珍大河『花燃ゆ34』と史実◆久坂玄瑞と高杉晋作の続きです。
まあ、いまさら、どや顔美和さんの奥パートはどーでもいいのですが。
まず。
だいたいそもそも、なんども言ってきましたように、山口城に奥なんかないからっ!!!
珍大河『花燃ゆ』と史実◆29回「女たちの園」と珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」で、書いておりますが、都美姫さまは宮野御殿ですし、銀姫さまは五十鈴御殿ですし、どこぞの成金中小企業の社長宅じゃないんだから、嫁と姑が同居なんかしません!
最初から、もうありえへん妄想世界なんですけれども、いやはや、軍師美和殿が、社長宅の非常時通路を考えたから、お中臈に出世して、久坂家再興!って、もう、いくらなんでもくだらなすぎ!、でしょう。
もう何度も書いてまいりましたが、久坂家再興の後に、文さんは奥勤めして美和となったんですし、珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗で書きましたように、明治3年にいたって、美和さんはようやくお側女中なんです。史料が全部、残っています。
あと、高杉の愛人のおうのさんね、ちらっとしか映りませんが、かいがいしい世話女房みたいで、おっとりのおの字もなく、かわいくなさすぎ!です。あんた、伊藤博文の女房・梅さんじゃないんだから。
で、さっそく本題に入りましょう。
幕長戦争です。
青山忠正氏は「高杉晋作と奇兵隊」、エピローグにおいて、次のように述べておられます。
晋作の死去直後、地元での評価はどのようであったのだろう。萩護国山にある「東行暢夫之墓」は胎髪臍帯を収めたものだが、その裏面に杉修道(梅太郎)撰に成る、慶応三年丁卯十月十五日付の碑銘が刻まれている。そこには、「君、つとに尊攘の大義をあきらかにし、長ずるにおよんで果断勇決、用兵神の如し、去歳小倉の役、諸軍を監し、海戦功を奏し、城ついに陥つ」とある。同時代の人々にとって晋作は、四境戦争でも一番の激戦となった小倉口の戦いを勝利に導いた立役者と見なされていたようだ。
団子岩の杉家と松陰、久坂ほかの墓地に、並んである晋作さんのお墓です。
私、去年お参りしながら、民治さんが書いたそんな墓碑銘があるとは、さっぱりと気づきませんでしたわ。
すごいですね。「用兵神の如し」ですよ。そして、「諸軍を監し、海戦功を奏し」ですから、亡き松島剛蔵に代わって長州海軍を掌握し、海陸共同作戦の指揮を執って、見事に成功させたんですわね。
つくづく、民治さんの墓碑銘を見つめるうち、私は、ふと、あることに気づきました。
この時点の長州海軍が、乗組員の質において、相当に優秀であっっただろうことに、です。
私、小川亜弥子氏の「幕末期長州藩洋学史の研究」を読みますまで、オランダの長崎海軍伝習を受け、長州海軍の洋式化に取り組みました松島剛蔵が、どれほど長州三田尻のお船手組「村上両組」に悩まされていたか、まったくもって存じませんでした。
それもそのはずで、史料が山口県文書館に眠りましたまま、ほとんど活字化されてないようなんです。
ちなみに、村上両組といいますのは、能島村上、因島村上の両元水軍です。
戦国時代に活躍しました村上水軍三家は、来島村上氏が九州の山の中の小藩として残りましたが、能島、因島の二家は、長州お船手組となって周防大島に移住し、三田尻を根拠地として幕末を迎えました。
戦国時代には、厳島合戦やら石山合戦やらで大活躍しました村上水軍ですが、江戸三百年で、すっかり平和ボケ状態。主な仕事は、参勤交代の御座船運行、合戦など思いもよらない、儀仗団体となっていました。
まあ、いわば、です。先祖代々のやり方で、たまにしか使わない殿様専用クルーズ船を手入れして、運行していれば、それで十分に名誉と収入があったわけでして、あえて苦労して、洋夷のまねをし、危険に身をさらしたいとは思いませんわね、普通。
そんなわけで、松島剛蔵は、洋式海軍教育にあたり、お船手組からはやる気のあるものしかとらず、藩の大組士や中下層の諸氏から、希望者を募って、別組織を作ろうとしました。
松島は、実地訓練を重んじる方針でして、まあ、あたりまえの話なのですが、洋式船の操船と戦闘を学ぶのに、座学だけでは、どうにもなりませんわね。
