またまた更新が滞っております。すみません。なぜか生麦事件に迷っていってしまい、なぜか一生懸命wikiの記事書きに取り組んでおりました。あー、まあ、一つは、「薩藩海軍史」という基本資料を持っていまして、なぜ持っているかといいますと、モンブラン伯爵について調べるためだったんですが、あんまり役に立ったともいえず、ここらでちょっと役立ててみようかと、生麦事件のあたりを読んでみたため、というのもありました。
ちょうど、大河の「篤姫」で生麦事件をやっていたりもしまして、よく考えてみましたら、私、生麦事件の現場では、実際になにがどうなったのか、という事実関係については、きっちり知ってはいませんでした。
えーと、話がそれるんですが、なんなんでしょうか。「篤姫」が描く禁門の変の小松帯刀は!!! 資料で見る方がはるかにさっそうとしている、というのは、ドラマとしていかがなものかと。まあ、手間をかけたくなかったんでしょうが、小松さんの場合、慶喜公をひっぱって、御所の中をかけずりまわったんですから、ちゃんと史実を描いても、合戦シーンは金がかかる、という話でもないと思うのですが。説明がめんどかったんでしょうか。政治劇をろくに描かず、お茶をにごされても、ねえ。
話をもとにもどしまして、以前に書いたことがあるんですが、まずこの生麦事件は、いわゆる単純な攘夷ではなく、「無礼者!」ということから起こっているわけです。個人が起こした事件ではなく、大名(正確には島津久光は藩主じゃありませんが、それに準じる存在です)行列の供回りが、主従関係の中で、無礼を咎めて外国人を殺傷したわけですから、当然、これは久光の意志のうちです。
そういう認識があったものですから、誰がどうしたとか、どこがどういうふうに無礼だっただとか、細かなことは気にしていませんで、なんといえばいいのでしょうか、えーと、事実関係については、いろいろな見方があるんだろうなあ、と、なにを読んでも読み飛ばしていた、といいますか。
しかし、今回調べて、「いったい、なんなのお???」と、とても疑問に思ったことがあります。それは、生麦事件を簡単に説明する場合、よく、「島津久光の行列を、イギリス人が横切って、薩摩藩士に斬り殺された」としていることです。検索をかけてみましたところ、現在の高校の日本史の教科書も、多くが横切ったになっているんだそうですが、横切ったのではありません!!!
生麦村の住人で、一部始終を見ていた勘左衛門の当日の届けと神奈川奉行所の役人の覚書を総合しますと、「神奈川方面から女1人を含む外国人4人が騎馬で来て、島津久光の行列に行きあい、先方の藩士たちが下馬するようにいったにもかかわらず、外国人たちは聞き入れず、(久光の)駕籠の脇まで乗り入れてしまったので、供回りの数人の藩士が抜刀して斬りかかった」ということであり、真正面から行きあって、イギリス人たちは、どんどんと久光の駕籠のそばまで乗り入れたのです。これは、アーネスト・サトウの日記、つまりはイギリス側の資料から見ても同じなのです。行列を横切ったのではなく、真正面から行列に乗り入れたのです。
後世の談話も含めて、日本側にもイギリス側にも、横切ったという資料は、ただの一つもありません。いったい、どこから出てきた言葉なのでしょう。
久光の行列は、往路でも騎馬で横に並んで傍若無人にいく外国人に出会っているんです。それでも、なにもしていません。長い行列です。久光の駕籠から離れた場所を外国人が横切ったくらのことで、薩摩藩士も抜刀はしなかったのです。久光の駕籠のごくそばまで、平気で乗り入れたから、なのです。リチャードソンが馬主をめぐらそうとして、駕籠をかつぐ棒に触れた、という話もあり、ほんとうにごくそばまで乗り入れていたのです。
よく、後の神戸事件(備前事件)で、………いえ、この事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわり、事件の責任をとった滝善三郎の切腹をバーティ・ミットフォードが描いていますから、多少調べているのですが………、識者の方々が、「行軍をフランス人水夫が横切ったことは、「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、生麦事件と同じ」とか書かれていますが、ちがいます!!!
生麦事件は、横切ったどころか、真正面からずんずんと乗り入れられたのであり、それでも鉄砲隊が発砲したりはしていません。
吉村昭氏の小説は、いつもとてもリアルで、実証的なのですが、今回はちょっと、疑問でした。イギリス人の4人の行動については、「ロンドン・タイムズ」や「ヘラルド」の記事を参照になさったようで、私も生き残った確かクラークだったかの談話を読んだことがありますが、当事者が自己弁護で、自国新聞に語った話が、どれだけ信用ができるのでしょうか? アーネスト・サトウが日記に書きつけた程度のこと、つまり「わきによれといわれたのでわきを進んだ」、つまり当人たちは「わきによれ」といわれたと思いこんで、わきによったつもりだった、ということしか言えないと思います。少なくとも、目撃した生麦村住人の目には、「脇によって遠慮深く進んでいた」とは、とても見えなかったのです。
まあ、とはいえ、小説ですから、「冷や汗たらたらで、なんとなく引き寄せられるように遠慮深く進んだ」とでも書かなければ、劇的にならないかもしれないのですが、しかし。ほんとうに「二本差しの侍たちが怖くて、おびえつつ」だったのなら、なにもそんな恐ろしい侍たちの中をつっきって、前へ進む必要はなかったのです。彼らは乗馬を楽しんでいただけで、前方に用事があったわけでもなんでもなかったのですから。それとも、肝試しを楽しんでいたのでしょうか。
ここは、やはり、事件現場へ真っ先にかけつけたイギリス公使館医官、ウィリアム・ウィリスの以下の言葉が、真実でしょう。
「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば故国のならわしに従って血闘に価するほどの態度で、各省の次官に相当する日本の高官をののしったりします。また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にもけっして敬意を払いません。ー中略ー誇り高い日本人にとって、もっとも凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるにちがいありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」
つまり彼ら極東のイギリス商人たちは、幕府の役人がおとなしく彼らの罵声に従うので、二本差しをまったく怖がってはおらず、軽んじていたのです。
