えーと、実は下の野口武彦氏の本について、批判を書きかけていたんです。
しかし、去年、勝之丞さまのお勧めでこの本を読みましたとき、最初から、「野口武彦氏にしては、ちょっと」という違和感がなかったわけではないのですが、それよりなにより、伊集院金次郎に関する記述が出てまいりまして、驚きました。
「中井桜洲と桐野利秋」に書いておりますが、伊集院金次郎は、幕末におきまして、桐野の仲のいい友人でして、鳥羽伏見で戦死しております。20年前、なにかで読んで、相国寺にお墓があると知り、私はお墓探しに出かけました。
えーと、ですね。
「鳥羽伏見の戦い」への私の違和感は、野口氏のご感想の文言と、これはあいかわらず、なんですが、あとがきに対するものでして、戦いそのものの事実経過を追った記述については、これまであまり一般に知られていませんでした「慶明雑録」(内閣文庫蔵)の「鳥羽伏見戦状」を読み込まれており、非常によくまとめられたものです。
野口氏が、この活字化されていない史料にあたられました最大の動機は、鳥羽伏見の戦いで、幕府の伝習歩兵隊がシャスポー(フランスの元込め銃)を使っていたことを証明なさるためでして、私も、この点に関しましては野口氏のご意見に全面的に賛同しております。
これについては、批判とともに稿を改めて書きたいと思っていますが、さて、そのシャスポー銃が使われていました証拠として、野口氏は、以下の文章を「慶明雑録」の「高崎左京覚書」から、引用しておられるんです。
「奉行所へ籠り居たる歩兵、小銃を持って大に戦う。伊集院金次郎戦死。貴島勇蔵・山田孫次郎深手を蒙る」
奉行所といいますのは、伏見奉行所です。
つまり、どうやら伊集院金次郎は、鳥羽伏見開戦の正月3日、伏見奉行所をめぐる初戦で、戦死したようなのですね。
中村さまが、「鹿児島県史料集9明治元年戊辰戦役関係史料」(昭和43年 鹿児島県立図書館)から、伊集院金次郎の項目を送ってくださいまして、裏付けがとれます。
小銃第一隊 小頭見習 伊集院金次郎正雄 三十二 明治元年正月三日伏見に於て戦死
中村さまが送ってくださいましたページには、伏見初戦におきます小銃第一隊からの戦死者が、金次郎を含めて三名載っています。
同じく小頭見習の山田孫一郎有清(27)、八田幸輔共古(26 八田知紀じさまの愛息です)。この二人は「重創を被り」後日に死去していまして、金次郎は即死だったようなのですが、三人ともどうやら、銃弾による戦死であったようです。
実はつい先日、20年前に撮りました相国寺林光院の薩摩藩士の墓の写真が出てきたんです。
私は、伊集院金次郎のお墓を見つけて撮ったように思い込んでいて、中村さまにそうお話していたんですが、出てきた写真を見てみましたら、なんと!!! 金次郎ではなく、伊集院與一の墓でした。ちなみに、現在は施錠されていて、墓域に入れないそうなんですが、20年前には鍵がかかってなくて、入れました。
2番目と3番目の写真、大正4年建立の碑の台座に、細かく文字が書かれているように見えまして、どうも、これが戦死者名らしいんです。
私のあやふやな記憶では、なんですが、伊集院與一の墓は比較的大きく、墓碑面もはっきり読めたのですが、他のお墓はもっと小さく、墓碑が読めるものが少なかったような。
この與一さんも、野口氏の「鳥羽伏見の戦い」に登場いたします。正月3日、開戦の直前に、伏見関門で幕府大目付滝川播磨守の応接をした、というのですね。
慶応3年12月25日、幕府は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにし、江戸にいた滝川播磨守は歩兵200人とともに軍艦に乗り、28日、大阪の慶喜公にこれを急報します。
そんなわけで大阪城は大騒動。
慶喜公上京の先供、という名目で、幕府歩兵隊、伝習隊、会津・桑名などの一部の兵が、伏見に張り出します。
京都でこの動きを察知した薩長軍も、伏見に関門を設けて、警備兵を出します。
幕府方、伏見方面の指揮者は、陸軍奉行・竹中丹後守で、1月2日夕刻には、旧伏見奉行所の陣屋に入っていました。
ここらあたりは、別稿にゆずりたいと思いますが、情報を得ていた薩長側も、3日開戦を予測して増兵し、御香宮に本陣を置きます。
開戦は、鳥羽が先でして、討薩表をかかげた滝川播磨守と薩摩藩士の問答があって、押し通ろうとした幕府軍に薩摩側が発砲し開戦になった、といわれているんですけれども、この滝川播磨守、鳥羽で問答をする前に、伏見でも問答をしていて、らちがあかないので、鳥羽にまわったのだろう、と野口氏は推測されています。
ともかく、伏見において、滝川播磨守を丁寧に応接したのが小銃十二番隊長・伊集院與一だと、野口氏は書いておられるのですが、このとき、十二番隊は伏見にいませんし、與一さんは、単身で連絡にでも来ていたというのでしょうか。野口氏が引用しておられます幕府遊撃隊士・堤兵二郎の回顧録では「伊集院某」となっていまして、野口氏がなにによって與一さんとされているのか、わかりません。
