野口武彦著『幕末伝説』2003講談社発行
『幕末伝説』は、一昨日に書いた『幕末気分』の続きのエッセイ集です。
続きといっても、内容がはっきり続いているものはほとんどないのですが、伝説収録「幕末不戦派軍記」のみは、気分収録「幕末の遊兵隊」の続きなんです。
「幕末の遊兵隊」の遊兵は、本来の意味の遊兵ではなく、「ただ単純に遊んでいる兵隊」だそうでして、長州攻めのために東海道を大阪に向かった幕府の軍隊がいかに物見遊山気分であったかを、武具奉行配下の同心が残した日録を中心にすえ、巧みに描き出した一編でした。
日録の筆者には、行動をともにする仲良しの三人がいまして、この四人組はみな同心ですから、ごく下っ端の役人ですし、洒脱で、なまけものです。
その四人組が、大阪に居残りとなって、あげくの果てに鳥羽伏見の戦いにまきこまれてしまった後日談が、今回の「幕末不戦派軍記」です。
野口氏は、昔小説を書こうとされたこともおありだとか、なんですが、実に巧みに戯画にされていて、今回も笑えました。
個人的には、一瞬の土方歳三の出演が、受けました。
幕府混成部隊の命令系統はぐたぐたになっていまして、勝手に退却したりしていた状態だったんですが、兵糧を担当する勘定方の役人は、戦火が迫る淀で、律儀にご飯の炊きだしをやっていまして、同心四人組は、成り行きでここで使われていました。
いまや、戦場に取り残されようとしている炊きだし場に、ひょっこりと顔を出したのが、新撰組副長です。「お偉方はみんな引き上げたから、おまえたちも逃げろ」という土方の一言で、お握り炊き出し隊も無事引き上げることができたんですね。
これ、なにで見たのか忘れましたが、誰か体験者が語り残していることです。
しかし、鳥羽伏見の戦いについての記述を読むたびに、伝習隊はなにをしていたのか、と思わずにはいられません。
野口氏は、銃器にはお詳しくないらしく、『幕末パノラマ館』(新人物往来社刊)の方の一編で、「幕府がフランスから贈られたシャスポー銃は優秀だったとされているのに、なぜあまり使われた記録がないのか」と疑問を呈しておられますが、鳥羽伏見の伝習隊が、シャスポーを装備していなかったはずがないのです。
考えられることは、弾薬切れですね。シャスポーが、当時としては最新式だったというのは、簡単にいってしまえば後装式で、紙製ながら薬莢を使っていた、つまり、弾丸と火薬を別につめるのではなく、薬莢によって一体となっていましたので、素早く装填することができたからなんです。
しかし、弾薬補充の面からいいますと、紙薬莢は簡単には作れませんから、フランスからの輸入に頼るしかないですし、備蓄し、戦場への補給計画を綿密にしとかないといけないわけですね。
鳥羽伏見の戦いにおける、幕府の計画性のなさ、ずだずたの連絡網から考えて、伝習隊は、すぐに弾薬切れとなり、補給もしてもらえなかったんじゃないんでしょうか。
で、たしかに戦争において、いかに最新式の銃器を備えるか、ということは、勝敗の大きな要素ではあるんですが、いかにそれを使いこなすか、が、より問われるわけです。このわずか二年後、シャスポーを装備したフランス陸軍は、シャスポーよりはるかに性能が劣るといわれたドライゼ銃を装備したプロイセン陸軍に、完敗してしまうわけですし。
この時代、欧米においても、白兵戦がまるでなくなったわけではありません。たしか、明治元年だったと思うんですが、アメリカ南北戦争のころにの軍学書を、福沢諭吉が訳してまして、そこにはきっちり、白兵戦要員の育成について、書かれているんですね。
そりゃあ、そうでしょう。歩兵は銃剣を持っていたわけですが、剣の必要がなければ、銃だけにしておけばいいので、わざわざ銃剣は持ちませんわね。
この軍学書によれば、白兵戦の要員は、よりすぐりの精鋭を鍛錬するべきだ、とされています。銃にくらべて剣の方が、当然、熟練を必要とするわけなんですね。
これは、西南戦争を考えてみれば、よくわかることなんですが、西郷軍は、弾薬の補給に苦しみ、苦しまぎれに斬り込みをかけ、白兵戦をしかけます。この白兵戦に、政府軍の徴兵農民兵では対応ができず、志願軍を募って、士族を集めるんですね。
士族といっても、だれでも剣が使えたかというと、けっしてそうではなかったことは、幕末の同心四人組を見てもわかりますし、これはまあいわば、明治新政府が新撰組を募ったようなものです。
つまり、なにが言いたいかといいますと、この当時の火気の程度では、状況によっては、白兵も十分に活躍できる、ということなんです。
で、私には、土方が剣を捨てた、とは思えないんです。いえ、個人的には、捨てたでしょう。しかし、伝習隊と行動を共にしながら、一方で新撰組を存続させた、ということは、白兵戦には熟練が必要ですからね、銃撃戦と白兵戦をうまく組み合わせることを思い描いていたのではないか、と。
新撰組や会津軍の白兵戦が、伝習隊の銃撃戦とうまく噛み合っていたならば、伏見で、幕府軍に勝機がなかったとはいえません。
つまり、土方歳三にとっての戊辰戦争は、鳥羽伏見のリベンジではなかったのでしょうか。
