郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

普仏戦争と前田正名 Vol9

2012年04月11日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol8の続きです。

 アルフォンス・ドーデです。
 「最後の授業」は、知っている方もけっこうおられるんじゃないでしょうか。
 簡単に言ってしまいますと、普仏戦争の結果、ドイツ領となりましたアルザスの学校でフランス語を教えることができなくなった、という物語です。
 なんだかお説教くさくって、私、好きではありませんでした。

 しかし、ですね。この「最後の授業」は、普仏戦争を題材にしました短編集『月曜物語』の中の一遍であると知りまして、私、この際、『月曜物語』を読んでみようかなあ、と思ったんですね。

月曜物語 (旺文社文庫 540-2)
アルフォンス・ドーデ
旺文社


 岩波文庫からも訳本が出ていたようなんですが、私が読みましたのは大久保和郎氏の訳でしたので、旺文社文庫版と同じもののようです。
 実は私、Voyager Booksで購入し、iPadで読みました。

 読んでみますと、ですね。「最後の授業」はむしろ例外でして、実におもしろい短編が多かったんですけれども、一番最後の「盲の皇帝」には仰天しました。
 短編と言いましても、「盲の皇帝」はちょっと長めで、一章のタイトルが「フォン・シーボルト大佐」 です。

 1866年の春、オランダに仕えるバイエルン人の大佐で日本の植物誌に関するすばらしい著述で学界によく知られているフォン・シーボルト氏は、彼が三十年以上も滞在したあの驚くべきニポン=ジェペン=ジャポン(日出ずる帝国)の開発のための国際協会という大計画を皇帝に提案するためにパリに来た。

 冒頭が、これです。
 シーボルトが日本に「三十年以上も滞在した」ってありえないですし、小説ですから、どこまで本当なの? という気もするのですが、この小説、ちょっとエッセイっぽいんですよね。
 あるいは、史実との関係が、司馬遼太郎氏の幕末エッセイくらいにはある、と思ってもいいかもしれません。

 私、これまで、シーボルトについては、ほとんどなにも書いていません。
 シーボルト本人よりもその娘のおイネさんについて、仕事で書いたりしたことがけっこうありまして、ちょっとあんまり……、触手が動きませんでした。
 といいますのも、おイネさんが女医さんになるための最初のめんどうを見ましたのが、シーボルトの弟子で、伊予宇和島藩領で開業していました蘭方医・二宮敬作でした。四賢侯の一人で、長面侯といわれました宇和島藩主・伊達宗城は蘭学好きで、おイネさんを奥の女医さんとして迎え、おイネさんの娘・タダを、奥女中として処遇したりもしています。
 そして、二宮敬作の甥で、大洲藩に生まれました三瀬周三(諸淵)は、再来日しましたシーボルトに師事し、やがてタダと結婚します。
 そんなわけで、愛媛県限定のローカルな仕事をしておりました私は、おイネさんについて、書くことが多かったんです。

 さて、シーボルトです。
 フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、ヴュルツブルク司教領で、ヴュルツブルク大学医学部教授を父に、生まれました。
 そうなんです。フランス革命戦争のただ中に、神聖ローマ帝国領邦に生まれたわけなんです。
 ヴュルツブルクは、1803年に一度、バイエルン選帝侯領となりましたが、1805年の仕分けではヴュルツブルク大公国となり、1815年のウィーン会議で、再びバイエルン王国領となりました。

黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本 (NHKブックス)
ヨーゼフ クライナー
日本放送出版協会


 主にヨーゼフ・クライナー氏編著「黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本」を参考にしまして、シーボルトの生涯を、簡単に述べます。
 父親は早くに亡くなり、シーボルトは司祭だった母方の叔父のもとで育ちました。1815年、19歳にして、かつて父親が教えていましたヴュルツブルク大学で医学を専攻します。
 卒業後、オランダ陸軍の軍医となり、バタビアへ赴任し、父親の親友だった総督に好遇されて、長崎・出島への赴任が決まります。
 来日は、1823年(文政6年)、シーボルト27歳のときです。

 ヨーゼフ・クライナー氏は、なぜシーボルトは父親と同じく、ヴュルツブルク大学に奉職しなかったのか、という問いのひとつの答えとして、ウィーン会議後のドイツ諸国の閉塞感をあげておられます。

