珍大河『花燃ゆ32』と史実◆高杉晋作伝説の虚実の続きです。
なんだか、文句を叫ぶのにもあきてまいりました昨今ですが、一つだけ、叫びます。
傅役(守り役)って、主には女じゃないから!!! まずは藩士。興丸の傅役の一人は、高杉のおやじです。
ついでに言いますと、銀姫の守り役は、乃木希典の父親で、乃木家は玉木家の本家で、杉家と親戚です。私は、その縁で、文(美和)が奥勤めに上がったものと推測しています。
久坂美和の奥勤めの史料はちゃんと残っていまして、山本栄一郎氏が「女儀日記」や「中正公伝」を探索して、調べておいでです。
山本氏の「吉田松陰の妹・文(美和)」によりますと、慶応元年(1865)9月25日に銀姫付きのお次女中として召し出されているんですね。
もちろん、高杉の挙兵より後の話で、道明が久坂家を継ぎ、父・百合之助を看取った後です。
その後、明治2年の記録があるんだそうですが、興丸「着袴の儀」のとき、お伽(子守)同役で、拝領金に預かれた女中の中では、一番下の身分です。なお、このときの記録に、奥女中の守り役の名前が出てきますが、どうも興丸につきっきり、というわけではないようでして、銀姫付きの奥女中が兼任した様子、なんですね。御中臈頭・御守役・袖野、御側・御守役・濱野ということです。ちなみに、美和が銀姫のお側女中として記録されていますのは、翌明治3年のこと、です。
まあ、ともかく、ですね。大出世の守役でっせ!!!みたいな、ドラマの描き方は、?????です。まあ、もともと、史実では、興丸誕生の時、文(美和)はまだ、奥御殿に上がっていないわけなんですが。
で、本題です。
私、けっこうなショックを受けております。
なんだかんだいいまして、桐野利秋が禁門の変の前から長州びいきだったことは史料に残っていることですし、高杉晋作を尊敬していたのではないか、というような伝説もありましたし、やはり、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と、後世形容されました高杉の挙兵伝説を、私も信じてしまっていたから、です。
司馬遼太郎氏の作品が、けっして史実ではないと知ってはいましても、やはり、若かった頃に読みました巧みな表現は、脳裏にしみついてしまっていたのでしょう。
以下、司馬遼太郎氏著「世に棲む日々」より、「功山寺挙兵」の部分の引用です。
奇妙なものであった。結果からいえば、
「高杉晋作の挙兵」
として維新史を大旋回させることになるクーデターも、伊藤俊輔をのぞくほか、かつての同志のすべてが賛同しなかった。
歴史は天才の出現によって旋回するとすれば、この場合の晋作はまさにそうであった。かれの両眼だけが、未来の風景を見ていた。いま進行中の政治状況という山河も、晋作の眼光を通してみれば、山県狂介らの目で見る平凡な風景とはまるでちがっていた。晋作は、この風景の弱点を見ぬき、河を渡ればかならず敵陣がくずれるとみていた。が、かれは自分の頭脳の映写機に映っている彼だけの特殊な風景を、凡庸な状況感受能力しかもっていない山県狂介以下の頭脳群に口頭で説明することができなかった。
(行動で示すあるのみ)
と、晋作がおもったことは、悲痛であった。なぜならば、行動とは伊藤俊輔がひきいる力士隊三十人だけで挙兵することであり、三十人で全藩と戦うことであった。その前途は死あるのみであった。
いまにして思えば、いったい、どこうがどうなって、ここまでの大嘘になってしまったのでしょうか。
まず結論から言いまして、高杉の挙兵は、決して維新史を大旋回させたわけではなく、むしろ、殺されるはずではなかった前田孫右衛門や松岡剛蔵など、長州「正義党」幹部が殺されることとなり、薩摩が長州に手をさしのべることへの支障を作り、傷口をひろげただけだった、と言えるでしょう。
現在の私にとりましては、これで長州海軍の生みの親・松島剛蔵が殺され、奇兵隊を赤禰武人ではなく山縣有朋が牛耳ることになったわけですから、明治になっての長州の陸軍偏重という悶着の種が芽ばえた痛恨の挙兵、のように思えます。
以下、「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房版)より、元治元年12月23日付け小松帯刀宛西郷隆盛書簡の一部引用です。
二十一日朝、萩表より使者両人岩国へ相達し、変動の向き相聞得候折柄、岩国より差し出し置き候人々も罷り帰り、得と承り合い仕るところ、長谷川惣蔵萩へ参り居り、余程せり立ち、討ち取るの策を立て候向き、もちろん戸川鉡三郎、山口城破却巡見として参り居り、色々責め付けられ候向きと相聞こえ、十八日晩七人の者を入牢申し付け、翌日はすぐさま斬罪に取り行い候よし、前田孫右衛門・楢崎弥八郎・山田又助・大和国之助・渡辺内蔵太・松崎(島)剛蔵・毛利登人、この七人にてござ候。左候て、末藩等へも人数差し出し候様相達し、千人位の勢い萩表より押し立て候よし。激党の内には蒸気船一艘を奪い、撫育金と申すをかすめ取り候よし、いずかたへ乗り廻し候かいまだ相分らず、繋場より届け申し出候までにござ候。とんと調和の道も絶え果て、残念の事にござ候。右等の拙策を用いられ候ては実にこまった事にござ候。
また、いい加減な現代語訳をしますと、以下です。
12月21日の朝、萩からの使者が岩国へ来まして、変動(12月16日高杉挙兵)があったと聞こえてきたところへ、岩国から萩へ行っていた人々も帰ってまいりました。じっくりと話を聞きましたところが、ちょうど折悪しくその挙兵のときに尾張藩士の長谷川(征長軍強硬派)が来ていて、鎮圧しろと萩政府に迫り、おりから幕府目付の戸山も山口城破却の検分に行っていまして、いろいろと圧迫されたこともあり、萩政府は18日夜、「正義党」幹部の七人を野山獄に入れ、翌日にはすぐさま全員斬罪にしてしまったんです。そのうえ、支藩からも兵隊をかり集め、千人ばかりを諸隊の追討に出す勢いで、決起した諸隊激派の中には、蒸気船を奪い、撫育金をかすめとって、行方をくらます者も出る始末です。現在の萩政府から三人を罷免し、代わりに「正義党」幹部から三人を政府に入れ、諸隊と政府の融和をはかって、五卿に移転していただく心づもりが無になってしまい、残念でなりません。挙兵する方も、それを理由に無駄な血を流す方も、実に困ったことです。
いったいなぜ、高杉は挙兵したのでしょうか?
