スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明の続きです。
前々回の『花燃ゆ』とNHKを考えるで、大河ドラマ全体の凋落に触れたのですが、最近読みました春日太一氏の「なぜ時代劇は滅びるのか」が、最終章「大河ドラマよ、お前もか!」で、衰退の様相を述べられていましたので、ちょっと。
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大筋で、春日太一氏のおっしゃることに異論はないのですが、大きく違っていますのが、私にとりましての大河ドラマの原点が、祖母といっしょに幼かりし頃に見ました1回~6回、わけても「赤穂浪士」「太閤記」「源義経」の三本だったことからきているでしょう。「赤穂浪士」の長谷川一夫を、祖母がうっとりと見つめていたのは今でも覚えていますし、討ち入りの日の場面で、吉良上野介の滝沢修を、祖父、祖母がいっしょになって「うまい!」と褒めていた記憶もあります。「太閤記」の高橋孝治は品と魅力がありながら、冷酷な面も十分に表現できていて、佐藤慶の明智光秀、そしてもちろん豊臣秀吉の緒形拳、女性陣もねねの藤村志保、お市の方の岸惠子と、いまもって、それしか目に浮かんでこないはまり役でした。
Two soul -06
「源義経」は、主役の尾上菊五郎、静御前の藤純子が、それほどしっくりきたというわけでもなかったのですが、なにしろまだ子供でしたし、平家物語も義経記も読んでいませんから、繰り広げられます歴史スペクタクルにハラハラドキドキ、夢中になって見入りました。
春日太一氏の大河ドラマ観にも頷けるところは、けっこうありまして、戦国武将の奥方に「戦争はいやでございます。なによりも平和のために」なんぞとのたまわれますと、あまりのリアリティのなさにしらけきってしまうのですが、春日氏はこれが「利家とまつ」(2002)からはじまったことだとしておられるんですね。しかし私には、「おんな太閤記」(1981)の佐久間良子ねねが、いやにねちねちと、そんなことばかり言っていたような記憶がありまして、なにしろ佐久間良子ですから、所作は時代物にふさわしく、きれいだったんですが、「橋田壽賀子のホームドラマじゃあ、大河もおしまいよ」と、途中で見るのをやめたように覚えています。
そして春日氏とちがいまして私は、別に、女が強いのが悪いわけではないと、思うんですね。ぐじぐじホームドラマをやられるよりは、「裏切り者の島津を討て!」と実家に対して言い放てる史実の篤姫のような、武士の娘としての誇りを描いてくれた方が、すっきりします。なにしろ女も家を背負い、誇りを背負っていたんですから、それなりに強いのは当然でして、何度も言いますが、史料から見た実際の篤姫は、大河ドラマ「篤姫」の主人公よりも、強いんです。
福沢諭吉の「瘠我慢の説」を私はもっともと思っていますし、幕府は滅び方を誤り、その幕府の責任者の中ではただ一人、篤姫が誇りを守ったからこそ、江戸っ子に愛され続けたのではなかったでしょうか。
大河のような歴史劇と時代劇はちがいます。
春日氏がおっしゃいますように、時代劇には絶対的な悪人が必要なのでしょうけれども、大河ドラマには、必要ないのではないかと、私は思います。といいますのも、私にとっての大河の原点であります作品群に、絶対的な善人も悪人も、見た覚えがないんです。戦後の日本のマルクス史観のように、善悪で語られる歴史では、だめなんです。この前の「平清盛」なんぞ、自分自身が受領階級、つまりは中級貴族ですのに、「王家」なんぞと皇室を罵るだけの平清盛って、頭空っぽな上の能なしにしか見えませんし、皇室、貴族制度は基本的に悪、というような、日本式マルクス史観の反映があまりに露骨で、気色悪かった、としか、言いようがありませんでした。
では、なにが歴史ドラマの基本であるべきかと申しますと、頼山陽言いますところの「勢極まれば即ち変ず。変ずれば即ち成る」、人間模様でしょう。源氏と平家のどちらが悪でどちらが善ということはありませんし、川中島も関ヶ原も、基本、善悪には色分けできないスペクタクルなんです。
善悪を描き分けます時代劇、といいますならば、衰退した後に、わずかながらもNHKは、「蝉しぐれ」のような、普遍性を持った名作を作りましたし、ごく最近では、「吉原裏同心」は、けっこうおもしろかったと思います。