 一度燃え上がりましたドイツナショナリズムの炎は、ナポレオンの没落で消えるものでもなく、ドイツ各地の大学で結成されました大学生組合によって、ロマン主義的なドイツ統一運動が盛り上がったのですが、大方、保守的な政治勢力によって、弾圧されました。
 また産業革命の中で、小国に分かれましたドイツ全体が、イギリス、フランスはもちろん、オランダにさえも経済的に遅れをとり、植民地や拠点がありませんので、欧州の外に出る術も少なく、多くのドイツ人研究者が、他国に雇われる道を選んだ、というんです。

 オランダが若いシーボルトに期待したのは、医術だけではありませんでした。
 シーボルトは、医学専攻だったとはいえ、自然科学を広範囲に学んでいましたし、オランダが極東で独占貿易を営んでおります日本について、さまざまな角度からの調査を依頼されていました。

 オランダが、ナポレオン戦争の最中にフランスに併合され、1811年にはフランスに敵対していましたイギリスに植民地のジャワ島(インドネシア)も奪われ、世界中でただ一カ所、長崎の出島にのみ、オランダ国旗をかかげていた時期があったのは、けっこう知られていると思います。

 イギリスがジャワを占領する以前、1808年(文化5年)の話ですが、フェートン号事件もありました。
 オランダ船拿捕を狙っていましたイギリス船フェートン号が、オランダ国旗を揚げて船籍を偽り、長崎に入港し、オランダ商館員を人質にとって薪水や食料を求めたんです。日本側にはろくな防備が無く、イギリスの言いなりになるしかありませんでした。
 長崎奉行は切腹し、長崎警備当番だった鍋島藩は、勝手に警備兵を減らしていたこともありまして、家老数人が切腹。

 この事件の直前に起こりました文化露寇(文化3年)につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編に書いておりますが、このときのロシアの極東進出は、ナポレオンのロシア侵攻により、それどころではなくなって一段落したような次第でして、すでにこのとき、日本列島は、欧州の嵐の影響をまともに受けるようになっていました。

 ナポレオン没落の後もオランダは、しばらくの間、イギリスからジャワを返してもらえず、1819年になって、ようやく取り返しました。
 実は、フランス革命戦争中の1799年に、オランダ東インド会社は解散させられていまして、オランダ政府は直接、返還されましたジャワの植民地経営を手がけることになりました。
 イギリスは、シンガポールに足がかりを得て、東アジアでの通商活動を活発化させています。オランダは、対日本独占交易のもっと有益な活用を、模索していました。
 ジャワ返還から4年、オランダがシーボルトによせる期待は、大きかったんです。

 当時、日本側も西洋の知識を求めていまして、特に医学について、そうでした。
 時の長崎奉行は、シーボルトが出島を出て日本人を診察しますことを許可し、また、日本人蘭方医に教えることをも認めます。
 これにより、知識に飢えていました日本人蘭方医が各地から長崎に集まり、二宮敬作もそうだったんですが、教えを受ける一方で、植物、地理、歴史、言語、宗教、美術など、多方面にわたりますシーボルトの日本研究に、協力もします。

 国立国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」第2部トピックで見る 1. 来日外国人の日本研究(3)にシーボルトの項目がありまして、簡略かつ的確に、業績が述べられています。
 デジタルで見ることが出来ます資料は、日本語じゃありませんので、ちょっと参考にし辛いのですが、シーボルトの著作『日本』も紹介されていまして、挿絵は、1826年(文政9年)、シーボルトがオランダ商館長の江戸参府に従いました際に、大坂で見た歌舞伎「妹背山婦女庭訓」なんです。
 実はこれが、ドーデの「盲の皇帝」の元ネタになったようなんです。

 なお、このときの将軍は精力絶倫子沢山の徳川家斉でして、御台所は後の広大院、蘭癖贅沢薩摩藩主・島津重豪の娘、茂姫です。
 将軍の岳父であります特権を、フルに活用しました重豪は、豊前中津藩に養子にいっていました息子の奥平昌高と、曾孫の島津斉彬を連れまして、商館長とシーボルトに会いに大森まで出向いたことが、シーボルトの『日本』には、書かれています。

