郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

町田清蔵くんとパリス中尉

2008年02月19日 | 幕末留学
「フランス艦長の見た堺事件」
ベルガス・デュ プティ・トゥアール
新人物往来社

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 以前にも書いたと思うのですが、鳥羽・伏見の戦いは、兵庫(神戸)・大阪開港と近接してまして、各国公使団の見守る中で、行われました。
 ああ、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1ですね。
 ほんとうは、この話も、モンブランシリーズで順を追って詳しく書くはずだったんです。
 鳥羽・伏見の直後、発足したばかりの京都政権が直面した異人殺傷事件は、京都へ向かっていた備前藩の戦列が神戸で発砲した神戸事件にはじまり、それがなんとか解決しかかったかと思うまもなく、堺港攘夷事件と続きます。
 この堺港攘夷事件、堺港で測量をしていたフランス軍艦の乗組員が、外国人に遊歩許可が出ていた堺に上陸しましたところが、堺警備の土佐藩兵が発砲し、11人のフランス人を撃ち殺した、という事件でして、神戸事件には死者がなく、発砲命令責任者一人の切腹ですみましたのに、11人の死者という異例の事態に、フランスだけではなく、各国公使が態度を硬化させ、「殺害者を処分しろ」という話になりまして、結論だけ言いますと、11人の土佐藩士が切腹したんです。
 殺されたフランス人の水兵さんたちも気の毒ですが、土佐の兵隊さんも、発砲命令を出した隊長級以外は軽輩だったそうで、命令に従っただけですのに、気の毒です。
 まあ、これは改めて詳しく取り上げたいと思いまして、といいますのも、この事件の一級史料の一つである伊達宗城の「御手帳留」が刊行されていませんで、容易に読めないんです。
 いずれ、宇和島へ出かけて見てくるつもりでいます。
 ともかく、事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわっていますし、私、思いますに、大正のはじめ、森鴎外がこの事件を取り上げて、攘夷気分を盛り上げる小説にしまして、こう、幕末維新期のフランスが卑怯な悪鬼であるような見解がひろまり、モンブラン山師伝説にも影響したんじゃないんでしょうか。

 で、今回取り上げます「フランス艦長の見た堺事件」の著者、ベルガス・デュ プティ・トゥアール艦長は、まさに堺事件の渦中の人で、彼が艦長を務めるデュプレクス号の乗組員が殺され、彼は土佐藩士の切腹に立ち会いました。
 と、いいましても、今回はこの本に付録として載っておりますパリス中尉の手記の方の話題で、中尉こそがその測量船の指揮をとっていたのですが、手記の方は、事件の直後、明治天皇に謁見しますロッシュ公使と艦長たちのお供として、中尉が京都を訪れましたときのお話です。

 これもいずれ詳しく書くつもりですが、薩摩藩は、鳥羽伏見の戦いの前から、周到に外交準備をしていました。
 五代友厚、寺島宗則とともにモンブラン伯爵をひそませていて、ただちに各国公使に新政府を認めさせる布石を打っていたのです。
 にもかかわらず、次々と事件が起こってしまったのは、なぜなんでしょうか。
 私、外国人に対する薩摩藩内と他藩の感覚が、ちがいすぎたのではないか、と思うのですね。
 いつものfhさまのこれ。
 すみません。うちこみがめんどうなので、リンクさせていただきます。
 慶応3年の話です。いつの時点かは、ちょっとわかりません。
 忠義公史料の編者は、5月頃と思っていたようですが、モンブランが連れてきたフランス人たちが入り込んでいるとすれば、おそらく11月ころです。
 薩摩の隣国、熊本の横井小楠は、「薩摩には外人が数人入っているし、薩摩藩の若いのはたいてい洋服を着て、ざんぎり頭だよ」と言っています。
 そして、慶応3年の7月30日には、小松帯刀など家老の名前で、薩摩藩内にお触れが出ています。
 「わが藩では、西洋各国の事情がわかり、学問や技術を日々新たにしているわけだが、西洋のうわべばかりに気をとられていては、国を盛り立てる道を失ってしまう。いいところは取り入れても、わが日本の本質は見失わないように」
 
 はい、そうなんです。
 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、慶応2年(1866)の9月には、イギリス公使パークスが薩摩を訪れまして、それ以降、イギリスの軍艦が再び鹿児島湾へ入ったりしておりますし、グラバーの世話で紡績工場ができ、イギリス人が常時滞在するようにもなりました。
 で、英国留学生も、次々に帰ってきております。
 私、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2で、書きたかったんですけど、長くなりすぎたので、省いたエピソードがあります。

 私の愛する清蔵くんは、巴里のリヨン駅で、下宿のお嬢さんと涙ながらに別れ、豪華客船でオランダ海軍一家の少年と親友になり、大金を持って長崎に帰り着いて、薩摩藩長崎留学生に丸山遊郭へつれていかれて、おごらされます。
 これではいけない、というので、薩摩へ帰ることになったのですが、薩摩藩領の阿久根までは船で、そこから騎馬です。

