「金日成将軍がオリンピック出場!?」の続きです。
伝説のキム・イルソン将軍のモデル、陸士23期に留学していました金光瑞(入学当初の名前は顕忠でしたが、在学中に光瑞に改名したといわれます)は、実のところ、大正14年(1925年)から消息不明で、おそらくは不遇のうちに満州で没したものと推測されています。
それが、昭和7年(1932年)のロスオリンピックに、日本代表として出場している! という情報には驚きました。もし、そうだったならば、ソ連に裏切られた金光瑞は、日本軍に投降して、ソ連情報提供者となり、陸士留学生仲間のとりなしもあって、日本陸軍騎兵仲間の連帯感から復権を認められた、という線しか考えられなかったのですが、いくらなんでも金光瑞は武装闘争をしていた人物ですし、ちょっと信じがたいことだったんですね。
といいますのも、陸士26期に留学していて、金光瑞とともに独立武装闘争をした池青天は、ソ連に裏切られた大正14年以降は、中華民国によって独立運動に邁進しているようですし、こちらの系統の独立運動に陸士留学関係者はけっこういまして、いくらソ連に怒りを覚えたとはいえ、日本軍に投降は、金光瑞の誇りが許さなかっただろうに、という気がしました。
それで、横浜へ生麦事件の資料をさがしに行きましたついでに、麻布の外交資料館へ、ロスオリンピックの資料を見に行きました。
アジ歴でキーワード検索をかけましたところが、ロスオリンピク関係の資料が外交資料館にある、とまでは、わかったんです。
えー、実は階層検索をかけると、すべてデジタル画像で見ることができる資料だったんですが、その検索の仕方がわかりませんでして。無駄足といえば無駄足なんですが、検索の仕方を教えていただきましたし、実物を見ることができて、幸せでした。
やっぱり、ですね、すべてモノクロームの資料画像よりも、現物で見た方が、時代の雰囲気が感じられますし。
感心がおありの方は、レファレンスコード検索で、B04012502700を見ますと、 国際「オリムピック」競技大会一件 第二巻(ロスオリンピック関係の資料の綴り)の画像が出てまいります。分割されていますので、選手の名前が登場する資料は、左上の「次資料」をクリックすれば出てきます「分割2」にいろいろとあります。
結論をまず述べますと、金光瑞の名はありません! 選手はもちろん、馬のめんどうを見る人々や役員にも、です。
さっそく、陸軍騎兵学校ーWikiの記述を訂正しておきました。
それはともかくとして、おもしろい資料でした。時間さえ許せば、じっと読みふけっていたことでしょう。
西竹一の大障害飛越金メダルは、もちろん名馬ウラヌス号の存在とバロン西個人の資質もあったのでしょうけれども、何年も前からの陸軍を中心とする馬術関係者の力の入れようもあずかっていたのだと、よくわかりました。
最初は帝国馬匹協会(昭和2年創立)が、次いで、途中から設立されたらしい日本国際馬術協会(会長・松平頼寿伯爵)が、単独で馬術選手派遣に動き、アメリカ在住の邦人に協力を求めたり、寄付をつのったり、活発に動いていたんですね。まあ、馬術は馬を連れていかなければなりませんので、準備も大変ですし、莫大な参加費用がかかります。
選手は、民間からも募って陸軍騎兵学校で訓練を引き受ける、としていたのですが、結局、バロン西を含む4人が現役の騎兵将校、1人が現役の砲兵大尉で、民間から選ばれた山本盛重も、民間とはいうものの、後備役の騎兵大尉です。山本盛重は学習院初等科の出身で、大正10年から学習院で馬術教官を務めていたことが、学習院馬術部のHPに見えます。
監督の遊佐幸平騎兵大佐の伝記を読めば、国際馬術大会と陸軍騎兵科の関係がよくわかりそうなんですが、この伝記がどうも、希少本のようです。 遊佐幸平は陸士16期だそうですから、もちろん金光瑞を知っていたでしょうし、もしかすると先生だったかもしれませんし、そちらの方の情報も、あるかもしれなくて、読んでみたいのですが。