ともかく、薩摩小銃十二番隊はその翌々日、正月5日に伏見街道を進軍しまして、隊長の伊集院與一さんは、淀堤千両松の激戦で戦死しております。
さて。金次郎さんに話をもどしましょう。
実のところ、32歳で戦死した金次郎さんについては、あんまりたいしたことはわかりません。
しかし、桐野(中村半次郎)と仲がよかったことは確かでして、慶応3年には、長期間、行を共にしています。
これについても、土方久元の「回天実記」などで、おおよその足取りがつかめるだけなのですが。
まずは慶応3年3月17日、桐野と金次郎の二人は、九州太宰府に到着しています。
えーと、ですね。三条実美を中心とします過激派公家・七卿は、8.18クーデターで都を逃れ、長州に落ちていたのですが、そのうちの五卿が、第一次長州征討の結果、太宰府に移ることになり、筑前、薩摩、筑後、肥前、肥後の藩兵が守護しました。これは、西郷隆盛の案だったといわれ、守護兵の中心は薩摩でしたから、薩長同盟の素地になり、五卿のまわりに、薩長土三藩の志士がつどうことになったんですね。
といいますのも、五卿の側近になっておりましたのは、土方久元など、多くは土佐勤王党士だったからです。
この3月17日の太宰府は盛況でして、薩摩を訪れていた中岡慎太郎がまず帰ってきまして、土佐の容堂公や宇和島伊達公と西郷の会談の模様を披露します。
そこへ、長州の木戸孝允が、長州に身を寄せていました土佐勤王党の後藤深蔵を供に、やってきます。
そして、桐野と金次郎です。
木戸、桐野、金次郎のこの日の太宰府着は、中岡慎太郎の「行行筆記」にも記されています。
翌18日。以下は「回天実記」から引用です。
「暮頃より長使(木戸孝允)へ御酒被下に付罷越候処、伊集院(金次郎)、中村(桐野)並竹田祐伯も来合わせ、後藤(深蔵)共六人に相成、薩長土三藩二人宛之会合にて談論頗愉快を極め、互に肝胆を披き夜四つ時に至帰宿」
暮れ頃、三条実美が長州からの使者・木戸孝允に酒を下されたので、土方久元は御殿に上がったんですね。桐野と金次郎、竹田祐伯も来合わせていて、後藤(深蔵)を入れると六人になり、薩長土から二人づつの会合になって、愉快きわまりなく、お互いに肝をわった話ができて、夜の10時頃に土方は宿に帰った、というわけなんですが、竹田祐伯とは、どうやら長州から派遣されていた藩医のようです。
とすれば、薩長土三藩から二人づつ、というのは、薩摩が桐野と金次郎、長州が木戸と竹田祐伯、土佐は後藤(深蔵)と、あと一人、土方は自分を数えているように読めます。
しかし、「行行筆記」の3月18日条には次のようにあって、中岡慎太郎は加わっていなかったのか、迷うところです。
「雨。午後晴る。拝謁相済、諸友と別杯す」
中岡慎太郎が桐野や金次郎、木戸、後藤などと別れの酒を飲みかわして宿に帰った後に、土方が呼び出された、ということなんでしょうか。
ともかく、慎太郎は翌20日に旅立ち、翌々21日、高杉晋作が重病になったというので、竹田祐伯が長州に呼び返されます。
桐野と金次郎は、その翌22日、薩摩に向けて旅立ったようです。
だいぶん以前に「桐野利秋と高杉晋作」で書いたのですが、桐野の維新以降の通称「信作(新作)」は、高杉晋作に心酔してもらったもの、という噂話があります。
もしかして、なのですが、高杉の病が篤いと聞いた桐野と金次郎は、このとき、竹田祐伯を頼って、高杉に会いにいったりしなかったでしょうか。
中岡慎太郎は、20日に下関で坂本龍馬に逢い、21日に高杉を見舞っているのですが、病が篤く、会うことができませんでした。
桐野と金次郎の薩摩滞在は」、1ヶ月に満たなかったようでして、4月21日、太宰府にいる土方久元の「回天実記」に、突然、金次郎が現れます。
「薩藩伊集院金次郎於満盛院酔狂之挙動有之」
いつ、金次郎と桐野が太宰府に着いたのか、わからないんですが、「満盛院」とは、太宰府におきます当時の三条実美の宿舎のようです。
要するに金次郎は酔っぱらって、三条公の宿舎に押しかけ狂態を見せたので、五卿警護の薩摩藩士隊長格・大山綱良がわびを入れ、「明日、本人の酔いが醒めたら処分するから、よろしく三条公に取りなしてくれ」と土方に頼みこむ、というような騒ぎになったんですね。
しかし翌22日の「回天実記」の記述をあわせ読みますと、金次郎が暴れたとき、たまたま三条公は留守にしていて、翌朝、留守中の騒動を聞きはしたものの、「この目で見たわけではないし、金次郎は忠義の士で悪意があったわけでもなく、穏便にはからえ」と言ってくれたものですから、大山綱良もほっとして、「このたびはお咎めなしということで、その代わり今後、国事の為にこそ死んでくれ」と金次郎に言い聞かせた、というんです。
その日、金次郎は、桐野とともに、三条公のもとに現れて、同様の口上を述べて別れを告げ、太宰府を発ちました。
