郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4

2012年02月23日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol3の続きです。

 元治元年(1864年)11月26日、小松帯刀が大久保利通に出しました書簡(「大久保利通関係文書三」)に、以下のようにあります。

 中村半次郎兵庫入塾いたし度内願御座候、御案内通之人物ニは御座候得共願通被仰付候而宜敷は有之間敷哉、御用立様ニ相成候ヘハ御国家之為若無其義は人ヲ捨候計ニ御座候、罷下候様被仰付候而も迚も罷下候向ニ無之候間兵庫ニ而も江戸ニ而も被差出候得は探索之為ニは相成場も可有之と相考申候、尚御吟味可被成候、此節長に参筈御坐候処病気ニ而被取残未病中ニ御坐候
 中村半次郎が神戸海軍操練所に入りたいと願っているんだよ。知ってる通りの人間なんだけど、願いをかなえてやってくれないかな。願い通りにしてやれば、薩摩のためになると思うよ。そうでなければ、せっかくの人材を捨てるようなもの。帰国しろといってもしないだろうし、神戸でも、あるいは勝が江戸に帰るようだから江戸でも、勝の塾に入れてやれば、幕府の内情がわかってためになるんじゃないかな。考えてやってみてくれよ。このたび、半次郎は長州に行くはずだったのに病気で取り残され、いまもまだ病気なんだよね。

 えー、ほんとーにいいかげんな現代語意訳ですので、ほんのご参考までに。
 ともかく、中村半次郎(桐野利秋)が、数学必須の海軍の勉強をしたがりますとは、仰天なんですけれども、なにしろ、坂本龍馬でさえ弟子になっております勝海舟の塾、ですからねえ。
 私思いますに、政治塾のつもりだったにきまってます。
 ちなみに、勝海舟は後年、『氷川清話』において、「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」と言っております。
 勝の言うことですから、俊才といいましても、決して理数系の俊才ではなかったと思います。

 もう一つ、気になりますのが、此節長に参筈御坐候処病気ニ而被取残未病中ニ御坐候の部分です。
 この元治元年、池田屋事件直後、西郷隆盛の大久保利通宛書簡には「中村半次郎は暴客(尊攘激派)の中へ入って、長州藩邸にも出入りしている。本人が長州へ行きたいというので、小松帯刀と相談の上、脱藩したことにして行かせることにした。本当に脱藩してしまうかもしれないが、もし帰ってきたら役にたつだろう」というようにありまして、しかし5日後の西郷書簡には「中村半次郎を長州へ行かせたが、藩境でとめられ入国できなかった」とあるんです。
 一見、半年近く前のこのことを言っているのかと思い込んで、見過ごしてしまいそうになっていたのですが、病気で取り残されて、いまも病気が治っていないとなれば、ちょっとちがいます。

 小松の手紙が書かれました11月、西郷隆盛は征長軍参謀になり、吉井友実と税所篤を伴って、長州処分のために現地へ出かけています。これに、西郷は半次郎を伴うつもりだったのではないんでしょうか。
 実際このとき、長州にいました五卿の遷座問題が起こりまして、西郷は遷座に反対の諸隊幹部たちを説得しようと、下関へ乗り込みました。五卿問題に尽力しました中岡慎太郎と半次郎は旧知の仲ですし、長州過激派に知り合いが多かったようですし、実際に行っていれば、活躍の場面があったはずでした。
 病気で取り残されました半次郎の無念、いかばかりか、です。

 この11月26日付け手紙に、ですね。小松帯刀は、半次郎のことを書きました直後に、龍馬と勝塾(あるいは神戸海軍操練所)の他の土佐人たちのことを書いています。意味がとり辛い文面なのですが、私なりに、以下、意訳してみます。