挙兵といいましても、決して、司馬氏が書かれたような悲壮なものではありません。
まず人数ですが、力士隊と遊撃隊あわせて、80人ほどが高杉に応じました。力士隊も遊撃隊も、来島又兵衛の直属部隊として、禁門の変で奮闘しましたその生き残りです。
力士隊は、隊長が戦死し、残りの者が又兵衛の遺骸を運んで無事埋葬し、長州に帰り着いた者たちは、とりあえず、馬関新地(下関の萩藩直轄地)の会所で通訳業務をしていた伊藤俊輔(博聞)が、自分の護衛として預かっていました。参加したのは、伊藤が高杉にくどかれたからだと言われますが、なにしろ、禁門の変での活躍が評価されませんような体制では、いつ解散となるかわからない状態ですし、征長軍とそれに迎合する「俗論党」政府への恨みが深かったのでしょう。
遊撃隊の方は、全員が駆けつけたわけではなく、一部なのですが、その多くが脱藩しました他藩人で、これまた、追い詰められていた人々です。そして、この時、挙兵遊撃隊の隊長となりましたのは、石川小五郎(後の河瀬真孝)で、れっきとした長州藩士だったものですから元は先鋒隊だったのですが、朝陽丸事件で幕府使節を暗殺していまして、幕府からしましたらまさに、お尋ね者でした。
元松下村塾の参加者は力士隊を率いた伊藤と、後は単身で参加しました前原一誠のみ、なんですが、伊藤の場合は高杉に恩を売っておく損得を考えたのでしょうし、前原は、本人がれっきとした藩士でしたので、村塾では数少なかった中級藩士で、しかも俊才でした高杉に、心底心酔していた、ということだったでしょう。
さらに挙兵といいましても、伊藤の勤め先、馬関新地の会所を包囲して空砲を放っただけのことでして、会所の奉行は「正義党」ですから最初から戦争になるはずもなく、「俗論党」だった人々が萩へ帰っただけのことでした。次いで三田尻(防府)の海軍局に船を奪いに行くのですが、ここもそもそもトップは松島剛蔵で「正義党」の集まりですから、抵抗するはずもなかったわけなんです。
しかも、征長軍総督参謀の西郷隆盛が、戦う気がまったくありませんで、ということはつまり、征長軍のうちの薩摩軍が戦闘に入る心配はまるでなかったわけですから、司馬氏いわくの「その前途は死あるのみ」なんぞということはまったくありえませんで、挙兵側にはなんの危険も無く、「俗論党」政府に諸隊追討令を出させて、対決姿勢をとらせるためだけの挙兵でした。
そして、確かに挙兵の時にたまたま、征長軍強硬派の長谷川が萩にいたとか、不運がありはしたのですけれども、捕らえられていた「正義党」幹部が斬罪になる可能性を、高杉は十分に認識していたはずなのです。
太田市之進(御堀耕助)が止め、野村靖が止め、奇兵隊副将の福田良助にいたっては、伊藤の回想によれば、雪の中に土下座して「今日だけはぜひおとどまりを願いたい」と、高杉に頼んだというのですね。それはどう考えても、挙兵すれば、「正義党」幹部が斬罪になる可能性が高かったから、でしょう。交渉が続いているわけなのですから、いざとなればやるぞ、と、戦闘姿勢を見せる必要はありますが、挙兵してしまえば、相手に口実を与えてしまうだけなのです。
再び、いったいなぜ、高杉は挙兵してしまったのでしょうか?