 シーボルトは、来日して間もなく、16歳の商家の娘・お滝を見初め、当時、素人の日本女性がオランダ人とつきあうことは許されていませんでしたから、お滝は遊女となることによってシーボルトの日本人妻となり、出島に暮らします。(遊女であったお滝をシーボルトが見初めた、という説もあります)
 1827年(文政10年)、娘のイネが生まれました。

 ところが1828年(文政11年)、任期満ちて離日しようとした際、シーボルトが日本地図などの禁制品を持ち出そうとしていたことが発覚し、事件になります。地図を渡した高橋景保が死罪になりました他、日本側に多くの処罰者が出て、シーボルトも国外追放、再渡航禁止で、二度と来日がかなわないことになってしまったんです。

 オランダへ帰りましたシーボルトは、オランダ軍医の身分のまま、日本研究に没頭し、日本の専門家として、欧州に名を知られるようになります。
 「日本」出版と研究費を調達しますために、ロシアやオーストリア、ドイツ諸国など各地に出かけもしました。
 1845年(弘化2年)、49歳にして、プロイセン女性ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚します。
 ヘレーネがオランダを嫌ったため、プロイセン国籍をとり、プロイセン領だったラインラントのボッパルトに館を買って住みます。

 ペリー来航により、開国しました日本にオランダが働きかけ、シーボルトの渡航禁止処置が解けます。
 1859年(安政6年)、シーボルトは13歳の長男アレクサンダーを連れ、63歳にして、30年ぶりに来日しました。オランダ貿易会社顧問の肩書きでした。
 すでに30歳を超えました娘のイネと再会し、弟子で、イネの世話をしてきました二宮敬作とも会い、甥の三瀬周三を弟子にします。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 上に書いていますが、大政奉還の建白書を起草したとされます海援隊の長岡謙吉が、このときやはり、シーボルトに師事したようです。

 1861年(文久元年)、シーボルトは幕府顧問となって江戸に出ますが、あまり上手くはいかず、翌年、15歳のアレクサンダーをイギリス公使館の日本語通訳生として残し、帰国します。
 そして、1864年(元治元年)、オランダの官職をすべて辞めて、生まれ故郷のヴュルツブルクへ帰ります。

 国籍は、どうなんでしょうか?
 ペーター・パンツァー氏の「国際人としてのシーボルト」によりますと、シーボルトはヴュルツブルク生まれということで、最初はバイエルン王国のパスポートをもって国を出ましたが、結婚してプロイセン国籍をとりましたし、おまけにシーボルトの「フォン」という貴族の称号は、祖父がフランス革命戦争で神聖ローマ帝国軍の負傷兵を治療し、ハプスブルク家の皇帝よりもらったものでしたので、オーストリア貴族ということも、できるんだそうです。

 さて、冒頭のドーデの小説「盲の皇帝」からの引用です。
 1866年の春に、「ニポン=ジェペン=ジャポン(日出ずる帝国)の開発のための国際協会という大計画を皇帝に提案するためにパリに来た」とドーデーは書いているのですが、1866年(慶応2年)というのがちょっと、ちがうのではないか、と思いました。

 実は、ですね。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4を書きましたとき、柴田剛中の「仏英行」(日本思想大系〈66〉西洋見聞集収録)を見ましたら、1865年(慶応元年)の夏、パリで柴田剛中を訪ねてきました人物として、モンブラン伯爵と並びますように、といいますか、まるで連れだって現れたかのように、シーボルトの名が書かれていたんです。

 以下、「仏英行」慶応元年(1865年)7月28日条より、抜粋引用です。
 「シーボルトは、仏商民会社を立、日本へ渡し置の策を、当国帝へ建議せんと欲するにより、同意有之度旨を縷術」
 要するにシーボルトは、「日本との交易商社設立をフランス皇帝ナポレオン三世に建議したいからあなた(柴田)も了承してくれ」と言った、というわけですから、ドーデが小説で述べて言っていることと、あまりかわらないんです。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3バロン・キャットと小栗上野介に書いておりますが、このときの柴田の渡仏は、横須賀製鉄所設立がらみで、そしてその資金調達の方策として、駐日フランス公使・レオン・ロッシュの友人、フリューリ・エラールが中心となりました「フランス輸出入会社」、ソシエテ・ジェネラールに良質生糸と蚕種を独占的に取り扱わせるについての話し合いも、あったと思われます。