高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書きました高杉晋作の海軍修業も、その一環で行われたものなのですが、結局、高杉が海軍の勉強をやめてしまったにつきましては、青山忠正氏いわく、「上海に行ったときは船酔いしていないので、やはり、数学が苦手で航法計算ができなかったせいだろう」ということですが、私もそう思います。
で、長州藩の最初の攘夷戦が、砲台を使っての陸からの攻撃ではなく、海戦であったことは、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書きました。
要するに、攘夷戦開始時、中山忠光卿を頂き、久坂が率いていました光明寺党は、正式な長州の軍ではなく、しかし一応、正規軍の配下ではあったものですから、指揮官の決断がなければ砲撃はできず、そして指揮官には、やる気がありませんでした。
しかし、このとき、松島剛蔵率いる長州洋式海軍は、通常の家臣団とは切り離された別組織でしたから、陸の指揮官の命令に従う必要は無く、光明寺党は軍艦に乗り込んで、松島剛蔵の決断で、軍艦が攘夷戦の口火を切ったわけです。
元綱数道氏著「幕末の蒸気船物語」によりますと、最初に攻撃を受けましたアメリカ商船ベムグローブ号は、241トンのスクリュー式蒸気船です。
対しました長州軍艦は、庚申丸(木造帆装艦、トン数不明、30ポンド砲6門、製造は長州)、癸亥丸(木造帆装艦、283トン、18ポンド砲2門、9ポンド砲8門、原名ランリック、イギリスから購入)です。
古川薫氏の「幕末長州藩の攘夷戦争」も参考にさせていただきながら、書きます。
文久3年5月11日午前2時、出港準備をしていて、煙突から火花を出していましたベングローブ号を、庚申丸と癸亥丸が砲撃し、三発は命中したのですが、損傷はわずかなものでした。
当時の商船の常で、ベムグローブ号も武装はしていたのですが、それほどたいした砲を積んでいたわけでもありませんし、ちょうど出港準備をしていたところでしたので、応戦しながら港外へ出て、そのまま長崎へと走り去りました。
次いで5月22日、フランスの通報艦(外輪式蒸気船)キャンシャンを攻撃しますが、このとき長州の陸の総指揮官は代わっていまして、初めて、陸上砲台が火を吹きます。
そしてこのときは、庚申丸、癸亥丸よりも砲台の方が攻撃の主になっていました。
いっせい砲撃に、キャンシャンは軽微ながら損傷を受け、しかしなにが起こっているのかわからず、敵意がないことを説明するため、ボートに書記官を乗せて陸に近づきました。ところがこのボートが陸から狙い撃ちされ、書記官は負傷し、水兵4人が死亡します。
キャンシャンはボートを収容し、応戦しながら、船足を速め、長崎をめざしました。
そして、5月26日御前7時。オランダ軍艦メデューサ号が関門海峡に入ってきました。スクリュー式蒸気船で、三本マスト、1700トンの大きさです。
この当時、日本では、幕府海軍でさえ、400トンほどの軍艦しか持っていませんで、庚申丸、癸亥丸で突っかかっていくのは、無謀といえそうなのですが、それをやってしまうんですね。
「幕末の蒸気船物語」に、オランダ国立博物館所蔵、下関で交戦中のメデューサ号の絵が載っていますが、やはり、メデューサ号は大きいです。
庚申丸、癸亥丸は、砲台の援護を受けながらも、健闘したといってもいいかと思うのですが、メデューサ号は結局、一時間半に渡る砲撃戦の末に、17発の命中弾を受け、死者4人、重軽傷者5人を出しました。長州側には、死傷者はいなかったもようです。
従来、オランダ船は、古くからの親交があるのでオランダだけはまさか砲撃されないだろう、と思って海峡へ入った、といわれておりましたが、元綱数道氏は、オランダ総領事ボルスブルックの日記を引用され、そうではなさそうだとしておられます。
要するに、長崎の晩餐会で、アメリカ商船ベムブローク号の船長が「下関で砲撃を受けた」と語り、それを聞いたメデューサ号の船長が「これから下関を通るが、もし砲撃を受けたら徹底的にこらしめてやる」と演説し、熱狂的な拍手を受けた、というんですね。メデューサ号に乗って横浜へ行く予定だったホルスブルック総領事は、当初、オランダ船が攻撃されることはない、と考えていましたが、長崎湾の出口でキャンシャン号に出会い、砲撃される可能性が高いことを知り、晩餐会で勇ましい演説をした船長が、「海峡に入らず外回りで横浜に行きたい」と言い出す始末です。しかし、ポルスブルックは、「晩餐会で演説した以上、回避して臆病者呼ばわりされるよりも沈没された方がまし」 だとして、下関を通る命令書を書いたんだそうなんです。