しかしさて、大河ドラマはいったいこれから、どうなっていくのでしょうか。
イギリスのBBCが、シェイクスピアやジェーン・オースティン、ディケンズ、その他、自国文学に強い誇りを持っている点こそを、見習うべきでしょう。
視聴率は低くてもいいんです。自国の古典文学を尊重できない人々が作る大河ドラマなんぞ、NHKで製作する意味がありません。
原点回帰ができないのならば、終止符をうってもいいのではないかとさえ、思うこのころです。
で、今回のテーマです。スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALのコメント欄で述べましたこと、長州、そしてなにより杉家と西本願寺につきまして、私には、目から鱗の発見があったものですから、メモメモと。
大正三美人の歌人で、柳原白蓮と同門で友人の九条武子男爵夫人です。
明治20年(1887年)生まれで、白蓮より二つ下。渡欧経験があり、洋装も板についています。
なぜ、この美女が出てくるかと言いますと、彼女は大谷伯爵家の令嬢、つまりは西本願寺21世法主、大谷光尊(明如上人)の娘で、仏教婦人会(西本願寺信徒の婦人会)を創設して本部長となり、仏教理念に基づく女子教育を推進して、現在の京都女子大学を創設した人でして、若い頃から家族ぐるみで熱心な西本願寺信徒だった松陰の妹・杉文さん、楫取美和子男爵夫人と、年の差(44年の差です)を超えた親交があったようなのですね。
以前にご紹介しました「男爵 楫取素彦の生涯」の中に、香川敬氏著「鞠生幼稚園と楫取素彦」という論文が収録されているのですが、これによりますと、防府にあります浄土真宗本願寺派(西本願寺系)の寺が、楫取素彦の多大な賛助を得て、明治25年に仏教系日本最古の幼稚園を創設しましした。
そのお寺の住職の孫が楫取家に嫁ぐ、というような縁もあったそうですが、はっきり言いまして、楫取素彦と浄土真宗の縁は、そもそもは、最初の妻・久子(寿子)、後妻・美和子(文)の杉家姉妹の熱心な信仰に影響されたものです。
そんなわけで、その幼稚園には、楫取美和子男爵夫人死去に際して、九条武子男爵夫人が書いた手紙が残されていると、山本栄一郎氏からお教えいただいたのですが、これが私、さっぱり読めません!!!!!
それはさておき、なぜ松陰の妹たちが熱心な浄土真宗の信徒だったかということを、簡単にご説明します。
吉田松陰が、仏教を好んでいませんでしたことは、一番上の妹、千代への手紙にはっきりと書いています。
松陰の実父、杉百合之助がそもそも神道一筋で、仏教を好んではいませんでしたし、杉家の菩提寺は、もともとは禅宗でした。
ところが、松陰の母親の瀧と長男の杉民治(松陰の実兄)、そして千代、久、文の三人の娘たちは、熱心な浄土真宗の信徒だったんです。
では瀧の実家が浄土真宗だったか、というと、そんなこともないようでして、瀧の実弟(松陰の叔父)は鎌倉の禅宗の名刹、瑞泉寺の住職になった人でした。
つまりおかしなことなのですが、幕末長州において、家庭内で夫婦、親子の信仰がちがう、ということはけっこうあり、しかもそれは、家の宗教にしばられるものでは、なかったんです。
同時代のフランスの宗教状況を、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?で、以下のように書きました。
「フランスで、本格的に、政教分離、公教育からの宗教(結局はカトリック)排除に取り組んだのは、第三共和制のジュール・フェリーなんだそうですが、この人がフリーメーソンなんです。
モンブラン伯と同世代です。穏健なブルジョワの共和主義者で、伯父など、親族の男はフリーメーソン。
父親は無神論者でしたが、母や姉は熱心なカトリック信者だったんだそうです」
1871年(明治4年)、パリコミューンの原動力の一つだったのは、反カトリックのフリーメーソンです。
家族のうち、女性はカトリック教徒で、男性は反カトリック教徒や無神論者、といいますような状況が、幕末維新期のフランスの家庭では、普通にあったんです。
長州の状況は、これに似ていたと言えるかもしれません。
フランス革命以降のフランスの宗教状況は、普仏戦争と前田正名 Vol8で、以下のように概説しております。
