「桐野利秋とは何者か!?」vol3の続きです。
薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564) | |
桐野 作人 | |
NHK出版 |
桐野作人氏著「薩摩の密偵 桐野利秋」の「はじめに」より、以下引用です。
薩摩藩は島津斉彬が国政関与に乗り出して以来、王政復古政変から戊辰戦争に至るまで、幾多の危機がありながらも、それを巧みに乗り越えて、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力である。並び称されている長州藩の浮沈の激しさとは対照的だといえよう。
そうした薩摩藩の卓抜な政治力の源泉のひとつが広範かつ正確な情報活動だった。その有力な成員として活躍したのが、本書の主役である中村半次郎、のちの桐野利秋(一八三八〜七七)である。
まず、「薩摩藩は、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力」という前提について、です。
薩英戦争は薩摩の勝ち戦だったんでしょうか???
薩摩側が賠償金を支払っています以上、勝ちではないですよねえ。薩摩は、確かに賠償金を幕府から借りて踏み倒していますが、それをいえば、長州も下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)の賠償金は、幕府に払わせています。条約を結んだ主体が幕府である以上、藩が勝手にはじめた戦争であっても、対外責任は、最終的に幕府にあったというだけのことなんですけれども。
戦死者の数でいいましても、四国艦隊迎撃戦に限れば長州側18人ですし、それ以前の攘夷戦を含めましても30人ほど。
薩英戦争の薩摩側戦死者24名で、長州とさほどかわりはないんですね。
明治4年(1871)の辛未洋擾、アメリカ艦隊が江華島を攻撃しましたとき、李氏朝鮮側が二百数十名の戦死者を出しましたのにくらべ、格段の少なさです。
城下を焼き払われましただけ、長州の被害よりも薩摩の被害の方が大きかったともいえそうですよねえ。
「政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない」といえば、 「戊辰戦争の勝者で対外戦をやっていない佐賀藩こそ!」、そうじゃないんでしょうか。
私、決して佐賀藩を褒めているわけじゃありません。対外戦をやって、負けていればこそ、薩長は自藩の改革に成功し、維新の主導者となり得た、と思っています。
桐野作人氏は、(薩摩藩は)長州藩の浮沈の激しさとは対照的とも言っておられまして、おそらくはこちらが主眼なんでしょう。
とすれば、薩摩と長州のちがいは、8月18日の政変と禁門の変、ということになります。
しかしこれ、それほど単純に「長州は敗北したが薩摩は敗北しなかった」と言ってしまっていいことなのでしょうか。
といいますか、なにをもって敗北、勝利というのか、という問題があります。
8月18日の直前の状況、禁門の変の後の京都政局など、政治的に薩摩にとって、勝利とはとてもいえない状況でした。「その危機を乗り越えて勝者となった」というなら、長州もまた、大きな危機を乗り越え最終的に勝者となった、ということが可能でしょう。
ここらあたりは、作人氏の「桐野利秋は密偵説」にも深くかかわってくる問題でして、以下、再び「はじめに」より引用です。
桐野の諜報活動のなかで、もっとも異彩を放ち、成果をあげたのは一時期激しく敵対した長州藩に対してのものだった。
桐野の「密偵」としての有能さは西郷が太鼓判を押しているから間違いない。では、なぜそのように有能だったのか。逆説的にいえば、桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたからだといえる。
桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった。
まず、前提条件に間違いがあります。
桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたという点ですが、薩摩藩の指導者の方針は常に一枚岩だったんですか?と疑問を呈したいと思います。
次いで、桐野はずっと薩摩藩の方針と対立し、距離を置いていたんですか?という疑問もわきます。
最初に、慶応三年、幕末も押し詰まった最後の年の、勝海舟の見解を見てみましょう。
勝海舟全集〈1〉幕末日記 (1976年) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
全集1収録の「解難録」探訪密告慶応三年丁卯より、以下引用です(p.295~6)。「解難録」は海舟が幕末維新期に書いたものを、明治17年の夏、自ら整理したものです。
慶応三年、上国に在て事を執る者、探索者の密告せし処有といへども、皆、皮相の見にて、多くは門閥家を以て是が最とす。予が考ゆる処、是と異なり、
薩藩 西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造
萩藩 桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原
高知藩 後藤象二郎 板垣退助
佐賀藩 副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎
此輩数人に過ぎざるべし。大事を決するに到ては、西郷、大久保、桂の手に出て、其他は是を賛し是を助くるに過ぎざるべし。〜以下略
慶応三年、西日本の有力諸藩で政治を動かしている人物について、幕府の探索者は藩主やその門閥のお偉方が主導していると報告を上げてきているが、それはうわべしか見ていない者の言うことであって、私の考えは異なっている。
薩摩藩は西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造。長州藩は、桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原。土佐藩は、後藤象二郎 板垣退助。佐賀藩は、副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎。
お偉方ではなく、これら各藩数名が主導している。とはいうものの、大事を決しているのは、薩摩の西郷・大久保、長州の桂小五郎で、その他の人々は、彼らに賛同し、彼らを助けているだけだ。
少なくとも慶応三年において、勝海舟の見ていたところでは、国父島津久光は、薩摩藩首脳部の意志決定集団からはずれていましたし、西郷・大久保が牛耳っていて、小松帯刀はその下で、中村半次郎(桐野利秋)と並び、西郷・大久保に賛同して、手助けしていただけだ、というんですね。