 こういったロッシュ公使の画策は、イギリス、オランダ商人の大きな反発を買っていまして、その証拠は、オランダ領事ホルスブルックの手紙など、いくつも見ることができます。
 私、シーボルトはおそらくオランダ商人の依頼を受けていまして、フランスの生糸独占交易とならないよう、もっとオープンに、オランダ商人も参加できるような日本交易取り扱い会社の設立をナポレオン三世に提案するつもりだったのだろう、と思ったのですが、証拠がありませんし、めんどうになって、この時、シーボルトについては触れませんでした。

 「仏英行」7月20日条に、柴田は、モンブランの従者・斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)がもってきた新聞を見ての感想としまして、「アールコック(初代駐日イギリス公使オールコック)、シーボルト、出水泉蔵(薩摩の密航使節団の一員としてイギリス滞在中の寺島宗則)、ロニ(レオン・ド・ロニー)等一穴狐となるの勢あり」と、すべてモンブランの仲間で、同じ穴の狢となってなにかを企んでいる、というような、ものすごい感想……といいますか、ある程度、正鵠を射ていますような、そんな見方を柴田は書き付けていまして、モンブランもぼろくそにけなしていますが、シーボルトに対しても、まったくもっていい感情は抱いていません。

 
シーボルト日記―再来日時の幕末見聞記
クリエーター情報なし
八坂書房


 上記、「シーボルト日記―再来日時の幕末見聞記」に詳細な年表がありまして、確かめてみました。
 やはり、1865年(慶応元年)の夏から、シーボルトはパリを訪れ、10月にはナポレオン3世に謁見していますが、翌1866年の春にパリへ行った事実はなく、ドーデの思い違いか、あるいはわざと半年ずらしたか、だと思われます。
 なおこの年表によりますと、シーボルトは1864年(元治元年、)池田長発が正使を務めました横浜鎖港のための遣欧使節団にも会っていまして、妙にモンブランと行動が重なります。

 それはともかく。ドーデの「盲の皇帝」です。
 ドーデによりますと、このときシーボルトがチュイルリー宮殿でナポレオン三世に謁見できましたのは、ドーデのおかげだそうなんです。
 これは、本当であってもおかしくはありません。
 この当時、ドーデは、ナポレオン3世の異父弟シャルル・ド・モルニー侯爵と親しく、秘書として待遇されていたんです。

 そしてシーボルトは、そのドーデの労に報いるため、ミュンヘンから「『盲の皇帝』と題する十六世紀の日本の悲劇を送ると約束」したそうなんです。
 これがどうも、先述しました「妹背山婦女庭訓」らしく、この人形浄瑠璃&歌舞伎は18世紀のものなんですが、天智天皇が盲目、という設定で登場します。

 おそらく、これが言いたくて、ドーデはシーボルトの謁見を1866年春にずらしたのだと思うのですが、「不幸にして彼(シーボルト)の出発から数日後ドイツで戦争〔一八六六年の普墺戦争〕がはじまり、例の悲劇のことはそれっきりになった。プロイセン軍がヴユルテンベルクとバイエルンに侵入したのだから、大佐(シーボルト)が愛国の熱情と外敵侵攻の大混乱のなかでわたしの『盲の皇帝』のことを忘れたとしても当然と言えば当然だった」ということなんです。

 で、嘘か本当か、ドーデは『盲の皇帝』が気になってたまらず、また戦争がどういうものかも見てみたいと思って、ミュンヘンへ出かけたんだそうなんです。
 『盲の皇帝』の話はともかく、ドーデが普墺戦争の最中にミュンヘンへ出かけたのは、どうも本当のことのような気がします。
 ドーデによれば、戦争の最中だというのに、バイエルンはとてつもなくのどかでした。
 ドーデは、普仏戦争の後に、この小説を書いています。