そして、7月16日。アメリカの軍艦ワイオミングが、単艦、ペムブローク砲撃の復讐に乗り込んできます。
ワイオミングは、木造スクリュー式蒸気、スループ(フリゲートとコルベットの中間の軍艦)です。1457トンで、オランダのメデューサ号より少し小さいですが、そこそこ大きく、32ポンド砲4門、予備砲2門。
海には境がありませんし、欧州諸国は多くの植民地をかかえていましたので、交戦しますと、極端な場合、商船(武装しているのが普通です)も交えて、世界中の海で戦闘をすることになります。
日本は島国ですから、それにまきこまれる事態も起こります。すでに19世紀初頭、ナポレオン戦争の余波で、オランダ船を拿捕しようとイギリスのフリゲート艦フェートン号が長崎に侵入してくる、という事件が起こって、日本は防ぎようもなく、自国の無防備に震え上がったわけなのですが、クリミア戦争では、極東におきましても、ロシアの軍艦が英仏の軍艦から逃げ隠れしておりました。
アメリカは当時、南北戦争の最中でした。
以前に書いたと思うのですが、欧州の陸続きの国同士の戦いでは、海上封鎖に重きが置かれず、海戦が勝敗に寄与することはあまりありませんでした。
ところが、この南北戦争におきまして、北軍は、大々的な海上封鎖を実行するんですね。
といいますのも、南部の経済は、綿花をイギリスに輸出することで成り立っていまして、それを止めることが、勝利への最短距離でした。
北部は、この海上封鎖に160隻の艦船を投入した、といいますから、当時の日本の状況を考えますと、めまいがしそうな格差です。
ともかく。
ワイオミングは北軍の軍艦でして、極東で北部の商船を攻撃していました南軍の軍艦を攻撃しようと、香港を基地にして活動していました。
まあ、つまり、戦いに来ていたわけですから、士気がちがいます。
生麦事件の関係で、在日居留民の安全確保の必要から、ワイオミングは横浜へ呼ばれていたのですが、そこへ、ペムブローク号が砲撃されたとの知らせが入りました。
そこは、血の気の多いヤンキーです。
ワイオミング号は、下関に停泊中の庚申丸、癸亥丸、そして壬戌丸を襲います。
壬戌丸は、原名ランスフィールド。鉄製の蒸気船でしたが、448トンほどの武装商船で、砲は2門しかありません。しかもこの日は、たまたま世子の乗船予定があり、そのせいなのかどうなのか、どうも、砲ははずしていたようなのですね。
ともかく、ワイオミング号は、死者6名、重軽傷者4人を出しながら、庚申丸、壬戌丸を撃沈し、癸亥丸を大破。長州側の死者は8人、重軽傷7人。
陸の砲台も火を噴く中、すごいですねえ、ヤンキーの戦闘魂。
いや、しかし。
長州海軍教育は、この攘夷戦と平行して、新たな取り組みを始めていました。
従来の三田尻御船蔵を廃し、代わりに、海軍士官養成の本格的な学校を作ろうというわけです。
写真は、三田尻御船蔵跡です。
庚申丸、壬戌丸沈没、癸亥丸大破で、海軍学校設立は一時中断したそうですが、松島剛蔵を中心としまして、すぐに再開され、この年11月には、三田尻御船蔵は規模拡大の上、海軍局と改称。剛蔵は、海軍局頭取役となります。そして翌年、艦内での教授を開始。
で、ですね。
この文久3年の時点で、日本の中で戦闘を経験した海軍は、長州のみ!なんですね。
幕府海軍はもちろん、一度も戦ったことがないですし、薩英戦争でも艦船は戦いませんでしたから、薩摩海軍にも実戦経験はありません。
そういや、勝海舟が「一度はちゃんと攘夷をやるべき」と言っていたという話ですが、経験の必要を痛感したり、したんですかね。
何事も経験がものをいうわけでして、犠牲ははらいましたが、貴重な戦闘経験を積み、長州海軍は、船は無くとも、人材は最強!となったんです。
その最強の海軍人材を、幕長戦争におきまして、海軍総督となりました高杉が、見事に指揮するわけなのですが、長くなりましたので、続きます。
すみません。今回は本題に入り損ねました。
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NHK大河ドラマ「花燃ゆ」オリジナル・サウンドトラック Vol.2 | |
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まあ、いまさら、どや顔美和さんの奥パートはどーでもいいのですが。
まず。
だいたいそもそも、なんども言ってきましたように、山口城に奥なんかないからっ!!!