ともかく、おそらくなんですが、日露戦争によって、ようやく日本でも騎兵というもの、そして西洋馬術が世間一般に認知されて間もなく、第一次世界大戦によって塹壕戦の時代となり、騎兵の活躍する余地はほとんどない状況となってきます。イギリスやフランスの騎兵隊の大戦における悲劇は有名です。
で、そんなこともあり、日本陸軍の騎兵科は、オリンピックをも含む国際馬術大会に熱心に取り組むようになったんじゃないんでしょうか。いえ、日本だけではなく、欧米各国の陸軍騎兵隊が、もはや儀仗兵としてしか意味が無くなり、国際馬術大会が盛んになった、ともいえるのかもしれない、と思うのですが。
ロスオリンピックの日本の馬術代表団は、前述のように陸軍関係者のみでしたし、参加のために渡米しては、アメリカ陸軍騎兵隊の歓迎を受けました。
まあ、そんなわけで、日本国際馬術協会は、陸軍の全面的バックアップを受けていたのでしょう。その自負からか、なにもかも単独でやろうとして、これに大日本体育協会がクレームをつけるんですね。
えーと、この大日本体育協会というのは現在の日本体育協会でして、当時は日本オリンピック委員会の役目も果たしていた、ようなのですね。ところが、日本国際馬術協会はこれに加盟せず、単独行動をとろうとします。けしからん!というので、大日本体育協会は、ですね、なんとロスのオリンピック準備委員会に「あー、日本国際馬術協会というのがおたくに参加の申し込みをすると思うんだけどね、あれはうちに参加していない勝手な団体だから、参加を拒否してちょーだいな」と、申し入れたようなのです。
これを知ったロスの日本領事が「えー、国内の団体の内輪もめを外国で晒すとは、見苦しいかぎりなので、なんとかしてちょーだいな」と、時の外務大臣、幣原喜重郎男爵にお手紙を書くほどの騒ぎ。結局、外務省が間に入って、日本国際馬術協会は大日本体育協会に加盟し、決着がついたようなのです。
また当時のアメリカには排日移民法がありまして、どうも日本人には、旅行者といえども行動制限があったようなのです。この扱いを、オリンピック期間は停止する、というような資料もあり、選手や大会関係者にはアイデンティティカード(身分証明書)を持たせる、としたのも、どうも、有色人種に対する差別的な扱いを避けるため、であったようです。
で、これまで述べてきましたように、金光瑞の名は、まったく見あたりません。
年齢からいきましたら、遊佐幸平がこの4年前のアムステルダムオリンピックに選手として出場していますし、総合馬術の後備役騎兵大尉・山本盛重は、明治15年の生まれです。金光瑞が代表となってもおかしくはなさそうなんですが、資料を読んで、馬術競技というものは日々の研鑽が必要でしょうし、金光瑞にはシベリアで抗日武装闘争をしていた年月のブランクがありますから、例え、投降して復権していたにしましても、出場は無理だったのではないか、という気がしました。
はっとしたのは、「満州国が出場を申し込んでいるので、これを機会にアメリカが承認しないだろうか」という、超楽観的な外交通信を読んだとき、です。
そうなんです。もしもこの時期、金光瑞が生きていたとしましたら、満州国にいた可能性は、けっこうありそうなんです。
はっとはしたんですが、検索をかけてみましたら、満州国のオリンピック参加についての論文が出てきまして、結局、参加はできませんでしたし、しかも満州国が派遣しようとしたのは、馬術の選手ではなかったんです。
というわけで、金光瑞はオリンピックには出ていません! 結局、大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います。
前回書いたのは、大正8年(1919年)、金光瑞は、日本陸軍騎兵中尉として三・一独立運動の勃発を知った、というところまで、でした。次回は、以降の金光瑞の軌跡をかんたんにまとめてみるつもりです。
人気blogランキングへ
伝説のキム・イルソン将軍のモデル、陸士23期に留学していました金光瑞(入学当初の名前は顕忠でしたが、在学中に光瑞に改名したといわれます)は、実のところ、大正14年(1925年)から消息不明で、おそらくは不遇のうちに満州で没したものと推測されています。