私には、赤禰武人への反感と不信としか、思えません。
「元を正せば周防の島医者の子でしかない赤禰ごときが、生意気な! 征長軍総督参謀の薩摩芋(さつまいも)が動き、吉川が動くって? 赤禰のホラに決まっている。「正義党」の復活交渉なんぞ、どうせ失敗するのだから、こちらが先に挙兵すべきなんだっ!」
そういうことでは、なかったんでしょうか。
「正義党」幹部が斬罪になり、諸隊追討令が出て、戦闘をためらう理由がまったくなくなったから、奇兵隊を中心とした諸隊は、決起したわけです。
交渉の失敗と高杉との確執から、奇兵隊総督だった赤禰武人は居場所を無くし、決起したときに奇兵隊を牛耳っていましたのは、山縣有朋でした。
こののち、赤禰は幕府のスパイだという嫌疑をかけられ、濡れ衣によって惨殺されますが、その名誉回復を、大正になってまで拒み続けたのも、山縣有朋です。
「俗論党」は、千人ほどの諸隊討伐軍を繰り出したわけですが、「俗論党」とは、中級以上の藩士を中心としました保守派なんですから、ろくろく軍の改革もできてはいませんし、戦闘意欲のある軍勢では、ありませんでした。
私が疑問に思いますのは、「正義党」幹部を斬ってしまいましたら、諸隊に歯止めがなくなることはわかりきったことでして、なぜ椋梨藤太たち「俗論党」幹部は、そんな冒険をあえてやったのか、ということです。征長軍によほど怯えていたのか、あるいは、「正義党」幹部によほど恨みをもっていたのか、どうなんでしょうか。
青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のあとがきに、次のように述べておられます。
(高杉晋作について書くことに苦労する)もう一つの理由は、もう少し複雑だし、それに政治的でもある。いつ、どのようにして「有名」になり、どのような経緯で、彼にまつわる伝説が作られていったか、を常に念頭に置いておかなければならないせいである。伝説や神話に引きずられてしまうと、史料の言葉が本来の意味どおりに読めなくなり、人物像までが変形させられる。その引力に抗しながら、史料から実像を読み出すのは、「無名人」相手に比べて三倍のエネルギーを要する。
後者の問題は、もとより高杉晋作だけの問題では済まない。それは、おそらく明治から大正、昭和と、日本の近代国家が確立してゆく過程で、いわば建国神話のような意味合いで編み上げられてゆく物語の一環なのだろう。それはそれで、別に機会を設けて考えるべき課題である。吉田松陰にしても、晋作にしても、その神話のなかに、神々の一人として役割を割り振られて登場するのだろうと、今のところ私は考えている。
この神々は、第二次大戦の敗戦という、価値観の大きな変動のなかで、大多数が消滅していった。楠木正成や小島高徳は天皇制の変容に殉じて、「七生報国」や「誉の桜」のフレーズとともに、いなくなった。晋作、それに坂本龍馬は、大上段に振りかぶった尊皇イデオロギーとは少し離れた場所に役割を振られていたため、姿を変えて生き延びた。高度経済成長期には、自由奔放、恋と冒険、このあたりが二人を象徴するキーワードになった。国のために命を捧げることが最大の価値とされた「帝国臣民」にかわって、自由主義社会のもとで豊かな生活を謳歌しているはずの「市民」にとって、幕末の動乱を生きたトリックスターたちは、夢を託すに恰好の存在であったし、今もそうであるらしい。
歴史とは物語である、と私は思います。
過去の出来事にまったく物語を読み取らなかったとしたら、それは、歴史とはならないでしょう。
しかし、私は、勝者にのみ光があたる歴史を好みません。
無数の無名の人々がいて、不運な敗残者も多数いて、複雑に明暗が織りなされる物語こそが、歴史の名に値するのではないでしょうか。
明後年は、明治維新から150年の年です。
もう一度、維新史が見直される節目と、なってくれたらいいのですが。
次回(すでに明日です)は、もう一人のトリックスター、坂本龍馬が登場するようですけれども、暗澹と、ため息しかでないドラマになることは、確実な気がします。
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なんだか、文句を叫ぶのにもあきてまいりました昨今ですが、一つだけ、叫びます。
傅役(守り役)って、主には女じゃないから!!! まずは藩士。興丸の傅役の一人は、高杉のおやじです。
ついでに言いますと、銀姫の守り役は、乃木希典の父親で、乃木家は玉木家の本家で、杉家と親戚です。私は、その縁で、文(美和)が奥勤めに上がったものと推測しています。
久坂美和の奥勤めの史料はちゃんと残っていまして、山本栄一郎氏が「女儀日記」や「中正公伝」を探索して、調べておいでです。
山本氏の「吉田松陰の妹・文(美和)」によりますと、慶応元年(1865)9月25日に銀姫付きのお次女中として召し出されているんですね。
もちろん、高杉の挙兵より後の話で、道明が久坂家を継ぎ、父・百合之助を看取った後です。
その後、明治2年の記録があるんだそうですが、興丸「着袴の儀」のとき、お伽(子守)同役で、拝領金に預かれた女中の中では、一番下の身分です。なお、このときの記録に、奥女中の守り役の名前が出てきますが、どうも興丸につきっきり、というわけではないようでして、銀姫付きの奥女中が兼任した様子、なんですね。御中臈頭・御守役・袖野、御側・御守役・濱野ということです。ちなみに、美和が銀姫のお側女中として記録されていますのは、翌明治3年のこと、です。