もちろん、こうなるまでには経緯というものがあります。
桐野が、生まれ育った鹿児島から京都へ出ましたのは、文久2年(1862年)春のことです。
島津久光の率兵上洛に従ってのことでして、このときから桐野は、たまに短期間帰郷することはありましたが、ほぼ京都にいました。
外様藩の藩主の父親が、1000名の藩兵を率いて京都へ出た、といいますことは、江戸時代のそれまでの常識からしますと、破天荒なことです。
これにより、日本の政局の中心は京都となり、一気に流動化して、二十代半ばの桐野は、まずは藩命で青蓮院宮付き守衛兵となって、渦中に身を置きます。
原口清著作集 1 幕末中央政局の動向 | |
クリエーター情報なし | |
岩田書院 |
「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」といいます作人氏の見解にそって、原口清著『幕末中央政局の動向』収録の「幕末長州藩政治史研究に関する若干の感想」より、以下の引用部分を見ていただけたらと思います。
藩士身分の尊攘派志士が、なによりも自藩を尊攘の方針に転換さすために努力したことは当然であり、長州藩や土佐藩では、成功の度合いはちがうが、一藩挙げての尊攘運動を行った。因幡・備前藩などは、藩主自身が熱心な尊攘主義者であり、ここでは急進・漸進の差異はあっても、一藩の多数が尊攘主義者となっていたものと思われる。尊攘主義藩士の脱藩浮浪化は、多くの場合藩論を尊攘主義に転換できず、藩内抗争などがあって脱藩したものでああって、脱藩それ自体が本来の目的であったわけではない。尊攘派は、藩力を利用し、朝廷・幕府に働きかけている。つまり、彼らは既存の国家組織を挙げて尊攘主義に転換させることを主要な運動・組織形態としているのである。
つまり、尊攘主義といいますのは、日本に押し寄せてきました外国を意識してのものですから、当然のことながら、藩士身分のものは、日本全体の国家組織を外国と戦いうるものに転換、変革しようと意図して動き、自藩の力をそれに利用して、朝廷幕府に働きかけようとしていた、というんですね。
としますならば、一薩摩藩士にすぎませんでした中村半次郎(桐野利秋)も、「日本全体が対外戦のできる国となることを願って、自藩に働きかけ、動かすことに成功して、慶応三年には、勝海舟の見るところ、西郷・大久保に賛同して手助けし、重臣・小松帯刀と並ぶほどの実力者になっていた」、ということが可能でしょう。
以上、勝海舟と原口清氏の著作をあわせみまして、作人氏がおっしゃるところの「桐野利秋は密偵だった」説のなにが胡乱かということは、浮き彫りになったかと存じます。
薩摩藩首脳部のあり方は、徐々に変化していたのですし、桐野利秋は決して、薩摩一藩のために行動していたのではなく、日本全体のことを考え、長州と手を結ぶ方向へ藩を動かそうと、西郷・大久保・小松に協力し、それを実現したわけです。
「薩摩の密偵」だったということにしてしまいますと、西郷・大久保・小松に真摯な志を利用され、薩摩一藩のためにしか働けなかったことになってしまいます。
作人氏自身がおっしゃっているように、「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」わけでして、としますならば、当然、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』に書きました久坂の書翰、坂本龍馬に託して武市半平太に届けた書翰の以下の部分に、強く賛同していたと考えられるわけです。
「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐)も弊藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」
「諸候も公卿もあてにはならない。われわれ、無名の志士たちが集まって幕府を糾弾し、天皇のご意志を貫かなければならない。そのためには、長州も土佐も、滅びていいんだよ」
幕末の動乱は、これほどの覚悟のもとにありましたのに、桐野利秋が薩摩の密偵であった、といいます作人氏の説は、桐野を貶めるだけではなく、桐野を利用したとされる西郷・大久保・小松をも、貶めることにならないでしょうか。この三人が、たかだか薩摩一藩の利益のみを考え行動していた、ということになってしまうわけですから。
長くなりましたので、作人氏が「桐野利秋密偵説」におきまして、参考に挙げておられます史料の細かな見当は、次回にまわします。またまた、ありえない読み違いをなさっておられたり、します。
また、どうぞお越しくださいませ。
高杉晋作は、過大評価されているなどという人もいるようですが、かなりしたたかで、少なくとも交渉役を上手くこなせる能力を持った人物ではあったようですね。
今、コロナの影響で特に大都市を中心に厳しい状況ですが、どうかお身体に気をつけて、これからも面白くて為になる歴史をこのブログで教えて頂ければ幸いです。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/f913a606bc91b39cfa8394e85abe4b37
上に書いておりますが、大久保、大隈が三菱を引き立てて成立しました日本の海運業。これに多大な尽力をしましたリチャード・ブラウンは、帰国後、長期間、在グラスゴウ日本領事を務めておりました。
グラスゴウは、とても日本と縁が深い土地です。
私は現在、寝る前にアップルTVでユーチューブを見ることが習慣になっておりまして、さっそくチャンネル登録いたしました。あとで、ゆっくり見せていただきますね。
神戸大学の新聞記事はざざっと見せていただきました。「平岡樺太庁長官」って、三島由紀夫の祖父ですよねえ。感慨深いです。
ありがとうございました。
まあ、犯人引き渡しは、最初から強くは望んでいなかったのではないかと、私は思います。だいたい、リチャードソンがろくでもない乱暴者だったことを、イギリス公使館は知っていました。
で、下関です。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/fb2ba0a35375d8c5cb2ad98a3aedfd2d
「無条件降伏に近い」と、私自身が書いておりますわねえ(笑)
ただ、ここに書いておりますように、高杉はツボは押さえております。「我が藩(長州)が馬韓に於いて貴国等の船舶に向かって砲撃したのは朝廷と幕府の命令なのだから、賠償金は幕府に請求なさるのが筋」なんですね。
負けたのは日本であって、長州ではないんです。
アーネスト・サトウをして、「(四カ国連合艦隊を相手に)日本人はよくたたかった」といわしめていますし、グラバーは持ち船を高杉に売っていますし、少なくともイギリス商人は、長州も十二分に相手にしております。