それが、昭和7年(1932年)のロスオリンピックに、日本代表として出場している! という情報には驚きました。もし、そうだったならば、ソ連に裏切られた金光瑞は、日本軍に投降して、ソ連情報提供者となり、陸士留学生仲間のとりなしもあって、日本陸軍騎兵仲間の連帯感から復権を認められた、という線しか考えられなかったのですが、いくらなんでも金光瑞は武装闘争をしていた人物ですし、ちょっと信じがたいことだったんですね。
といいますのも、陸士26期に留学していて、金光瑞とともに独立武装闘争をした池青天は、ソ連に裏切られた大正14年以降は、中華民国によって独立運動に邁進しているようですし、こちらの系統の独立運動に陸士留学関係者はけっこういまして、いくらソ連に怒りを覚えたとはいえ、日本軍に投降は、金光瑞の誇りが許さなかっただろうに、という気がしました。
それで、横浜へ生麦事件の資料をさがしに行きましたついでに、麻布の外交資料館へ、ロスオリンピックの資料を見に行きました。
アジ歴でキーワード検索をかけましたところが、ロスオリンピク関係の資料が外交資料館にある、とまでは、わかったんです。
えー、実は階層検索をかけると、すべてデジタル画像で見ることができる資料だったんですが、その検索の仕方がわかりませんでして。無駄足といえば無駄足なんですが、検索の仕方を教えていただきましたし、実物を見ることができて、幸せでした。
やっぱり、ですね、すべてモノクロームの資料画像よりも、現物で見た方が、時代の雰囲気が感じられますし。
感心がおありの方は、レファレンスコード検索で、B04012502700を見ますと、 国際「オリムピック」競技大会一件 第二巻(ロスオリンピック関係の資料の綴り)の画像が出てまいります。分割されていますので、選手の名前が登場する資料は、左上の「次資料」をクリックすれば出てきます「分割2」にいろいろとあります。
結論をまず述べますと、金光瑞の名はありません! 選手はもちろん、馬のめんどうを見る人々や役員にも、です。
さっそく、陸軍騎兵学校ーWikiの記述を訂正しておきました。
それはともかくとして、おもしろい資料でした。時間さえ許せば、じっと読みふけっていたことでしょう。
西竹一の大障害飛越金メダルは、もちろん名馬ウラヌス号の存在とバロン西個人の資質もあったのでしょうけれども、何年も前からの陸軍を中心とする馬術関係者の力の入れようもあずかっていたのだと、よくわかりました。
最初は帝国馬匹協会(昭和2年創立)が、次いで、途中から設立されたらしい日本国際馬術協会(会長・松平頼寿伯爵)が、単独で馬術選手派遣に動き、アメリカ在住の邦人に協力を求めたり、寄付をつのったり、活発に動いていたんですね。まあ、馬術は馬を連れていかなければなりませんので、準備も大変ですし、莫大な参加費用がかかります。
選手は、民間からも募って陸軍騎兵学校で訓練を引き受ける、としていたのですが、結局、バロン西を含む4人が現役の騎兵将校、1人が現役の砲兵大尉で、民間から選ばれた山本盛重も、民間とはいうものの、後備役の騎兵大尉です。山本盛重は学習院初等科の出身で、大正10年から学習院で馬術教官を務めていたことが、学習院馬術部のHPに見えます。
監督の遊佐幸平騎兵大佐の伝記を読めば、国際馬術大会と陸軍騎兵科の関係がよくわかりそうなんですが、この伝記がどうも、希少本のようです。 遊佐幸平は陸士16期だそうですから、もちろん金光瑞を知っていたでしょうし、もしかすると先生だったかもしれませんし、そちらの方の情報も、あるかもしれなくて、読んでみたいのですが。
ともかく、おそらくなんですが、日露戦争によって、ようやく日本でも騎兵というもの、そして西洋馬術が世間一般に認知されて間もなく、第一次世界大戦によって塹壕戦の時代となり、騎兵の活躍する余地はほとんどない状況となってきます。イギリスやフランスの騎兵隊の大戦における悲劇は有名です。
で、そんなこともあり、日本陸軍の騎兵科は、オリンピックをも含む国際馬術大会に熱心に取り組むようになったんじゃないんでしょうか。いえ、日本だけではなく、欧米各国の陸軍騎兵隊が、もはや儀仗兵としてしか意味が無くなり、国際馬術大会が盛んになった、ともいえるのかもしれない、と思うのですが。