ウィリスによれば、さらに彼の知人は、別に特別残忍な男というわけでもないのに、毎日、なんの罪もない日本人の下僕を鞭で打ち据えていたそうです。
斬り殺されたリチャードソンは、上海で「罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑」を受けていたそうでして、こういう話を知りますと、当時、一般庶民が攘夷を歓迎していた、という話も、頷けてきます。
いくら身分が低くとも、日本人にとって、鞭打たれるというのは、相当な屈辱です。同じ日本人が、理由もなく牛馬のように鞭打たれるのを見ることも、また、屈辱的なことだったでしょう。
まあ、あれです。例えるならば、米軍基地の人々が、基地の中で日本人使用人を鞭打つことを常とし、基地の外へ出ては、日本の警官の静止などはものともせず、交通違反、ひき逃げを繰り返し、交通規制がかかっているときに、自分たちは特別だからと、ドライブに出かけて、行列に真正面から出くわしても、スピードをゆるめるだけで、どんどん行列にわけいっていく。例え、それが皇太子殿下のご成婚パレードであっても、です。
もしも、そんな状態だったとすれば、「頼んで来てもらったわけでもないのに、何様のつもり?」と、憤慨するのが普通でしょう。
明治16年、事件現場近くの住人が、事件を記念し、また事件で一人命を落としたリチャードソンの魂をなぐさめようと、碑をたてることを思いつきます。碑文は、元幕臣で幕末のイギリス留学生だった中村敬宇に頼みました。
君、この海壖に流血す。わが邦の変進もまた、それに源す。
強藩起ちて王室ふるう。耳目新たに民権を唱ふ。
擾々たる生死、疇か知聞す。萬國に史有り、君が名傳はる。
われ今、歌を作りて貞珉を勒す。君、それ笑を九源に含めよ。
「君(リチャードソン)は、この海辺のあたりで血を流した。日本の国の変革は、この事件に源があるんだよ。強藩がしっかりと立ち上がって皇室を盛り立て、民権を唱える世の中になった。君が命を落とした生麦事件を、みんな知っているだろうか。どの国にも歴史があって、君の名は後世に伝わるよ。私はいま、歌を作って石碑に刻んでいる。君はあの世で、それを笑って受けてくれ」
明治16年の時点から振り返って見れば、幕臣であった敬宇にも、イギリスに戦いを挑む薩摩の気概が、維新の変革をもたらしたのであり、その原点は生麦事件であったと、思えたのですね。
以前にもご紹介した、中岡慎太郎の以下の文章。
「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」
攘夷感情が、抵抗のナショナリズムとなり、民権論にもつながっていった、その歴史の原点が、生麦事件だというのならば、生麦事件の結果で起こった薩英戦争こそ、真の攘夷であったと、あるいは、いえるのかもしれません。
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ちょうど、大河の「篤姫」で生麦事件をやっていたりもしまして、よく考えてみましたら、私、生麦事件の現場では、実際になにがどうなったのか、という事実関係については、きっちり知ってはいませんでした。
えーと、話がそれるんですが、なんなんでしょうか。「篤姫」が描く禁門の変の小松帯刀は!!! 資料で見る方がはるかにさっそうとしている、というのは、ドラマとしていかがなものかと。まあ、手間をかけたくなかったんでしょうが、小松さんの場合、慶喜公をひっぱって、御所の中をかけずりまわったんですから、ちゃんと史実を描いても、合戦シーンは金がかかる、という話でもないと思うのですが。説明がめんどかったんでしょうか。政治劇をろくに描かず、お茶をにごされても、ねえ。
話をもとにもどしまして、以前に書いたことがあるんですが、まずこの生麦事件は、いわゆる単純な攘夷ではなく、「無礼者!」ということから起こっているわけです。個人が起こした事件ではなく、大名(正確には島津久光は藩主じゃありませんが、それに準じる存在です)行列の供回りが、主従関係の中で、無礼を咎めて外国人を殺傷したわけですから、当然、これは久光の意志のうちです。
そういう認識があったものですから、誰がどうしたとか、どこがどういうふうに無礼だっただとか、細かなことは気にしていませんで、なんといえばいいのでしょうか、えーと、事実関係については、いろいろな見方があるんだろうなあ、と、なにを読んでも読み飛ばしていた、といいますか。
しかし、今回調べて、「いったい、なんなのお???」と、とても疑問に思ったことがあります。それは、生麦事件を簡単に説明する場合、よく、「島津久光の行列を、イギリス人が横切って、薩摩藩士に斬り殺された」としていることです。検索をかけてみましたところ、現在の高校の日本史の教科書も、多くが横切ったになっているんだそうですが、横切ったのではありません!!!
生麦村の住人で、一部始終を見ていた勘左衛門の当日の届けと神奈川奉行所の役人の覚書を総合しますと、「神奈川方面から女1人を含む外国人4人が騎馬で来て、島津久光の行列に行きあい、先方の藩士たちが下馬するようにいったにもかかわらず、外国人たちは聞き入れず、(久光の)駕籠の脇まで乗り入れてしまったので、供回りの数人の藩士が抜刀して斬りかかった」ということであり、真正面から行きあって、イギリス人たちは、どんどんと久光の駕籠のそばまで乗り入れたのです。これは、アーネスト・サトウの日記、つまりはイギリス側の資料から見ても同じなのです。行列を横切ったのではなく、真正面から行列に乗り入れたのです。
後世の談話も含めて、日本側にもイギリス側にも、横切ったという資料は、ただの一つもありません。いったい、どこから出てきた言葉なのでしょう。
久光の行列は、往路でも騎馬で横に並んで傍若無人にいく外国人に出会っているんです。それでも、なにもしていません。長い行列です。久光の駕籠から離れた場所を外国人が横切ったくらのことで、薩摩藩士も抜刀はしなかったのです。久光の駕籠のごくそばまで、平気で乗り入れたから、なのです。リチャードソンが馬主をめぐらそうとして、駕籠をかつぐ棒に触れた、という話もあり、ほんとうにごくそばまで乗り入れていたのです。
よく、後の神戸事件(備前事件)で、………いえ、この事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわり、事件の責任をとった滝善三郎の切腹をバーティ・ミットフォードが描いていますから、多少調べているのですが………、識者の方々が、「行軍をフランス人水夫が横切ったことは、「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、生麦事件と同じ」とか書かれていますが、ちがいます!!!