えーと、これ、ですね。私、20年前にすでに読んでいて、お墓さがしに出かけたわけなんですけれども、この事件を五卿の一人の東久世も記録していたことは、知らなかったんです。
最近になり、モンブラン伯爵を調べはじめて、どーしてもこれは東久世の日記を見なければ、ということで、古書店で買いましたところが、モンブラン伯爵のことはほとんどなにも書いていませんで、がっかりしたんですが、金次郎の「酔狂之挙」が載っていまして、ちょっとびっくり。しかし、どこへやったものやら出てきませんで、引用もできませんし、内容も忘れております。
桐野作人氏が、さつま入国誌に「薩摩藩士・伊集院金次郎の最期」を書かれて、詳しく引用しておられますので、ごらんになってみてください。
それにいたしましても私、大昔に「回天実記」で読んだときの印象の方が強く、この事件をたいしたものとは、思ってなかったんですね。
なにしろ、大虎になった薩摩藩士の乱暴狼藉なんて、帝国海軍にも酒の席の無礼講大暴れの伝統が受け継がれたくらいで、珍しくもないですし、三条公は留守だったわけですし、大暴れして、翌朝酔いが醒めたらしゅんとして、腹を切る、と騒いで、まわりが「まあまあ、反省しているなら国のためのご奉公に命はかけろや」となだめるって、よくある話じゃないですか。
お詫びの口上も、下戸の桐野といっしょに、ですしね。
桐野は、どこからどう見ても、身分ちがいに恐れ入るタイプではないですし、「酒が入ってのことなんか、気にすんなや、わははははは」と、金次郎の肩を叩いたりしたんじゃないのかと、妄想したり。
(追記)桐野が「身分ちがいに恐れ入るタイプではない」ことについて、野口氏の「鳥羽伏見の戦い」に、これまで私がまったく知らなかったエピソードが載っておりまして、これも驚きでした。史談会速記録(第二十三輯)ですし、伝聞にすぎないのですが、おもしろい話です。
「鳥羽伏見の土方歳三」に出てきます、幕府勘定奉行配下の役人・坂本柳佐の回顧談です。この人のお話は、実におもしろくて、ファンになりました。柳佐さんが長州藩士・久保武三から聞いた話だそうなんですが、開戦三日目、征夷大将軍となった仁和寺宮が、錦の御旗とともに戦場に姿を現します。実はこのとき、弱冠23歳、還俗したばかりの宮さまの後ろに、桐野がついていた、というのです。「桐野利秋という人が、我が輩はどうしても進む。鳳輦を守護して丹波道から逃げるという事はないといって、抜刀して仁和寺宮にお進みなさいといって、桐野が跡からお泣きなさる宮に付いて伏見に参ったということを久保が話しておりました」 これを読んで、私はつい、笑い転げてしまいました。
それよりも、ですね。今回「回天実記」を読み返して、気付いたんですが、金次郎酔狂之挙の記事の直前に、高杉晋作の死の知らせが太宰府に届いた、とあるんですね。もしかして、なんですが、このとき金次郎が悪酔いしたは、高杉の死を知って、ではなかったんでしょうか。
4月22日に太宰府を発した金次郎と桐野は、実はその足で下関へ行き、長州の山縣有朋と鳥尾小弥太を伴って、5月2日に、京へ向けて出発しています。
山縣の回顧録によれば、「どうしても上京したかったが、当時、長州人は近畿へ入れなかったので、藩庁に頼み込んで、太宰府の薩摩藩出張所に連絡してもらったところ、中村半次郎と伊集院金次郎が下関へ来た」ということです。
日数からしまして、桐野と金次郎は、しばらく下関に留まったと見られ、これはかなりの確立で、高杉のお墓に参ったのではないか、と、私は思います。
それから半年余り、伊集院金次郎は、伏見開戦のその日に戦死するわけなのですが、同じ小銃一番隊には、桐野もいました。
この小銃一番隊は、伏見奉行所の東、桃山方面に配され、その左隣、宇治川に接しては、有馬藤太率いる外城四番隊(出水・阿久根)の半隊がいました。
有馬藤太の回顧録によれば、最終的には外城四番隊も奉行所に突入したのですが、すでにそのとき、桐野は先に入り込んでいたのだそうです。
野口武彦氏の書かれていますところでは、どうも、東の桃山方面に対したのが、シャスポーを持った伝習歩兵だったらしく、外城四番隊も、緒戦で激しい射撃を受けたようです。「慶明雑録」、活字になっていなくて、容易に読めるものではなさげなのが残念です。
なお、伏見におきます小銃一番隊が、銃撃戦しかしていないらしいことは、「慶応出軍戦状」の「一番隊戦状」(これも中村さまからコピーをいただきました)によって、裏付けがとれます。
ところで、ですね。
開戦時に桐野と金次郎がいた位置からはだいぶん離れて、伏見市中の北側には、長州軍が布陣していたのですが、そのうちの一隊は他藩人が多くいた長州遊撃隊で、土佐出身の後藤深蔵が率いていました。
そうです。太宰府へ木戸孝允の共をしてきて、桐野、金次郎と、気持ちよく酒をくみかわした人物です。
こちらは市街戦でしたが、ともに伏見で戦い、そして深蔵もこの日、銃弾に倒れました。