珍大河『花燃ゆ』と史実◆29回「女たちの園」と珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」で、書いておりますが、都美姫さまは宮野御殿ですし、銀姫さまは五十鈴御殿ですし、どこぞの成金中小企業の社長宅じゃないんだから、嫁と姑が同居なんかしません!
最初から、もうありえへん妄想世界なんですけれども、いやはや、軍師美和殿が、社長宅の非常時通路を考えたから、お中臈に出世して、久坂家再興!って、もう、いくらなんでもくだらなすぎ!、でしょう。
もう何度も書いてまいりましたが、久坂家再興の後に、文さんは奥勤めして美和となったんですし、珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗で書きましたように、明治3年にいたって、美和さんはようやくお側女中なんです。史料が全部、残っています。
あと、高杉の愛人のおうのさんね、ちらっとしか映りませんが、かいがいしい世話女房みたいで、おっとりのおの字もなく、かわいくなさすぎ!です。あんた、伊藤博文の女房・梅さんじゃないんだから。
で、さっそく本題に入りましょう。
幕長戦争です。
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7) | |
青山 忠正 | |
吉川弘文館 |
青山忠正氏は「高杉晋作と奇兵隊」、エピローグにおいて、次のように述べておられます。
晋作の死去直後、地元での評価はどのようであったのだろう。萩護国山にある「東行暢夫之墓」は胎髪臍帯を収めたものだが、その裏面に杉修道(梅太郎)撰に成る、慶応三年丁卯十月十五日付の碑銘が刻まれている。そこには、「君、つとに尊攘の大義をあきらかにし、長ずるにおよんで果断勇決、用兵神の如し、去歳小倉の役、諸軍を監し、海戦功を奏し、城ついに陥つ」とある。同時代の人々にとって晋作は、四境戦争でも一番の激戦となった小倉口の戦いを勝利に導いた立役者と見なされていたようだ。
団子岩の杉家と松陰、久坂ほかの墓地に、並んである晋作さんのお墓です。
私、去年お参りしながら、民治さんが書いたそんな墓碑銘があるとは、さっぱりと気づきませんでしたわ。
すごいですね。「用兵神の如し」ですよ。そして、「諸軍を監し、海戦功を奏し」ですから、亡き松島剛蔵に代わって長州海軍を掌握し、海陸共同作戦の指揮を執って、見事に成功させたんですわね。
つくづく、民治さんの墓碑銘を見つめるうち、私は、ふと、あることに気づきました。
この時点の長州海軍が、乗組員の質において、相当に優秀であっっただろうことに、です。
幕末期長州藩洋学史の研究 | |
小川 亜弥子 | |
思文閣出版 |
私、小川亜弥子氏の「幕末期長州藩洋学史の研究」を読みますまで、オランダの長崎海軍伝習を受け、長州海軍の洋式化に取り組みました松島剛蔵が、どれほど長州三田尻のお船手組「村上両組」に悩まされていたか、まったくもって存じませんでした。
それもそのはずで、史料が山口県文書館に眠りましたまま、ほとんど活字化されてないようなんです。
ちなみに、村上両組といいますのは、能島村上、因島村上の両元水軍です。
戦国時代に活躍しました村上水軍三家は、来島村上氏が九州の山の中の小藩として残りましたが、能島、因島の二家は、長州お船手組となって周防大島に移住し、三田尻を根拠地として幕末を迎えました。
戦国時代には、厳島合戦やら石山合戦やらで大活躍しました村上水軍ですが、江戸三百年で、すっかり平和ボケ状態。主な仕事は、参勤交代の御座船運行、合戦など思いもよらない、儀仗団体となっていました。
まあ、いわば、です。先祖代々のやり方で、たまにしか使わない殿様専用クルーズ船を手入れして、運行していれば、それで十分に名誉と収入があったわけでして、あえて苦労して、洋夷のまねをし、危険に身をさらしたいとは思いませんわね、普通。