生麦事件は、横切ったどころか、真正面からずんずんと乗り入れられたのであり、それでも鉄砲隊が発砲したりはしていません。
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吉村昭氏の小説は、いつもとてもリアルで、実証的なのですが、今回はちょっと、疑問でした。イギリス人の4人の行動については、「ロンドン・タイムズ」や「ヘラルド」の記事を参照になさったようで、私も生き残った確かクラークだったかの談話を読んだことがありますが、当事者が自己弁護で、自国新聞に語った話が、どれだけ信用ができるのでしょうか? アーネスト・サトウが日記に書きつけた程度のこと、つまり「わきによれといわれたのでわきを進んだ」、つまり当人たちは「わきによれ」といわれたと思いこんで、わきによったつもりだった、ということしか言えないと思います。少なくとも、目撃した生麦村住人の目には、「脇によって遠慮深く進んでいた」とは、とても見えなかったのです。
まあ、とはいえ、小説ですから、「冷や汗たらたらで、なんとなく引き寄せられるように遠慮深く進んだ」とでも書かなければ、劇的にならないかもしれないのですが、しかし。ほんとうに「二本差しの侍たちが怖くて、おびえつつ」だったのなら、なにもそんな恐ろしい侍たちの中をつっきって、前へ進む必要はなかったのです。彼らは乗馬を楽しんでいただけで、前方に用事があったわけでもなんでもなかったのですから。それとも、肝試しを楽しんでいたのでしょうか。
ここは、やはり、事件現場へ真っ先にかけつけたイギリス公使館医官、ウィリアム・ウィリスの以下の言葉が、真実でしょう。
「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば故国のならわしに従って血闘に価するほどの態度で、各省の次官に相当する日本の高官をののしったりします。また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にもけっして敬意を払いません。ー中略ー誇り高い日本人にとって、もっとも凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるにちがいありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」
つまり彼ら極東のイギリス商人たちは、幕府の役人がおとなしく彼らの罵声に従うので、二本差しをまったく怖がってはおらず、軽んじていたのです。
ウィリスによれば、さらに彼の知人は、別に特別残忍な男というわけでもないのに、毎日、なんの罪もない日本人の下僕を鞭で打ち据えていたそうです。
斬り殺されたリチャードソンは、上海で「罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑」を受けていたそうでして、こういう話を知りますと、当時、一般庶民が攘夷を歓迎していた、という話も、頷けてきます。
いくら身分が低くとも、日本人にとって、鞭打たれるというのは、相当な屈辱です。同じ日本人が、理由もなく牛馬のように鞭打たれるのを見ることも、また、屈辱的なことだったでしょう。
まあ、あれです。例えるならば、米軍基地の人々が、基地の中で日本人使用人を鞭打つことを常とし、基地の外へ出ては、日本の警官の静止などはものともせず、交通違反、ひき逃げを繰り返し、交通規制がかかっているときに、自分たちは特別だからと、ドライブに出かけて、行列に真正面から出くわしても、スピードをゆるめるだけで、どんどん行列にわけいっていく。例え、それが皇太子殿下のご成婚パレードであっても、です。
もしも、そんな状態だったとすれば、「頼んで来てもらったわけでもないのに、何様のつもり?」と、憤慨するのが普通でしょう。
明治16年、事件現場近くの住人が、事件を記念し、また事件で一人命を落としたリチャードソンの魂をなぐさめようと、碑をたてることを思いつきます。碑文は、元幕臣で幕末のイギリス留学生だった中村敬宇に頼みました。
君、この海壖に流血す。わが邦の変進もまた、それに源す。
強藩起ちて王室ふるう。耳目新たに民権を唱ふ。
擾々たる生死、疇か知聞す。萬國に史有り、君が名傳はる。
われ今、歌を作りて貞珉を勒す。君、それ笑を九源に含めよ。
「君(リチャードソン)は、この海辺のあたりで血を流した。日本の国の変革は、この事件に源があるんだよ。強藩がしっかりと立ち上がって皇室を盛り立て、民権を唱える世の中になった。君が命を落とした生麦事件を、みんな知っているだろうか。どの国にも歴史があって、君の名は後世に伝わるよ。私はいま、歌を作って石碑に刻んでいる。君はあの世で、それを笑って受けてくれ」
明治16年の時点から振り返って見れば、幕臣であった敬宇にも、イギリスに戦いを挑む薩摩の気概が、維新の変革をもたらしたのであり、その原点は生麦事件であったと、思えたのですね。
以前にもご紹介した、中岡慎太郎の以下の文章。
「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」
攘夷感情が、抵抗のナショナリズムとなり、民権論にもつながっていった、その歴史の原点が、生麦事件だというのならば、生麦事件の結果で起こった薩英戦争こそ、真の攘夷であったと、あるいは、いえるのかもしれません。
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もちろんご存じのことと思われますが、といいますか、ご一族が寄付なさったんでしょうか。国会図書館憲政資料室に、「石室秘稿」が、ございますよね。東京まで行くのは大変でして、なかなか、見ることができないんですけれども。
またどうぞ、起こし下さいませ。薩摩切り子のことなど、ご存じでしたら、どうぞ、お教え下さい。
市来四郎に関する記事をいろいろ探していて、ここにたどり着きました。歴史については全く詳しくありませんが、市来四郎という人を軸にいろいろ知っていけたらと、気長に構えています。
生麦事件がこういったことだったとは、初めて知りました。
ブログ、また読ませていただきます。
送られた資料に関しては、私のほうのブログで触れておきましたので、そちらで読んでください。お礼を言うのを忘れていたようです。失礼しました。
勘左衛門の陳述史料がどういうものかわかりませんが、考えてみると、久光の駕籠との距離が近ければ近いほど、私が拙著で引用した駕篭かきの証言が重みを増してくるので、それほど否定しなくともいいのかもしれませんね。
お手紙には書いたのですが、勘左衛門の村役人連著の当日の届けは、この事件での唯一の確実な史料です。事実関係については、この届けをもとに、幕府はイギリス公使館とも薩摩藩ともやりあわなければならなかったのですから、不正確であった方が、勘左衛門にも後難がおよびます。ただ、あまりに簡略なものですから、小説や読み物でも書こうか、というならば、役に立たないわけなのですが、この一次史料の内容を否定して、です。あきらかな後世資料である薩藩海軍史の本文のみ、まるで本当のことのように描写することは、小説ならばもちろんありですが、とりあえず「史実」を問題にするならば、とても不誠実です。
記憶ちがいならば申し訳ないのですが、宮澤氏だったと思います。どこぞの茶屋の娘だかが、リチャードソンの最期を看取ったって、まことしやかに書かれていた気がするんですが、あきらかに、四十七士の語り部ばあさんといっしょでしょう。リチャードソンの最期の話が聞けるとなれば、茶屋に外人客がこようというものです。