児玉如忠編「維新戦役実歴談」(マツノ書店復刻)の林友幸(半七)の談話に、以下のようにあります。
(問)後藤深蔵が戦死して居りますな。
(答)彼も死なずとも宜かったろうが酒を飲んでいて、何の構ふことはないと言ふて出た拍子に撃たれた。
そのー、位置も離れていましたし、まさか夕刻の開戦直前、金次郎もいっしょにお酒を飲んでいて、ということは、いくらなんでもなかっただろー、とは思うのですが、もしかして、当日の午前中には「おー、いよいよじゃあ。まあ景気づけにいっぱいやろうぜ!!!」なんぞと、飲みまくった………、なんてことなら、ありそーな気がしたりします。
桐野は下戸ですが、えー、きっと素面で盛り上がれるタイプ、だったと思いますので、お汁粉でつきあったか、と。
すみません。いっこうにしんみりしませんで。
林半七さんが悪いんです。
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しかし、去年、勝之丞さまのお勧めでこの本を読みましたとき、最初から、「野口武彦氏にしては、ちょっと」という違和感がなかったわけではないのですが、それよりなにより、伊集院金次郎に関する記述が出てまいりまして、驚きました。
「中井桜洲と桐野利秋」に書いておりますが、伊集院金次郎は、幕末におきまして、桐野の仲のいい友人でして、鳥羽伏見で戦死しております。20年前、なにかで読んで、相国寺にお墓があると知り、私はお墓探しに出かけました。
えーと、ですね。
「鳥羽伏見の戦い」への私の違和感は、野口氏のご感想の文言と、これはあいかわらず、なんですが、あとがきに対するものでして、戦いそのものの事実経過を追った記述については、これまであまり一般に知られていませんでした「慶明雑録」(内閣文庫蔵)の「鳥羽伏見戦状」を読み込まれており、非常によくまとめられたものです。
野口氏が、この活字化されていない史料にあたられました最大の動機は、鳥羽伏見の戦いで、幕府の伝習歩兵隊がシャスポー(フランスの元込め銃)を使っていたことを証明なさるためでして、私も、この点に関しましては野口氏のご意見に全面的に賛同しております。
これについては、批判とともに稿を改めて書きたいと思っていますが、さて、そのシャスポー銃が使われていました証拠として、野口氏は、以下の文章を「慶明雑録」の「高崎左京覚書」から、引用しておられるんです。
「奉行所へ籠り居たる歩兵、小銃を持って大に戦う。伊集院金次郎戦死。貴島勇蔵・山田孫次郎深手を蒙る」
奉行所といいますのは、伏見奉行所です。
つまり、どうやら伊集院金次郎は、鳥羽伏見開戦の正月3日、伏見奉行所をめぐる初戦で、戦死したようなのですね。
中村さまが、「鹿児島県史料集9明治元年戊辰戦役関係史料」(昭和43年 鹿児島県立図書館)から、伊集院金次郎の項目を送ってくださいまして、裏付けがとれます。
小銃第一隊 小頭見習 伊集院金次郎正雄 三十二 明治元年正月三日伏見に於て戦死
中村さまが送ってくださいましたページには、伏見初戦におきます小銃第一隊からの戦死者が、金次郎を含めて三名載っています。
同じく小頭見習の山田孫一郎有清(27)、八田幸輔共古(26 八田知紀じさまの愛息です)。この二人は「重創を被り」後日に死去していまして、金次郎は即死だったようなのですが、三人ともどうやら、銃弾による戦死であったようです。
実はつい先日、20年前に撮りました相国寺林光院の薩摩藩士の墓の写真が出てきたんです。
私は、伊集院金次郎のお墓を見つけて撮ったように思い込んでいて、中村さまにそうお話していたんですが、出てきた写真を見てみましたら、なんと!!! 金次郎ではなく、伊集院與一の墓でした。ちなみに、現在は施錠されていて、墓域に入れないそうなんですが、20年前には鍵がかかってなくて、入れました。
2番目と3番目の写真、大正4年建立の碑の台座に、細かく文字が書かれているように見えまして、どうも、これが戦死者名らしいんです。
私のあやふやな記憶では、なんですが、伊集院與一の墓は比較的大きく、墓碑面もはっきり読めたのですが、他のお墓はもっと小さく、墓碑が読めるものが少なかったような。
この與一さんも、野口氏の「鳥羽伏見の戦い」に登場いたします。正月3日、開戦の直前に、伏見関門で幕府大目付滝川播磨守の応接をした、というのですね。
慶応3年12月25日、幕府は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにし、江戸にいた滝川播磨守は歩兵200人とともに軍艦に乗り、28日、大阪の慶喜公にこれを急報します。
そんなわけで大阪城は大騒動。
慶喜公上京の先供、という名目で、幕府歩兵隊、伝習隊、会津・桑名などの一部の兵が、伏見に張り出します。
京都でこの動きを察知した薩長軍も、伏見に関門を設けて、警備兵を出します。
幕府方、伏見方面の指揮者は、陸軍奉行・竹中丹後守で、1月2日夕刻には、旧伏見奉行所の陣屋に入っていました。