 神戸の勝海舟のところにいる土佐人たちは、幕府から蒸気船(黒龍丸ですかねえ)を借りて航海する計画があり、坂本龍馬という人物がいま関東へ行って借りる交渉をしていて、すでに話は決まったと言っていたんだ。これに関係して、高松太郎という人物が、国元の土佐の様子をうかがったところ、彼ら(勤王党員)にとって国元の政治向きはきびしく、帰れば命がないという状態だそうな。龍馬が幕府から船を借りてきたらそれに乗り込むから、それまで土佐人たちを預かってくれ、という話で、西郷などが京都にいた10月に、「船を幕府の所属のままで使うことも、土佐の藩籍で使うことも彼らには無理だろうし、薩摩藩籍にして使ってあげればいいんじゃないかな」という話になっていて、大阪の薩摩藩邸にいま彼らを一部、かくまっているんだよね。
 また、彼らとは別に、幕府の翔鶴丸に乗り組んでいた技術者や釜焚き水夫たち(塩飽水軍の佐柳高次とその子分じゃないんでしょうか)が船の士官と喧嘩してね、龍馬が借りてくる船に乗り組みたいといっていて神戸に残っていたんだ。食べるだけでも、といわれてあずかったよ。勝海舟が海軍奉行を免職になったそうだから、船を借りる話もどうなるかわからない。だめな場合は、うちの藩の船ででも使ってあげようかな、と考えているので、承知しておいてほしいな。


坂本龍馬 (岩波新書)
松浦 玲
岩波書店


 元治元年後半の政局は、禁門の変の後始末に終始します。
 このとき、京都におきます薩摩の政治向きの中心には、この年の春に島流しを許され、復帰したばかりの西郷隆盛がいます。
 禁門の変の直後、最初に勝のもとへ現れました薩摩人は、吉井友実で、龍馬といっしょだったようです。
 そののち、西郷と勝、龍馬の出会いがあるのですが、その詳細は、省きます。
 幕府側に立って禁門の変を戦わざるをえなくなってしまいました薩摩にとって、その後始末におきましても、幕府の動向を正確につかんでおく必要があった、ということでしょう。

 実は、ですね。松浦玲氏によりますと、勝海舟は、この年の8月23日に龍馬のことを書いて後、まったくと言っていいほど、日記に龍馬のことを書かなくなるのだそうです。
 間崎哲馬の紹介で、龍馬が勝塾に入った当時とは、状況がまったく変わってきておりました。
 間崎は切腹し、勤王党は壊滅状態。
 前年の政変以来、天誅組の変をはじめとするさまざまな事変、そしてこの年の池田屋事件、禁門の変でも、なんですが、多くの土佐勤王党員が国元で弾圧され、長州に与して戦い、命を落としています。

 幕臣である勝海舟のそばで政治秘書修業をしておりました龍馬は、しかし、あまりにも勝とは足場がちがいますことに気づき、これは私の想像にすぎないのですが、すでにこのころから、勤王党員が仲介しましての薩長の連携を、模索するようになったのではないでしょうか。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 中で書きましたが、龍馬が最初に脱藩しましたときの目標は、薩摩の富国強兵策、海軍の取り組みを確かめることであった、と想像することは可能ですし、集団で勝塾に学びましたことで、小龍との約束の種は育ちつつあります。

 幕府ではなく、薩摩の懐に飛び込めば、新しい局面を開けるのではないか。
 そう考えて龍馬が走り出しまして後に、これもまた私の妄想にすぎませんが、龍馬本人か、あるいは高松太郎か、だれかはわかりませんが、半次郎は、海軍塾の土佐メンバーに出会ったのではないでしょうか。
 病気のため、西郷の共がかなわず、そちらから手伝いができないのならば、この土佐の海軍塾生たちといっしょになって、これから薩長提携の方向へ向かう手助けができたならばと、そう考えての海軍塾修業願い、だったのではないか、と、私は思います。

 結論から言いまして、神戸海軍操練所は閉鎖。
 12月6日ころには、近藤長次郎、新宮馬之介、千屋寅之助(菅野覚兵衛)が神戸から退散、12月の末ころには神戸にいた土佐人はすべて大阪へ行き、薩摩藩にかくまわれました。
 どういう経緯か、おそらく龍馬に私淑していた、ということかと思いますが、神戸海軍操練所で学んでいました紀州の陸奥宗光、越後の白峰駿馬なども、土佐人と同じく脱藩の形となり、薩摩の保護下に入ったようです。
 そして、龍馬は結局、船を借りることができず、しばらくは江戸にいたようですが、翌年の春には、合流したことが確認できます。

 結局、桐野は神戸海軍操練所へは入れませんでしたし、江戸の勝塾へ遊学した様子もありません。
 と、なりますと、これまた私の想像でしかないのですけれども、大阪の藩邸で、しばらくの間なりとも、土佐人たちの世話係をしたりしたのではないかと思うのですね。
 翌慶応元年(1865年)3月3日には、土佐脱藩者で五卿側近の土方久元が京都の吉井友実のもとに滞在しておりまして、「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と書いていますので、大阪にいたか京都にいたか、半次郎が上方にいたことだけは確かなんですけれども。