>団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航
これ、興味深く読みました。西日本の藩では、幕末に多くの藩士が命を賭して密航していたのですね。私は昔、ニューヨークに行ったときに、現地の女性から聞いた話を思い出しました。彼女は金髪?だったのですが、祖父が日本人だと言っていました。海軍の軍人としてグラスゴーに派遣され、そこで現地の女性とのロマンスで彼女の母が生まれたと言ってました。当時は、このような知識は全くなかったので「へー」と驚いた記憶があります。
>「報道しない自由」と同じようなことが、元勲の回顧録には多いのではないでしょうか。
大隈については、当てはまらないかもしれません。大隈は、政治家としては断トツで人気があり、講演では拍手喝さいを受けています。また、講演録も含めて、口述した書籍も多数あります。福沢諭吉を偲んだ1908年の『福沢先生の処世主義と我輩の処世主義』では、お互いに裏表がなく、遠慮なく世間に対して毒づくので敵が多いと言い、これを身体上至極宜しいと言っています。『大隈伯昔日譚』の中で、五榜の掲示の切支丹邪教について、長崎の四番崩れの問題で上司である澤宣嘉を差し置いて、朝廷から至急参内を要請されてパークスとの交渉を仰せつかっています。交渉(談判)は、午前10時から始まり昼食抜きで夕方まで行われましたが、大隈は一歩も引かず悪名高いパークスの要求を突っぱねています。そして、これが大隈が飛躍するきっかけであったとも述懐しています。
また、ちょっと驚くべきことですが、1911年の『世界平和の趨勢』の中で「かの世界第一の富豪ロスチャイル家の如きも、各国の政府に金を貸し付けて戦わしめ、また軍備を拡張せしめ、これによって得たところの収益で現時の富をなすに至ったものである。而して今や資本家の勢力は政府を左右し、平和の継続、戦争の開始、軍備の拡張、軍事費の増加をその意のままにすることが出来る」と断言しています。1919年の『永久平和の先決問題』の中では、第一次世界大戦で敗北したヴィルヘルム2世の傲慢だった姿勢に対して、「かくの如きはあたかも旧約聖書に在るイスラエル人にのみ神の特殊の恩寵の加わると考えた同一なもの…」と旧約聖書とユダヤ問題について鋭く指摘しています。大隈は、致遠館で改宗ユダヤ人であるフルベッキから聖書や独立宣言の指導を受けており、『大隈伯昔日譚』の中では、随所にユダヤ教の階級史観が読み取れるのですが、その後の段階でユダヤ禍にたどり着いたのかもしれません。
上記の書籍は岩波文庫で出版されており、青空文庫でも読めるのですが、個人的に一押しである1913年の『明治大帝の御遺業』は出版から漏れているようです。勿論国会図書館デジタルコレクションでは、閲覧可能です。大隈は、2度の長期の御巡幸に大蔵卿として随行され、具に明治天皇をごらんになっています。五箇条の御誓文の御宸翰の通り、国のため民のためなら一身の艱難辛苦を問わない御姿に接し、何御不自由なき御身分にかかわらず常に御質素を旨として、御自身の快楽のために金銭を使ったことがないと述べています。これは、全ての日本人に読んで欲しい本です。
>私は、日米開戦に、ユダヤ人といいますよりは、共産主義者の影を見ております。
上のコメントで紹介した『猶太と世界戦争』は、戦後に東北大学名誉教授になった奥津彦重氏の、昭和13年から17年までの論文をまとめたものです。愛宕北山のペンネームを使っているのですが、この本の内容を少し紹介します。1848年の『共産党宣言』の執筆を依頼したバルーフレヴィは、マルクス宛の手紙の中で「労働者階級の支配権を確保することにより、あらゆる国家の政府は、ユダヤ人の手中に入る。」と書いています。また、ルーデンドルフ将軍がトーラーの申命記を研究して、ユダヤ教のカバラ数秘術から15を特殊な数字として捉え、WW1は1914年の合計数字15であり、1941年を次の世界大戦の年と予想し、大東亜戦争の日米開戦について警鐘を鳴らしています。
宣伝になってしまうのですが、実はYouTubeに動画をアップしているので、お時間のある時にご覧頂ければ幸いです。
『戦前の本を読む ユダヤと世界戦争①』 https://youtu.be/h850Gd3mIRQ
補足)ユダヤ問題にはご注意ください。上記の動画は7本シリーズで制作に半年かかりましたが、その後3か月ほど鬱になりました。
樺太問題については、かなり長い新聞記事ですが、別角度から論じています。ロシアが樺太を流刑地としてしていた様子も書いています。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00472102&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
薩英戦争の和睦条件ですが、確かに薩摩藩側は賠償に応じています。
但し、薩摩藩は軍艦を薩摩藩に売る事を条件に付けているので、無条件ではありません。商売人のイギリスにとっては渡りに船だったかもしれませんが、イギリスが薩摩を取引に足る相手だと考えたのは間違いないと思います。
一方、肝心の殺害犯の引き渡しについてですが、薩摩側は、犯人は逃げてしまって行方が分からないので捕まえたらこちらで処分するという事になっていたと思いますが、これは事実上のゼロ回答です。
強盗や流れ者に殺されたならまだしも、藩の実質的トップである久光の警護をしていた、ある程度身分の高い武士達が複数人で取り囲んで滅多刺しにしているのに、揃いも揃って逃げて行方不明等というのは、有り得ないし、かなり相手を舐めきった返答です。
この件については引き渡しを拒否したのは明らかで、イギリス側が譲歩して諦めたと見るべきでしょう。
結局、賠償金については薩摩藩側が譲歩し、犯人の引き渡しについてはイギリス側が譲歩したという事で痛み分けという事ではないでしょうか?
下関戦争の場合、長州側は基本的に相手の条件をほぼ丸呑みだったので、薩英戦争とはかなり状況が異なるかと。
歴史を俯瞰する、という点についてです。
当時渦中にいた大隈には、知りようもなかったことを、現在に生きるわれわれは、史料でしることができます。
例えば、ですね。明治4年5月、アメリカが長崎で艦隊をそろえ、朝鮮開国を求めて江華島に攻撃をかけました「辛未洋擾」におきまして、朝鮮は二百数十名の戦死者を出しています。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/c/cf5743fce728e5457cbce515b17514a1
日本が開国し、アメリカ船が長崎で補給可能になったからこそ、朝鮮は攻撃を受けたわけでして、新体制の日本に対する朝鮮の不信感は、もっともではないでしょうか? しかし、このときの朝鮮側の戦死者の数を、当時の日本人は知りませんでした。