そんなわけで、松島剛蔵は、洋式海軍教育にあたり、お船手組からはやる気のあるものしかとらず、藩の大組士や中下層の諸氏から、希望者を募って、別組織を作ろうとしました。
松島は、実地訓練を重んじる方針でして、まあ、あたりまえの話なのですが、洋式船の操船と戦闘を学ぶのに、座学だけでは、どうにもなりませんわね。
高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書きました高杉晋作の海軍修業も、その一環で行われたものなのですが、結局、高杉が海軍の勉強をやめてしまったにつきましては、青山忠正氏いわく、「上海に行ったときは船酔いしていないので、やはり、数学が苦手で航法計算ができなかったせいだろう」ということですが、私もそう思います。
で、長州藩の最初の攘夷戦が、砲台を使っての陸からの攻撃ではなく、海戦であったことは、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書きました。
要するに、攘夷戦開始時、中山忠光卿を頂き、久坂が率いていました光明寺党は、正式な長州の軍ではなく、しかし一応、正規軍の配下ではあったものですから、指揮官の決断がなければ砲撃はできず、そして指揮官には、やる気がありませんでした。
しかし、このとき、松島剛蔵率いる長州洋式海軍は、通常の家臣団とは切り離された別組織でしたから、陸の指揮官の命令に従う必要は無く、光明寺党は軍艦に乗り込んで、松島剛蔵の決断で、軍艦が攘夷戦の口火を切ったわけです。
幕末の蒸気船物語 | |
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元綱数道氏著「幕末の蒸気船物語」によりますと、最初に攻撃を受けましたアメリカ商船ベムグローブ号は、241トンのスクリュー式蒸気船です。
対しました長州軍艦は、庚申丸(木造帆装艦、トン数不明、30ポンド砲6門、製造は長州)、癸亥丸(木造帆装艦、283トン、18ポンド砲2門、9ポンド砲8門、原名ランリック、イギリスから購入)です。
幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲 (中公新書) | |
古川 薫 | |
中央公論社 |
古川薫氏の「幕末長州藩の攘夷戦争」も参考にさせていただきながら、書きます。
文久3年5月11日午前2時、出港準備をしていて、煙突から火花を出していましたベングローブ号を、庚申丸と癸亥丸が砲撃し、三発は命中したのですが、損傷はわずかなものでした。
当時の商船の常で、ベムグローブ号も武装はしていたのですが、それほどたいした砲を積んでいたわけでもありませんし、ちょうど出港準備をしていたところでしたので、応戦しながら港外へ出て、そのまま長崎へと走り去りました。
次いで5月22日、フランスの通報艦(外輪式蒸気船)キャンシャンを攻撃しますが、このとき長州の陸の総指揮官は代わっていまして、初めて、陸上砲台が火を吹きます。
そしてこのときは、庚申丸、癸亥丸よりも砲台の方が攻撃の主になっていました。
いっせい砲撃に、キャンシャンは軽微ながら損傷を受け、しかしなにが起こっているのかわからず、敵意がないことを説明するため、ボートに書記官を乗せて陸に近づきました。ところがこのボートが陸から狙い撃ちされ、書記官は負傷し、水兵4人が死亡します。
キャンシャンはボートを収容し、応戦しながら、船足を速め、長崎をめざしました。
そして、5月26日御前7時。オランダ軍艦メデューサ号が関門海峡に入ってきました。スクリュー式蒸気船で、三本マスト、1700トンの大きさです。
この当時、日本では、幕府海軍でさえ、400トンほどの軍艦しか持っていませんで、庚申丸、癸亥丸で突っかかっていくのは、無謀といえそうなのですが、それをやってしまうんですね。
「幕末の蒸気船物語」に、オランダ国立博物館所蔵、下関で交戦中のメデューサ号の絵が載っていますが、やはり、メデューサ号は大きいです。