まあ、史実を問題にしないエッセイというものもありますが、読む側がそうとは受け取れない書き方は、いかがなものか、と思うのです。
いう非難を問題にするなら
元凶は、戦後の史家や小説家、メディアです。
薩藩海軍史ではありません。
あれを信用する方が悪いのです。
顕彰なんですから。
あれは武勇伝です。といいますか、私は、薩藩海軍史の記述をまったく信じてないです。後世資料ですから。
致命傷云々をいうなら、遺体の状態から判断するしかないですし、それをしたウィリスが、犯人は久光だといっています。
久光の駕籠前の先供、というのが、どこからどこまでをいうのかわかりませんが、海江田は事件現場よりはるか前方にいましたよね。
どこまで確かな話かは知りませんが、久木村治休も前方にいて、逃げてきたのを斬った、という話ですよね。「やたらに斬るわけにはいかない」から我慢していた、という住人の目撃談(後世のものですが)と一致しますし、よほど久光の駕籠に近寄らなければ抜刀はしなかったことと受け取れます。これはご著書から思ったことなのですが、喜左衛門は抜刀の命令を出した現場責任者だったんじゃないでしょうか。イギリス公使館が追求したのは、久光の責任と「現場で命令を出した将校」ですから、喜左衛門を田舎に隠した、とも考えられます。
新しいご著書は買わせていただきましたし、興味深く読ませていただきました。奈良原の借金の話や、異国の女性と関係があったのではないか、という話は、特におもしろかったです。ただ、生麦事件に対する基本は、もともと私は、薩藩海軍史については、収録の一次史料については利用しますが、本文の内容はまったく信用してないです。
米兵の話は、治外法権について、現在では、他に例の出しようがないからです。私が想像するのにも、祖父母から聞いた占領時代の米兵の横暴さを思い出して想像するしかなかった、ですから。
宮澤氏の著作は、まったく史料批判をなさらずに使っていらっしゃるようで、ちょっと私は、小説ならいいのですが、ドキュメンタリーとしてどうよ、と思いましたです。
といいますか、あれ、小説のつもりでいらしたんですかしら。アラビア馬云々も、なにか確かな史料を明示しておられましたでしょうか。新聞は、洋の東西、今昔をとわず、あんまり信用できませんです。地方新聞社周辺で仕事をしたことがありますだけに、そう思います。
部分、部分あるいは場面、場面の展開はあくまで想像で、ご指摘のように郎女さんのご主張の通りかもしれません。当然ですが、それは読んできた資料により抱くイメ-ジの違い、あるいはその資料の真偽性の違いによってずい分違ってくるものだということです。ただ、前回もし私が断定的な憶断をしたところがあるとすれば、久光の駕籠前の先供をも通り越せたたろうか、ということだけです。そのことには触れておりませんでしたので、郎女さんのお考えなり、推論をお聞かせください。
ところで、私は誰が致命傷(検視記録の一番大きな傷のようです)を負わせたかということがどうでもいいとは考えておりません。なぜなら、おそらく、郎女さんがおっしゃるように大勢が切りつけ、誰の刀傷が致命傷負わせたのかどうかもはっきりしない事件の犯人(!)を奈良原喜左衛門としてきたからです。どうして奈良原喜左衛門なのか、調べれば調べるほど疑惑が湧き、その「定説」には納得がいきませんでした。それゆえ、『血の迷宮・・・』では、貢さんのいう繁をいわば「反措定」(断定でも推定でもなく)として取り上げ、奈良原喜左衛門(推定無罪)という特定の人物をあげることなく、薩摩藩士とすべきだ、と結論づけました。その後、私の心証として、貢さんの「家伝」あるいはその後出てきた史料により、繁を兄の代わりとして推定していいのではと考え、第2作、ブログとなってきたのです。あまり関心をもってもらえませんでしたが、郎女さんのような批判を受けるのは、今後の進展のためにも有難く感謝いたします。
閑話休題。米兵が女を連れて云々の喩えは、2度ほど目にしましたが、よく意味合いがわかりません。ご教示くだされば幸いです。
あのアラビア馬云々は、宮澤氏の本の中にあったように思います。それを、吉村氏が踏襲して疑問を抱いたのではないでしょうか。それと、ボラデイル夫人だけは日本馬で、横すわりしていたと書いていたように思います。
最後の、三代にわたり苦しめた云々という表現は、たとえば貢さんのような孫が、本来そんなことに時間を費やさずーそういうわけのわからないことに時間をとられず、もっと別な(有意義な)ことに使えたのではないかという意味あいを含めて言っております。
おっしゃるところの侍の怖さ、なのですが、それまで襲われていたのは公使官員と軍人(水兵含む)のみなので、自分たちは関係ない、と商人たちは思っていた、となにかに書いてあったと思います。それに、極東にかぎらず、アフリカ、中東、アジア、どこであっても、いわば現地の風習を踏みにじって西洋諸国は押し入っていたわけだったのですから、殺されることは、あたりまえにあったわけです。生麦事件の直後も、ただちに戦争だと在日商人たちが立ち上がり、公使館がそれを押さえたわけでして、好戦的であったのは、むしろ商人です。
女がいたから蛮勇を誇りたかった、というのは、大いにありそうな話ですが、いいわけにはなりません。米兵が、女を連れてドライブをしていて蛮勇を誇りたかったからとご成婚パレードに正面からつっこんだら、それが、取り締まりの対象にならない理由になるんでしょうか?
マーシャルやクラークから、といいますならば、大名行列がある、という話を聞いていた可能性も高いですよね。マーガレット・バラの手紙や、後世資料になりますが、林董の回顧録(ヴァン・リードやヘボン博士から聞いた話と思われますが)では、一行は大名行列があることを知っていた、となっています。
善人といえば、ウィリアム・ウィリスは、とても人道意識の高い人物であったことが、行動でわかります。戊辰戦争では、敵味方の区別なく治療することを、薩摩藩軍を動かして実践していますし、生麦事件においても人道上許せない、として、後々までも久光を憎んでいます。個別の藩士ではなく、久光に責任がある、とするのは、英国公使館員としてではなく、ウィリスの人道意識です。
それと、ちょっと思い出せないのですが、一行がアラビア馬に乗っていた、という証拠は、なにかありましたでしょうか? 私は、日本の在来馬だと思っていました。
「横浜どんたく」のコピー、月曜日に発送しますので、読んでいただいたらわかると思うのですが、薩藩海軍史は、あきらかに「横浜貿易新報」に載った弁之助の話を読み、下敷きにして、あんまり恰好のよくない話(瀕死のリチャードソンを多数でめったぎりにしたとか)ははぶき、いわば顕彰の意味で書かれています。そこに名前が出た、ということは、顕彰であって、犯人あうかいではないのです。
犯人、犯人とおっしゃいますが、薩英戦争をして、当のイギリス公使館とさえ、話し合いがついた問題です。だいたい、リチャードソンへの一太刀目がだれであったにせよ、確かにそれが致命傷であった、という証拠がありますでしょうか? 遺体の損傷状況から、太刀痕は無数で、何人に斬られたかわからない、という話です。また、死ななかった他の人物に斬りつけた者も別に多数いるわけで、じゃあそれは、結果的に死ななかったから犯人ではないんでしょうか?