また、樺太問題です。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6c895684fdefd651a26e2f6c081b2c71
上を読んでいただければ、樺太問題は、大久保利通がイギリス公使パークスを信用しすぎて失敗したことがわかると思うのですが、ロシア側の対応については、ごく最近、資料公開されて、わかってきたことです。
史料の裏付けを得て、俯瞰したい、ということなんです。
後半のGHQの焚書など、占領下に彼らが行いました暴挙に対して、もっと掘り返すべき、という御意見には、強く共感いたします。
私は、日米開戦に、ユダヤ人といいますよりは、共産主義者の影をを見ております。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/efa20fcbf1bf67c7fa10b01114e4a454
そして、幕末です。
長州ファイブについて、なのですが、彼らは確かに、ジャーディンマセソン商会の紹介で、イギリスに渡っています。しかし、彼らは、薩摩の密航留学生とちがいまして、藩が計画的に、全面的なバックアップをして送り出したわけではありませんし、どこでどう、金銭のネコババがあったのか、かなりな大金を払った割には、ろくな待遇を受けていません。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6723e89d5d251bf907833c21a04d2fc3
ジャーデンマセソンは、密航留学にかかわった場合、幕府との関係がこじれるおそれがありますし、当時、それは決して得なことではありませんでしたので、貨物船に乗せるのも一種の好意であったのではないでしょうか。
レオン・ロッシュが在日フランス公使となって幕府に食い込みまして以降、良質の生糸が手に入らなくなり、ジャーデンマセソンも反幕勢力への肩入れはしたでしょうけれども、彼らは自由貿易大国イギリスの商人です。
どこかに書いたはずなのですが、当時のイギリスの自由貿易は徹底していまして、クリミア戦争の最中に、ロシアはロンドンの金融市場で戦費の調達をしたといいますし、薩英戦争の直前、イギリス商人は薩摩にアームストロング砲を売ろうとしていて、慌てた本国政府が差し止めます。それ以外の武器を、長崎のイギリス商人から、薩摩がイギリスを迎え撃つための多量の武器を買っていたことは、薩摩藩の資料に残っています。
つまり、なにがいいたいかと申しますと、イギリスの外交とイギリス商人の動向は、必ずしも一体ではなかった、ということです。
『大隈侯昔日譚』なのですが、征韓論政変の当事者が語った数少ない回顧談ですし、非常に貴重な証言が多いと思っています。
ただ、昨今言われています「報道しない自由」と同じようなことが、元勲の回顧録には多いのではないでしょうか。
例えば大隈が、モンブラン伯爵の存在を知らないはずはないのですが、木戸や大久保と同じく、いっさい触れていません。
また、詐欺にあい多額の金銭をなくした岩倉使節団の大失敗など、知らないはずはないのに、話していないことは多々あります。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/87e3ebf60185443b1255811c76a04979
逆に、西郷隆盛と久光の関係など、薩摩の内部事情は、大隈の知るよしもないことなのです。そこを断言されても、単なる個人的な印象にすぎないのではないでしょうか。
私は、大隈重信の功績は、大久保といっしょに、日本の海運業の基礎を築いたことだと、私は思っています。征台と西南戦争によって、軍事物資や兵員を運ぶ必要に迫られて、のことですが、島国日本で、海運を外国に握られていては、明治、大日本帝国の発展は、ありえなかったでしょう。
海軍を重視していました佐賀と薩摩の出身者が手を結んだからこそ、可能だったことだと思います。
アーネスト・サトウの部分は、大隈重信との重なりを感じました。
>ミル・ヒルでの教育は、ラテン語、ギリシャ語を中心とする古典で、しかも宗教的な規律がきびしく、早熟だったらしいアーネストにとっては、「退屈な学校生活」でした。
『大隈伯昔日譚』の中で大隈は、弘道館での四書五経を中心とする漢学に対して空虚な理想論として反発しました。儒教思想を封建制度を支えるものと捉え、前途有望な若者の才能を摘むものであるとして憎悪の対象にもなりました。そして、義祭同盟に参加するとともに蘭学の勉強を始め、オランダ憲法を勉強したことが後々大いに役立ったと述懐しています。
この本の中で明治6年の政変で、江藤新平が新政府を去る時に大隈宅で一晩語り明かした記述があります。江藤は、薩藩は信頼できるが長藩は狡猾であると言っています。長州ファイブが英国へ発った直後に、外国船砲撃事件が起こりました。その賠償金交渉では、急遽帰国した伊藤博文が通訳となって、幕府に三百万両の支払いを押し付けています。英国で彼ら長州ファイブの面倒をみたのは、ジャーディンマセソン商会でした。長州は、表向き攘夷を唱えながら裏ではジャーディンマセソン商会の倒幕の指示を受けていたのではないでしょうか。
大隈は征韓論について、攘夷派の新政府に対する怒りの矛先を逸らすためだったと言います。明治維新は、攘夷派の志士たちの後押しがあったから成就したものであり、新政府は兵庫開港や陛下への謁見を許すなど、幕府以上に開国を推進する正反対の政策を行ったことに起因するとしています。また、参議として内閣の一員である西郷隆盛を、国父久光からの𠮟責でメンタルを病んだ痛々しい姿に対して、なぜ西郷が人気があるかさっぱりわからないとも告白しています。
GHQは、昭和3年1月から昭和20年9月まで発行された本のうち7000冊余りを焚書しました。彼らは、日本人に知られてはまずい情報を隠したのです。逆に言うと、この期間に出版された本で、焚書されなかったものはGHQが作った歴史を補完するものだったと思います。また、昭和11年から20年までユダヤ研究の学会であった国際政経学会は、焚書だけでなくその存在すら丸ごと闇に葬り去られています。昭和18年出版の愛宕北山著『猶太と世界戦争』は、文字通り日本が滅亡の危機にあって先人が残した貴重過ぎる記録です。
これは焚書ではないのですが、徳富蘇峰が終戦後に書いた『頑蘇夢物語』では、幕末の官吏以上に占領下で日本の役人が小ばかにされている姿に喝采しています。東条英機に対して役人たちは笛吹けども踊らず状態であり、終戦後の東久邇内閣は、役人たちのサボタージュによって倒閣になったと言っています。また、幣原内閣をGHQの傀儡政権と断定しており、日本国憲法が公布され彼らに都合の良い歴史が作られました。隠すと見たくなるのは人間の心理です。私は、消し去られた歴史こそ真実に近い歴史なのではないかと考えています。