ここらあたりは、別稿にゆずりたいと思いますが、情報を得ていた薩長側も、3日開戦を予測して増兵し、御香宮に本陣を置きます。
開戦は、鳥羽が先でして、討薩表をかかげた滝川播磨守と薩摩藩士の問答があって、押し通ろうとした幕府軍に薩摩側が発砲し開戦になった、といわれているんですけれども、この滝川播磨守、鳥羽で問答をする前に、伏見でも問答をしていて、らちがあかないので、鳥羽にまわったのだろう、と野口氏は推測されています。
ともかく、伏見において、滝川播磨守を丁寧に応接したのが小銃十二番隊長・伊集院與一だと、野口氏は書いておられるのですが、このとき、十二番隊は伏見にいませんし、與一さんは、単身で連絡にでも来ていたというのでしょうか。野口氏が引用しておられます幕府遊撃隊士・堤兵二郎の回顧録では「伊集院某」となっていまして、野口氏がなにによって與一さんとされているのか、わかりません。
ともかく、薩摩小銃十二番隊はその翌々日、正月5日に伏見街道を進軍しまして、隊長の伊集院與一さんは、淀堤千両松の激戦で戦死しております。
さて。金次郎さんに話をもどしましょう。
実のところ、32歳で戦死した金次郎さんについては、あんまりたいしたことはわかりません。
しかし、桐野(中村半次郎)と仲がよかったことは確かでして、慶応3年には、長期間、行を共にしています。
これについても、土方久元の「回天実記」などで、おおよその足取りがつかめるだけなのですが。
まずは慶応3年3月17日、桐野と金次郎の二人は、九州太宰府に到着しています。
えーと、ですね。三条実美を中心とします過激派公家・七卿は、8.18クーデターで都を逃れ、長州に落ちていたのですが、そのうちの五卿が、第一次長州征討の結果、太宰府に移ることになり、筑前、薩摩、筑後、肥前、肥後の藩兵が守護しました。これは、西郷隆盛の案だったといわれ、守護兵の中心は薩摩でしたから、薩長同盟の素地になり、五卿のまわりに、薩長土三藩の志士がつどうことになったんですね。
といいますのも、五卿の側近になっておりましたのは、土方久元など、多くは土佐勤王党士だったからです。
この3月17日の太宰府は盛況でして、薩摩を訪れていた中岡慎太郎がまず帰ってきまして、土佐の容堂公や宇和島伊達公と西郷の会談の模様を披露します。
そこへ、長州の木戸孝允が、長州に身を寄せていました土佐勤王党の後藤深蔵を供に、やってきます。
そして、桐野と金次郎です。
木戸、桐野、金次郎のこの日の太宰府着は、中岡慎太郎の「行行筆記」にも記されています。
翌18日。以下は「回天実記」から引用です。
「暮頃より長使(木戸孝允)へ御酒被下に付罷越候処、伊集院(金次郎)、中村(桐野)並竹田祐伯も来合わせ、後藤(深蔵)共六人に相成、薩長土三藩二人宛之会合にて談論頗愉快を極め、互に肝胆を披き夜四つ時に至帰宿」
暮れ頃、三条実美が長州からの使者・木戸孝允に酒を下されたので、土方久元は御殿に上がったんですね。桐野と金次郎、竹田祐伯も来合わせていて、後藤(深蔵)を入れると六人になり、薩長土から二人づつの会合になって、愉快きわまりなく、お互いに肝をわった話ができて、夜の10時頃に土方は宿に帰った、というわけなんですが、竹田祐伯とは、どうやら長州から派遣されていた藩医のようです。
とすれば、薩長土三藩から二人づつ、というのは、薩摩が桐野と金次郎、長州が木戸と竹田祐伯、土佐は後藤(深蔵)と、あと一人、土方は自分を数えているように読めます。
しかし、「行行筆記」の3月18日条には次のようにあって、中岡慎太郎は加わっていなかったのか、迷うところです。
「雨。午後晴る。拝謁相済、諸友と別杯す」
中岡慎太郎が桐野や金次郎、木戸、後藤などと別れの酒を飲みかわして宿に帰った後に、土方が呼び出された、ということなんでしょうか。
ともかく、慎太郎は翌20日に旅立ち、翌々21日、高杉晋作が重病になったというので、竹田祐伯が長州に呼び返されます。
桐野と金次郎は、その翌22日、薩摩に向けて旅立ったようです。
だいぶん以前に「桐野利秋と高杉晋作」で書いたのですが、桐野の維新以降の通称「信作(新作)」は、高杉晋作に心酔してもらったもの、という噂話があります。
もしかして、なのですが、高杉の病が篤いと聞いた桐野と金次郎は、このとき、竹田祐伯を頼って、高杉に会いにいったりしなかったでしょうか。
中岡慎太郎は、20日に下関で坂本龍馬に逢い、21日に高杉を見舞っているのですが、病が篤く、会うことができませんでした。
桐野と金次郎の薩摩滞在は」、1ヶ月に満たなかったようでして、4月21日、太宰府にいる土方久元の「回天実記」に、突然、金次郎が現れます。
「薩藩伊集院金次郎於満盛院酔狂之挙動有之」
いつ、金次郎と桐野が太宰府に着いたのか、わからないんですが、「満盛院」とは、太宰府におきます当時の三条実美の宿舎のようです。