生麦事件が「三代にわたって事件の関係者を苦しめた」ということは、ありえないと思います。苦しめたことがあったとすれば、それは戦後のメディアなどの「犯人」あつかいではなかったでしょうか。
吉村昭氏は、あの小説を書いたあとの後日譚で、多くの記述にあるように、アラブ馬に乗っているリチャードソンを袈裟懸けで斬れるはずがない、斬りあげたのだ、とこだわり、鹿児島の示現流の道場まで出かけて行き、質問攻めにしたようですが、それならその辺のことにこだわって小説で書いてもらいたかったなあと思いました。あの小説は、題名こそ『生麦事件』とされているものの、えっ、これが「生麦事件」?「幕末通史」じゃないの、と私は他の多くの読者とちがってひどくがっかりしたからです。(それなら、私が『生麦事件』を追及してみようと考えたのも事実ですが)
私は、何度も繰り返すようで恐縮ですが、薩摩藩が犯人を出さず事件を曖昧にしたため、それが三代にわたって事件の関係者を苦しめたといえるなら、今からでも遅くないから徹底して事件を掘り起こし糾明すれば、かりに明解な結論が得られなくとも、事件の関係者への鎮魂にはなるだろう、という思いもあり、最初の本を出しました。そしてその本の中のある注釈のところで、喜左衛門が切腹したかどうかは、墓を調査してもらって確認すればわかる云々と書きました。あとで友人に、あんなことを書くと、関西の「鹿児島県人会」(定期的に薩摩藩関係の墓掃除をしているそうです)からクレームが来るぞ、と脅されましたが、じゃ、そのことでピエロだと陰で笑われている現代の子孫―貢さんは亡くなっておりましたがーはどうでもいいのか、と反論せざるをえませんでした。
今でもこの考えは変わっておりません。だからこそ、事件調査につきものの現場検証を誰かにやってもらいたいと思っているのです。まあ、莫大な金がかかりそうで、だれも話に乗らないでしょうが・・・。
尚々。それぞれのコメントのスピードがちがっていて、追いつく間もないようです。それを追っているうちに自分が何の話をしているのか忘れてしまいそうです。
また整理してからコメントします。フー。
確かに、日曜日の物見遊山(川崎大師に向かっていたようです)の途中で大名の行列に出遭うなど想定もしていなかったかれらは、無意識に日ごろの小人(アジアに来てガリバーのような感覚に陥った西洋人も大勢いたでしょう)に対する横暴さを発揮したといえなくもないでしょうが、一行には女性もいたのです。ボラデイル夫人です。彼女は、おそらく、リチャードソンらの男性に従いて行列の中に紛れ込んでしまったものの、侍たちの好奇の目や威嚇的な視線にさらされて、恐くなかったはずがありません。そういう彼女を見ていたマーシャルやクラークも引き返そうと何度もリチャードソンに声をかけたかもしれません。ところが、逆に女性の前で蛮勇を振るいたかったのか、まだ道路幅に余裕があり、実際の攻撃を仕掛けられなかったうちは、リチャードソンは進んでいきます。
ただ、あの『薩藩海軍史』(中巻)にある行列図が正確なら、やはり駕籠前の30人(60人とも書かれている)ほどの先供の横を通るのは、道幅(私は実質2間ほどだと考えております)という物理的な条件も含めて不可能だったような気がするのです。かなり前から一触即発的な状況にあったわけですから、そこでリチャードソンが馬の踵を返す動作なり、ボラデイル夫人たちをみる動きなりをしたところで、衝突が起ったと考えるほうがすっきりするのです。
どうでしょうか。もっともこれも私という裁判員の想像に過ぎません。ですから、郎女さんが考えるように、生麦の住人の目撃談のほうが正しいのかもしれません。(続く)
久光は、事件現場からほど近い藤屋という料理屋で小休止する予定で、駕籠による共の人々もおいおい到着して、駕籠をとめて休憩していたんだそうです。そこへ4人が馬で逃げてきて、門前に並べられた駕籠はひっくりかえすは、従者に怪我をさすはで、怒り狂った藩士の一人が、落馬したリチャードソンが物乞いたげなのをみて、「さだめし末期の水を乞うなるべし、水よりこれがよろしからん」と刀を突き出し、他の藩士たちとともに畑の中へ引き込んで、みなが一太刀づつあびせてめったぎりにしたのだそうです。で、遺体によしずをかぶせて、きたないものが久光の目にふれにようにしたと。薩藩海軍史が描くような美しいものでは、なかったようです。他にも、お役に立つ記述は多いことと存じます。
「横浜どんたく」は、明治40年から42年にかけて「横浜貿易新報」に連載された「開港側面史」を、開港百周年だかを記念して、戦後復刻したものです。
うちの「生麦事件始末」は、事件当時戸塚の宿役人をしていた川島弁之助の話と記録です。弁之助は、慶応2年から横浜へ移り住み、目撃した村民たちから話を聞き取り、まとめたものなのだそうです。なお維新以降弁之助は、自分の記録にまちがいがないか、事件当時の村の名主であり、事件に奔走した関口次郎右衛門を訪ねましたが、関口氏のまとめた資料は、例の石碑を建てるときに、中村正直に貸し出され、そこからまた他に貸し出され、帰ってこなかったんだそうです。
弁之助の話によれば、村人が怖れたのは、薩摩の田舎侍ではなく、幕府の役人です。したがって、役人には正直に話さなかったこともある、といって、弁之助がまとめている話は、久光英雄賛歌、とでもいえるようなものです。
これによって私は、幕末から明治にかけての事件に対する庶民感情を推察し、久光命令伝説がどうやって生まれたか、ということもわかったような気がしました。
もちろん私は、事件の真相については、この弁之助のまとめたものは採用せず、はさまれた一次資料のみ、としております。こういった一次資料については、確か横浜市だか神奈川県だかが編纂した史料集に入っているはずで(荻原氏が「遠い崖」の註釈で書かれていたと思います)、それを見ていないことが心にかかってはいるのですが、まあwikiでそこまですることもないか、と存じまして。
斬られた外国人側にしても、斬った薩摩側にしても、事件の渦中の者は、状況把握がどうしても主観的になりますし、私はどちらも信頼がおけないものとして、村民の目撃届け(役場に届けても御難が及ばない範囲での)と神奈川奉行所役人の覚書が、もっとも客観性がある、と判断いたしました。
もし、「横浜どんたく」が手に入らないようでしたら、生麦事件の部分のみ、コピーしてお送りしますので、onaraonara@goo.jpまで、ご住所をお知らせください。
またその一つが、私が知らなかった幕府側資料の、あの生麦村住人の記録です。ああ、やっぱりそういう資料もあったんだ、というのが最初の感想でしたが、通例の鹿児島側資料(『史談会速記録』等)を基にしたため、というより最初は鹿児島で入手できる資料でしか進めなかったから、ああいうもって行き方になりました。おそらく、あの資料も読んでいたら、かなり違ったものになっていたかもしれません。