>「あまり世間に知られていない史実」を発掘し、一般にいわれていることとはちがった視点で歴史を俯瞰してみたい
上でこう述べられているので、一言書かせていただきました。
幕末、欧米諸国が東アジアにまで進出来てまいりました状況を、一応、私なりにまとめましたのが以下です。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/b75a2fb230a30c575b3f900b278641cb
英国もフランスも、それぞれに自国の利益のために動いております。ただ、「自国」といいましても、多少、派遣されました外交官の逸脱もございます。
フランスが、当時の日本において、イギリスと対立しているように見えましたのは、ヨーロッパにおきます蚕の病気で、生糸を多量に輸入する必要があって、ところがその生糸の流通を、イギリス商人が独占しておりましたことから、フランス公使レオン・ロッシュは、かなりな独断で、幕府に働きかけ、良質生糸の交易をフランス商人に独占させようとし、それに在日イギリス商人の多大な反発があったから、だと私は見ております。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/c/dabb0d6e81d21b462245d14d0caa257f
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/22c992479e71a6a37a3261ecf7ffd795
幕末、来日しておりましたフランス軍艦デュプレクス号のプティ・トゥアール艦長は、以下のように述べております。
われわれ(フランス)の外交政策は、将軍制度というぐらついた構築物の上に、排他と独占に基づく貿易制度の土台を築いたのである。
それ故これが、イギリス人の敵意を、そして国事に関して外国人が干渉するのを感じて、憤怒している古い考えの日本人や宗教団体の憎悪を、タイクン(将軍)に向けさせることになった。
薩摩と長門は、このような様々の要因を利用し、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しを得て、もはや不可避となってしまっていた災難を早めさせたのであった。
私は、艦長のこの見解が、非常に客観的なものであったと思っております。
もしお時間がございましたら、こういったこのブログの他の部分にも、どうぞ、お目通しくださいませ。
郎女さまが、前に言及されている『大隈侯昔日譚』を読むと幕末の全く違った歴史が見えてきます。安政の巨大地震が3つあり、巨大彗星が3つあって、開国後に疫病(コレラ)が持ち込まれ、江戸で10万人・全国で40万人が亡くなったと言います。1861年のロシア軍艦対馬占領事件では、幕府は英国にロシア軍艦を追い払ってもらいました。横浜では、英仏軍がそれぞれ勝手に駐留しています。大隈重信は、当時は外国に主権を蹂躙されて、圧倒的な武力の前に幕府はなすすべがなかったと述懐しています。。アロー戦争で因縁をつけた英国領事のパークスが、1865年に日本に英国公使として来日し、そこから65年と67年に兵庫港に外国軍艦を結集させて、不平等条約の勅許から兵庫の開港・王政復古の大号令・鳥羽伏見の戦いと続きます。
明治維新は、グラバーが筋書きを描いたともいいますが、グラバー商会はジャーディンマセソン商会の代理店です。ボロデール夫人が、真っ先に逃げ込んだ先はジャーディンマセソン商会と言います。リチャードソンは、1週間前に香港から来日しており、当時香港では英国人は乱暴狼藉の限りを尽くし、清国の人々は英国人が通れば丁度大名行列のようだったと言います。GHQの焚書図書の中には、苛烈な植民地支配の様子が書かれています。英国では、アヘンを禁止していたにもかかわらず、インドでは奨励し平均寿命は23歳まで低下したと言います。清国では、輸入額の大半がアヘンになったといい、ジャーディンマセソン商会は莫大な富を築いて、その利益を英国に送金するために作られた銀行がHSBCです。
大隈は、当時を振り返って英仏の勢力争いが日本で展開されたと言います。尊攘派に手を焼く幕府は、英国に頼んで薩英戦争が起こり、英仏に頼んで下関戦争が起きたと書いています。また、薩長などの尊攘派は、表向きは攘夷を唱えながら、その背後には外国勢力がいたと思います。砲艦外交に象徴されるように、圧倒的な武力の前に日本はあくまでも受け身で主体性はなかったのではないでしょうか。
どん兵衛さま。私は伊藤痴遊の創作だと、思い込んでおりました。他の典拠は存じません。
加来氏はトンデモなことを言っておられることが多々あるのであまり好きな人ではなかったのですが、一坂氏のあとがきはこの方のことを言っていたのですね。
もう一点お二方にお尋ねしたいのですが、伊藤痴遊の著作や司馬遼太郎の小説などで桐野が「俺に文字があれば天下を取っている」と豪語していたというのを見かけますが、こちらの発言の典拠は何かあるのでしょうか。
伯爵山本権兵衛伝と一坂氏のご著書、存じませんでした。さっそく、読んでみます。
本の「はじめに」を読みまして、一坂氏が手に入れられたスクラップブックだと知りました。加来氏が「歴史読本」に連載されたので、てっきり加来氏の所有物だと考えました。一坂氏は東大赤門前の古書店でスクラップブックを手に入れたと書かれていますが、「歴史読本」には神田古書店街で発掘されたとなっています。
郎女様から一坂氏よりコピーを頂いたと聞いておりましたが、一坂氏と加来氏の交遊から一坂氏が手に入れられたと勝手に思い込んでおりました。
上記コメントで変なことを書きまして失礼しました。お許し下さい。
郎女様よりお電話を頂きまして、スクラップブックの件について私の調べた結果について申し上げます。
スクラップブックは加来耕三氏が見つけられたと思われ、平成4年の[歴史読本]に連載されています。桐野については第7回(通号573号)です。
久さんの年齢が戸籍と談話では計算が合わないのですが、鹿児島県立図書館にある鹿児島新聞の該当しそうな年前後は調べましたが、見つかりませんでした。
記事の見出し、記号、周辺記事の様子から推測すると鹿児島新聞に間違いないと思われますが、鹿児島新聞も全部揃っているわけではなく残念ながらわかりませんでした。
鹿児島朝日新聞はマイクロフィルムでしたので、全部を探してはいません。
一坂氏のご著書を後程拝見したいと存じます。
山本権兵衛伝下巻、国会図書館デジタルで確認いたしました。ご情報、ありがとうございました。
また、伯爵山本権兵衛伝の下巻(国立デジタルから見れます)に、山本の後年の手記が所収されていますが、その中で多くはありませんが山本が西郷から聞いたという桐野についての興味深い話が記されています。もし関心がございましたらご覧ください。既にご存知のことでありましたら申し訳ございません。
一坂太郎氏のスクラップブック!