 私は洋服で腰に六連発のピストルを帯し、馬上にて岩崎は籠にて出立しました。

 えーと、なにしろ清蔵くんは名門のおぼっちゃまですから、「岩崎」はお供なんですが、お供が籠で、清蔵くんは馬だったようです。


 しかるに途中、長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途にて、私が洋服にて無刀であり、其の時までは攘夷論者のおる時ですから、其の武士が抜刀して私を切らむ姿勢で向ひましたから、私は残念で泣きながら腰の六連発のピストルを差し向け、切らは切れわれはピストルでいると云ふかまえへにて、「自分は大守様の命により先年英国に留学し、今帰藩の途中、清水兼二郎、本名町田清次郎という、大目付町田民部(久成にいさんです)が実弟なり。何故あって我を切らんとせらるるや、御名前をうかがひ大守様へ言上する考」と言うに、向こうの勢一変し、無言にて一散に走りましたから、私は実に残念で跡を追ひましたが、追いつかず、伊集院というところにきますと、私の兄の用達を勤むる藩士で、大脇正之助という者と出会いまして、右の始末を語り「ぜひ右の武士の名前を調べてくれ」と申しますと、「それはおだやかに見のがした方がよろし」と言うて、それより跡先に大脇と岩崎との間にはさまれ鹿児島城下に着し、一家親族の見舞やら親族に呼はるやら五六日は席の暖まる間もなき事にて、それから親が志布志というところの地頭所に打ち立ちましたが、このときは慶応四年にて奥州征伐戦中にてありました。

 どうもその、清蔵くんの帰国後の話には、えらく時間の短縮があるようでして、清蔵くんが長崎へ帰りつきましたのは、慶応2年 の秋ころのはずなんですが、突然、慶応4年(明治元年)の夏に話がとびます。
 このまま年代を信じますと、清蔵くんは帰国後2年間長崎にいたことになり、当然、慶応三年の秋に来日したモンブランには長崎で会っていた、ということになります。
 そして、「長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途」というのは、戊辰戦争の出兵から帰って来た兵隊たち、ということになるんですが、九州内の薩摩の出兵は、たしか郷士隊だったはずなので、田舎の兵隊さんがよそへ行っていて帰ってきてみたら、「異国人が内陸にまで入ってきてら、許せん」とでもいうことだったんでしょうか。
 それにしても、「斬ってやれ!」と迫ってみたら、「ぼくをだれだと思っているんだあ!!!」と叫ばれて、自藩の名門のおぼっちゃまでは、やってられませんね。
 清蔵くんはともかく、他の留学生は、維新前に鹿児島城下に帰っていた者もあったはずですし、fhさまのおっしゃるように、清蔵くんみたいに洋装で帰ったものも、きっといたはずです。

 そして、これも後年の回顧なんですが、有馬藤太の「維新史の片鱗」から。

 29歳のとき、すなはち慶応元年磯御邸紡績所開設につき、教師の英国人監督の命令を受けた。
 攘夷家をもって自任している私には、非常な苦痛であった。
 知るも知らぬも皆、「藤太どんな夷人の共をして歩く」とそしったもので、私もこれには誠にツライ思いをしたけれども、いったん拝命の上は私自身でこの英人を斬るようなことはできない。
 また一方においては、攘夷論の張本人と目さるるほどの私が、おとなしく監督してがんばってる以上、何人たりとも手出しは出来ぬ。藩ではそこを見てとって、わざと私に監督を命じたのだ。

 紡績所開設は、慶応2年か3年のはずで、ちょっと時期が早いですし、こう、話をおもしろおかしくしているようなところがあるんですが、少なくとも鹿児島城下では、「攘夷家」も慣らされていった様子は、うかがえます。
 で、慶応3年には、「あんまり西洋のまねばかりしないように」とお触れを出すような状態ですから、異人と見れば発砲をためらわない、というような他藩の状態は、五代友厚をはじめ、寺島宗則にも、小松帯刀にも大久保利通にも西郷隆盛にも、ちょっと想定できずらかったのではないか、と思ったりします。

 で、ようやく、土佐藩兵の攻撃を受けたパリス中尉です。
 パリス提督のおぼっちゃま、若きフランス海軍中尉の手記は、なかなかに詳細で、おもしろいものです。
 なにしろ、堺事件の直後です。
 もっとも襲われる危険の高いフランス公使一行を、薩摩藩が引き受けます。
 これは、一つには、薩摩藩の京都二本松藩邸(相国寺と現同志社大学構内を含む)が広大で、御所に近接していたことと、またモンブラン伯爵がロッシュ公使を説得して、帝への謁見を承知させたらしいこと、そしてもちろん、薩摩藩兵が守護している異人に手を出す命知らずも少なかろう、ということもあったでしょう。
 で、現実には土佐が引き受けていたイギリス公使が襲われてしまったわけなのですが、それはまた別の機会に。