ただ、私があの事件の裁判員(郎女さんは裁判官になれると思います)でしたら、どうも、その資料は採用しない(信用しない)ような気がしますー未読なので、覆るかもしれませんが。といいますのは、まず、どこからその現場を見ていたのか問題です。まさか、道端で立って(膝まづいても)ということはないでしょう。だとすれば、家の中にいて隙間か障子の穴から、通り一杯進行している行列を見ていたのでしょう。それゆえ、ひょっとして外が騒がしくなった後に、混乱している現場を見ている可能性もあります(というより事件が起きるまでは無関心だった)し、それが久光の駕籠近くに見えたということは大いにありうるからです。なぜなら、リチャードソンらを襲撃しているときは、先供の侍たちはかれらの周りに集まっていたでしょうから、久光の駕籠前には空間ができ、駕籠との距離が近くに見えたのです。
ましてや現場は一時興奮の渦が巻き、生麦の住人たちがそれらを注視していたとしても、かれらも思わぬ騒動に気が動転し、正確な観察がままならなかったことも。また事件後、幕府の取調べに対して、へたなことを言って狂暴で蛮カラな田舎侍に仕返しをされるかもしれないから、異人どもが悪かったことにしようと考えたことも、ないとは言えません。
もっとも、これらは、ちょっと強引な牽強付会な部分もありますね。しかし、これは郎女さんのリチャードソン解釈とも関係してきます。
(あっ、仕事に出掛ける時間になりましたので、今回の続きは明日になります。急に現実に戻してすみません)
一信の方もお返事いただけるものならば、いくら長くとも、喜んで読ませていただきます。
お話しをうかがううちに、見えてくることも多いのではないかと存じます。
一つ、生麦事件の関係で、これは私が憶測しているだけで、まだきっちり資料を並べて考察していませんし、自分の意見となるので、wikiには書けなかったことがあります。桐野と寺田屋事件の関係から、そこへ行くはずなんですが、最初の話を書いたのみで、放ってあります。
概略を言いますならば、萩原氏が書かれておりますガウアーの報告書で、生麦事件の前から、薩摩藩が通商条約をイギリスと結びたがっている、という話なんですが、私はこれは、薩摩藩単独で、というよりも、いえ、あるいは琉球国名義も考慮にあったのかもしれないんですが、幕府との通称条約を破棄して朝廷と結び直さないか、という話ではないかと思うのです。攘夷感情も幕府が朝廷に断りなく通商条約を結んだことから起こっていますし、破棄しろ、という点においては、ずっと長州藩と意見を同じくしていたわけで、薩摩はたしか慶応2年か3年まで、通商条約の結び直しを模索しています。
そして、この通商条約の結び直しには、治外法権をも含む条約の見直しも入っていたと思うのです。だとすれば、大名行列に無法を働く在日外国人を幕府が取り締まるすべもない、ということは、薩摩藩にとっては幕府の落ち度であって、それと薩摩が通商条約を結びたがっている、ということは、なにも矛楯しないんです。幕府の結んだ条約を破棄させることを狙っているわけなのですから。
事件後に日本に赴任した直後のミットフォードは、「いまいましいが殺されてはかなわないので高官と出会うたびに下馬して脱帽しなければならない」というようなことを、父親に書いていますし、生麦事件は、在日外国人にとっても、よい薬であったと私は思っています。
つぎに喜左衛門がーもし切腹させられたのならー何か別の理由で切腹させられたのでは、という可能性、これも否定できませんし、ありうると思います。私は全面的に貢さんを肯定しているわけでも否定しているわけでもなりません。ただ、鹿児島で調べているうちに、奇妙なわけのわからない痕跡だけ出てくるので、調べるのをストップできなくなり、結果的に貢さんをよく知っている人たちとは違って、(やや同情的して)貢さんに肩入れしてきたのかもしれません。
最後の久光の件ですが、私にはそうはっきりといえる自信はありません。
やや情けない話ですが、私がこの事件の周囲を調べれば調べるほど、何だかなあ、よくわからんなあ、と思うことが多くなりました。この辺のことは、最初の本でも書きましたが、いまだに進歩がないというところです。
一信に関しては多少長くなるのですが、宜しいですか。
言い忘れましたが、ざっとでも拙著を読んでくださって感謝申し上げます。今回の本は無視されているなあ、と感じておりましたので。
伝承をご追求なさって、奈良原家の歴史を追われている情熱に感服いたしますし、資料を丹念に見られて、とても興味深い内容でした。
ただ、おっしゃっておられることに対して、私が最大の疑問としているところがなお、はっきりしてもまいりました。
イギリス公使館が犯人の処分を要求しておりますのは、攘夷感情による異人斬りが、けっして英雄行為ではなく、犯罪であると位置づけ、再発防止に役立てたかったからで、復讐のつもりではなかったことが、備前事件、堺事件のの始末でもよくわかります。
にもかかわらず、公に出来ず、誰にも知られることない藩士の切腹を無理強いしたとは、私にはとても思えませんし、事実、イギリス公使館、外務省の記録を丹念に調べられた萩原 延壽氏が、「薩摩藩が犯人の差し出しに応じた痕跡はまるでない」というようなことを書かれております。また、公信ではなく、アーネスト・サトウやウィリアム・ウィリスの私信にも、差し出さなかったと思われる傍証はあっても、差し出した、という話は、まったくありません。
相手国の記録に、ここまで痕跡が残っていないということは、ありえないのではないでしょうか。
たしかに、奈良原兄が弟の介錯で切腹した、ということはあったのかもしれません。しかし、それは本当に、生麦事件に関係しての切腹だったのでしょうか。
さらに、もしもそうだったとしまして、イギリス公使館が望んでいたのは、事件の性質上、実際に手を下したものよりも、責任者の処分です。だとすれば、奈良原兄がその場の責任者として切腹した、というのは筋であり、だれが実際に手を下したかは、問題ではないと存じます。
どうも私、大名行列に対する乱入で起こった事件を、個人的な攘夷感情にのみ結びつけ、犯罪者あつかいする戦後の風潮は、いかがなものか、と思われてならないのです。だいたい、命令があったかなかったか、とよくいわれますが、駕籠の中にいる大名が、乱入者があったからといって、いちいち命令するまで供回りが抜刀しない、と考える方がおかしくはないでしょうか。供回りはなにも、戦後の自衛隊じゃないわけでして。
それで、おそらく死人が出なかったからでしょうけれども、備前事件については、発砲も問題ない、と考える識者の方がけっこうおられます。もう、わけがわかりませんです。
だいたい、です。もしも久光が生麦事件に関連して奈良原兄を切腹させたのだとしましたら、久光の権威はがた落ちで、以降、維新までもたなかったと思います、だれが、そんな主君に仕えるでしょうか。
