郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

歩兵とシルクと小栗上野介 vol2

2008年03月26日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
 歩兵とシルクと小栗上野介 vol1の続きです。
 まず参考書の追加を。

幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社

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 慶応4年(明治元年・1868)1月15日、勘定奉行であると同時に、陸海軍奉行でもあった小栗上野介は、鳥羽伏見から逃げ帰った慶喜公に、徹底抗戦を訴えて、罷免されます。
 その日、勘定奉行の管轄下にある岩鼻代官所の渋谷鷲郎は、独自に小栗上野介の抗戦構想を実施しようと、村々の役人を呼び集めます。
 中山道を攻め上ってくるだろう官軍を、碓氷峠(軽井沢の近く)で待ち受け、迎え撃とうというのです。
 同じ中山道の信州和田峠にも、防御戦を張る計画が、こちらは上田藩を中心に練られていました。
 そのために、村々から兵卒を出させて、本格的な農兵銃隊を編成するつもりだったのです。
 
 しかし、これが、農村の多大な反発を招きました。
 そもそも、農村役人(地元実力者)と代官所の対立は、慶応2年、幕府勘定方が、フランスとの提携を進めて、蚕種や生糸に、代官所が重税を課しはじめてから、潜在していました。武州世直し一揆も、それで起こったのです。
 もちろん、村々の人々は、その重税がフランスとの専売契約によって生じたとは、知りません。国内生糸商人の策謀と受け取っていたのですが、生糸輸出にまつわることはわかっていますし、攘夷気分はいやでも盛り上がります。
 そこへ今度は、兵卒を差し出せ、です。
 浪士隊の挙兵や一揆の場合は、村で火付けや強盗をする可能性もありますし、治安を維持して村を守るためには、兵卒を差し出すことも納得がいきました。一揆の場合も、といいますのは、一揆に加勢しなかった村を、他村の一揆が襲撃することは常道でしたし、富農だけではなく、一般の農家も被害を被ることは多いわけですから。
 しかし、今度は碓氷峠まで出ていって戦え、というのです。なんのためでしょうか?
 「もし遠方戦争の地へ繰り出しあいなり、万一の義これあり」ということ、つまり「よそへまで戦争に出かけていって、戦死してしまうこと」を、農民たちは怖れたのです。
 結局、尊王攘夷をかかげた長州の場合とちがって、幕府直轄地、旗本知行地の農村では、幕末の尊王攘夷気分により、幕府への帰属心はほとんどなくなっていたともいえるでしょう。

 2月12日、慶喜公が上野寛永寺で謹慎すると同時に、朝廷からの命を奉じた尾張藩士が、碓氷峠へ姿を現します。
 朝廷は、鳥羽伏見戦の後、幕府旗本の領地を、とりあえず尾張藩に属するものと規定していたのです。
 これで、旗本領への幕府の支配権は正式に否定され、上州の農民たちは集結し、世直し一揆へとなだれこみます。
 ねらうは富農や生糸商人たちですが、もちろん代官所が、一番の襲撃目標です。
 2月19日、岩鼻陣屋(代官所)が一揆に襲われ、渋谷鷲郎たち幕府役人は逃亡した、という記録があります。
 これと、金井之恭たちは3月になって岩鼻陣屋の牢獄から官軍に救い出された、という話との整合をどうつけるか、なのですが、あるいは渋谷鷲郎たち役人は、囚人も連れた上で、野州羽生陣屋(代官所)に避難したのではないのでしょうか。
 羽生陣屋は、慶応3年11月に築かれたばかりの代官所で、羽生城跡を利用したため、敷地は広大で、防御の地の利もあったようですし、岩鼻陣屋が崩壊した2月から、農兵隊を集めて訓練をはじめているんです。
 そうであったとすれば、後の話がわかりやすいのです。

 鳥羽伏見でも活躍した幕府歩兵隊は、農兵というよりも、江戸の武家臨時雇い人や博徒、農村のアウトローをよせ集めたような銃隊だったのですが、「負けました、将軍さまはご謹慎、はい解散!」で、納得がいこうはずがありません。放り出されたら、食い扶持がなくなるのです。武器を持って隊ごと脱走する者が、多くありました。
 これを見た古屋佐久左衛門が、一計を案じます。
 古屋佐久左衛門については、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。で書きましたが、プリンスの侍医としてパリへ行き、函館で榎本軍の医師を務めた高松凌雲の兄です。筑後の庄屋の息子で、古屋も英学をおさめ、軍書を訳すなどして幕府に取り立てられる一方、英学塾を開いたりもしていました。
 その古屋が、脱走歩兵隊の説得に赴いたのですが、別にそれは、武器を捨てさせるためではありません。
 古屋佐久左衛門は、罷免となった小栗上野介の自宅を訪れて会ったりもしていたようですし、渋谷鷲郎を知っていたのではないでしょうか。薩摩屋敷の浪人に、家族が皆殺しにされた悲劇とともに。