定本坂本龍馬伝―青い航跡
松岡 司
新人物往来社


 この、松岡司氏の「定本坂本龍馬伝―青い航跡」、ものすごく分厚く、膨大な史料を活用なさっているのですが、史料がそのまま引用されておりませんで、その解釈も、例えば今回引用しております小松帯刀の書簡など、私が原文を知っておりますものを見ますかぎりにおいては、かならずしも納得のいくものではなく、新書版ながら、松浦玲氏の「坂本龍馬」の方がすぐれている、と判断し、あまり参考にしてきませんでした。

 しかし私今回、拾い読みをしていて、どびっくりしたのですが、饅頭屋の近藤長次郎は、元治元年12月23日付け、つまりは薩摩藩の保護下に入りまして間もなく、島津久光へ、海軍振興の上書を奉っているというのです。
 「上杉宋次郎(近藤長次郎)上書」って、なにに収録されているんでしょう? ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。もしかして、「玉里島津家史料」かなあ、と推測しているんですけれども。

 ともかく、です。この内容が驚くべき、でして、長次郎くんは龍馬とちがいまして、相当まともに海軍の勉強をしたようなのです。おそらくは数学も、得意だったにちがいありません。
 とはいいますものの、この本の常で、原文全文の引用はなく、松岡司氏が書かれている内容の紹介になりますが。
 徳川氏以前は鎖国はおこなわれていなかった、というところから説き起こしました、ものすごい長文の上書なのだそうで、だいたいのところは以下です。

 国威というものは、国の大小ではなく、海軍の力と貿易の拡大で培えるもので、薩摩も山川港を開港し、西洋人を入れて取り引きを盛んにし、海外に商館を置いて、ロシアとも交易をはじめるべきだ。ロシアと西洋諸国には戦争の可能性があり、そうなった場合も、ロシアとの通商が盛んであった方が、日本の利益をはかれる。
 日本は四方を海に囲まれていて、海軍を優先した富国強兵策を急がなければならない。
 海軍振興の具体的な問題として、現在、日本が西洋から買った蒸気船が、1、2年もすれば使いものにならぬ船が多く、原因として考えられることは、運用士官の未熟さもあるが、購入したときにすでにかなり古くなっているケースも多い。
 対策として、海軍士官の養成を急ぎ、またドックが必要だ。
 ドックは、船舶の修理、保全にどうしても必要なもので、これがなければ、どのようにりっぱな船を買っても、すぐに使い物にならなくなってしまう。軍艦を持っていてドックがなければ、それは刀があって砥石がないようなものだ。
 ドックをつくるには製鉄所が必要だが、これはすでに建設がはじまっているので、ドックで軍艦の建造もするようにしたいものだ。
 そういった海軍全体の事業をするために、若い人を選んでイギリスへ留学させ、それぞれの勉強をさせるべきである。


 ひいーっ!!! 龍馬ばかりを見ていたばっかりに、「海援隊(亀山社中)は政治には熱心でも海軍に関してはほとんど素人ばかり」という偏見を持ってしまっていましたっ!!! 私、饅頭屋さん、なんぞと呼ばれていたという俗説にまどわされて、近藤長次郎のすごみをまったく知っていなかったことを、認めます。

 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1 vol2 vol3 vol4の内容は、私がこのブログを書く動機となりました最大のテーマを追っておりまして、大筋では、いまもまちがってないと思っております。
 ただ、細部を言いますならば、訂正の必要がある部分もありますし、以降に、もっと深めて書いたものもあります。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3の以下の部分なんぞ、確実に今回、訂正すべきなのだとわかりました。

 ちょうどそのころ、幕府の横須賀製鉄所建設が決定をみます。
 この噂は、多方面から薩摩に入ったはずです。
 まずはイギリスとオランダ。そして、幕府の中の横須賀製鉄所建設反対派から。
 ちなみに、肥田浜五郎は、オランダへ出向く以前、勝海舟が主導した、幕府の神戸軍艦操練所で教授をしていました。
 これは、築地にあった幕府の軍艦操練所とは方針がちがい、他藩士も多くとることにしていましたので、一応、薩摩藩士も通っていたのです。