それと、私、久光の使嗾を疑っているわけではありません。ほぼ、イギリス公使館と同じ考え方、というのでしょうか、黙認したことは、暗黙の了解があった、ということと了解しているだけです。命令があったかどうかは、問題ではない、と思っております。久光が本気で無礼うちを否定しているのなら、寺田屋事件で上意討ちをし、西郷は島流しにした直後なんですから、イギリスに頭を下げ、イギリス人に斬りかかった藩士を処分するはずです。はずです、と申しますか、べきです。現代的にすぎる感じ方なのでしょうか。しかし、あんまりたいした資料は読んでいませんが、客観的な話で見て、リチャードソンが、久光の駕籠のそばまで馬を乗り入れていたことは確かです。だとすれば、久光が知らなかった、は、なかろうと存じます。
宮澤眞一氏のその御著書は、読ませていただいております。それで、wikiにも「上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、かならずしも悪くはなかったようだ」と入れております。参考文献として、あげさせていただくべきでした。
同じ西洋人相手に善人であったかどうか、という問題とは、まるでちがってこようかと存じます。日本人の下僕を理由もなく毎日鞭打っている人物も、西洋人同士のつきあいではまともな人間であるらしいことを、ウィリスは書いておりますし、ブルース公使が指摘しておりますのも「罪のない苦力に対して」の残虐行為ですから、東洋人に対する扱いがどうであったかの問題なんです。確かに善人であったかもしれませんが、それは身内と同じ西洋人の仲間についてだけであった、と、私には受け取れました。ブルース公使の半公信を否定する材料は、なにもありませんでしたので。
『「さつま」の姓氏』に関するお話、どうもありがとうございます。
おそらく、どうもいま一つお話がわかっておりませんのは、生麦事件がかなり長い間、武勇談であって、けっして犯罪とはだれもみなしていなかった、と、私が思いこんでいるからなのでしょう。これについて、けっしてちゃんと調べたわけではありませんので、あやふやな印象ともいえるのですが、一番わからないのは、海江田信義も久木村治休も、別に生麦事件が支障になったふうはないですのに、なんで、奈良原家だけがもめたのでしょうか。
こんなことをいっていてもなんですから、とりあえず、ご著書を読ませていただいて、ブログの続きも楽しみに待たせていただきます。
懇切なご返事恐縮に存じます。
さてまず、市来四郎についてですが、私はこの生麦事件に関しては、ひどく杜撰な答え方―実際はっきりしたことはわからなくなっていたことも確かですーをしていると思います。そして、それが『薩藩海軍史』(昭和3年刊)、『鹿児島縣史』(昭和12年刊)に繋がっていった責任は重大だと思っております。一方、私が今後公にしたいと考えている話(郎女さんたちには衝撃的な話になるかもしれません)の中では、市来の証言が核になっておりますので、かれに関しては複雑な感情をもっております。ただ自分が実際に見聞した証言と、生麦事件のように久光や他人の話をもとに語っているのとでは違うと確信しております。(ただ一方の側からは、否定されてきたようですが)
つぎに久光の使嗾云々に関しては、明治以来疑われてきているようで、綱淵なども全く疑っていないようです。私も最初はそう考えておりましたが、段々事件を調べていくうちにその可能性は少ないと思うようになりました。英国側が久光に責任があると考えるのは当然で、またそれゆえ久光が命じたと考えるのも無理からぬことですが。(寺田屋事件でもそうでしたが、久光の言うことなど聴こうとしない藩士も大勢いました)
あ、そう、そう。リチャードソンのことです。同国人に評判悪いようですが、宮澤眞一氏(『誰がリチャードソンを殺したか』)が集めた史料では、親孝行で善人だったというものをあったようです。見る人によってずい分違っているようですね。
最後に『「さつま」の姓氏』に関しては、参考にする程度だと思っております。
出典に関して応答したことがあるのですが、はかばかしい返事は得られませんでした。肝付氏に関しても、遠い先祖に枝分かれした肝付氏もごろごろしており、実際なにがなんだかよくわかりません、というのが正直なところではないでしょうか。(ごく最近、桐野家とも小松家とも全く関係ない肝付氏を調べてもらったことがありました)
奈良原兄弟と生麦事件の関係を研究なさっておられる方ですよね。
実は、私がwikiの記事を書きましたのは、桐野ファンの大先輩が御著書を読まれて、身内掲示板の方で、その紹介をしてくださったから、だったんです。以前に新聞記事かなにかで、奈良原家の御子孫が、兄の喜左衛門ではなく弟であったと訴えた、というような話を読んだ覚えはあったのですが、なにしろ私、「久光の暗黙の了解」を大前提と考えておりましたし、あんまり興味もなかったものですから、「誰でもいいんでないの?」くらいに軽く考えておりまして。
しかも、どういうわけか、海江田信義は『幕末維新実歴史伝』で、自慢げに介錯したといっていた、というような記憶ちがいをしておりました。維新前後に、海江田と奈良原弟が西郷暗殺を企てて、桐野が二人を嫌っていた、というような話がたしかありまして、昔一応、『幕末維新実歴史伝』を読んではいたのです。しかし、当時の私の目的からしますと、生麦事件はあまり関係がなかったものですから、どうも、記憶ちがいをしてしまっていたようなのです。
大先輩から、桐野作人氏が「那須信吾の書簡に弟の方だと書いている」というようなお話しをなさっていた、とお聞きして、那須信吾の書簡集なら持っていたはず、とまでは思い出したのですが、そんな記述があったことも忘れ、どこへやったかも忘れておりました。昔、高見弥一について調べたことがありまして、青山文庫へ行って、当時出ていた書簡集1、2を買ってきて読んでいたのです。
それがやっと出てきまして、つい最近、wikiにその件の書き込みをしてまわったような次第です。
那須信吾は、賞賛して名前を出しているわけですし、薩摩藩邸にかくまわれて、海江田も奈良原もよく知っていて、現在進行形で書いているわけですから、これは、相当に信憑性が高い記述であると存じます。
いま、ホームページを読ませていただきましたが、とてもおもしろいです! 市来四郎とは。市来四郎は桐野を誉めていますから、けっこう好感度が高かったのですが(笑)
史談会速記録は、けっこうみんないいかげんなことをしゃべっている、という印象が強く、人間の記憶ってあてにならないものなんだなあ、とつくづく思っていたのですが、自分が現場に居合わせもせずに、断言している市来四郎は、確かに、なにか思惑がありそうです。