要するに金次郎は酔っぱらって、三条公の宿舎に押しかけ狂態を見せたので、五卿警護の薩摩藩士隊長格・大山綱良がわびを入れ、「明日、本人の酔いが醒めたら処分するから、よろしく三条公に取りなしてくれ」と土方に頼みこむ、というような騒ぎになったんですね。
しかし翌22日の「回天実記」の記述をあわせ読みますと、金次郎が暴れたとき、たまたま三条公は留守にしていて、翌朝、留守中の騒動を聞きはしたものの、「この目で見たわけではないし、金次郎は忠義の士で悪意があったわけでもなく、穏便にはからえ」と言ってくれたものですから、大山綱良もほっとして、「このたびはお咎めなしということで、その代わり今後、国事の為にこそ死んでくれ」と金次郎に言い聞かせた、というんです。
その日、金次郎は、桐野とともに、三条公のもとに現れて、同様の口上を述べて別れを告げ、太宰府を発ちました。
えーと、これ、ですね。私、20年前にすでに読んでいて、お墓さがしに出かけたわけなんですけれども、この事件を五卿の一人の東久世も記録していたことは、知らなかったんです。
最近になり、モンブラン伯爵を調べはじめて、どーしてもこれは東久世の日記を見なければ、ということで、古書店で買いましたところが、モンブラン伯爵のことはほとんどなにも書いていませんで、がっかりしたんですが、金次郎の「酔狂之挙」が載っていまして、ちょっとびっくり。しかし、どこへやったものやら出てきませんで、引用もできませんし、内容も忘れております。
桐野作人氏が、さつま入国誌に「薩摩藩士・伊集院金次郎の最期」を書かれて、詳しく引用しておられますので、ごらんになってみてください。
それにいたしましても私、大昔に「回天実記」で読んだときの印象の方が強く、この事件をたいしたものとは、思ってなかったんですね。
なにしろ、大虎になった薩摩藩士の乱暴狼藉なんて、帝国海軍にも酒の席の無礼講大暴れの伝統が受け継がれたくらいで、珍しくもないですし、三条公は留守だったわけですし、大暴れして、翌朝酔いが醒めたらしゅんとして、腹を切る、と騒いで、まわりが「まあまあ、反省しているなら国のためのご奉公に命はかけろや」となだめるって、よくある話じゃないですか。
お詫びの口上も、下戸の桐野といっしょに、ですしね。
桐野は、どこからどう見ても、身分ちがいに恐れ入るタイプではないですし、「酒が入ってのことなんか、気にすんなや、わははははは」と、金次郎の肩を叩いたりしたんじゃないのかと、妄想したり。
(追記)桐野が「身分ちがいに恐れ入るタイプではない」ことについて、野口氏の「鳥羽伏見の戦い」に、これまで私がまったく知らなかったエピソードが載っておりまして、これも驚きでした。史談会速記録(第二十三輯)ですし、伝聞にすぎないのですが、おもしろい話です。
「鳥羽伏見の土方歳三」に出てきます、幕府勘定奉行配下の役人・坂本柳佐の回顧談です。この人のお話は、実におもしろくて、ファンになりました。柳佐さんが長州藩士・久保武三から聞いた話だそうなんですが、開戦三日目、征夷大将軍となった仁和寺宮が、錦の御旗とともに戦場に姿を現します。実はこのとき、弱冠23歳、還俗したばかりの宮さまの後ろに、桐野がついていた、というのです。「桐野利秋という人が、我が輩はどうしても進む。鳳輦を守護して丹波道から逃げるという事はないといって、抜刀して仁和寺宮にお進みなさいといって、桐野が跡からお泣きなさる宮に付いて伏見に参ったということを久保が話しておりました」 これを読んで、私はつい、笑い転げてしまいました。
それよりも、ですね。今回「回天実記」を読み返して、気付いたんですが、金次郎酔狂之挙の記事の直前に、高杉晋作の死の知らせが太宰府に届いた、とあるんですね。もしかして、なんですが、このとき金次郎が悪酔いしたは、高杉の死を知って、ではなかったんでしょうか。
4月22日に太宰府を発した金次郎と桐野は、実はその足で下関へ行き、長州の山縣有朋と鳥尾小弥太を伴って、5月2日に、京へ向けて出発しています。
山縣の回顧録によれば、「どうしても上京したかったが、当時、長州人は近畿へ入れなかったので、藩庁に頼み込んで、太宰府の薩摩藩出張所に連絡してもらったところ、中村半次郎と伊集院金次郎が下関へ来た」ということです。
日数からしまして、桐野と金次郎は、しばらく下関に留まったと見られ、これはかなりの確立で、高杉のお墓に参ったのではないか、と、私は思います。
それから半年余り、伊集院金次郎は、伏見開戦のその日に戦死するわけなのですが、同じ小銃一番隊には、桐野もいました。
この小銃一番隊は、伏見奉行所の東、桃山方面に配され、その左隣、宇治川に接しては、有馬藤太率いる外城四番隊(出水・阿久根)の半隊がいました。
有馬藤太の回顧録によれば、最終的には外城四番隊も奉行所に突入したのですが、すでにそのとき、桐野は先に入り込んでいたのだそうです。
