ上に、斜めに横の創傷。上の方へのび、前腕の両方の骨を切断。手は皮一枚によってくっついている。
たしかに、これは決して介錯といえるようなものではなく、「全身をズタズタに切り刻んだ悪鬼の仕業」といわれても仕方がありません。
そして………、すでにこのとき、この数人の「悪鬼」の中心が、海江田信義と奈良原繁であったことは、市来四郎の史談会速記録と、春山育次郎のエッセイ「生麦駅」によって、明かされていたのです。
横浜貿易新報の記事掲載当時、海江田信義はすでに世を去り、奈良原繁は生存していましたが、元薩摩藩士たち、おそらく中心は帝国海軍の薩摩閥だったと思うのですが、ともかく、彼らによって気遣われたのは、「日本が世界に誇る日本海海戦の名将・東郷平八郎元帥の義父にあたる、海江田信義の名誉」だったのではないでしょうか。
生麦事件の相手は、イギリス人です。
日本海軍は、薩の海軍といわれたほどに、元薩摩藩士が中心となって、大英帝国の海軍を手本にし、そのイギリスと同盟を結び、日本海海戦の勝利によって、世界に名がとどろくまでになったのです。
これは、島津斉彬にはじまり、幕末の薩摩が海軍に力を入れてきたことと、生麦事件に端を発した薩英戦争により、真の攘夷にめざめ、維新を成立させ、近代海軍の創成を果たしてここまできたのだという、海軍薩摩閥の誇りにもかかわる問題です。海軍は海外とのつきあいも多く、いくら過去のこととはいえ、不名誉な事実が公になることは、避けたかったでしょう。
海江田信義の妹・勢似子は、東郷家を継いだ平八郎の兄と結婚していました。
この勢似子のとりもちで、平八郎は海江田信義の娘と結婚していたのです。
さらに勢似子は、自分の息子・東郷吉太郎にも海江田の娘を嫁に迎えさせますが、この吉太郎が、海軍兵学校で、竹下勇の二期上なのです。なお東郷吉太朗海軍中将(最終)は、「海江田信義の幕末維新 」(文春新書)の著者、東郷尚武氏の祖父にあたられます。
「生麦村騒擾記」が、生麦事件において、「勇者」と認めたのは、久光の行列本隊にいて、正当に馬上の異人を無礼討ちした者のみ、です。
それは、当時の庶民感情を反映していた、と見て、いいのではないでしょうか。
奈良原喜左衛門は、すでに幕末に死去しています。
そして、もう一人、その正当な無礼討ちをなしていた久木村治休は、偶然にも、竹下勇の叔父だったのです。
久木村が、実はリチャードソンをも斬ったのであったならば、リチャードソンはすでに落馬以前、正当な無礼討ちによって瀕死の状態だったのであり、海江田信義はリチャードソンを介錯したのだと、強弁できます。
そして実際、薩藩海軍史はそれをやってしまうのですが、そこにいきつくまでに、藩閥政治を嫌悪した尾佐竹猛博士の登場があります。
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