私、昔、一坂太郎氏が東行庵にいらしたころにお訪ねして、そのスクラップブックのコピーをいただきました。後日、中村様にコピーのコピーを差し上げましたところ、鹿児島の県立図書館に通って、大正年間の新聞記事などをさがしてくださったのですが、結局、原本を見つけることはできなかったそうなんです。
もう一度、中村様にお聞きしてみますが、おそらくは現在まで、わからないままではないのかと思います。
残念です。
一坂太郎氏の著書『語り継がれた西郷どん』の中に桐野利秋の妻、久夫人の大正年間のものと思われる回顧談が載っていますが、元が一坂氏が手に入れたスクラップブックのようで、談話記事の出所は定かではないようです。久夫人の談話の出所について御存知のことはございますでしょうか。御存知のことがございましたらご教示いただければと思います。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/adba90d25d4c07cc03c8f609be152385
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6f8530ec685091629294098db34578a9
よろしければ、ご覧くださいませ。
ご質問ありがとうございます。
薩英戦争の死者の件ですが、なにを見て書いたのか、失念してしまっております。
ただ、ですね。近年出てきました史料で、死者の数は増えていたはずです。確かな記憶ではないのですが、忠義公史料か玉里史料か、鹿児島県が出版したものだったように覚えているのですが。
死者5人と言いますのは、確か「薩藩海軍史」がもとになっていたかと。これは、昭和初期に出版されたものでして、薩摩藩政時代の海軍を顕彰するために、編纂されたもので、生麦事件シリーズで書いておりますが、かなり、不正確です。
ネットで見つけられましたのは、唯一、以下です。
https://social-studies33.com/歴史/生麦事件と薩英戦争③%E3%80%80死者24名63名/
ようやく、腕の手術も終わりましたので、史料をさがしてみます。
薩英戦争は、生麦事件と一連の出来事です。私は、生麦事件シリーズのコメント欄にご訪問くださいました長岡由秀氏から、「薩英戦争の薩摩側死者が多かったという史料が出ています」と、お教えいただきました。
あと、お言葉を返すようですが、イギリスは「薩摩はイギリスとの交易に積極的なのだから反撃してくるはずがない」と、戦争するつもりはなく、生麦事件賠償金の担保に薩摩の汽船を拿捕しながら、油断していたわけですよね。
結局、薩摩は賠償金は支払いましたので、イギリスの目的は半分は達しています。犯人の引き渡しについては、ですね。生麦事件シリーズで、延々考察しておりますが、これは薩摩にとって、とてつもなくやっかいな問題でした。
斬り殺されましたリチャードソンたちは、真正面から大名行列(正確には藩主の父親の行列ですが)につっこんで、久光の籠のごくそばまで馬を乗り入れたわけですから、無礼打ちの抜刀は、当然のことです。
ただ、リチャードソンはそれで死んだわけではなく、落馬の後、久光の知らないところで、試し斬りのようにズタズタにされたんです。
このことを知っていたのは、犯人たちのみで、一般には、無礼打ちの是非がとわれていたわけですから、犯人を引き渡せ、といわれて、忠実な家臣を差し出したのでは、久光のメンツが立ちません。
日本の馬は去勢馬ではなく、暴走するのが常でしたので、よほどのことがないかぎり、街道や盛り場で乗ることは、日本人は禁じられていましたのに、外国人に許す幕府がおかしい、というのが、薩摩の言い分です。
薩摩は最後の最後まで、幕府が諸外国と結んだ条約に納得せず、結び直すことを画策していました。琉球国王名義で、です。
そしてイギリスは、下関戦争を戦った長州も、交渉相手として認識するようになっていますが、そのことは、戦い方云々といいますよりは、薩摩が、「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」といいます宣伝を繰り広げ、実際に、薩英戦争、下関戦争によって、薩摩、長州を幕府が抑えることはできていないという日本の当時の現実を、イギリスが知った結果じゃないんでしょうか。イギリスといいますより、アーネスト・サトウが、かもしれませんが(笑)
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/0a79549c33f6ea7b1a2e8deee30eb570
少し気になったのは薩英戦争の箇所です。薩摩側の死者24人となっていますが、Wikiでは砲台と市街地合わせて5人です。死傷者全員合わせても19人です。どちらが正確なのでしょうか?
また、下関戦争との違いは、長州側は陸戦隊を上陸されて沿岸の砲台を破壊占領されています。死傷者云々以前に四ヵ国連合の目標は達成され、軍事的に明らかに敗北です。
薩英戦争の場合は、英国側は複数の船を損傷させられ、旗艦の艦長が戦死するなど、戦闘による損害は英国側の方が多く、横浜に逃げ帰った形になり、ニューヨークタイムズではイギリス側の敗北のように報道されています。
実際の所はWikiの記述のように痛み分けというか引き分けだったと思いますが、この戦闘で苦戦した事が、イギリスが薩摩藩を交渉に足る存在だと認識して接近するきっかけになったのは確かかと。
別に桐野作人氏は、「私の惚れた桐野」についての本など出しておられません。創作だとおっしゃったのは、あなた様の方でございますわよねえ。
桐野氏の創作物の主人公に、私はまったくもって惚れようもなかった、というだけのことです。
司馬遼太郎氏の創作物の桐野には、それなりに惚れておりましたけれども。
あなたの惚れた桐野利秋について作品を出してくれた 作人氏には感謝もしないとね。このくらいの気持ちが無いと駄目かもね。まずは。
創作物とおっしゃいますが、多くの読者は、史実と受け止めますよね。でもあれは史実ではないし、作者の意図なぞ、私にとってはどうでもいいことです。
えーとまず、私と中村さまは、少々立ち位置がちがいます。私は、最初、「女として、理屈抜きで歴史上の人物を好きになる」のですが、かならずそこから逸脱します。人物そのものよりも、「あまり世間に知られていない史実」を発掘し、一般にいわれていることとはちがった視点で歴史を俯瞰してみたい、といいます誘惑にあらがえなくなってしまうんです。
けっこう年がいってからはまりこみましたモンブラン伯爵などは、どう考えても女としてはまったわけではありませんで、これまでなぜ彼が埋もれていたのか、その謎にはまったわけです。
桐野の場合は、ですね。もしかすると若かりし頃は、女としてはまったのかもしれませんが、これも結局は、謎だから、です。
愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/8b2c2e30f647e13fdd362eed4356bdb8
上に書いております以下。
KIRINO TOSIAKI
In all your fantasies, you always knew
that man and mystery……
IRATUME
……were both in you.
ということです。
謎を解くということは、史実を追い求める、ということでございまして、枝葉が全体を決めてしまうと、私は考えております。。
あるいは私は、永遠に謎を追っていたいのかもしれません(笑)
作者の意図というものがあるのでしょうから、お二人が史実がどうかと作人氏を批判しても、結局は枝葉末梢に拘ることと同じですよね。作人氏は、利秋は西南戦争で名前を売って表舞台に出たが、明治維新前後では裏方の人間で大した人物ではないという意図で作品を書いたと思いますね。
ですから、女子は、利秋を書きたいと述べていたように記憶してますが、なぜ、作品が書けないかというと、
意図が明確でないからかも。女として、理屈は抜きで利秋が好きなら好きな点を嘘でもよいと思うくらいで書くことをお勧めします。人切りと密偵という利秋のイメージだけでは利秋がかわいそうに思うなら。
枝葉にもなりうる「史実が違う」と他人の作品を批判しても作者には意図があることを大切に尊重すべきか?