まあ、ともかく、ですね。大出世の守役でっせ!!!みたいな、ドラマの描き方は、?????です。まあ、もともと、史実では、興丸誕生の時、文(美和)はまだ、奥御殿に上がっていないわけなんですが。
で、本題です。
私、けっこうなショックを受けております。
なんだかんだいいまして、桐野利秋が禁門の変の前から長州びいきだったことは史料に残っていることですし、高杉晋作を尊敬していたのではないか、というような伝説もありましたし、やはり、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と、後世形容されました高杉の挙兵伝説を、私も信じてしまっていたから、です。
司馬遼太郎氏の作品が、けっして史実ではないと知ってはいましても、やはり、若かった頃に読みました巧みな表現は、脳裏にしみついてしまっていたのでしょう。
世に棲む日日〈4〉 (文春文庫) | |
司馬 遼太郎 | |
文藝春秋 |
以下、司馬遼太郎氏著「世に棲む日々」より、「功山寺挙兵」の部分の引用です。
奇妙なものであった。結果からいえば、
「高杉晋作の挙兵」
として維新史を大旋回させることになるクーデターも、伊藤俊輔をのぞくほか、かつての同志のすべてが賛同しなかった。
歴史は天才の出現によって旋回するとすれば、この場合の晋作はまさにそうであった。かれの両眼だけが、未来の風景を見ていた。いま進行中の政治状況という山河も、晋作の眼光を通してみれば、山県狂介らの目で見る平凡な風景とはまるでちがっていた。晋作は、この風景の弱点を見ぬき、河を渡ればかならず敵陣がくずれるとみていた。が、かれは自分の頭脳の映写機に映っている彼だけの特殊な風景を、凡庸な状況感受能力しかもっていない山県狂介以下の頭脳群に口頭で説明することができなかった。
(行動で示すあるのみ)
と、晋作がおもったことは、悲痛であった。なぜならば、行動とは伊藤俊輔がひきいる力士隊三十人だけで挙兵することであり、三十人で全藩と戦うことであった。その前途は死あるのみであった。
いまにして思えば、いったい、どこうがどうなって、ここまでの大嘘になってしまったのでしょうか。
まず結論から言いまして、高杉の挙兵は、決して維新史を大旋回させたわけではなく、むしろ、殺されるはずではなかった前田孫右衛門や松岡剛蔵など、長州「正義党」幹部が殺されることとなり、薩摩が長州に手をさしのべることへの支障を作り、傷口をひろげただけだった、と言えるでしょう。
現在の私にとりましては、これで長州海軍の生みの親・松島剛蔵が殺され、奇兵隊を赤禰武人ではなく山縣有朋が牛耳ることになったわけですから、明治になっての長州の陸軍偏重という悶着の種が芽ばえた痛恨の挙兵、のように思えます。
以下、「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房版)より、元治元年12月23日付け小松帯刀宛西郷隆盛書簡の一部引用です。
二十一日朝、萩表より使者両人岩国へ相達し、変動の向き相聞得候折柄、岩国より差し出し置き候人々も罷り帰り、得と承り合い仕るところ、長谷川惣蔵萩へ参り居り、余程せり立ち、討ち取るの策を立て候向き、もちろん戸川鉡三郎、山口城破却巡見として参り居り、色々責め付けられ候向きと相聞こえ、十八日晩七人の者を入牢申し付け、翌日はすぐさま斬罪に取り行い候よし、前田孫右衛門・楢崎弥八郎・山田又助・大和国之助・渡辺内蔵太・松崎(島)剛蔵・毛利登人、この七人にてござ候。左候て、末藩等へも人数差し出し候様相達し、千人位の勢い萩表より押し立て候よし。激党の内には蒸気船一艘を奪い、撫育金と申すをかすめ取り候よし、いずかたへ乗り廻し候かいまだ相分らず、繋場より届け申し出候までにござ候。とんと調和の道も絶え果て、残念の事にござ候。右等の拙策を用いられ候ては実にこまった事にござ候。
また、いい加減な現代語訳をしますと、以下です。
12月21日の朝、萩からの使者が岩国へ来まして、変動(12月16日高杉挙兵)があったと聞こえてきたところへ、岩国から萩へ行っていた人々も帰ってまいりました。じっくりと話を聞きましたところが、ちょうど折悪しくその挙兵のときに尾張藩士の長谷川(征長軍強硬派)が来ていて、鎮圧しろと萩政府に迫り、おりから幕府目付の戸山も山口城破却の検分に行っていまして、いろいろと圧迫されたこともあり、萩政府は18日夜、「正義党」幹部の七人を野山獄に入れ、翌日にはすぐさま全員斬罪にしてしまったんです。そのうえ、支藩からも兵隊をかり集め、千人ばかりを諸隊の追討に出す勢いで、決起した諸隊激派の中には、蒸気船を奪い、撫育金をかすめとって、行方をくらます者も出る始末です。現在の萩政府から三人を罷免し、代わりに「正義党」幹部から三人を政府に入れ、諸隊と政府の融和をはかって、五卿に移転していただく心づもりが無になってしまい、残念でなりません。挙兵する方も、それを理由に無駄な血を流す方も、実に困ったことです。
いったいなぜ、高杉は挙兵したのでしょうか?