ロスオリンピックの日本の馬術代表団は、前述のように陸軍関係者のみでしたし、参加のために渡米しては、アメリカ陸軍騎兵隊の歓迎を受けました。
まあ、そんなわけで、日本国際馬術協会は、陸軍の全面的バックアップを受けていたのでしょう。その自負からか、なにもかも単独でやろうとして、これに大日本体育協会がクレームをつけるんですね。
えーと、この大日本体育協会というのは現在の日本体育協会でして、当時は日本オリンピック委員会の役目も果たしていた、ようなのですね。ところが、日本国際馬術協会はこれに加盟せず、単独行動をとろうとします。けしからん!というので、大日本体育協会は、ですね、なんとロスのオリンピック準備委員会に「あー、日本国際馬術協会というのがおたくに参加の申し込みをすると思うんだけどね、あれはうちに参加していない勝手な団体だから、参加を拒否してちょーだいな」と、申し入れたようなのです。
これを知ったロスの日本領事が「えー、国内の団体の内輪もめを外国で晒すとは、見苦しいかぎりなので、なんとかしてちょーだいな」と、時の外務大臣、幣原喜重郎男爵にお手紙を書くほどの騒ぎ。結局、外務省が間に入って、日本国際馬術協会は大日本体育協会に加盟し、決着がついたようなのです。
また当時のアメリカには排日移民法がありまして、どうも日本人には、旅行者といえども行動制限があったようなのです。この扱いを、オリンピック期間は停止する、というような資料もあり、選手や大会関係者にはアイデンティティカード(身分証明書)を持たせる、としたのも、どうも、有色人種に対する差別的な扱いを避けるため、であったようです。
で、これまで述べてきましたように、金光瑞の名は、まったく見あたりません。
年齢からいきましたら、遊佐幸平がこの4年前のアムステルダムオリンピックに選手として出場していますし、総合馬術の後備役騎兵大尉・山本盛重は、明治15年の生まれです。金光瑞が代表となってもおかしくはなさそうなんですが、資料を読んで、馬術競技というものは日々の研鑽が必要でしょうし、金光瑞にはシベリアで抗日武装闘争をしていた年月のブランクがありますから、例え、投降して復権していたにしましても、出場は無理だったのではないか、という気がしました。
はっとしたのは、「満州国が出場を申し込んでいるので、これを機会にアメリカが承認しないだろうか」という、超楽観的な外交通信を読んだとき、です。
そうなんです。もしもこの時期、金光瑞が生きていたとしましたら、満州国にいた可能性は、けっこうありそうなんです。
はっとはしたんですが、検索をかけてみましたら、満州国のオリンピック参加についての論文が出てきまして、結局、参加はできませんでしたし、しかも満州国が派遣しようとしたのは、馬術の選手ではなかったんです。
というわけで、金光瑞はオリンピックには出ていません! 結局、大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います。
前回書いたのは、大正8年(1919年)、金光瑞は、日本陸軍騎兵中尉として三・一独立運動の勃発を知った、というところまで、でした。次回は、以降の金光瑞の軌跡をかんたんにまとめてみるつもりです。
人気blogランキングへ
田中均氏のことは、よくは知らないのですが、小泉首相がうまく使ったと思います。
樺太については、歴史はつながってゆきます。幕末から、樺太では日本人とロシア人の摩擦がくりかえされ、日露和親条約においても国境を確定することができず、幕府はフランスを介して、樺太問題の解決を試みますがうまくいかず、明治維新。薩摩の政治顧問だったモンブラン伯爵が、解決に乗り出そうとしたような資料もあったりしますが、結局、紛糾はおさまらず、明治8年(1875)、樺太・千島交換条約によって、樺太は全島、ロシア領となります。