フランス革命は、なにしろ王の首を斬り落とし、新しい秩序を打ち立てよう、というところまでいってしまいましたので、王を王たらしめていましたカトリック教会とも、当初、徹底した縁切りをするしかなかったんです。
ジャン・ボベロ氏著、フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ)によりますと。
アメリカは清教徒の国でしたから、その独立宣言には「創造主によって……侵すべからざる権利を与えられている」、「この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼とともに、我らは相互に以下のものを約する」とありまして、人権をもたらしたのは神(God)なのです。
一方、フランスはカトリックの国でしたから、「人権宣言の第三条は、主権(=至高性)を宗教から独立したものにしている。つまり、主権は国民から来るのであって、もはや神授権に与る国王は存在しない」ということなのです。
カトリックは古い宗教で、司教が領主であったり、世俗の権力でもありましたから、そのカトリックを国の宗教としておりましたフランスでは、革命前から宗教の世俗化が進んでおりました。
アーネスト・サトウ vol1に書いておりますが、フランスにおきますカトリックは、いわば日本の葬式仏教に近いような状態で、アメリカの清教徒のようなプロテスタントの方が、はるかに信心深い場合が多かったわけです。
とはいいますものの、それまで、それなりに社会を律していましたカトリックを、一挙に全否定してしまいますことには無理があり、ロベスピエールが権力を握りました時期には、ルソーのいわゆる至高存在を神のようなものととらえ、市民教という奇妙な宗教を作り出そうとする模索もありましたが、失敗に終わります。
再びジャン・ボベロ氏によりますと、結局、フランス革命におきますライシテ(脱宗教性)は不完全で、矛盾をはらみ、非常に不安定な状況を生み出したのですけれども、その混沌を受け継ぎましたナポレオンは、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んでカトリック教会と和解しますが、「革命で得られたいくつかのことが安定したやり方で具体化されているし、市民と認められた人間(男性)の法の前での平等が達成されている。また、限界こそあれ、宗教と信条の自由がきちんと与えられている」というような、施策をとります。
フランス革命時のカトリック教会打ち壊しは、明治維新時の廃仏毀釈を大規模にして、徹底させたようなもの、ということはできると思うのですね。
江戸時代の仏教一般は、幕府の檀家制度によりまして、すっかり葬式仏教化し、世俗化の極地にあった、という点で、カトリックに似ています。
広瀬常と森有礼 美女ありき3で書いておりますが、幕末、そういった仏教を非科学的だと批判し、蘭学にシンパシーを示していたのが国学です。
吉田松陰の仏教に対します批判も、なにより「迷信で人心を惑わす」というところにあったのですが、それはなにも松陰が言い出したことではありませんで、長州では、村田清風の著作において、すでに強く唱えられていました。
そもそも江戸時代後期におきましては、耕すことも作ることもしない非生産的な僧侶が、檀家制度に甘えて堕落しているというような仏教批判が、かなり一般的になっていまして、まあ、これは、革命前のフランスのカトリック批判と似たようなものであったわけです。
村田清風は、もちろん「一向(浄土真宗)の僧赤き旗を立、下にをれをれと在々経まわして金銀をむさぼる事あり。油断大敵なり」と、浄土真宗をも嫌っていたのですが、しかし一方で、「浄土一向の坊主も、戒律を持ち御国恩を知る者は、雇うて五常の道(仁義礼智信)を説きさとすべし、国の故に因る一術なり」とも述べてもいます。
月性―人間到る処青山有り (ミネルヴァ日本評伝選) | |
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実は、上、海原徹氏の「月性―人間到る処青山有り 」に、幕末長州における浄土真宗が、詳細に解説されているわけなのですが。