維新までの桐野については、ここに挙げました勝海舟の「解難録」が正確かなあ、と思います。西郷、大久保の手助けをして薩摩藩と日本を維新に導いた、といったところでしょうか。
いろいろな考え方があろうかと思いますが、私は、戊辰戦争によって幕藩体制をひっくりかえさずして、日本は劇的な変革をなしえなかった、という見解をとっていますので、結果的に西郷、大久保の手助けではありますが、桐野は主体的に変革をめざそうとしていたと思います。
維新後、ですよね。これが問題です。
幕府の顛覆までは薩長一枚岩でしたけれども、そこから先は、ちがいました。長州が徹底した中央集権をめざしたのにくらべまして、薩摩は、分権的な国家をめざそうとしていたと、私は考えています。
新しい政体につきまして、さまざまな意見があったわけでして、明治六年政変後、政府に反する在野有力政治家が誕生しました。
新政府は、この勢力を恐れて、すさまじい言論弾圧に走るわけです。
「桐野利秋とは何者か!?」vol3
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/5fd3b460518ba5a9d838cd7f5a1acc74
上に挙げました福澤諭吉の丁丑公論ですが、「世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す」とあり、民権論者だった桐野利秋は、「日本国民抵抗の精神」を示したのだと、私は思っております。
彼が一人欠けたからといって、日本史がどうなったか、というほどのことはありません。
しかし、それなら、西郷だろうが大久保だろうが、一人欠けたからといって、歴史が変わるほどのこてゃなかったのではないか、という気がしないでもないです。
歴史が変わる、といえば、むしろ弾圧者の存在の方が大きく幕末の井伊直弼、明治の大久保利通がいなければ、あるいは歴史は大きく変わったかもしれない、と思うのは私だけでしょうか。
*桐野利秋の日本近代史における役割というか、
価値ですね。彼がいなかった場合に明治維新前後は、どうなったのか?
そして、日本近代史というか明治維新前後において桐野利秋に、それほどの価値がなければ、二人の討論は時代小説としての論議という視点では面白いがと思っています。主観とか客観的というより、物語をどう構成するかの問題ですしね。
桐野作人氏は私論が入った作品(歴史小説?)は
私も女子と同じに好きではありませんがね。笑い。
敏明
siori@af.wakwak.com
お返事、遅くなりました。
実は私、「丁丑公論」よりも先に、南北戦争時の戦術書の翻訳を読みました。
むしろ私があの時代に生きていたら、なにしろ私も結構偏屈で浮世離れした性格の人間ですから「民権派」になって、反大久保の思想に染まっていたでしょう。しかし現代人の目線で客観的に述べるとすれば、福沢の「丁丑公論」の記述をそのまま受け入れる事は出来ません。
私は「丁丑公論」は読んでません。「福翁自伝」は読んでます。私は福沢の知性や人格は認めますが、vol3で書かれていた福沢の西南戦争に関する論述は、西南戦争の本質を突いていないと思ってます。
私は前回「西郷軍の開戦理由が分からない」と書きましたが、実は私なりに想定している「開戦理由」というのはあるのです。
それは西郷も大久保も「薩摩武士だから」戦争になったのだろう、という事です。
どっちに責任があるとか、善悪、理屈、それらは本質的な問題ではなかったと思います。決着は「果し合いで決める」、なぜなら「薩摩武士だから」です。挑戦を受ければ立たざるを得ない。「逃げる」という選択肢はあり得ません(こういう思考回路は現代人には理解不能だと思いますが)。
福沢は良識の人ですからああいった理屈付けをしたがるのでしょうが(あるいは一旦幕府に仕えた以上は「新政府には出仕しない」という在野意識の強さから来ているのでしょうが)、「福翁自伝」を読む限り、福沢は戦争や人殺しが嫌いで、そういった事を極力避けたがる人間です。それは江戸開城直前に「戦争になったらすぐに逃げるから」と加藤弘之と言い合ってた場面などで顕著です。文人、知識人なのだからある意味それも当然でしょう。
そんな福沢が「戦争を厭わない(武断的発想の強い)薩摩武士」の人間性を理解していたとは思えません。
西南戦争を避ける道は私もあったと思います。それは「対外戦争」をするという道です。
手頃な戦場としては朝鮮半島あたりが妥当だったでしょう。そうすれば内戦(日本人同士の殺し合い)を避ける事も出来て、対外強硬派の「民権派」も納得して世論も一本化され、愛国心も強まり団結心も生まれ、良い事尽くめだったでしょう。ただ一点、外征費による財政逼迫によって内政が著しく置き去りにされる、という点を除けば。
しかしこの道は選択されず、薩軍の武装解除もされず、最終的には西南戦争に至ってしまった、という風に私は考えています、今の所は。
竹橋事件! なつかしいです。『火はわが胸中にあり―忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件』は徴兵制にからむ事件でしたので、昔、読み込んだのですが、すっかり内容を忘れてしまう始末です。
しかし、そうです。責任は、当然為政者の側にあったと思います。このことは、また徴兵制度について、ブログに書くときに述べたいと思います。作人氏が私の大昔の論文を参照なさっていますのが、徴兵制に関する部分ですし、昔の自分の知識不足も当然ありますが、とても不本意な引用のされ方で、これは、私の怒りの中心になっています。
まあ、それこそ、大昔といえども公表した論文を、どう読もうが、それは作人氏の勝手なのかもしれませんが、論文を書いた本人にしてみましたら、とんでもなく短絡な読み方をされてしまった、という不満でいっぱいです。そして、その作人氏の読み方は、日記や書翰など、さまざまな史料の読解、あつかいにも通じていまして、なんでそんな解釈になるかなあ、という不信感の大きな要因となっています。
二二六事件、五一五事件は、あまりに時代、条件がちがいすぎますし、近いところで、箱館戦争です。
私は、責任はすべて、新政府にあると思います。軍艦を渡したことも含めて、原因を作ったのは新政府の側ですし、戦争を終わらせる責任も、すべて新政府の側にありました。
例え、榎本軍の行動が、「300万坪という広大な土地を99年間リヒャルト・ガルトネルに貸し出す」というような売国的なものであったにしましても、蝦夷でどんな金集めをしたにしましても、日本の当事者は新政府なのですから、責任はすべて、新政府にありました。それと同じ事が、西南戦争についてもいえます。
それと、「江戸幕藩体制からたった十年で近代民主政治が出来るとは思えません」とおっしゃっている部分なのですが、むしろ、私は、なにもかもをあまりに急進的に、強引に変革しようとした歪みが、西南戦争を引き起こした、と思っています。もっと漸進的にやる必要があったのではないかと。
あと、第二、第三の「西郷軍」は起こりえませんでした。武器を私有し、弾丸を製造し、現役の大将、少将をいただいた国民軍は、外になかったから、です。
短いですが、以上。
「内戦の被害の責任、ということならば(中略)反乱の責任を問われない方が、おかしくないですか?」の部分につきまして、私はそういったお考えに違和感があるのです。
「江戸時代でさえ」という例で仰るならば、西南戦争当時の「大久保政府」の立場は「藩の家老」ではなくて「幕府の首脳あるいは将軍」という立場だと思います。江戸時代に内戦、内乱によって幕府のトップが責任を取るなどという事があり得ますでしょうか?むしろ逆に徹底的に幕府から粛清されるのではないでしょうか?例えば島原の乱のように。
更に言えば二二六事件、五一五事件、竹橋事件などは「為政者の側の責任」なのでしょうか?