その後、日露戦争によって半分が日本領に。半分のロシア領に、いわゆる高麗人(朝鮮系ロシア人)が多数住んでいましたことは、ロシア革命に際したシベリア出兵時、サハリン(樺太)の高麗人パルチザン多数が、尼港事件において、日本人虐殺にかかわったことでもわかります。この高麗人パルチザンは、大半が極貧の炭坑労働者であったといわれます。
よく覚えてないのですが、「日本人が樺太に連れていった朝鮮人」といいますのは、確か、日本領樺太に、朝鮮から渡りました炭坑労働者ですよね? 戦時中の徴用のことを言っているんでしたら、日本の敗戦後、樺太半島はソ連が占領したんですから、帰さなかったのはソ連の責任でしょう。アメリカ占領下の日本においては、徴用の場合、大半が半島に帰っています。日本に残った者は、好んで残ったわけでして。北朝鮮はソ連が作った国ですから、建国イデオロギーに従いまして、すべての責任が日本にあり、としますのは、ある程度、仕方がないことではあるんですけれども、日本におきましても、和田春樹東大名誉教授などが中心になりまして、北朝鮮の建国イデオロギーを応援し、ソ連の責任はいっさい問わない時期が長く続き、ソ連がロシアとなりましたいまも、けっこうそうなのではないか、と思います。
NHKスペシャルは見ておりません。突っ込みどころ満載なのだろうと、見る気が起こりませんのです。
お粗末なお答えで、申し訳ございません。
昨日四月二日(財)日本国際交流センター シニア・フェロー、元外務審議官 田中 均氏の演題「東アジアにおける日本の今後」という講演を聴いてきました。大変良かったです。特に北朝鮮との交渉の時のお話に及びますと、大変なご苦労が思い出したくも無いのでしょうか表情が曇りました。北朝鮮側は日本はどれだけの人間を樺太に連れて行ったのか、その人々のその後を知っているのか・・とばかりを延々と繰り返しだったそうです。ロシアが中国が日本がいつ何をしたのか、無知な私は偏りの無い歴史を知りたいものです。
いずれお目にかかりたいと思っていましたのに平成21年11月27日午前3時29分永眠、享年77歳との事、残念でなりません。お母様の旧姓三浦義子さんの遺品のアルバムに鴨緑江の風景写真等が残されているのではと希望を持ってましたのに・・・・・・
お元気でいらして下さいませね、旧朝鮮時代を見せて頂きました。
新義州や仁川の読み方も知らない私にとりまして大変勉強になります。
チンダラコッチ様は昭和三年のお生まれとか、三浦義深は昭和弐年参月拾弐日午前壱時四拾五分に龍岩洞六百拾六番地於いて他界したようです。いろいろ、やり残したままの急な死であったようです。が大変な時代を変化を見ずに済んで良かったのかも知れません。
90歳の先輩様もお元気でいらして下さいますことを祈っております。
ただ、三浦義深について調べていましたのは、私ではなくチンダラコッチさまで、ここをご覧になっていてくださればよろしいのですが。
関東大震災や昭和の敗戦、東京の空襲等で資料が無くなり、確かめようが無いかも知れません。何か分かりましたら教えてください。
http://www.jacar.go.jp/
上のアジア歴史センターで、「三浦義深」でキーワード検索なさってみてください。
「水路局 三浦少尉補墓参出願に付伺」という、明治9年の書類が出てきます。
「三浦少尉補母為墓参埼玉県下岩槻迄罷越申度段願出候ニ付伺 海軍少尉補 三浦義深 右者今般母為墓参埼玉県下岩槻表迄罷越申度段別紙之通願出候ニ付此段伺出候也 水路局長 海軍大佐 柳楢悦 九年十月十九日 海軍大輔 川村純義殿 願之趣聞届候条此旨本人ヘ可相達候事 私儀今般母墓参トシテ埼玉県下岩槻迄罷越申度就而ハ往返ヲ除之外一週間御暇被成下度此段奉願候也 十月十八日 海軍少尉補 三浦義深 水路局長 柳大佐殿」
新義州は鴨緑江河口の20kmほど上流です、河口の龍岸浦は日清戦争後高宗の大韓帝国がロシヤに
鴨緑江上流の伐採権を取られて、
ロシヤの伐採基地となり多くのロシヤ人がロシヤ風の町にしてしまいました。日露戦争の後、日本が
ロシヤを韓国から追い出したのですが、その龍岸浦の町はロシヤ風の住居が沢山残っていました。
鴨緑江の河口は、遠浅で霧が深く
難破する船が多く、総督府では燈台を設置したいと考え、海軍水路部が逓信省に水路部を移管した際