幕末、文化露寇、フェートン号事件、アヘン戦争など、対外危機を意識せざるをえない事件が続き、近海に黒船が出没して、許可無く外国人が日本に上陸する事も増えて参ります。
そんな中で、海岸線の長い長州の為政者は、改革派の村田清風を中心としまして、強い国防意識を持ったわけなのですが、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に書いておりますように、長州の士族はわずか3000戸で、薩摩の43119戸にくらべましたら、十分の一にも足りない人数です。しかも彼らはほとんど役人化していますし、士族が国防を担える状態では、なかったんですね。
それで、清風が考えましたことが、庶民の間にもっとも溶け込んでいる浄土真宗の僧侶を雇って、国防の危機を訴えてまわらせるべきだ、ということでした。
士族だけではなく、防長の民衆のすべて、女性までもが、国を守るためならば、死を覚悟して、無断上陸してくる黒船の外国人と戦うべきで、極楽浄土を望む信徒はそうすべきなのだ、という説教を、浄土真宗の僧侶にさせようとし、そして実際、長州ではそれが現実となります。
つまり、このような下地がありましたから、長州ではいち早く、奇兵隊のような、一応、身分を問わないことを前面に押し出した軍隊ができたのですし、案外知られていないことですが、久坂玄瑞が下関の攘夷戦で率いました光明寺党は、そもそも浄土真宗の寺・光明寺で結成され、僧侶が参加していましたし、奇兵隊にもそれは引き継がれ、名が知れているところでは、第二奇兵隊の指導者の一人でした大洲鉄然が、浄土真宗の僧侶です。
そもそも、です。
安政の大獄で刑死しました松陰が、早い時期から討幕思想を持ったにつきましては、安芸広島藩の宇都宮黙霖と、周防(現在の柳井)萩藩領の月性という、二人の浄土真宗の僧侶の影響が強かったことは、従来から、言われていたことです。
なぜ尊皇討幕が唱えられたか、と言いますと、黒船出没の中、国防のためには、皇室を中心とする中央集権化を実現して、日本中が一丸となることが必要!!!ということなんですから、結局は藩もじゃまでして、究極、幕藩体制の否定、士族の既得権の否定というところへ行き着いてしまい、こういった発想は、幕藩体制からはみだした僧侶だからこそ、可能でした。しかし、発想は可能でも、為政者の士族が目覚めなければ実現は不可能ですし、まがりなりにも士族の一員であります松陰が、早い段階で、国防のための討幕を唱えたことこそが長州を火だるまにし、めぐりめぐって維新が実現したわけです。
文久2年(1862年)の正月、武市瑞山の使者として萩を訪れました坂本龍馬に、久坂玄瑞が「尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と記した書簡を渡したことは有名ですが、それは結局、浄土真宗の大きな影響の元に、松陰から久坂へと、受け継がれた信念なのです。
松陰に月性を引き合わせましたのは、実は実兄の杉民治でして、杉民治の月性宛書簡は、幕末残照・周防紀行でご紹介しました柳井の月性展示館に収蔵されているようです。写真を撮らせてもらいに行くべきなんでしょうかしら、ふう。
詩吟「将に東遊せんとして壁に題す」釈月性
月性の有名なこの漢詩は、松下村塾でも愛唱されましたが、月性と親しんでいたのは、仏教嫌いの松陰ではなく、実は母親の瀧と娘三人、長男の民治でした。
なぜ長州藩に浄土真宗の信徒が多かったかにつきましては、戦国時代からの縁があります。
村上海賊の娘 上巻 | |
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上のベストセラー小説が描いておりますが、村上水軍を筆頭とします毛利配下の水軍は、こぞって、石山合戦で本願寺側について戦っております。
で、その水軍の多くは、後に伊予の本拠地を追われ、長州藩領に住み着いて御船手組となったり、移住した者も地元に残った者も、帰農(漁)したり、あるいは水運業に携わったりもしたのですが、安芸から周防にかけての瀬戸内海の島々、海岸線には、非常に浄土真宗の信徒が多いんですね。
浄土真宗が他の仏教とちがいますところは、江戸時代、葬式仏教になってしまっていませんで、葬儀や墓にはこだわらず、なによりも救いを求める庶民たちに答えて、ただただ阿弥陀様に祈れと、わかりやすい救いを提示することを重視し、村々に説教師を派遣していたことです。