 いくら血のめぐりのわるい国民だって! 戦争の最中のこのかんかん照りのなかで、ケールからミュンヘンまでのライン彼岸の全域は、まったく冷静でおちつきはらっているように見えた。シュヴァーベン領をのろのろと重たげに横切って行くわたしの乗ったヴュルテンベルクの客車の三十の窓を通して、さまざまの風景がくりひろげられて行く。山、谷、せせらぎの涼気の感じられる豊かな緑のかさなり。列車の動きにつれて転廻して消えて行く山腹には、百姓の女たちが赤いスカートをはき、びろうどのブラウスをきて羊の群れのまんなかにいやにぎごちなく立っており、彼女たちのまわりで木々は青々として、樹脂と北国の森林の芳香のする、あの樅の小箱のなかから取り出した箱庭の牧場そっくりだった。ときどき緑の服の十人ぐらいの歩兵が牧場のなかを、頭をまっすぐ立て、足を高く上げ、銃を弩のようにかついで歩調を取って歩いている。これはナッサウのなんとか公の軍隊だった。ときどきまた大きな舟を積んだ汽車が、われわれのそれと同じようにのろのろと通った。寓意画に出て来る車みたいにそれに満載されたヴュルテンベルクの兵士たちは、プロイセン軍からのがれながら三部合唱で船歌をうたっていた。そしてわたしたちはどの駅の食堂にもはいる。給仕頭の変わらぬ笑顔、ジャムをそえた巨大な肉片を前にして顎の下にナフキンを結んだあのドイツ人らしい上機嫌な顔、そして大型馬車や脂粉や乗馬の人々でいっぱいのシュトゥットガルトの王宮前庭園、泉水をかこんでワルツをかなでる楽団、カドリーユ、キッシンゲンでは戦争しているというのに。実際そういうことを思いだしてみると、そしてまた四年後〔普仏戦争の年〕の同じ八月に見た、まるで烈日でボイラーが狂ってしまったように行く先も知らずに錯乱して突っ走る汽罐車、戦場のまっただなかに停止した客車、たちきられた線路、立往生した列車、東部の鉄道線が短くなるにつれて日ごとに小さくなって行くフランス、そして見捨てられた線路の全長にわたって辺鄙な土地にぽつんと残されたあの駅々の混雑、荷物のようにそこに置き忘れられたいっぱいの負傷兵たちを思うと、プロイセンと南部諸国との一八六六年のこの戦争は茶番でしかなく、だれがなんと言おうとゲルマニアの狼どもはけっして共食いなどしないのだとわたしは信じるようになる。

 さらにドーデは、こうも書いています。

 奇妙なことではないか! これらの善良なバイエルン人たちは、われわれがこの戦争について彼らの味方にならなかったことをあんなに怨んでいたくせに、プロイセン人に対してこれっぱかりも敵意をいだいていなかったのだ。敗戦を恥じる気も、勝利者への憎悪もない。「やつらは世界最強の兵隊ですよ……」と、キッシンゲンの戦闘の翌日、「青ぶどう」館のおやじはある種の誇りをもってわたしに言ったものだ。そしてこれがミュンヘンの一般の気持ちだった。

 私、それがために前回、延々とフランスとドイツ諸国の宗教について述べたのですけれども、基本的に、バイエルンを含みます南ドイツ諸国はカトリックで、プロイセンをはじめとします北ドイツは、プロテスタントだったんです。
 したがいまして、宗教を言いますならば、南ドイツはオーストリアの方に親近性があり、またフランスとも同じ基盤を持っておりました。

 しかし、フランス革命戦争、ナポレオン戦争は、すべてを変えてしまったと言ってもよく、バイエルンがプロテスタント人口を抱え込みましたと同じく、プロイセンもラインラントをはじめとしますカトリック人口をかかえこみ、ドイツ諸国におきまして、プロテスタントもカトリックも、一国内で同等の権利を持つようになっていて、国家と宗教の関係は、国家の方がはるかに重くなっていたといえるでしょう。

 それにいたしましても。
 ナポレオン3世は普墺戦争で傍観するべきではなかった、とよく言われます。
 実際フランス国内には、オーストリアに味方して、せめてラインラント(プロイセン領です)との国境線に軍をはりつけるべきだ、という意見も強くあったんです。
 ところがナポレオン3世は、それを退けました。