に三浦少佐は予備役のまま、総督府に招かれ鴨緑江河口の燈台建設の責任者になられたと思います。
実は先輩で92歳になる方が(中学一年生の時の家庭教師)この三浦義深少佐の経歴を知りたいとのことであちこちwikkiなどで調べていますが京上日報の記事(神戸大学電子資料)くらいにしか辿り着けないでおりました。
郎女さまから明治9年に少尉候補生になっている、埼玉県出身のことを知らせて頂き早速先輩にその旨鴨緑江の写真4枚と共に手紙に
同封して送りました。
有難うございました。
この三浦海軍少佐は龍岸浦に燈台設置に努力され多くの船の航海を
安全にしたと言うことで「三浦タワー」が昭和の初め頃から建てられてその中に記録などが収められていましたが終戦のドサクサで判らず仕舞いとなっています。
先輩も90歳wp超えていますので
私も焦っていました。今防衛省の
資料を調べはじめましたが中々難しいようです。
韓国の仁川港ぁら中国の丹東に行く航路で龍岸浦の燈台が見えるだろうからなるべく早く船に乗って
見てみたいと思います。
その旨丹東の副市長(息子の日本留学の保証人になった)に手紙を出したら「飛行機で大連まで来たらお迎えに行きますよ」と笑われました。
船で行って飛行機で帰るか、又その逆で実行して見たいと思っております。
付け加えますと三浦海軍少佐は明治9年に少尉候補生になっているけれどもそんなお年かなぁと生年月日を問い合わせています。
大正5年には明治9年に少尉候補生になった方がお幾つに綯うでしょうか?60歳位でしょうか?
東京にも新型インフル患者が出たそうですが高齢者は抗体でうつらないそうです。でも6月13,4日の京都行きが取りやめになりました。
「金日成は四人いた」李英命著の本が出てきました。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00140065&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
「明治四十年三月鴨緑江に設備せる各航路標識を韓国政府に於て管理することとなりまして竜岩浦に其の燈台局の分署を設くることになり海軍少佐三浦義深氏を同日より税関工事部技師に任じ同分署長となした」
防衛省に、「後備海軍少佐三浦善深に鴨緑江航路標識設置嘱托の件」という書類もあります。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl
このときすでに後備役で、大正年間には朝鮮総督府逓信技師になっています。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl
あんまり詳しくはわかりませんが、おそらくは埼玉県出身の方で、明治9年に海軍少尉補だったみたいです。このころから、海軍省水路局だ務めだったようです。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl
それでも満州事変(昭和6年)頃は鴨緑江上流は国境警備隊と警察派出所や一寸した町には警察署も営林関係もありました。水豊ダムからも寄宿舎に来ていました。私が生まれた定州の町は国境から100km以上ありましたのでのんびりとしていました。(警察官も国境に配置されるのとは違った気分)中学時代のクラスメートの多くはこの辺の小さな小学校から来ていました。小さな町ですから遊ぶ相手が同年の朝鮮人の子供だったので皆朝鮮語が朝鮮人かと思われる位に上手だったことを思い出します。
私の両親の仲介人は警察の警視でリタイアして戦前熊本に引き揚げましたが新義州の家に遊びに行くと馬賊、匪賊討伐の写真を見たことがあります。生首を木に吊り下げて頭の皮が一メートルほど伸びてぶら下がっているのを見て恐ろしいものを見たので夢に出てくるようになりました。
又中学校に入る前は兄達の話で
安東の鎮江山(桜の名所)の広場で捕らえた馬、匪賊の者達を首切り台で首を刎ねると長い木の棒の先に支那万頭をさして。切ったばかりの首から流れる血をその万頭にたっぷりと付けて家に持って帰り食べるのだそうです。支那人の間では生地を飲むと長生きすると言う迷信がありました。