野口武彦氏の書かれていますところでは、どうも、東の桃山方面に対したのが、シャスポーを持った伝習歩兵だったらしく、外城四番隊も、緒戦で激しい射撃を受けたようです。「慶明雑録」、活字になっていなくて、容易に読めるものではなさげなのが残念です。
なお、伏見におきます小銃一番隊が、銃撃戦しかしていないらしいことは、「慶応出軍戦状」の「一番隊戦状」(これも中村さまからコピーをいただきました)によって、裏付けがとれます。
ところで、ですね。
開戦時に桐野と金次郎がいた位置からはだいぶん離れて、伏見市中の北側には、長州軍が布陣していたのですが、そのうちの一隊は他藩人が多くいた長州遊撃隊で、土佐出身の後藤深蔵が率いていました。
そうです。太宰府へ木戸孝允の共をしてきて、桐野、金次郎と、気持ちよく酒をくみかわした人物です。
こちらは市街戦でしたが、ともに伏見で戦い、そして深蔵もこの日、銃弾に倒れました。
児玉如忠編「維新戦役実歴談」(マツノ書店復刻)の林友幸(半七)の談話に、以下のようにあります。
(問)後藤深蔵が戦死して居りますな。
(答)彼も死なずとも宜かったろうが酒を飲んでいて、何の構ふことはないと言ふて出た拍子に撃たれた。
そのー、位置も離れていましたし、まさか夕刻の開戦直前、金次郎もいっしょにお酒を飲んでいて、ということは、いくらなんでもなかっただろー、とは思うのですが、もしかして、当日の午前中には「おー、いよいよじゃあ。まあ景気づけにいっぱいやろうぜ!!!」なんぞと、飲みまくった………、なんてことなら、ありそーな気がしたりします。
桐野は下戸ですが、えー、きっと素面で盛り上がれるタイプ、だったと思いますので、お汁粉でつきあったか、と。
すみません。いっこうにしんみりしませんで。
林半七さんが悪いんです。
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山田孫一郎は高杉晋作に会っているみたいです。近デジ『東行先生遺文』156コマの久保松太郎宛の短い書簡に名前が出てきます。
慶応2年のものらしいですが、残念ながら日付はありません。
大山綱良差し出しの書簡が146~147コマにあります。多分こちらは木戸関係文書に載っているでしょう。
高杉の書簡はこれのこと、なんでしょうか。
調べてみないといけませんわね。
とりあえず、高杉の全集をさがします。
ただ、ネットで調べと所、利秋には子供がいなかったとの記述もあり利秋の兄弟の子とも考えられますがこれからゆっくり調べてみようと思っています。
(以下、利秋の子孫の敬称略させて頂きます。)
郎女様がおっしゃるように、利秋の子は利義一人と言われています。
ヒロが嫁いだのは、利秋ではなく利義の子息ではないでしょうか。利義には少なくとも、利隆、利和という息子が2人いたようです。
娘は富美子、昌子のようです。
曾孫の加藤房子さんのお話によれば、利義の子供は6人だそうです。http://mytown.asahi.com/kagoshima/news.php?k_id=47000280801070001
北村さまのお父上は玄孫、キクさまと加藤房子様とが「いとこ」と推察します。
キクさまがごいっしょだったかどうかはわかりませんが、お祖母さまのご姉妹方が、南洲墓地へお墓参りに行かれたのではないでしょうか。
南洲墓地の案内人をされていた湯場崎末次郎氏(故人)のサイト「墓標を縫って」の『北海道の子孫達』に、北海道から桐野の直系の4姉妹が訪れた旨、書かれています。
次女が病気で死亡した後、4女のキクと再婚し父を含む2男3女を生んだそうです。3女はタネ、5女はヨシで私も幼少の頃、タネばあちゃんやヨシばあちゃんの記憶があります。南洲墓地に行ったのが誰かは分からないそうですが父が行けるならお参りに行って欲しいとの事ですので今年、行ってみようと思っています。中村様のおっしゃるように利義の長男、次男なのかもしれませんね。母が言うには富美子おばさんという方がいたと記憶しているそうですから。また、宜しくお願いいたします。ありがとうございました。
ところで、肝付兼武が桐野と婚戚と書いたブログをいくつか見ました。屯田兵制度は彼が亡くなった明治37年で終了です。北村様の書き込みを拝見して、なるほどと思いました。
屯田兵制度は、兼武か亡くなった明治37年まですから、その頃までに北村様のご先祖は北海道にいかれたのですね。
久夫人が晩年「何人か子供がいた。」と言っている。という記事を見たことがあると聞いて探してみたのですが、なかなか見つかりません。昭和40年後半から50年代の雑誌の幕末関連の特集の中で「桐野利秋の妻久さんの子供に関する談話」が囲み記事として載っていたと聞いて、探しています。(4分の1頁程)
子孫の名前も書かれていたというのですが。
北村様がよろしければ、yeyegreen@auone.jp にメールしていただけませんでしょうか。
北村様のご先祖が利義の子供となれば、ごく若い時期に北海道に行かれたと思います。兼武氏を頼っていかれたのでしょうか?