そういえば、『遠い崖』の何巻だったか、いまとっさに思い出せないのですが、明治10年より以前のことです。なにかの会合で、アーネスト・サトウのそばに座った寺島宗則が、「久光公からは遠いところで生麦事件は起こって、公は知らなかったのだ」というようなことをいった、とサトウは記録していまして、もちろん、後々の記録からしても、サトウはそんなことは信じていなかったようですが、私は、「あんたはヨーロッパにいっていて、現場に居合わせなかっただろうがっ!」と、腹をかかえて笑いましたです。
ウィリアム・ウイリスの記述からしましても、「久光の命令があった」が、イギリス公使館の認識だったと思います。
一部の元薩摩藩士、寺島や市来(どういう関係があるのかしりませんが)は、「攘夷藩士の勝手な行動」という線にもっていきたがっていたのでしょうか。
これから、ご著書を読ませていただくつもりで、またブログの続きも、楽しみに拝読させていただきます。
えーと、それにあつかましいのですが、鹿児島の事情にお詳しく、また参考にもされているようなので、おたずねしたいのですが、川崎大十氏の『「さつま」の姓氏』というのは、信頼できる書物なのでしょうか? 桐野の親戚になる肝付兼行男爵の出自で、wikiが引くところの氏の記述に困惑しております。小松帯刀の実家の喜入肝付家の血筋となさっているらしいのですが、兼行の父の兼武の伝記ではそんなたいそうな家の出てはなく、下級藩士となっています。
さて、今回初めてコメントさせてもらいますが、私は、生麦事件を歴史的冤罪事件と捉えてその周辺を洗ってきた(私のブログ「海鳴記」でも発信しております)者です。そこで、郎女さん(で宜しいでしょうか)の疑問に一言したいと思います。供先を横切った云々は、明治25年の『史談会速記録』の市来四郎の言説あたりからで、奈良原喜左衛門の名前が上がったのもこの市来の言辞からだと思います。その前年に出された海江田信義の『幕末維新実歴史伝』の生麦事件の項には、事件の具体的記述は一切ないのです。スペース上今回はこの辺で。
『近代インドの歴史』、さっそく購入しました。通史として、どれが妥当なのだろうかと迷っていたところです。
私の読んだ中東史は断片的でして、しかし、中世史とか近世史だと、まだインド史よりは、読んだかもしれません。欧州との関係で、トルコ史は一応、通史を読みましたし、アラブも十字軍あたりだと、多少は読んでいたりするのですが。
どうも私、以前に検索からでしょうか、ブログを拝見した覚えがあります。これから、少しづつ、インド史とアラブ史の勉強をさせていただきます。またどうぞ、よろしくお願いいたします。
先のコメントで引用した例は『近代インドの歴史』(ビパン・チャンドラ著、山川出版社)からでした。
http://www.asiabunko.com/in_kindai.htm
インド人歴史学者が学生のための教科書として執筆したもので、分厚く内容がとても充実していますが、読みやすい本ですよ。
著者は英国からの史料もふんだんに引用して、植民地政策を詳細に記載しています。
面白いと思ったのは、英国への憎しみをかき立てる記述では決してなかった点です。インドは反英教育は行っていないのです。実はインドも歴史教育問題を抱えており、日本と違い国内問題にせよ、激しい議論があります。あの国にも極右がおり、彼らからはビパン・チャンドラ氏は左寄りだと批判されていました。
アラブに関しては、学生時代、リバイバルですが映画『アラビアのロレンス』を見たのがきっかけで、中東史に関心を持つに至りました。
元から東洋史(中国史)に関心があり、西欧史は何故かあまり興味がもてなかったのですが、この映画により関心が中東に移り、現代に至っています(汗)。
>現在の日本人が、商人というだけで「平和的で紳士的」と決めてかかっているように見受けられることです。
東洋に来た英国人は多くが本国の食いつめ者であり、一攫千金を狙って来た下層階級出ゆえ、粗暴な者が少なくなかったのです。
戦前の日本も大陸に渡る者に、食いつめ者が少なくなかったように。英国など海賊で台頭した国なのに、戦後の日本は平和が続いているので、商人=「平和的で紳士的」と思い込んでいるのでしょうね。海賊も商人でもあったのに。
童謡「月の砂漠」なんて、現実にはありえない。王子様とお姫様が2人きりで砂漠を渡るなど、考えられない御伽噺。武装しない隊商は皆無でした。それでも襲撃は受けましたが。
インド史にお詳しいんですか! なにかお勧めの本があれば、お教えください。えーと、ちょっとうろ覚えなんですが、実は、アーネスト・サトウから、実は自分がイギリスの極東政策をろくに知っていなかったことに気づきまして、ざざっと関係書を読み飛ばしましたところ、エルギン卿が極東へ来て日英通商条約を結んだのは、清国でのアロー戦争のついでで、イギリスは当時、セポイの乱(インド大反乱)をかかえて、なかなか極東に戦力がまわせずー、といった話で、結局イギリスにとって、インドの延長線上に極東があるようでしたので、中公新書の「インド大反乱」をはじめ、インド史に関する本も、数冊は読んでみたのですが、もともとがさっぱりインドに詳しくないものですから、よくはわかっていない状態でして。
ましてアラブは、なんですが、いや私、今回、『遠い崖』や『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』などで、生麦事件に関する部分を集中的にひろって読むまで、そこまで一般的に、イギリス人の現地におけるふるまいが傍若無人であったとは、知らなかった、といいますか、そういう人もいただろうけれども一部だっただろう、くらいに思っていました。
いま、なんとも不思議なのは、当時のイギリス人、それも駐清国公使が、リチャードソンを「粗暴」と評価していますのに、現在の日本人が、商人というだけで「平和的で紳士的」と決めてかかっているように見受けられることです。
いつもロムしておりますが、毎度ながら幕末に関する詳細な記事に驚嘆させられます。
私はインド史に関心があり、英国支配下のインドについての書物を読みました。
英国はインドでも全く同様に傍若無人に振舞っていたのです。一例を挙げますと…
「イギリスの基本的な原則は、あらゆる可能な方法で我々の利害と福祉にインド民族全体を従属させることにあった。インド人は最下層のイギリス人でも得られるような、全ての名誉、尊厳、官職から除外された」-ベンガル総督ジョン・ショア
「おとなしい住民に対して、彼らが取り締まるべきはずのダコイト(強盗)たちと同様の暴虐を振るっている」-1813年の英国議会下院委員会のインド警察の報告
「スィパーヒー(セポイ)は劣等な代物と見なされている。彼は罵られ、手荒く扱われる。彼は『ニガー』と呼ばれ、『スアル』つまり豚と呼びかけられる…若い者は…スィパーヒーを劣った動物扱いする」-同時代英国人観察者
これでは“セポイの反乱”(現代はインド大反乱の名称が一般的)が起きる訳です。
20世紀でも中東で英国人は人前でアラブの族長を平手打ちし、その族長に殺された者もいました。誇り高いアラブ人には大変な侮辱なのです。