挙兵といいましても、決して、司馬氏が書かれたような悲壮なものではありません。
まず人数ですが、力士隊と遊撃隊あわせて、80人ほどが高杉に応じました。力士隊も遊撃隊も、来島又兵衛の直属部隊として、禁門の変で奮闘しましたその生き残りです。
力士隊は、隊長が戦死し、残りの者が又兵衛の遺骸を運んで無事埋葬し、長州に帰り着いた者たちは、とりあえず、馬関新地(下関の萩藩直轄地)の会所で通訳業務をしていた伊藤俊輔(博聞)が、自分の護衛として預かっていました。参加したのは、伊藤が高杉にくどかれたからだと言われますが、なにしろ、禁門の変での活躍が評価されませんような体制では、いつ解散となるかわからない状態ですし、征長軍とそれに迎合する「俗論党」政府への恨みが深かったのでしょう。
遊撃隊の方は、全員が駆けつけたわけではなく、一部なのですが、その多くが脱藩しました他藩人で、これまた、追い詰められていた人々です。そして、この時、挙兵遊撃隊の隊長となりましたのは、石川小五郎(後の河瀬真孝)で、れっきとした長州藩士だったものですから元は先鋒隊だったのですが、朝陽丸事件で幕府使節を暗殺していまして、幕府からしましたらまさに、お尋ね者でした。
元松下村塾の参加者は力士隊を率いた伊藤と、後は単身で参加しました前原一誠のみ、なんですが、伊藤の場合は高杉に恩を売っておく損得を考えたのでしょうし、前原は、本人がれっきとした藩士でしたので、村塾では数少なかった中級藩士で、しかも俊才でした高杉に、心底心酔していた、ということだったでしょう。
さらに挙兵といいましても、伊藤の勤め先、馬関新地の会所を包囲して空砲を放っただけのことでして、会所の奉行は「正義党」ですから最初から戦争になるはずもなく、「俗論党」だった人々が萩へ帰っただけのことでした。次いで三田尻(防府)の海軍局に船を奪いに行くのですが、ここもそもそもトップは松島剛蔵で「正義党」の集まりですから、抵抗するはずもなかったわけなんです。
しかも、征長軍総督参謀の西郷隆盛が、戦う気がまったくありませんで、ということはつまり、征長軍のうちの薩摩軍が戦闘に入る心配はまるでなかったわけですから、司馬氏いわくの「その前途は死あるのみ」なんぞということはまったくありえませんで、挙兵側にはなんの危険も無く、「俗論党」政府に諸隊追討令を出させて、対決姿勢をとらせるためだけの挙兵でした。
そして、確かに挙兵の時にたまたま、征長軍強硬派の長谷川が萩にいたとか、不運がありはしたのですけれども、捕らえられていた「正義党」幹部が斬罪になる可能性を、高杉は十分に認識していたはずなのです。
太田市之進(御堀耕助)が止め、野村靖が止め、奇兵隊副将の福田良助にいたっては、伊藤の回想によれば、雪の中に土下座して「今日だけはぜひおとどまりを願いたい」と、高杉に頼んだというのですね。それはどう考えても、挙兵すれば、「正義党」幹部が斬罪になる可能性が高かったから、でしょう。交渉が続いているわけなのですから、いざとなればやるぞ、と、戦闘姿勢を見せる必要はありますが、挙兵してしまえば、相手に口実を与えてしまうだけなのです。
再び、いったいなぜ、高杉は挙兵してしまったのでしょうか?
私には、赤禰武人への反感と不信としか、思えません。
「元を正せば周防の島医者の子でしかない赤禰ごときが、生意気な! 征長軍総督参謀の薩摩芋(さつまいも)が動き、吉川が動くって? 赤禰のホラに決まっている。「正義党」の復活交渉なんぞ、どうせ失敗するのだから、こちらが先に挙兵すべきなんだっ!」
そういうことでは、なかったんでしょうか。
「正義党」幹部が斬罪になり、諸隊追討令が出て、戦闘をためらう理由がまったくなくなったから、奇兵隊を中心とした諸隊は、決起したわけです。
交渉の失敗と高杉との確執から、奇兵隊総督だった赤禰武人は居場所を無くし、決起したときに奇兵隊を牛耳っていましたのは、山縣有朋でした。
こののち、赤禰は幕府のスパイだという嫌疑をかけられ、濡れ衣によって惨殺されますが、その名誉回復を、大正になってまで拒み続けたのも、山縣有朋です。
「俗論党」は、千人ほどの諸隊討伐軍を繰り出したわけですが、「俗論党」とは、中級以上の藩士を中心としました保守派なんですから、ろくろく軍の改革もできてはいませんし、戦闘意欲のある軍勢では、ありませんでした。
私が疑問に思いますのは、「正義党」幹部を斬ってしまいましたら、諸隊に歯止めがなくなることはわかりきったことでして、なぜ椋梨藤太たち「俗論党」幹部は、そんな冒険をあえてやったのか、ということです。征長軍によほど怯えていたのか、あるいは、「正義党」幹部によほど恨みをもっていたのか、どうなんでしょうか。
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7) | |
青山 忠正 | |
吉川弘文館 |
青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のあとがきに、次のように述べておられます。
(高杉晋作について書くことに苦労する)もう一つの理由は、もう少し複雑だし、それに政治的でもある。いつ、どのようにして「有名」になり、どのような経緯で、彼にまつわる伝説が作られていったか、を常に念頭に置いておかなければならないせいである。伝説や神話に引きずられてしまうと、史料の言葉が本来の意味どおりに読めなくなり、人物像までが変形させられる。その引力に抗しながら、史料から実像を読み出すのは、「無名人」相手に比べて三倍のエネルギーを要する。
後者の問題は、もとより高杉晋作だけの問題では済まない。それは、おそらく明治から大正、昭和と、日本の近代国家が確立してゆく過程で、いわば建国神話のような意味合いで編み上げられてゆく物語の一環なのだろう。それはそれで、別に機会を設けて考えるべき課題である。吉田松陰にしても、晋作にしても、その神話のなかに、神々の一人として役割を割り振られて登場するのだろうと、今のところ私は考えている。
この神々は、第二次大戦の敗戦という、価値観の大きな変動のなかで、大多数が消滅していった。楠木正成や小島高徳は天皇制の変容に殉じて、「七生報国」や「誉の桜」のフレーズとともに、いなくなった。晋作、それに坂本龍馬は、大上段に振りかぶった尊皇イデオロギーとは少し離れた場所に役割を振られていたため、姿を変えて生き延びた。高度経済成長期には、自由奔放、恋と冒険、このあたりが二人を象徴するキーワードになった。国のために命を捧げることが最大の価値とされた「帝国臣民」にかわって、自由主義社会のもとで豊かな生活を謳歌しているはずの「市民」にとって、幕末の動乱を生きたトリックスターたちは、夢を託すに恰好の存在であったし、今もそうであるらしい。