 3月1日、古屋佐久左衛門は、歩兵隊を懐柔すると同時に、勝海舟に談じて、歩兵頭並格の地位と、信州の幕府直轄地鎮撫の命をもらい、大砲やら資金もたっぷりと得て、900人ほどの歩兵隊を率いて野州羽生陣屋へ向かうんです。
 渋谷鷲郎は、羽生陣屋において、古屋佐久左衛門の配下となっています。
 この隊には、京都見廻組の今井信郎も参加していて、後に衝峰隊と名乗ります。

 ところで、小栗上野介が、上州の知行地・権田村に着いたのは、3月1日です。勘定奉行であった小栗が、渋谷鷲郎の動向や悲劇を、知らなかったなんてことがあるのでしょうか。古屋佐久左衛門の歩兵隊が信州に向かうはずだ、ということも、です。
 その翌日、権田村の隣の室田村に、上州世直し一揆勢は集合しますが、一揆を煽動した博徒たちは、小栗上野介渋谷鷲郎の親分であったと、知ってのことではなかったんでしょうか。
 そして、その博徒たちの中に、挙兵浪士側にくみしていた、猫絵の殿様まわりの者があったとしても不思議はないでしょう。
 3月4日、権田村に襲いかかった一揆を、フランス陸軍伝習を受けた権田村の小栗歩兵は、あっさりと退け、首謀者を斬首します。

 古屋率いる歩兵隊は、東山道軍先鋒隊の進路をさけて、信州へ向かおうとして、3月9日、梁田に宿営していましたが、それを知った東山道軍先鋒隊(薩長大垣軍)の襲撃を受け、多数の死者を出して逃走します。翌10日、どうやら長州隊の手で、羽生陣屋は焼かれたようで、このとき金井之恭たちが解放されたとすれば、話のつじつまがあうのではないか、と思うのです。
 渋谷鷲郎は、梁田で敗れて逃走し、親しくしていた村役人のところへ寄り、刀と金を贈られて会津へ向かい、再び古屋佐久左衛門の衝鋒隊に加わって、越後の戦いで行方不明になっているのだそうです。
 戦死したのかどうか、留守宅の家族を皆殺しにされたこの人の恨みは、尽きることがなかったでしょう。

 小栗上野介は、あきらかに、古屋佐久左衛門のくわだてに期待していたでしょう。
 しかし事敗れて、なぜ知行地に居残ったのかは、不可解です。
 たしかに一揆は諸刃で、当初は一揆を利用していた東山道軍も、征圧の後は一転して一揆鎮圧に転じ、小栗上野介が一揆を退けたことを責めようはなかったわけですが、薩長新政府の幕府納地の方針からして、旗本の知行地が無事であるはずはなく、領主然と農兵を組織する行為は、反逆と見なされる可能性が高かっただろうに、と思うのです。
 また、小栗上野介が中心となっていた幕府の富国強兵策が、関東農村の多数の恨みをかっていたことに、果たして本人は、気づいていなかったのでしょうか。
 小栗上野介の富国強兵近代化策は、明治新政府のそれの先駆けといえますが、庶民に重税と兵役という大きな負担を強いるという面においても先駆けであった、とはいえるでしょう。


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6 コメント

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小栗上野介 (勝之丞)
2009-04-26 22:22:21
82こんばんは。勝之丞です。渋谷鷲郎ですけど。
後、本によっては渋谷某とか書かれているものもありますよね。
小栗上野介の最後は残酷ですよね。
私も南條範夫氏の「斬首ただ一人」で小栗上野介ことを知りました。
ところで2月19日の岩鼻陣屋の陥落はその前後に行われた幕府勘定方の粛清人事の影響によるものでしょうか。 関東取締出役は前年末まで機能していたようですし。
やっぱり、上州に引っこんだのは「白洲次郎」的に時期が来るまで隠棲するつもりだったと思うのですが、他にも思うところあってなんですかね。 2月19日に板鼻陣屋が陥落していれば、当然、小栗の耳にも入っているでしょう。
そんなカオスの中へわざわざ移り住もうというのは・・・・・ 
それにしても帰農しようというなら下総の香取郡とかにすればよかったのに。
小栗は香取郡に計430石ほど知行をもっていますし、まとまって230石の知行があったりするんです。 幕末期でも、水戸藩の内紛に巻き込まれて、佐原の町が被害を受けたり、脱走歩兵が屯
ろしたりしますが、上州と比べたら遥かに・・・
野暮なのは分かっているんですが、香取の住人としては、もっと長生きできたと思うんですよ・・・
後、私のもっている角川第二版日本史辞典には、小栗は慶応4年閏4月6日まで勘定奉行の職にあったと記されているんですよ。
事実誤認でしょうか、それとも書類上はその死
その職にあったのでしょうか。
後、畠山清行によると「斬首の直後に総督本営から助命の沙汰届いたが、すでに処刑後であったのでいかんともすることができなかった」と
あるんです。
最後に南條範夫先生が、小栗に好意的なのは、
小栗日記出てくる、「古賀」一族だからでしょうか。
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Unknown (勝之丞)
2009-04-26 22:33:19
脱字が多くてすいません。
返信する
自分で書いておきながら (郎女)
2009-04-27 01:07:13
忘れたことが多くて恐縮なんですが、覚えております範囲でお答えしますと、農民一揆が岩鼻陣屋を襲ったについては、そもそも一揆が起こった最大の理由が、渋谷鷲郎が発した徴兵令への反発でして、江戸における人事は、あまり関係がないのではないかと思われます。