当時はまだ、医学も今のように発達していませんし、子供や若者の病死による死別の苦しみ、あるいは生まれながらの障害、難病でハンデを背負った苦しみなど、人間の力ではどうにもならない苦難に、押しつぶされそうになることも多かったでしょう。わけても、子供を産む女は、幼子を亡くしたり、子供の障害に思い悩んだり、ということが、ごく普通にあったわけでして、杉家の女性たちも、それに無縁ではありませんでした。
さらに、近代のフランス女性たちが、男たちよりもカトリック信仰に熱心だったにつきましては、女性単身での社会活動が一般に封じられていました中で、カトリック教会の公共活動には、堂々と女性が参加できたから、ということがあった、といわれます。
それは、幕末の長州もいっしょなのです。
浄土真宗の説教師たちが村々をまわり、その寄り合いには、女性たちも堂々と参加できましたし、攘夷戦から幕長戦争の時期には、萩の浄土真宗の婦人たちがパトロン隊を結成してパトロン(前装銃の紙薬莢)を作り、男たちの戦闘に協力しました。もちろん、その中心には瀧、千代、久、文の杉家の女性たちがいたわけです。
久(寿)さんは、維新後に夫の楫取素彦が買いました二条窪の荘園や、楫取素彦が赴任しました群馬県で、熱心に浄土真宗の教えを広めましたし、楫取の後妻に入って男爵夫人となりました文(美和子)さんは、その晩年、防府で幼稚園、萩で女学校と、浄土真宗の教えに基づく教育に、尽力したようです。
文さんよりは十数歳年下なんですが、鹿鳴館のハーレークインロマンスで書きましたトネ・ミルン(堀川トネ)は、西本願寺函館別院の住職の娘で、後の森有礼夫人・広瀬常とともに、開拓使女学校で学んでいます。
写真の左端がトネ・ミルン、中央が大谷籌子(九条家から嫁いだ大谷光瑞夫人で、九条武子の義姉)、右端が九条武子で、イギリスでの写真です。
籌子は幼い頃から大谷家に引き取られ、武子と実の姉妹のように育てられ、武子ととともに、浄土真宗婦人会の中心となって力を尽くしました。
数ある仏教の中で西本願寺は、長州とのつながりもありまして、もっとも維新を歓迎し、新しい仏教の形として、西洋におけるキリスト教のような存在となることを模索しました。
それに成功したとは言いがたいのですが、進取の気性に富んでいたことは確かです。
現在の日本史は、宗教史を無視しすぎていると、いま私は思っています。
私自身、今年に至るまで、浄土真宗が維新に与えた影響など、ろくに考えたことがありませんでしたし、我が家は真言宗ですが、ろくに信仰心を持ったこともありません。
しかし、世界的にはイスラム国の問題がありますし、日本でもオウム真理教をはじめ、新興宗教の問題の種はつきません。
既成の宗教を徹底的に貶めたという点で、ソ連にはじまります共産党独裁政権の無神論も、これまた一種の新興宗教でしょう。
結局人は、宗教無くして暮らしていけるものではなさそうでして、もうちょっとこの話を掘り下げてみたい気もしますし、九条武子さんの生涯にも、なかなかに興味深いものがあるのですが、長くなりましたので、またの機会にいたします。
追記 鞠生幼稚園に残っています九条武子さんの手紙ですが、山本氏の解読が進んでおられるようでして、お文さん(楫取美和子)死去に際したものではなく、楫取素彦死去に際したものだったらしい、とのこと。義姉、大谷籌子の死去の衝撃も書かれているようでして、ご研究の進展を楽しみに待つこのころです。
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今回の大河でまた知らなかったことがわかってくるのでしょう。この家族が一致して向かっていったものはなんだったんでしょうね。当時のだれもが同じようなうごきをしたわけでもないでしょう。
「蝉しぐれ」これが日本の時代劇というものなのでしょうか。私の大好きな作品。90歳のおじい様に教えていただいた作家さんです。
人の心は変化する。歴史って面白いですね。
浄土真宗の女性は夫に尽くすと叔母が言っていたような。失った日本の情景、宗教も変わってしまって戦前の日本人を理解することが困難な気がしています。