それから、日本を変えた薩摩人(芳 即正著)の中で前田正名の写真を見ました。
え~、この人何? あまりにもイケメンでびっくりです。明治6年の写真です。イケメン好きの人にだけでなく、女性全般にとって、前田正名は一押しですね。写真の中の彼らはポーズをとっています。(かっこをつけていて)男の人ってかわいいものだなと思ってしまいますが(笑)、彼らのその後を考えると、少し切なくもあります。
郎女様のブログが研究者の集い(?)とわかってきて、度々素人の私が書き込みしてよかったのかますます心配です。
度々変な書き込みをしてすみません。これからも楽しみに拝読させて頂きます。
ところで、肝付兼武です。なにを見られたのかと検索をかけましたら、中村さまが書かれました論文「桐野利秋と肝付兼武」が、ブログで紹介されているんですね。西郷南洲顕彰館の機関誌『敬天愛人』に載っておりますから、図書館ででも、論文そのものをごらんになってみてください。
たしかに肝付兼武は桐野の遠縁ですが、桐野の父親くらいの年でして、蝦夷地にかかわったのは幕末の話です。長州の吉田松陰と友達だった人です。
目を痛めたかなんかで、明治以降は、あんまり活躍できなかった方なんですね、屯田兵制度とは、ほとんど関係がないと思います。
ただ、ですね。中村さまの論文を読んでいただければわかるのですが、桐野の死後、三条家文書に残っています桐野の伝記を書きましたり、桐野の遺児(養子)の就職の世話をしたり、なにかと一家のめんどうをみているようです。
肝付兼武の息子の兼行は、桐野よりはだいぶん若いんですが、海軍で測量に活躍し……、えっと、あらまあ、遠縁の兼行さんは数学大得意だったわけですね。案外、桐野も得意だったりしたんでしょうか。
ともかく、兼行さんは、水路測量の関係の功績で男爵にまでなりまして、桐野のことも語り残してくれていたりします。
wikiの肝付兼行は、出自に関しましてはちょっと疑問もあるんですが、業績について書かれたのは柴崎力栄先生ですから、正確ですよ。先生のお話では、兼行さんのご子孫は内閣調査室に勤務なさっていたようなことです。
屯田兵制度につきましては、あんまりちゃんと調べたことはないのですが、後期の屯田兵制度は、永山武四郎が進めたものだったはずで、検索をかけていましたら、「慈恵医大の第三代学長だった永山武美は武四郎の息子で、西南戦争で戦死した永山弥一郎は伯父にあたる」というような文章が出てきまして、武四郎と弥一ちゃんが兄弟だったとは、聞いたことがなかったんですが、そうだったんですかね。
wikiの永山武四郎では、永山盛輝男爵は兄だとなっていますが、この盛輝男爵、史談会(明治25年10月27日)で、8.18政変において、蕩々と弁じ立てた桐野利秋の思い出を、語っていたりします。「私は甚だ不弁で殊に鹿児島言葉のなまりがございます」と話をはじめている盛輝さんも、男爵になったんですか、びっくり。
まあ、永山両男爵も、桐野の古い知り合いではあるわけでして、子孫の世話にかかわっても、おかしくはないとは思います。
弥一ちゃんについては、一度、ちゃんと調べてみたい、とは思っているんですが、なかなか、資料がなかったりします。
肝付兼武は、中村さまがちゃんと書いてくださいましたので、もう書く気はないです。
ぜひ、見つけて読んでくださいませ。
少なくとも武美の『伯父』ではありません。武四郎は天保8年生まれ、弥一郎は天保9年生まれですから。『叔父』でもおかしいです。
弥一郎の「盛弘」を武四郎の兄「盛輝」と間違えてしまったとか・・・・。
肝付兼行は数学がお得意でも、姻戚で血のつながりがないから、桐野が得意だったかどうかは・・・・。(笑)兼行さんに教えてもらって
理解力アップなら考えられます。
久さんのお話のコピーが出てきたのですが、龍馬だけでなく「長州の品川弥次郎さんだのといふ珍客もお見へになりました」とあります。
弥二郎は鹿児島へ行っているのでしょうか?