小栗上野介の行動などは、ほぼ、野口武彦氏の「江戸は燃えているか」の「空っ風赤城山」からひろいました。古い伝記も買っていたのですが、どうも事実関係に信頼がおけず、野口氏の著作ならば、事実関係はかなり信頼できる、と踏んだためです。
野口氏は、古屋佐久左衛門と歩兵隊の動きが、東山道軍に危機感をもたらし、小栗上野介の悲劇を生んだのではないか、というような見解をおもちで、私は古屋と小栗の上州入りがほぼ同時期だったことが、なにかとても不可解なことに思えて、実は少々、勝の挙動を怪しんだんです。
 しかし結局、すでに罷免されている小栗を、勝がわざわざ危地に追いやる理由もないのではないか、と思い直しまして、だとするならば、小栗の認識が甘かったのではないか、と考えてみたわけなんです。

 えーと、ちょっと用が出来まして、このコメント、続きます。
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カテゴリー白山伯で (郎女)
2009-04-27 10:39:15
詳しくは書いているのですが、横須賀製鉄所の建設、運営をフランスが請け負ったことは、シルクの独占交易ともあいまって、イギリスの反発をまねきますし、一方で、幕府の経済力、海軍力の独占を、薩摩が懸念することにもなったわけです。
そういう視点から見ますならば、上質シルクの大部分は、上州が産地なわけでして、上州は、幕府にとっても薩長にとっても、ひじょうに意味のある場所だったわけです。

天領である新潟開港が予定されていましたので、シルクの産地の上州を確保しておけば、横浜がだめでも新潟で取り引きが可能で、実際、奥羽列藩同盟は新潟港で、外国商人と取り引きをし、それをつぶすのに薩摩がやっきになったりもしたわけです。
上州が同盟側に確保され、上州産の良質シルクが、もしもすべて新潟港で取り引きされていたならば、イギリスとオランダ以外の諸国は、新政府の承認をしぶっていたわけですから、状況が変わる可能性を望める、と考えても不思議ではないのではないでしょうか。

 小栗は、単に帰農しただけではなかった、と思います。諸外国が求める上質シルクの産地である上州を確保する可能性に、かけていたのではなかったでしょうか。もちろん、直接軍を指揮する役ではなかったでしょうけれども、古屋が勝利した場合、行政面で手助けするつもりは、あったのではないか、と思います。

 しかし、その状況判断が、甘かったと思えるのです。

 小栗の斬首については、無残ですけど、戦時下のことですし、新政府は薩長土の寄り合い所帯です。薩摩藩の攪乱に参加し、幕府にうらみを含んだ人たちもいたようですし、出先が処断してしまう、ということも、十分あったのではないでしょうか。

 角川第二版日本史辞典の記述については、幕府の人事を詳しく調べたことがありませんで、わかりません。また南條範夫氏のご著書は、確か長州関係のものを読んだような気がするのですが、あまり詳しくありませんで。

あまり、お答えになっていないようで、申し訳ないですが、いま、参考書をさがすのが大変な状態でして、失礼いたします。



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氷川清話を読んでいますと (郎女)
2009-04-27 11:32:28
勝は、幕末のかなり早い時期から、自分はイギリスと親しかったような言い方をしているのですが、横須賀製鉄所建設の経緯、その際にフランスがイギリスにゆずった海軍伝習に関して、いずれにも反対の立場でして、ともかくオランダ一辺倒、だったわけです。
一方、小野友五郎がアメリカで軍艦を買い付けていますように、小栗側はけっこう各国に配慮をしていまして、ただ、シルクのフランス独占交易がやりすぎたかんじですが、勝の外交感覚がどれほどのものだったかについては、私は疑問を持っています。

つまり、小栗の方が鋭い外交感覚を持っていたのではないか、ということなんですが。
むしろ、勝の政治感覚は、国内の権力闘争にこそ力を発揮していたように見えるんです。
返信する
Unknown (勝之丞)
2009-04-27 12:46:13
確かにそうですよね。
奥羽列藩同盟の藩は生糸現物で武器をかいつけていたわけですからね。
この一件については、なんかモヤモヤしたものが、あったんですよ。
外交感覚は私も小栗の方が鋭かっとの御意見に賛成です。勝が、国内の権力闘争にこそ力を発揮していた事についてにもです。 
以前から、そう思っていたんですけど、「美人投票」的な惑わされいたのかもしれません。
おかげで疑問に思っていたことが、かなり解り
ました。
郎女さん、お忙しい中、丁寧にコメントしていただき
本当に感謝致します。
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