 訂正といいますか、ここに、長次郎の上書を入れるべきなんでしょうね。
 そうでした。長次郎は肥田浜五郎の教えを受けていたんでした。
 安積艮斎にいたといいますことは、間崎哲馬に紹介され、小栗上野介に会っていた可能性だってあります。
 ロシア交易について述べています部分は、いろは丸と大洲と龍馬 上に書いておりますが、文久元年(1861)、武田斐三郎がロシア領のニコラエフスクまで交易に出かけたことを、長次郎は、知っていたのだと思います。

 どうして知ったかといいますと、これは広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、武田斐三郎はプチャーチンの応接をしていて、安積艮斎はプチャーチンが持ってきましたロシア国書の返書を起草したり、しているんです。面識があって不思議ではありませんし、艮斎がロシアとの交易に興味を持たないはずもないんです。
 河田小龍の教えを受けて素直に伸び、長次郎は着々と研鑽を重ねて、おそらくは小龍が褒め、憧れていただろう薩摩の殖産興業政策と海軍振興に、自分が直接かかわることになったんですね。
 
 五代友厚の留学生派遣の建白書がいつだったんでしょう? ちょっといま、五代の全集が出てきません。
 五代と長次諸の間に連絡はなかったんでしょうか?
 これは、まだまだ調べなければならないことが多いテーマですので、またあらためて取り上げることにします。
 それにいたしましても、薩摩の第一次密航英国留学生たちが鹿児島を出ましたのは、元治2年(慶応1年、1865年)1月20日。
 長次郎の上書から一ヵ月しか間がありませんで、非常に微妙なのですが、準備は以前から進められていたにしましても、上書が派遣の背を押したことには、まちがいがないでしょう。

 あと、長次諸が鹿児島入りした時期もわかりませんで、もし上書の時期に鹿児島にいたのだとしますと、長次郎は、土佐出身で留学生の仲間入りをしておりました高見弥一(英国へ渡った土佐郷士の流離参照)に会い、いずれは自分も、と胸をふくらませていたかも、しれません。
 といいますか、高見弥一は、土佐から最初に藩の命令で勝塾に入っておりました大石弥太郎の従兄弟、でして、機会さえありましたら、長次諸はかならず、会っていたでしょう。
 
 そして、ドックです。
 必要性はおそらく、薩摩でも認識されていました。
 しかしだからこそ、横須賀製鉄所といいます、造船まで可能なドックに、幕府が取り組もうとしておりましたことは、衝撃だったのだと思います。
 この衝撃が手伝いまして、薩摩は留学生だけではなく、使節団を欧州へ送り出し、外交交渉をはじめようとしたといってよく、山川港を開くといいましても、独自の通商条約が必要になってきますし、この長次郎の上書に欠けていますのは、そういった政治面なのですが、あるいは、非常に不穏当になりますことから、文面では省き、口頭だった、ということも考えられます。

 一方、薩摩は、ドックは長崎に造ることになりました。
 通称ソロバンドック、小菅修船場です。
 グラバーの手を借り、完成は明治元年も末のことになりました。
 グラバーではなく、モンブランが手を貸していた、というような話もありましたので、以前に長崎へ行ったとき、写真を撮ってきております。






 なんか、ですね。
 ここまで書いて参りましただけで、私、従来の饅頭屋・近藤長次郎像は、大幅に書き換える必要があると思います。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社



 吉村淑甫氏の「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」は、好著です。
 氏は、長次郎のご子孫に出会われ、史料がごく少ないにもかかわりませず、非常な愛情を持って長次郎を造形しておられまして、安積艮斎自筆の門人帳に名がないにもかかわらず、入塾を確かなことと推定しておられます。
 私も、この推定には大きく頷けますし、吉村氏のこの書なくして、長次諸は語れないとも思います。
 しかし、長次諸は決して「龍馬の影を生きた男」ではありません!!!
 