歴史とは物語である、と私は思います。
過去の出来事にまったく物語を読み取らなかったとしたら、それは、歴史とはならないでしょう。
しかし、私は、勝者にのみ光があたる歴史を好みません。
無数の無名の人々がいて、不運な敗残者も多数いて、複雑に明暗が織りなされる物語こそが、歴史の名に値するのではないでしょうか。
明後年は、明治維新から150年の年です。
もう一度、維新史が見直される節目と、なってくれたらいいのですが。
次回(すでに明日です)は、もう一人のトリックスター、坂本龍馬が登場するようですけれども、暗澹と、ため息しかでないドラマになることは、確実な気がします。
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松山も、なぜか吹き戻しが強く、午後になってから「大きい台風だったんだなあ」と実感いたしました。
高杉晋作の小倉口戦の指揮の件、私、うかつにも、青山氏のご著書で初めて知ったのですが、団子岩の杉家墓地のそばにあります晋作さんのお墓の墓碑銘、民治さんが書いたものなのですが、小倉口戦闘の英雄、として、称えられている、というお話しなんです。
小倉口は、海戦の評価もありますし、今ひとつ、私には戦闘指揮の善し悪しは判断のしようもないのですが、ただ、ここだけは相手に戦闘意欲がありましたし、奇兵隊と長府藩士と、まとめて指揮できるのは高杉しかいなかったでしょうし、また、がんばって調べてみます。
幕末から戊辰戦争へかけての海戦が、どうも、なのですが、幕府海軍がけっこう稚拙なのはなぜだろう、とか、けっこう謎があります。
昼から会社に出たのですが、長府から来ている同僚が避難で会社に来れない連絡がありましたが被害はなかったようです。まあ長府の史跡などが壊れなかったのは幸いです。
高杉晋作の小倉口戦の指揮の件。とっても読みたいです。
例えは司馬なんかの晋作評は功山寺挙兵>小倉戦ですし、小倉戦は他の戦線に比べ激戦であり、被害も大きく晋作の指揮の評価もまちまちなので、郎女様の見解が楽しみです。
松山はまあそこそこ、雨風、それほどひどくはありません。
サトウアイノスケさまへのコメントにも書いたのですが、私の方こそ、ちょっと感情的になってしまいました。海軍無視、といいますのは、明治になってからの話です。大村は、長州陸軍の改革をイギリス式で進めていまして、幕末の陸軍留学生はイギリスへ送り出すのですが、明治元年にフランス式に転換を決め、さっさと大阪兵学寮の設置を進めて、これが、薩摩との悶着の種になります。
それはともかく。
桂の呼び戻しは、普通にあったと思います。
しかし、伊藤が言いますように、8・18政変の直後に、「高杉が坪井九右衛門などに腹を切らせた」ということが本当だとしましたら、確かにおっしゃるように、高杉の復帰がうまくいったかは、確かではないですね。言われてみれば、れっきとした長州藩士の方が、確執の根が深かったのかもしれません。村田清風と坪井九右衛門の争いが延々と続き、しかもその間、いわゆる「俗論党」、保守政権の方が、逼塞とか、日陰にいた期間が長く、いじめられた感がものすごく強かったのかもしれません。松山藩だったら、主流でいられたでしょうに(笑)
野戦指揮官としての高杉は、四境戦争をむかえるにあたっての長州に、絶対に必要であったと、私も思っています。
大村と海軍の件につきましては、説明不足でした。といいますか、私も大村についてさほど詳しいわけではなく、徴兵制との関係で、いくつか論文をあさって読んでみただけで、なぜフランスの典型的大陸型陸軍制度を取り入れることになったのか、さっぱりしっぽはつかめておりません。まあ、幕府がフランス式でしたから、手っ取り早いと思っただけかもしれないのですが、私はそこにモンブラン伯爵の影を想定していまして、しっぽがつかめないんです。木戸の日記の原本複写を見に、国会図書館の憲政資料室まで行ったのですが、肝心の部分が墨消し文字でした(笑)
まあ、そんな明治初期の長州に関します私の恨み辛みが複雑にからんで、幕末の部分を語ってしまいました。確かに、四境戦争の時期には、海軍についてのてこ入れは無駄ですし、だいたい幕府海軍も、輸送以外になにもできていません。
私が不思議でなりませんのは、あの朝陽丸が、幕府においてはすでに旧式になっていまして、輸送以外ではろくに使っていませんでしたのに、なんで佐賀の中牟田倉之助が乗ったとたんに、松前攻撃や函館湾海戦で大活躍したんでしょう。不思議でなりません。
幕末の段階では、長州陸軍もイギリス式にするはずで、南貞助も陸軍の勉強をしにイギリスへ行っているわけですし、大村はよくやったと思います。私の文句は、すべて明治になってからの話になってしまっています。要するに、金がかかりますフランス式の徴兵にする必要がどこにあったのか、ということなんですけれども、大村は最初にフランス式という方針を決めただけで、まあ、山縣の責任の方が重いんですけれど。
なんで松島剛蔵が死んでしまったのか、という思いは長年抱いてきたものでしたので、ちょっと大村に関しては、感情的なコメントになってしまったかと思います。
同意ありがとうございます。
郎女様の言うとおり、山田亦介、松岡剛蔵らの死によって長州海軍に人はいなくなったのは間違いないでしょうね。
陸軍的な大村や山縣などが残り、海軍の人材は壊滅したので、明治以降の陸の長州、海の薩摩という図式(薩摩の陸の人材は西南戦争で減少)になったとも言えますね。
幕長戦で長州一藩で考えると「陸」をメインに考えざるを得ないと思います。サトウ様の言うように、海軍力では列強には到底かないませんし、幕府にもかないません。幕府海軍と同等の軍艦を揃える事より、最新銃を揃える方か容易いかと。
明治以降の陸軍を振り返ってみますと、実は大陸では負けてなかったりします。日本人が島国なのに陸戦が強いのは、大村のおかげではないでしょうけど・・。
大村を抜擢させる為には、桂のゴリ押しが必要ではないでしょうか?・・という事で桂の復権が前提なんですが、当時潜伏中の桂を呼び戻せるのかなと。呼び戻したとしても政務首座はありえるのだろうかと考えるのです。
郎女様の言うとおり、山田亦介、松岡剛蔵は惜しい人材なのですが、どちらかというと専門肌の人材かと思われます(もちろん思想家ではありますが)。長州にリーダーは居ないとよく言いますが、緩やかな率先者が必要な藩でもあります。
あの時期の統率者が桂であることがBESTだったとおもいます(桂の絶頂期はこの時期だけ)。
松岡剛蔵の存命の状態で、ちゃんと機能する海軍が幕長戦をどう戦うのかと想像するのも面白いですが、松岡剛蔵は幕府との戦いというより、明治以降の活躍が期待された人物じゃないでしょうか?