庚申丸、癸亥丸は、砲台の援護を受けながらも、健闘したといってもいいかと思うのですが、メデューサ号は結局、一時間半に渡る砲撃戦の末に、17発の命中弾を受け、死者4人、重軽傷者5人を出しました。長州側には、死傷者はいなかったもようです。
従来、オランダ船は、古くからの親交があるのでオランダだけはまさか砲撃されないだろう、と思って海峡へ入った、といわれておりましたが、元綱数道氏は、オランダ総領事ボルスブルックの日記を引用され、そうではなさそうだとしておられます。
要するに、長崎の晩餐会で、アメリカ商船ベムブローク号の船長が「下関で砲撃を受けた」と語り、それを聞いたメデューサ号の船長が「これから下関を通るが、もし砲撃を受けたら徹底的にこらしめてやる」と演説し、熱狂的な拍手を受けた、というんですね。メデューサ号に乗って横浜へ行く予定だったホルスブルック総領事は、当初、オランダ船が攻撃されることはない、と考えていましたが、長崎湾の出口でキャンシャン号に出会い、砲撃される可能性が高いことを知り、晩餐会で勇ましい演説をした船長が、「海峡に入らず外回りで横浜に行きたい」と言い出す始末です。しかし、ポルスブルックは、「晩餐会で演説した以上、回避して臆病者呼ばわりされるよりも沈没された方がまし」 だとして、下関を通る命令書を書いたんだそうなんです。
そして、7月16日。アメリカの軍艦ワイオミングが、単艦、ペムブローク砲撃の復讐に乗り込んできます。
ワイオミングは、木造スクリュー式蒸気、スループ(フリゲートとコルベットの中間の軍艦)です。1457トンで、オランダのメデューサ号より少し小さいですが、そこそこ大きく、32ポンド砲4門、予備砲2門。
海には境がありませんし、欧州諸国は多くの植民地をかかえていましたので、交戦しますと、極端な場合、商船(武装しているのが普通です)も交えて、世界中の海で戦闘をすることになります。
日本は島国ですから、それにまきこまれる事態も起こります。すでに19世紀初頭、ナポレオン戦争の余波で、オランダ船を拿捕しようとイギリスのフリゲート艦フェートン号が長崎に侵入してくる、という事件が起こって、日本は防ぎようもなく、自国の無防備に震え上がったわけなのですが、クリミア戦争では、極東におきましても、ロシアの軍艦が英仏の軍艦から逃げ隠れしておりました。
アメリカは当時、南北戦争の最中でした。
以前に書いたと思うのですが、欧州の陸続きの国同士の戦いでは、海上封鎖に重きが置かれず、海戦が勝敗に寄与することはあまりありませんでした。
ところが、この南北戦争におきまして、北軍は、大々的な海上封鎖を実行するんですね。
といいますのも、南部の経済は、綿花をイギリスに輸出することで成り立っていまして、それを止めることが、勝利への最短距離でした。
北部は、この海上封鎖に160隻の艦船を投入した、といいますから、当時の日本の状況を考えますと、めまいがしそうな格差です。
ともかく。
ワイオミングは北軍の軍艦でして、極東で北部の商船を攻撃していました南軍の軍艦を攻撃しようと、香港を基地にして活動していました。
まあ、つまり、戦いに来ていたわけですから、士気がちがいます。
生麦事件の関係で、在日居留民の安全確保の必要から、ワイオミングは横浜へ呼ばれていたのですが、そこへ、ペムブローク号が砲撃されたとの知らせが入りました。
そこは、血の気の多いヤンキーです。
ワイオミング号は、下関に停泊中の庚申丸、癸亥丸、そして壬戌丸を襲います。
壬戌丸は、原名ランスフィールド。鉄製の蒸気船でしたが、448トンほどの武装商船で、砲は2門しかありません。しかもこの日は、たまたま世子の乗船予定があり、そのせいなのかどうなのか、どうも、砲ははずしていたようなのですね。
ともかく、ワイオミング号は、死者6名、重軽傷者4人を出しながら、庚申丸、壬戌丸を撃沈し、癸亥丸を大破。長州側の死者は8人、重軽傷7人。
陸の砲台も火を噴く中、すごいですねえ、ヤンキーの戦闘魂。
いや、しかし。