書かなかったんですが、山屋敷(松陰の生まれた家)には「樹々亭」という名がついていて、長州藩士の別荘だった建物を瀧さんが実家に買ってもらって、持参金として杉家に持ってきたもののようなんです。「樹々亭」の名は、長府の女性俳人・菊舎尼が名付けたもので、彼女も未亡人となって浄土真宗の尼となった人なんですね。瀧さんのお父さんとは、親交があったのではないかと、私は推測しています。
松陰の義母(叔父の妻)は庄屋階級の出で、姉が養子をとって実家を継いだため、経済的に不自由していなかったようでして、ずっと松陰の義母として再婚せず、松陰を援助したりもしたようです。この当時の長州藩の下級士族(百石以下かあるいは五十石以下か、杉家、吉田家、玉木家、前原家など、みんなそうですが)は、陪臣や庄屋階級から嫁をもらうことが多く、その場合、あきらかに嫁の家の方が経済力が上で、そうとうな援助をするんですね、経済力が上だと、実質的に家庭における女性の力は強くなりますし、あるいは高須久さん(野山獄で松陰と親交があった女性)のように、中級から上の士族でも、娘が養子をとって家を存続させることがけっこう多く、その場合も、相当に女性の実質的な力は強いんです。
我が家ごときで恐縮ですが、うちは母親が家付き娘で、経済を握っていましたので、日本の女性の地位は低かった、とか言われましても、さっぱりぴんときません。終戦直後に東京の大学へ行って、教師になってもいますし、私も「家事なんかどうでもいいから勉強しろ」みたいな変な育てられ方をしましたし。
曾祖父の母親も、文さんとあまりかわらない年なんですが家付き娘で、夫(曾祖父の父親)は家を出たようでして、墓が残らず、女一人でけっこう大きな墓を残しています。瀬戸内海沿岸には、女紋といって、母から娘へ、代々受け継がれます紋が残っていますし、実質的な女の力は強かったと思います。
あと、西日本の庶民は、黒船に相当な脅威を感じていまして、感情的に攘夷支持です。文久年間、だったと思うのですが、松山藩の三津浜沖でも、黒船が座礁しまして、物珍しさに見物船が出たことは確かですが、一方、蒸気船に狭い瀬戸内海の航路を通られますと、小さな漁船はひっくり返されることもありますし(現在でもあります)、そういったことが起こった場合、幕府が賠償金をとってくれるわけでもなく、開国以来の物価上昇もありまして、圧倒的に攘夷支持、親藩の松山藩でさえ、おそらく庶民は、長州支持です。
そういった庶民感情は、当然、杉家の女性も共有していたと思うんですね。
そして、信仰する浄土真宗の僧(月性)が、討幕を唱えていたんですから、それもあたりまえに受け入れていたと思います。
ただ、明治新政府のやり方は、民政を重んじたものではなかったですし、いくら国防といっても、民を重んじなければ国防にならない、というのが松陰の考え方ですから、反乱を起こすことには反対だったにしましても、批判的な見方は、民治さんと共通していたと思います。
また日本の国防といえば、海軍が中心になるのが当然でして、それは楫取の実兄の松島剛蔵から高杉、そして前原へと受け継がれていたのですが、長州はイギリス式の志願兵制度ではなく、フランス式の陸軍徴兵制度を推進し、明治新政府は当初、海軍の充実を無視し続けます。台湾遠征と西南戦争が無ければ、海軍が整備に向かうこともずりずりと遅れたでしょうし、私は、中央で権力を握った長州人が、まったくもって、好きではありません。
確かに、全体のバランスを見て、権力を握るのがうまい連中がそろっていた、とは思うのですが。
私は小説を読む前に、偶然、テレビで再々放送くらいの「蝉しぐれ」を見まして、もう、目が離せなくなってしまいました。内野聖陽も他の役の時は、「どうなの、これ」と感心しないこともあるのですが、よかったです。DVDになっていますので、レンタルもあるんじゃないでしょうか。
あと、小説で、もう読んでおられるかもしれませんが、海音寺潮五郎氏の『二本の銀杏』は、時代物の恋愛小説として、めったにない名作だと思います。ショーロホフの「静かなドン」に感銘を受けて、故郷を舞台に書かれたのだと、後で知りました。薩摩郷士とコサックって、そういえば、共通項がないでもないような気がしますが、恋愛ものにはあまり感動したことのない私が、「蝉しぐれ」と「二本の銀杏」は、すばらしいと思います。