色々反論させてもらいましたが、郎女様の意見は利にかなってるのは判ってるんですケド、高杉晋作贔屓なもんで、功山寺挙兵を否定できないんですよね~。なのでちょいムキになってしまいました。お許し下さいませ。
いきなり横から口を挟んで申し訳ありませんが、私の見解も概ねkiiさんと同じなのです。
まあ私の場合は、幕末の長州をそれほど詳しく調べている訳ではありませんし、山口県に行った事もない人間ですので「ごく一般的な幕末ファンとしての感想」という程度の見解として受け取って頂ければ、と思います。
ただ一つだけ、私が以前から考えている事を申し上げたいと思います。
大村を擁護する訳ではないのですが、私は当時の日本の状況からすると海軍よりも陸兵優先の方針で構わなかったのではないか?と思うのです。
日本は島国ですから海軍力の強化はもちろん重要ではあるのですが、当時の列強(特に英仏)の海軍力と比較すると、その差はあまりにも大きすぎます。しかし陸の戦いについては(まだ陸戦で決定的な兵器が導入されていない)当時の戦い方を前提にすれば、ある程度新式の銃を十分に用意できさえすれば、列強や幕府からの侵攻はなんとか防げるだろうと考えても不思議はなかったと思うのです。
四カ国艦隊との戦争がまさにそのパターンであり、海戦では完敗しても、陸戦ではなんとか持ちこたえました。海戦は兵士の士気だけではどうにも出来ませんが、陸戦では銃器さえそれなりに揃ってさえいれば、あとは兵士の士気でどうにか出来ます。敵も丘に上がってしまえば一個の人間に過ぎません。列強といえども同じ人間ですから、命は惜しいでしょう。
海軍は、残念ながら当時は艦船を列強から購入する以外、他に術が無く、自力で作れるようになるのは何十年も先の事です。もちろん海軍の人材の育成も大切ではありますが、肝心の船を、当面は敵(列強)に頼らざるを得ないという現実がありますので、多少後回しになっても仕方がないのかなあ?と、なんとなく以前からそんなふうに考えております。
全然話は変わりますが、先週の土曜日にNHKで高橋是清のドラマ(前編)が放送されていました。
以前、郎女さんがお書きになっていた前田正名(藤本隆宏)や森有礼(谷原章介)も登場しておりました。
ジェームス三木が脚本を書いているので内容は悪くはないのですが、あんな短い放送時間に高橋是清の激動の人生を詰めこむのは無理がありすぎて、ジェームス三木の良さが全く生かされていませんでした。
それでも、その翌日に放送された「花燃ゆ」に比べれば百倍まともでしたが。
最近は井上真央が出ているシーンは見るのが苦痛なので、ほとんど飛ばしております。
長文失礼致しました。
軍の改革、洋式化の中心にいたのは山田亦介です。
もちろん高杉、木戸の復権は当然です。
山田亦介、松岡剛蔵は木戸の盟友です。
元治内戦の後、れっきとした藩士の干城隊が諸隊を統率する、という高杉の構想は通っていませんが、しかしそもそも、高杉の構想自体が無理でしょう。
長州「俗論党」に力があったかのように思われていますが、その主流であります中以上の藩士たちが、まともに戦える軍を持っていないと言うことは、攘夷戦、禁門の変で証明済みなのです。私は、長州にとって大きな意味があったのは、この二つの敗戦であって、元治内戦では無かった、と考えます。
長州軍の洋式化につきましても、別に大村が一人でやったことでは無く、山田亦介の楫取りで、徐々に形になろうとしていたことは、小山亜弥子著「幕末長州藩 洋学史の研究」に書いています。ただ、改革への抵抗はずっとあります。それは、大村が責任者になってもかわらず、むしろそうなってから、洋行者、軍の洋式化の指導者はれっきとした身分の長州藩士、と決められたようです。そういう意味から言えば、高杉も抵抗勢力ですし、早くから洋式化に苦労を重ねてきた松島、山田の死は、悔やんでも悔やみきれない、と思います。松島剛蔵が苦しんでいたのも、藩のお船手組の抵抗です。要するに、既成権益が侵される、ということで、抵抗が生まれるんですね。
それを壊さざるをえない、となりますのは、黒船来航に慌てた日本もそうなのですが、外敵との戦い、です。四境戦争は、長州が望んで戦ったわけではなく、幕府が勘違いしてやる気満々になっていたから起こったわけなんですが、小倉口以外は、やる気のない藩ばかりで、幕府歩兵隊もたいしてやる気があったわけではないですし、十分に長州一藩で勝てる戦いでした。それでも、攻められる側ですから、死に物狂いになるわけでして、死に物狂いに戦える体制をとろうとすることで、既成利権はひっこまざるをえず、改革がうまくいくわけなんです。これまでちょっと、私は、大村一人が持ち上げられすぎた、と思っています。さっぱり海軍のことを考えていませんでした大村を、私はあまり評価していません。なんであの人、あんなにすっぽり、海軍がぬけ落ちたんでしょうか。日本は島国ですのに。
俗論・正義の連立政権で、武備恭順の藩是に落ち着く事は出来たのでしょうか?またその場合、誰が長州を統率したのでしょう?