 パリス中尉は、謁見ができるわけではありませんで、ロッシュ公使と艦長二人のお供です。
 どうも京都は、禁門の変の打撃から立ち直っていなかったようでして、大阪にくらべると、ずいぶんさびれた感じであったようです。
 二本松藩邸で一行を迎えたのは、モンブラン伯爵です。洋食も準備されていたりします。
 パリス中尉一行は、40人の水兵を連れていたのですが、午前中、水兵たちが訓練をしていましたところが、薩摩の老練な司令官(吉井友実のことじゃないか、と思われます)がそれを見ていて、薩摩侯(島津忠義)に感想を話したらしいのですね。
薩摩候は、「演習を見せてくれ」と所望。

 そこで、狙撃兵の演習が展開された。
 薩摩候は、細心の注意を払ってそれを見守っていたのであるが、このことを他の大名たちに魅力たっぷりに話して聞かせたらしく、その翌日、長門候(毛利敬親)および数人の諸侯が居並ぶ前で、同じことをくりかえさねばならなくなった。

 軍事熱心なのは諸侯だけじゃありませんで、パリス中尉によれば、二ヶ月前から「肥前候の所有する日本のコルベット艦」が、パリス中尉が乗り組んでいましたデュプレクス号の近くに投錨していまして、肥前、つまり佐賀のコルベット艦の将校たちは、毎日のようにデュプレクス号を訪れ、そこで行われることを観察しては、そっくりそれをまねして、「大砲と機動作戦の訓練」をやりこなしたんだそうです。
 私、佐賀の中牟田倉之助(この人も長崎オランダ海軍伝習を受けた人です)が、幕府海軍がすでに軍艦として使っていなかった朝暘丸を使いこなし(幕府海軍は役に立たないと思ったから官軍にひきわたしたわけでして)、函館戦争で活躍したことを不思議に思っていたのですが、まあ、そういうようなわけだったみたいです。もっとも朝暘丸は、佐賀がもっていた電流丸と同型で、勝手がわかっていたこともあったでしょうけれど。(朝陽丸wiki参照・私が書いた部分が多いのですが)
 で、パリス中尉に話をもどしますが、清蔵くん、帰国して、長崎にずっといたのでしょうか?
 モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、長崎で、清蔵くんがモンブランに会わない方がおかしいわけです。
 そして、慶応4年(明治元年)の5月ころまで、中村博愛はパリにいましたから、モンブランが、生まれたばかりの明治新政府外交顧問となっていましたこの時もやはり、日本にいた薩摩藩フランス留学経験者は、朝倉と清蔵くんのみで、朝倉省吾はこのとき、モンブランの通訳についていた証拠があります。
 清蔵くんも、京都でモンブランの手伝いをしていておかしくないかと、思ったりするんです。で、以下。

 われわれの京都での滞在の残りの二日間は、買い物や見物に充てられた。
 また、われわれを持て成してくれた人々とより広く知り合うこともできた。
 あの老練な司令官に加えて、いつもわれわれと一緒にいた若い将校がその一人であるが、私が今まで出会った日本人の中で、彼はもっともヨーロッパ化された男で、ワイシャツを着、付け外しできるカラーを付け、フロックコートを羽織っていたのである。
 下着類を使用するなどということは、彼の同郷人らには思いもつかぬことだった。金のある連中は、頻繁に衣服を取り替え、古くなったものは捨て去るが、そうでない連中は、いつまでも同じ服を着続け、自分の体を頻繁に洗うことによって、洗濯不足を補っているのである。

 この身だしなみのいい「若い将校」が、清蔵くん以外のだれだというのでしょう?(笑)

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2 コメント

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町田申四郎と町田清蔵 (清水 健)
2013-05-30 14:00:13
拝啓、

突然にて失礼ながらお便りいたします。
私は英国でBBCに勤務するかたわら、日英交流史を研究しております。
今年は日本人がロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(UCL)に留学してから150周年ということで、英国ニュースダイジェスト誌に「英国に渡った幕末留学生--長州ファイブと薩摩スチューデント」を執筆しております。
そこでUCLにある記念碑に名前が刻まれた薩摩藩からの留学生19人を紹介する一覧表を作成しているのですが、そのうち町田申四郎と町田清蔵の没年が判っておりません。
町田清蔵は「財部実行回顧談」を残していること、宮崎市高岡町にある龍福寺墓園に町田家の墓があり、申四郎も「町田棟墓」に妻の八重の墓と並んで眠っていると知りましたが、それ以上詳しいことは調べることができませんでした。
http://satsuma-student.doorblog.jp/archives/699905.html
もし町田申四郎と町田清蔵の没年など資料がございましたら、ご教示いただけないでしょうか。
お手数をおかけして大変恐縮ですが、お返事をいただけたら幸いです。

清水 健
shimizu.takeshi (@) gmail.com
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町田清蔵くん (郎女)
2013-05-31 11:58:58
清水さま、ようこそおこしくださいました。
町田清蔵くんの後年の名が財部実行だということで、私、以前にいろいろと調べてみたのですが、回顧談で述べられております以上のことは、さっぱりわかりませんでした。お役にたてませんで。
逆におたずねしたいのですが、名越平馬については、おわかりなんでしょうか? 友人の中村さまが、名越家の子孫の方とお知り合いなんですが、ご子孫にも、まったく事跡がわかっていない、ということなんですけれども。ぜひ、お聞きしたく、今夜にでも、メールを書かせていただきます。
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