長州海軍教育は、この攘夷戦と平行して、新たな取り組みを始めていました。
従来の三田尻御船蔵を廃し、代わりに、海軍士官養成の本格的な学校を作ろうというわけです。
写真は、三田尻御船蔵跡です。
庚申丸、壬戌丸沈没、癸亥丸大破で、海軍学校設立は一時中断したそうですが、松島剛蔵を中心としまして、すぐに再開され、この年11月には、三田尻御船蔵は規模拡大の上、海軍局と改称。剛蔵は、海軍局頭取役となります。そして翌年、艦内での教授を開始。
で、ですね。
この文久3年の時点で、日本の中で戦闘を経験した海軍は、長州のみ!なんですね。
幕府海軍はもちろん、一度も戦ったことがないですし、薩英戦争でも艦船は戦いませんでしたから、薩摩海軍にも実戦経験はありません。
そういや、勝海舟が「一度はちゃんと攘夷をやるべき」と言っていたという話ですが、経験の必要を痛感したり、したんですかね。
何事も経験がものをいうわけでして、犠牲ははらいましたが、貴重な戦闘経験を積み、長州海軍は、船は無くとも、人材は最強!となったんです。
その最強の海軍人材を、幕長戦争におきまして、海軍総督となりました高杉が、見事に指揮するわけなのですが、長くなりましたので、続きます。
すみません。今回は本題に入り損ねました。
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いえ。お気持ちは良く分かります。郎女さん程の幕末知識をお持ちの方がアレについて何か語るなどと、バカバカしいにも程がありますからねw
さて、今回取り上げていらっしゃる幕末の艦船についてですが、私にとりましては何と言いましても壬戌丸(ランスフィールド)に一番興味があります。
壬戌丸は面白いですよね。この船の事だけで物語が一本作れそうなくらいです。詳しい来歴は元綱氏の「幕末の蒸気船物語」と杉山伸也氏のグラバーの本で知りましたが、一番重要なのはサトウが初めて来日した時に乗船してきた船も、このランスフィールドという点です。そして最終的には村田蔵六によって上海に売却されるという、本当に数奇な運命だと思います。
私は現在東京在住でして、金沢にいたのは高校生の時までで、当時は幕末の歴史などほとんど知りませんでした。まあ実際加賀藩は幕末史にはほとんど絡んできませんし(一応大藩だったらしいのですが…)。私は10数年前から幕末史を調べ始めましたが、多少加賀藩の関連で目にとまった人物と言いますと佐野鼎(貞輔)ぐらいのものです。彼は万延の遣米使節と文久の竹内使節に随行しております。そして実はサトウとミットフォードが加賀に行った時も、その接遇係として対応しております。これは「遠い崖」の5巻にも書いてあります。
あとは郎女さんが2007年3月26日に書かれている通り(検索しても郎女さんのブログ以外ほとんど見当たりませんでした)、五代が関わってフランスに送り出した関沢と岡田もおりますが、その後は不明ですし…。
「一夢庵風流記」は、マンガのほうの「花の慶次」が大ヒットしましたので、今では前田慶次郎のイメージが一人歩きし過ぎているような気もします。そう言えば、私は見てませんがこの前までNHKで「かぶき者 慶次」というドラマをやってたみたいですね。今知りましたが脚本は今回から「花燃ゆ」を担当する事になった小松江里子ですか。「天地人」を書いた人ですよね、この人…。
さて、ワイオミングは庚申丸を撃沈していますが、庚申丸はその後改修されているんですよね。小倉戦争でも活躍していますが、不思議なのは撃沈した船をどうして改修できるのか?当時、サルベージする技術なんてなかったはずなのに・・。
どうも、ですね。事実を知ってしまっていることも、つまらない要素の一つにはなっているんだと思います。とはいいますものの、お勧めの高橋是清を見ていたのですが、オダギリが好きなわけでも無く、森有礼との出会いの時期がちがうことに気づきもしましたのに、まったく気にならないで、おもしろく見ました。やはり、シナリオがひどいのは事実、ですね。