 なにやら、またまたけっこうな長さになりましたので、これは下の中編とし、下の後編で、結末をつけようと思います。
 ようやく、ユニオン号と薩長同盟です。

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6 コメント

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川瀬敦文のもの (郎女)
2012-03-06 23:52:41
私、読んでいません。持っていませんし。ぜひ、お願いいたしますです。いつも、お世話になりっぱなしで、申し訳のないことです。
返信する
『史談会~』コピーが出てきましたが、 (中村太郎)
2012-03-06 21:49:44
川瀬敦文の分だけ、コピーを取り忘れていました。(汗)
早速、借りてコピーしますが、郎女さまはお持ちなんですか?お入り用なら、送ります。
『坂本龍馬全集』も借りましたが、厚さにびっくり。(笑)
返信する
『史談会速記録』のコピーが (中村太郎)
2012-03-05 22:47:20
出てきません。
郎女様からいただいたか、自分でコピーした分の中に川瀬敦文のがあるはずなんです。でもまだ、読んでいないんです。

『会津藩庁記録』、近デジで中村半十郎を探しましたが、見つかりません。近デジを見るのに疲れましたので、史籍協会のを図書館から借りることにしました。(笑)
返信する
史談会速記録で (郎女)
2012-03-05 15:57:00
桐野と天狗党のことを話しているのは川瀬敦文らしいんですけど(読んだことあったんでしたっけ?)、御陵衛士の阿部十郎が、在京水戸藩(本国寺党)の吉成勇太郎のところに天狗党残党の薩摩出身河畑某がひそんでいて、中村半次郎が訪ねて来ていたので、よく会っていた、とかなんとか言っているんですよ。

検索で見つけたんですが、12月2日半次郎天狗党を探索説の傍証は、他にもあるみたいです。
http://home1.netpalace.jp/neokurami/room/room.cgi?mode=koumoku&no=5&p=0

『水戸浪士西上録(旭櫻雑誌 巻九』(石川県図書協会)より抜粋。
12月2日
 伊藤記に云『日當村泊り、此所出立いたし、細道を行候處、岩左右に立ちわかれ比類なきけんそ之道を行、わたしを越え長峯に出。』
 黒澤記に云『伊尾出立、谷汲山与申西國三十三所札相納候地に懸り、其夜元州郡金原村泊り。』
 拾記に云 『少々曇、谷汲より十町計前通美濃難所に入、此日薩州人来る。金原村・日向村両宿に而泊る。』
【註】
<元州郡は本巣郡。>
<此日薩州人来る:この薩州人は中村半次郎のことだと思われます。天狗党幹部に対する中村半次郎の説得は金原村で行われたと思われます。なお、神海村の庄屋の書留帳に、4日に中村半次郎を長瀬の渡しまで送ったという記録が残っています。>

http://home1.netpalace.jp/neokurami/room/room.cgi?mode=koumoku&no=7&p=0

この日、水戸天狗党は、この先の金原村の圓勝寺に宿泊します。水戸浪士の日記に「此日薩州人来ル」と記録されています。
 神海村名主・墨吉の「御用向書留帳」の元治元年12月4日付けのものに、薩州人を長瀬の渡船場まで駕篭で送ると記録されており、この薩州人とは中村半次郎のことではないだろうか。
 この日(2日)の夜、金原圓勝寺において、中村半次郎の説得、水戸浪士の評議が行われたと思われます。

半次郎の名前が出てくるのかと期待しましたら、ちがうようなんですよねえ。なんとも。
返信する
Wikiを読んで、 (中村太郎)
2012-03-04 17:45:38
『会津藩庁記録』も見なければと思ってましたが、近デジにあるとは知りませんでした。有難うございます。でも、探すのがホント大変そうですね。
当初は、小松さんの書簡に半次郎の名前があると単純に喜んでいましたが、かなり「意味深い内容」を持っていたわけで。ますます小松さんに感謝です。
天狗党の件、またまた郎女様におんぶにだっこになりますが、よろしくお願いします。
返信する
中村さま (郎女)
2012-03-04 14:27:20
天狗党の方の話なんですけど、wikiによれば、『会津藩庁記録』に「薩州中村半十郎と申す者、かの濃州金原辺に天狗党の居り候頃、武田と藤田小四郎に面会致し談判候よし」とあるそうで、『会津藩庁記録』は近デジにあるのですが、まだこの箇所を見つけていません。
ちょっと疑問なのは、この小松の手紙では、11月26日に桐野は病気ですのに、美濃の金原村あたりに天狗党がいたのって、どうも12月の2日らしいんですよ。
京都から、探しながら行くわけですから、11月の末には京を出た計算になるんですけど、どうだったんですかね???
「~よし」なんて、伝聞っぽい記録ですし。だったら、史談会速記録がどうなるか、なんですけど、一度、ちゃんと見てみる必要はありそうです。
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