私は「大久保政府が正しかった」と申しているのではありません。「西南戦争の見方は今でも複雑難解で」と書きましたように、西南戦争はあまりにも不可解な点が多く、私もいまだによく理解ができないのです。
そして西南戦争は内乱、反乱というよりも、万単位の戦力を動員した、れっきとした「戦争」です。
なぜ西郷軍は開戦をしたのでしょうか?
政府の失政のせいで鹿児島の民が飢えていて死にそうだった、あるいは政府軍が理不尽にも大軍で鹿児島に攻め込んできた、というのが理由であればまだ分かります。
「江藤や前原が理不尽な形で政府に誅殺された」「民権が滅ぼされる」「西郷が殺されそうになった(それが真実だったとしても)」というのが万単位の人間を動員して戦争を起こす理由になるのでしょうか?中央集権を必死で目指している政府が地方政府に武装解除させようとした事がそれほど理不尽な事でしょうか?鹿児島だけ特別視するほうが他地域から見ればよほど理不尽なのではないでしょうか?
そして「西南戦争の責任」の「責任」という言葉の定義について、これには二通りの「責任」があると思います。それは「戦争を始めた責任」と「戦争に負けた責任」です。大久保政府側の事はとりあえず措くとして、西郷軍の首脳部にはこの二つの「責任」がありますので、やはり西郷や桐野の責任は問わざるを得ないでしょう。西南戦争の終盤では、西郷軍の徴兵、挑発が酷かったという話も時々聞きます(おそらく桐野作人氏のあの文言は、その点を差しているのではないでしょうか)。
私は西南戦争までが「一連の維新運動の一環だった」と思ってます。民権や野党が大事なのは私もよく分かりますが、江戸幕藩体制からたった十年で近代民主政治が出来るとは思えません。現代の中国は建国から何十年も経っているのに近代民主政治にはなっていませんが、国家は(一応)発展しているようです。
仮に西郷軍が勝っていたとしても、その後の「西郷政府」はどうなったでしょうか?私は「大久保政府」のように時には強権を発動してでも反乱を抑え込まない限り、第二、第三の「西郷軍」が続いていたのではないか?と思ってます。
乱文、失礼しました。
誤解されてしまいそうな気がしましたので、といいますか、私がファンであることは事実ですので、「愛情があってなおかつ客観的な本」として栗原氏の史伝をだしたわけなのですけれども。
お言葉ですけれども、「西南戦争は大久保利通らが退いて、それで終わらせるべきだった」と私は思っておりません。桐野作人氏の「桐野利秋は切腹して戦争を終わらせるべきだった」という意見に、福沢諭吉の言葉を借りれば「大久保が引けば戦争は終わった」ということになるよ、と対峙して述べているだけです。
桐野が切腹すれば西南戦争が早期終了したとは、到底私には思えませんし、とすれば、大久保が引いたからといって、西南戦争は終わらなかったでしょう。
内戦の被害の責任、ということならば、通常、為政者の側に求めるでしょう。江戸時代でさえも、一揆を起こせば首謀者は磔になるかもしれませんが、起こされた藩の家老は、確実に切腹です。
起こされたときの為政者が、反乱の責任を問われない方が、おかしくないですか?
私は、昔は「丁丑公論」をすべて理解することはできなかったんですが、いま読み返してみますと、中央集権の行き過ぎをちゃんと指摘していますし、反乱が起こる前に、政府ができることはたくさんあったのではないでしょうか。
しかし、自分の意見はまったく述べていないつもりなのですけれども、愛情があれば、どうしても客観性に欠けるのでしょうか。
とすれば、これまで書いてきたことは失敗かな、と思います。
私が拝見した所、郎女さんは「(vol1でも書かれていたように)桐野利秋の主観に立って、なるべく桐野を肯定するような形で書くべきである」という立場ですが、その一方で桐野作人氏は「桐野利秋を客観的に見て書く」という立場を優先しており、両者の立場にギャップが目立ちます。
プロの物書きである桐野作人氏が「なるべく多くの人に読んでもらいたい。本の売上げ部数も伸ばしたい」と意識して書くのは当然でしょうから、「桐野利秋の主観に立って読む人」と「客観的に見て読む人」の人数を天秤にかければ、後者を優先するのは適切な選択だと思います。そして私も後者に属する読者ですので、正直に言えばあまりこの本に違和感を感じませんでしたし、密偵説についても「そういう見方もあるんだな」という感想を抱く程度でした。
「西南戦争は大久保利通らが退いて、それで終わらせる(防ぐ)べきだった」「桐野利秋密偵説は胡乱である」という郎女さんのご見解と、この本の見解に相違が生じているのも、その主な原因は「主観か、客観か」の立場の相違にあるように私には感じられます。
密偵説云々の部分は措くとしましても、vol3で書かれていた「西南戦争は大久保利通(政府)が云々」と仰っている部分に関して言えば、桐野作人氏が「客観的」立場を優先してこの本を書く以上は「西南戦争の被害の責任を一方的に大久保(政府)側に求めて、西郷・桐野の責任には目をつぶる」などという立場は取れないのではないでしょうか。
そして世間一般の共通認識としても、そのような立場が、少なくとも多数派であるようには私には見えません(九州での雰囲気は私には分かりませんが、逆に当時の「旧賊軍」、特に東日本では会津の柴五郎の一族のように「薩軍への雪辱を果たしたい」という純粋な理由で、積極的に政府軍を応援した人達もいたようですし)。
西南戦争の見方は今でも複雑難解で、西南戦争における西郷隆盛の評価はいまだに揺れ動いているように私には感じられます(「征韓論・明治六年の政変」も含めて)。
少なくとも開戦直前に西郷隆盛や薩軍に生で触れていたアーネスト・サトウは当時「親西郷、反大久保」の感情を抱いてはおりましたけれども、私自身の評価は、それとはまた別です。
それでは続きを楽しみにお待ちしております。
いつもながらの快刀乱麻です。
自分の読解の浅さを恥じるばかりです。
次回も楽しみに致しておりますが、また、お忙しい時期となりましたので、どうかお身体にお気をつけ下さい。