そして、ひー、まったく気づいてなかったです。ランスフィールドにサトウが乗って来ていたとは。村田蔵六によります売却は、ユニオンを調べたときでしたかに、聞きかじったような気はするのですが、忘れこけております。
今回、幕長戦争におきます長州海軍を掘り起こそうという趣旨で書いていますので、これ以上、壬戌丸に触れることはないと思うのですが、これから、気にかけるようにします。
佐野鼎についてもほとんど知りませんでした。
「かぶき者 慶次」は、食事の時にチャンネルをまわしていまして、ちらりと見たんですが、慶次が年寄りになってからの話のようで、まったくおもしろそうではありませんでした。
私が「一夢庵風流記」が好きなのは、著者が隆慶一郎氏だからです。『花と火の帝』が一番好きではあるんですけれど。
今回、久しぶりに長州関係の調べ物をしまして、いりいろと新しい著作が出されていることを知りまして、ほとんど覚え書きメモになろうとしているブログですが、どうぞ、気長におつきあいくださいませ。
ただ、庚申丸は、万延元年(1860)に、長州藩の技術者が造った洋式帆船なので、引き上げて作り直す人材がそのままいた、ということではないんでしょうか? なにかにちゃんと書いていないかとさがしたのですが、見つかりませんで、ただ、「防長回天史」に、松島剛蔵から二艦の修繕、戦死者の賞功、沈没品の収集などに関する建議があり、藩政府はそれを入れて、ただちに実施したとあります。
で、最初、アポルタージュをかけてランスフィールド(壬戌丸)を捕縛しようとしたそうなのですが、乗組員の多さを見て、それはあきらめます。
もしも捕縛できていれば、売り払って、ワイオミングの乗組員がその代金を山分けできる、というような、国際的了解が、当時、あったわけなんですね。
ちなみに、後に宮古湾海戦で、回天が甲鉄にアポルタージュをかけて乗っ取ろうとしますが、このときの甲鉄の乗組員が、長州海軍ですわね。
ともかく、ワイオミングは、壬戌丸のいるところならば自艦も大丈夫と、捕獲はあきらめましたが、まずは壬戌丸を攻撃しまして、長州側の戦死者、負傷者は、ほとんどが、壬戌丸の乗組員です。
それで、庚申丸、癸亥丸が、なんとか壬戌丸を救おうとワイオミングにかかっていくのですが、この戦いの中で、ワイオミングは一度、浅瀬に座礁した、というんです。それを抜けて巌流島の東に出て、、遁走します壬戌丸を追って、これを撃沈し、追って来た庚申丸も轟沈した、ということなんですが、庚申丸は蒸気船ではありませんので、汽罐爆発もしませんし、最後に浅瀬に乗り上げたのではないでしょうか。騰之洲が浅瀬らしいのですが、私にはどこかわかりませんでした。よろしければ、お教えください。
それと関門海峡というのは、海流の影響で非常に砂が溜まりやすくなっており、現在も定期的な浚渫(しゅんせつ・底面を浚って土砂などをすくう)作業をしなければ、大型のタンカーは通れなくなってしまいます。大きな浚渫船が作業してるのは関門海峡では当たり前の風景です。ですので現在と当時の海底は全く違う状態になっているはずです。
でも、あの関門海峡で沈んだら、木造船なんて木っ端微塵のはずですので(急流により破壊)、浅瀬の乗り上げたと考えるほうが妥当ですね。
ワイオミングが壬戌丸にアボルタージュをかけて失敗。回天が鋼鉄(長州藩兵)にアボルタージュを仕掛けて失敗・・・・長州海軍って2回もアボルタージュを阻止してたんだ!
晋作さんの義弟にして従弟の南貞助は、実父が軍目付だったとかで、下関の防備を巡覧する世子に付き従って、ちょうどワイオミングが襲来したとき、世子といっしょに山の上から、海戦を見たんだそうです。禁門のときは鷹司邸にいますし、長州に帰ったかと思えば四カ国艦隊の襲来があって前田で戦ったといいますし、講和には大反対だし、跡継ぎだからと高杉のおやじさんに閉じ込められていたのに抜け出して、晋作さんの挙兵につきあっていますし、自叙が本当だとしますと、イギリスへ行くまで、常に渦の真ん中にいたおもしろい人です。