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続きといっても、内容がはっきり続いているものはほとんどないのですが、伝説収録「幕末不戦派軍記」のみは、気分収録「幕末の遊兵隊」の続きなんです。
「幕末の遊兵隊」の遊兵は、本来の意味の遊兵ではなく、「ただ単純に遊んでいる兵隊」だそうでして、長州攻めのために東海道を大阪に向かった幕府の軍隊がいかに物見遊山気分であったかを、武具奉行配下の同心が残した日録を中心にすえ、巧みに描き出した一編でした。
日録の筆者には、行動をともにする仲良しの三人がいまして、この四人組はみな同心ですから、ごく下っ端の役人ですし、洒脱で、なまけものです。
その四人組が、大阪に居残りとなって、あげくの果てに鳥羽伏見の戦いにまきこまれてしまった後日談が、今回の「幕末不戦派軍記」です。
野口氏は、昔小説を書こうとされたこともおありだとか、なんですが、実に巧みに戯画にされていて、今回も笑えました。
個人的には、一瞬の土方歳三の出演が、受けました。
幕府混成部隊の命令系統はぐたぐたになっていまして、勝手に退却したりしていた状態だったんですが、兵糧を担当する勘定方の役人は、戦火が迫る淀で、律儀にご飯の炊きだしをやっていまして、同心四人組は、成り行きでここで使われていました。
いまや、戦場に取り残されようとしている炊きだし場に、ひょっこりと顔を出したのが、新撰組副長です。「お偉方はみんな引き上げたから、おまえたちも逃げろ」という土方の一言で、お握り炊き出し隊も無事引き上げることができたんですね。
これ、なにで見たのか忘れましたが、誰か体験者が語り残していることです。
しかし、鳥羽伏見の戦いについての記述を読むたびに、伝習隊はなにをしていたのか、と思わずにはいられません。
野口氏は、銃器にはお詳しくないらしく、『幕末パノラマ館』(新人物往来社刊)の方の一編で、「幕府がフランスから贈られたシャスポー銃は優秀だったとされているのに、なぜあまり使われた記録がないのか」と疑問を呈しておられますが、鳥羽伏見の伝習隊が、シャスポーを装備していなかったはずがないのです。
考えられることは、弾薬切れですね。シャスポーが、当時としては最新式だったというのは、簡単にいってしまえば後装式で、紙製ながら薬莢を使っていた、つまり、弾丸と火薬を別につめるのではなく、薬莢によって一体となっていましたので、素早く装填することができたからなんです。
しかし、弾薬補充の面からいいますと、紙薬莢は簡単には作れませんから、フランスからの輸入に頼るしかないですし、備蓄し、戦場への補給計画を綿密にしとかないといけないわけですね。
鳥羽伏見の戦いにおける、幕府の計画性のなさ、ずだずたの連絡網から考えて、伝習隊は、すぐに弾薬切れとなり、補給もしてもらえなかったんじゃないんでしょうか。
で、たしかに戦争において、いかに最新式の銃器を備えるか、ということは、勝敗の大きな要素ではあるんですが、いかにそれを使いこなすか、が、より問われるわけです。このわずか二年後、シャスポーを装備したフランス陸軍は、シャスポーよりはるかに性能が劣るといわれたドライゼ銃を装備したプロイセン陸軍に、完敗してしまうわけですし。
この時代、欧米においても、白兵戦がまるでなくなったわけではありません。たしか、明治元年だったと思うんですが、アメリカ南北戦争のころにの軍学書を、福沢諭吉が訳してまして、そこにはきっちり、白兵戦要員の育成について、書かれているんですね。
そりゃあ、そうでしょう。歩兵は銃剣を持っていたわけですが、剣の必要がなければ、銃だけにしておけばいいので、わざわざ銃剣は持ちませんわね。
この軍学書によれば、白兵戦の要員は、よりすぐりの精鋭を鍛錬するべきだ、とされています。銃にくらべて剣の方が、当然、熟練を必要とするわけなんですね。
これは、西南戦争を考えてみれば、よくわかることなんですが、西郷軍は、弾薬の補給に苦しみ、苦しまぎれに斬り込みをかけ、白兵戦をしかけます。この白兵戦に、政府軍の徴兵農民兵では対応ができず、志願軍を募って、士族を集めるんですね。
士族といっても、だれでも剣が使えたかというと、けっしてそうではなかったことは、幕末の同心四人組を見てもわかりますし、これはまあいわば、明治新政府が新撰組を募ったようなものです。
つまり、なにが言いたいかといいますと、この当時の火気の程度では、状況によっては、白兵も十分に活躍できる、ということなんです。
で、私には、土方が剣を捨てた、とは思えないんです。いえ、個人的には、捨てたでしょう。しかし、伝習隊と行動を共にしながら、一方で新撰組を存続させた、ということは、白兵戦には熟練が必要ですからね、銃撃戦と白兵戦をうまく組み合わせることを思い描いていたのではないか、と。
新撰組や会津軍の白兵戦が、伝習隊の銃撃戦とうまく噛み合っていたならば、伏見で、幕府軍に勝機がなかったとはいえません。
つまり、土方歳三にとっての戊辰戦争は、鳥羽伏見のリベンジではなかったのでしょうか。
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