国境と言うものは世界の何処の国境でも密輸と言うものが盛んで今
でも新義州と丹東の間ばかりで無く上流、豆満江のほうでも密輸で設けている人が多いようです。
金日成の噂は私の生まれる以前のことで多くは当時の大人達の伝聞です。
今鴨緑江河口に燈台を建設して(明治40年頃)河口のメモリアルタワーに「三浦海軍少佐」と書かれている人のことを調べていますが中々先に進みません。
この人はあるロカビリー歌手の祖父だと言うことはわかったのです
その後の金光瑞騎兵中尉に付いて
は是非ご教示下さい。
「昭和の初め、満州国が建国した頃、国境付近の民家を、又鴨緑江上流でプロペラ船に乗船していた日本軍人を襲っていた」とおっしゃるんですから、それは、間島パルチザンですね。普天堡を襲撃した東北抗日連軍は、昭和10年、モスクワで開催された第7回コミンテルンで人民戦線統一戦略が採択されたにともない、中国共産党が国境合作を唱えて広範な抗日勢力を取り込もうと企て、昭和11年に、それまでの間島パルチザン、東北人民革命軍を改変したものです。
そもそも、この東北人民革命軍が、革命軍といえば聞こえはいいのですが、満州国成立で行き場を失った張学良配下の馬賊やら、ごった煮軍団で、関東軍に対せるほどの力はなく、主な活動は略奪でした。
当然のことなんですが、この東北人民革命軍の活動がもっとも活発だったのは、おっしゃるように満州国成立直後です。日本側の資料で、この第2軍に、最初から金日善(キム・イルソン)という人物がいたことが記録されていて、これが昭和10年の資料では、同音の金日成(キム・イルソン)になっているそうなんですね。
間島パルチザン、東北人民革命軍のころから、金日成を名乗る人物がいたことは確かなようですが、最初に述べたと同じ理由で、私には金光瑞がその金日成であったとは思えません。あるいは、日本側がこれを金光瑞と勘違いしたことは、あるかもしれないのですが。
おそらく、なんですが、間島においてもすでに金日成将軍伝説は成立していて、だれかが、その名を借りていただけなのではないんでしょうか。
「金日成は4人いた」の李命英氏は、「第3の金日成は昭和13年(1937年)、威鏡南道の普天堡(保田)を襲撃し、後に警備隊に射殺された」となさっているわけなんですけれども、一部に「普天堡襲撃の金日成は陸士出身」という話が出回っていたについては、理由を明らかになさっています。
威鏡南道普天堡を襲撃したのは、中国共産党系の満州抗日武装集団「東北抗日連軍第二軍第六師」です。これを率いていた六師長が金日成であったといわれ、 この「金日成」の正体が問題になるわけなのですが、普天堡を襲撃した金日成部隊は、警察隊の手に負えず、威鏡南道威興にいた日本陸軍歩兵第74連隊から、恵山守備隊が派遣されます。これを率いたのが、金光瑞の後輩で、陸士27期留学生の金仁旭(終戦後平壌の実家に帰って行方不明になっています)なんです。これについてはブログに書きますが、金仁旭はこの10数年前までの金光瑞の活躍は知っていて、陸士留学仲間とともに、金光瑞が残した家族への援助もしています。
陸士留学仲間の間では、「金光瑞は金日成と名乗っていた」という暗黙の了解があったみたいなんですね。まして威鏡南道は、金光瑞の故郷です。それで金仁旭は、「金日成というなら日本陸士の私の先輩だが、なんで共産党匪賊などになったのか、全くもってわからん。今度直接会って帰順させよう」と言ったというのです。
これは、「金日成」という名前からきた金仁旭の思い込みだったのですが、この思い込みが一人歩きして、「普天堡襲撃の金日成は陸士出身」という噂がひろまったようなのです。
しかし、「なんで共産党匪賊などに」と金仁旭は疑問に思ったわけでして、その疑問の方が正しかったのです。
普天堡というと、なにか日本陸軍の要塞でもあるのかと錯覚するのですが、日本人はわずか26戸、中国人2戸、朝鮮人およそ300戸の村役場所在地にすぎないんです。警備といえば、警官わずか6名の小さな警察署があるだけ。しかも当夜、営林署員の送別会があって、駐在所には二人しか警官が残っていなかったのです。