 プロイセンが善戦して長期戦になるだろうけれども、最終的にはオーストリアが優勢だろうから、中立の立場から仲裁に入ってプロイセンに恩を売り、あわよくばラインラントでもをせしめよう、そのためにも、かえって軍は出さない方がいい、という計算だったんです。
 ビスマルクの外交がまた上手く、事前にナポレオン3世を訪問して、「ラインラントはちょっと困るが、中立を保ってくれるならば、ルクセンブルグのフランス併合を認めてもいい」というようなことを、ほのめかしていたんですね。

 結局、プロイセンが普墺戦争でやりたかったことは、ドイツ統一の主導権をとる、ということだけでして、開戦二週間、サドワとケーニッヒグレーツの間にある平原で、プロイセンはオーストリアに電撃的勝利をおさめて、フランスが介入してくる以前に、早々と講和しました。
 プロイセンはオーストリアに領土も賠償金も要求しませんで、北ドイツ、中部ドイツの諸国を併合し、南ドイツ諸国には進駐することもなく、同盟を結んだだけでした。

 実際、当時のドイツ諸国の新聞の報道でも、あまり戦争への熱意はうかがえず、「兄弟戦争と呼んでナショナリストたちは嫌悪した」そうでして、ドーデの観察は、まちがってはいなかった、といえるでしょう。

 長くなりましたが、もう一度だけ、シーボルトとバイエルンと普仏戦争のお話が、続きます。

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3 コメント

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盲目の皇帝 (ver a soia(ヴェラソワ))
2012-04-13 10:19:30
初めてコメントさせていただきます。幕末の日仏交流について蚕糸業の面から10年以上に渡って研究しているものです。江戸時代の養蚕技術書が数冊、1860年代にフランス語に訳され、私はそれを追跡しています。ロニ、モンブラン、シーボルト、ホフマンなどこのブログに登場する人物については、私の調査対象でもあり、興味深いです。
 貴姉の、はちゃめちゃ、支離滅裂な文章は閉口していますが....。