そもそもifなんで想像するより仕方ないのですが、人員の配置や戦略は確実に違ったものになると思われますが、この辺に疎く想像できません。僕は内訌戦が無ければ、幕長戦は勝てない気がするのですが・・・。
秋月藩士の件失礼しました。修正致しました。
一つだけ誤解があるようなのですが、「秋月藩士」と名乗っていたのは、諸隊と会うために下関入りした西郷隆盛なんです。私は、高杉は筑前藩士を名乗って、西郷に会ったのではないか、と思っております。
赤禰武人の周旋なのですが、諸隊の存続というよりも、「正義党」の政権復帰、に意味があったと、私は思うんですね。「正義党」が政権復帰すれば、自然、諸隊も存続します。「正義党」はいわば、軍改革党でもあるわけですから。
私は、戦争の効用は認めています。よく、戊辰戦争を避ける道があった、というような方がおられますが、戊辰戦争を戦うことによりまして、諸藩は、変わらざるをえず、それは勝者の側の薩摩もそうでしたし、戊辰戦争なくして、藩が解体することはなかった、と思っています。
長州は、四境戦争を戦うことによりまして、変容の先端に立ったと認識もしています。しかし、「正義党」が政権復帰できたのなら、元治内戦は必要なかった、と思うんですね。
そもそも、幕府はもちろん、一会桑も、尾張総督の第一次征長の始末の付け方に不満だったわけですし、一方薩摩は、西郷がかかわった結末しかない、と思っていたわけです。
西日本の諸藩にしてみましたら、朝廷はともかく、幕府が藩の内政に口をつっこむべきではない、というスタンスが確立してきていましたし、それでも征長に乗り出したのは、御所への発砲、攻撃という逸脱が長州にあり、朝廷の追討令があったから、でして、朝廷が満足すれば、幕府の命令なんぞ、きく必要は認めてなかったわけです。
江戸と京都の温度差もあり、それが幕府にはわからなかったのですから、第二次征長となるのは必然でして、「正義党」政府ができあがっていましたら、当然、諸隊再編により、幕府軍を迎え撃つことに、なったはずです。
私は、山縣の代わりに赤禰が奇兵隊総督でいて、松岡剛蔵が生き延びていたら、よけいに明るく、薩摩と手を結んで回天に突き進む道は、開けていたと思います。
今度、書くつもりですが、高杉の野戦指揮官としての能力は、小倉口で全開し、力を使い果たして逝った、と思います。結局、高杉の死によって長州海軍に政治力のある人物は残らず、それが、薩摩、佐賀と、長州との確執の種になっていきます。
私は、海軍重視のイギリス式兵制をとらず、長州主導で陸軍偏重のフランス式兵制をとったことは、日本にとって、大きな不幸だったと、昔から思っていたりします。
守役で、御輿入れの準備一般を儀典として取り仕切ったのが秀次と書いてありました。秀次は長府藩政について提案書を書いて、藩内の他の者たちから疎まれて失脚し、減録され江戸から長府に戻ってきた。結局故事や儀典に詳しいものが急死し、また復職したようですね。もともと藩医の家の乃木本家に養子にいき、武士になりたくて深川三十三間堂の流鏑馬に13歳で、大人に交じって優勝し、近習として召し抱えられた人です。幕末に成人になりつつあった子供の希典や真人にはそんな生き方をした親の期待も大きかったでしょう。
司馬は帝国陸軍を嫌い、その大元である長州を嫌っていたのですが、司馬の思考として「良い長州人は(若くして)死んだ長州人」という考え(極端ですが)があり、松陰・晋作・大村等はその最たる例という気がします。
赤禰武人ですが、僕は優れた能力を持つ政治家であると考えますが、その周旋力により諸隊の存続が成ったとしても、その政治は諸隊の為のものであり、仮に挙兵が無く、赤禰の周旋によって諸隊存続が成ったとしても、そこからの明治維新の道筋が僕には見えてきません。
そう考えると、やはり挙兵に意味はあったのではないでしょうか?
松島剛蔵、山田亦介ら有能な人材を死なせた事について、見殺しにしたという事は事実であると思います。
現代の感覚において、主人公と敵役が対峙し、圧倒的な武力を持つ主人公に対し、敵役が人質をとって刃物を人質に突きつけ「動くと殺す」と言ったら、主人公は動けません。
正義の主人公を演じてるからですが、晋作はお構いなしに人質を見殺しにして、敵役を倒してしまったというわけです。
英雄伝説ではありえないわけで、小説などではその件はほとんどスルーされてしまっています。しかしながら、本来なら全人類と人質一人を天秤に掛ければ・・・。となるわけです。
これが仮に織田信長のエピソードなら、全く問題は無いのでしょうケド。
功山寺挙兵が颯爽としたカッコいいものでなくても、この挙兵によって回天と成ったのは間違いなく、この挙兵が無ければ維新は無かったと言えると思います。
事後報告ですが、僕のブログで郎女様の事を書かせていただきました。ご容赦くださいませ。