電話線を切っての襲撃で、流れ弾に当たって、巡査の2歳の娘が重傷を負い翌日死亡、駐在所の近くで食堂を経営していた日本人が、銃弾に驚いて飛び出し、銃撃され死亡。駐在所の巡査が一人負傷。駐在所の武器庫襲撃はともかくとして、後やったことはといえば、農事試験場や営林署、消防署、村役場、学校、郵便局に火を付けてまわり、民家(当然のことながらそのほとんどが朝鮮人の民家です)にも押し入って、現金、医薬品、衣料、雑貨などを略奪してまわったんです。まさに匪賊と呼ぶにふさわしいふるまいです。
私には、明治期の陸軍士官学校で学んだ金光瑞が、同胞の民家に押し入って火付け強盗をしてまわったとは、とても思えません。まして威鏡南道は、金光瑞の故郷なのですから。
で、李命英氏は、第3の金日成が射殺された後、昭和16 年(1940年)ころに国境付近で活躍した六師長の金日成を第4の金日成としておられて、これもソ連が北朝鮮に連れてきた金日成とは別人、としておられるんですけど、六師に北朝鮮の金日成が存在したことは確かですし、どちらが「金日成」の影武者であったのかは、もう藪の中のお話です。
結局のところ、第一の金日成(一成)も第二の金日成(金光瑞)も威鏡南道の出身ですし、同じ時期に消息をたっています。二人の像が一体になって、すでに「金日成将軍」伝説は成立していたようですし、威鏡南道に押し入るにあたって、六師長が金日成を名乗り、その影武者が複数いた、ということだったんだろうと思います。
金光瑞のその後については、見逃していた別のお話が、かなり確かな証言で、ありました! 私は、そちらの方が信用できると思いますので、ブログに書きますね。
私方でもう一度、1932ロスアンゼルス馬術競技を検索してみました
やはり「金光瑞」の名前はありませんでしたし(ある筈が無い)
当時の出場選手と役員の名前を見出しました。
それによると役員2名、嘱託1名
選手6名、バロン西の金メダル、山本盛卿学習院講師の7位、
あとの方々は失格或いは不出場となっていました。
西竹一騎兵中尉の馬は、今村安
騎兵少佐がイタリアの名騎手から
譲って貰ったとありました。
さて郎女さまのお調べで「金光瑞」(三代目金日成)のオリンピック出場は有り得なかった事が分かり納得です。
金光瑞騎兵中尉(金日成)は昭和の初め頃(私がまだ小学生になっていた頃か)満州国が建国した頃か新聞にも馬賊としてにぎわしていたようです。私の記憶では国境付近の民家を、又鴨緑江上流でプロペラ船に乗船していた日本軍人を襲っていたようです。
「嗚呼若林大尉」と言う映画も上映されていました。
昭和12,3年頃(日誌事変)には「金日成」の名前は消えていたようです。国境警備隊の充実で馬、匪賊は少なくなり、「鴨緑江
上流の満浦鎮では「望楼の決死隊」の映画ロケがあり「原節子」
さん等のスターが当地の旅館に宿泊していた(同級生の家)話を聞いていました。
それから別の話ですが1936
ベルリンオリンピックのマラソンで優勝した「孫禎偵」選手は新義州出身で私が中学校に入る頃には孫さんは新義州におられませんでしたが兄達の話では新義州府を取り囲む堤防の土手の上を毎日走っていたそうです。実家は中学校の近くにあって雑貨売りをしていたそうです。新義州を出て京城の商業学校でも長距離ランナーとしての練習を続けていたのだそうです
新義州と言う町は面白いところで
前にも書いたと思いますが「杉野兵曹長」の話なども実しやかに聞いていたものです。支那と朝鮮の国境と言う地理的なものがあるからでしょう。
小学生の頃は「ケレンヘラー」、
「チャップリン」なども国際列車で通過したときには兄達の年代の
小学生は駅に見に行ったのだそうです。
それにしても「金光瑞」騎兵中尉
の件はお陰さまでに理解できましたが、その後のことも宜しくお教え下さい。私も国境警備隊によって掃討され銃殺されてその死体の確認をされた関係者の血筋の方がご健在と聞きましたので分かりましたらお知らせ致します。