 さて、『盲目の皇帝』については、『書を読んで羊を失う』(鶴ゲ谷真一、白水社、1999)という本の中に”すれ違い”という項があり、以下のように書かれています。ご参考になれば幸いです。
------------
 ヨーロッパに帰ったフランツ・フォン・シ1ボルトは、晩年、日本との交易を行なう国際的な貿易会社の設立を思い立ち、ナポレオン三世に謁見するためパリを訪れた。若きアルフォンス・ドーデはカフェでこのシーボルトに出会い、二人は意気投合する。姪と称する女性をともなった老シーボルトは、独特の流儀を貫いて、人目をひかずにはいなかった。ポケットから大きな黒いラディッシュをとりだすと、姪がそれを薄く切って塩をふり、二人で食べはじめる……。ドーデはシーボルトから珍しい日本の文学や美術のことを聞いて興昧をそそられた。とりわけドーデを魅了したのは、『盲目の皇帝』という日本の十六世紀の美しい悲劇の話だった。この悲劇の傑作は翻訳がほぼ出来上がっているから、帰国したらその原稿を君に送ろうと約束して、シーボルトはパリを去った。その数日後、プロシアがヴュルテンベルクとバイエルンに侵攻して戦争が始まり、音信はとだえた。
 ヨーロッパに帰ったフランツ・フォン・シ1ボルトは、晩年、日本との交易を行なう国際的な貿易会社の設立を思い立ち、ナポレオン三世に謁見するためパリを訪れた。.若きアルフォンス・ドーデはカフェでこのシーボルトに出会い、二人は意気投合する。姪と称する女性をともなった老シーボルトは、独特の流儀を貫いて、人目をひかずにはいなかった。ポケットから大きな黒いラディッシュをとりだすと、姪がそれを薄く切って塩をふり、二人で食べはじめる……。ドーデはシーボルトから珍しい日本の文学や美術のことを聞いて興昧をそそられた。とりわけドーデを魅了したのは、『盲目の皇帝』という日本の十六世紀の美しい悲劇の話だった。この悲劇の傑作は翻訳がほぼ出来上がっているから、帰国したらその原稿を君に送ろうと約束して、シーボルトはパリを去った。その数日後、プロシアがヴュルテンベルクとバイエルンに侵攻して戦争が始まり、音信はとだえた。日本の悲劇のことが忘れられないドーデは、ついにミュンヘンに赴き、とあるビヤホールで、姪をともない例の黒いラディッシュを前にしたシーボルトを探しあてる。あの原稿はヴュルツブルクの妻の手元にあるというので、原稿の送られてくるのを待つよりほかはなかった。十日が過ぎ、そろそろあきらめかけたころ、ビヤホールでの昼食の席に、シーボルトはいつになく生き生きとした様子で現われ、「手に入れたよ。明日わたしの所でいっしょに読もうじゃないか。それがどれほど美しいものか、君にもわかるだろう」と言うと、目を輝かせてその…節を大声で朗唱しては、傍らの姪にたしなめられたりした。たしかに美しいものだった。
翌日、待ちきれぬ思いでシーボルトを訪ねると、家はただならぬ悲しみに包まれ、すすり泣く声が聞こえてきた。日本の武具や版画、大判の地図が何枚も飾られた自室のベッドに、シーボルトは遺体となって横たわり、傍らには姪の女性がひざまずいて泣いていた。あろうことか、シーボルトは前夜急逝したのだった。その晩、ドーデはミュンヘンを去り、こうして日本の悲劇の傑作は題名だけを残して失われた。
それにしても、この『盲目の皇帝』とはいったい何だったのだろう。シーボルトの『江戸参府紀行』によると、一八二六年六月十二日(文政九年五月七日V、シーボルトは大阪道頓堀角の芝居で『妹背山』を見物している・その筋立てを「天智天皇というひとりの帝がが盲目になったため内裏のある高官に帝位を奪われ……」と語っている。『盲目の皇帝』とは『妹背山婦女庭訓』のことだったのか。
-------
返信する
ようこそ (郎女)
2012-04-13 13:03:24
お越しくださいました、ver a soiaさま。
もしかいたしまして、米ちゃんのお友達でおられますか?
フランスと韓国と申しますと、『コレアン・ドライバーは、パリで眠らない』をつい思い出してしまったり、いたします。

この文体は、とある掲示板に喧嘩を売りにまいりましたときに採用しまして以来、すっかりお気に入りになってしまったものでして、変えるつもりはまったくございません。
米ちゃんが喧嘩を売りに来てくださったのかと喜びましたら、ちがいましたようで(笑) 残念です。

ああ、ですけれども、自転車はお気をつけあそばせ。
先年、団塊の世代の知り合いのカメラマンが、自転車で転んで脊椎を痛め、60の若さで世を去ってしまいました。左巻きの方で、掲示板の喧嘩並に、リアルで、よく議論といいますか、言い争いをしておりましたが、カメラの腕も人柄も、非常にいい方でいらっしゃいましたのに。
彼がいなくなりまして以来、人生のはかなさが身にしみております。

『書を読んで羊を失う』のご紹介、ありがとうございます。鶴ゲ谷真一氏は、岩波の桜田佐氏の訳を参考にされているんでしょうか。少し、訳がちがっております。
シーボルトの死は、次回に書くつもりでおります。ミュンヘン・コレクションの話とともに、なのですけれども。

昨年、石井寛治氏が学士院の講演でこちらへこられまして、質問させていただいたのですが、どうも、納得できないことが多くあります。
私が死にます前に、幕末維新期の生糸取り引きと、横須賀製鉄所建設につきまして、フランス語のわかる学者さんのご研究が、もっと世に出ますことを、祈っております日々です。

養蚕技術書のご研究をなさっておられるということで、私、ネット上でしたかで、一端を拝見したことがあるかもしれません。多少、私が求めておりますこととちがっている分野のご研究かとは思うのですが、心より応援いたしております。
返信する
また寄らせてもらいます (ver a soie)
2012-04-13 21:33:43
幕末の生糸、蚕種取引に関して仏、英の軋轢があったことはご存じですよね。蚕糸、養蚕に精通している、フランス語が理解できるという持ち味を活かすべく、新たな切り口を探しています。今後ともよろしく。
返信する

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