えーと、やはりまずはドラマの感想から書くべきなんでしょう。
『坂の上の雲』と脱イデオロギー、「坂の上の雲」の幕末と薩摩が関連記事です。
NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」
わりに原作に忠実で、悪くはありませんでした。
細かいことを言いますなら、松山中学時代の子規と真之、妹の律、秋山好古が下宿していた当時の旗本の大屋の娘・多美(後に好古の妻になります)が、ちとふけすぎで、少年、少女役を使ってもよかったのでは、という気がしないでもなかったのですが、まあ許せる範囲かなあ、と。配役そのものに文句はないです。
一番、あれっ???と思ったのは、陸軍士官学校へ進学した兄の秋山好古が帰郷した場面でした。原作にない場面なんですが、それが問題ではないんです。陸士の制服が白かったりしたの???ってことなんですが、好古は陸軍士官学校三期、明治10年の入学です。まるで海軍兵学校の夏の制服みたいで、一瞬、話がとびまくって、原作にある江田島の海兵に行った弟の真之が帰郷する場面になったのかと驚いたら、好古だったんです。聞いたことがないんですが、明治10年ころには、陸士の制服が白かったりしたんでしょうか???
もしかして……、真之が帰郷する場面をとばすつもりで、好古の帰郷場面を入れたのかしら、と勘ぐってみたり。だとすれば、ちょっと残念。帰郷した真之がまず大街道で父親に会って、帰宅するのですが、そのときの父母と真之の会話が秀逸なんです。大街道は私の生まれた街でもありますし。
上京した真之と子規が、高橋是清とともに横浜へ行く場面も、原作にはありません。西田敏行が高橋是清というのは、ちょっとイメージじゃないんですが、まあそれは置いておいて、治外法権のあり様を語り、当時の日本が置かれた状況を説明するエピソードとしては、悪くありませんでした。
あー、そうです。全体に説明が多すぎるのですが、それも仕方がないんでしょう。
そのせいなのかどうなのか、どうもすべてが作り物めいて、リアリティが今ひとつ、でした。
しかし、見ていて不愉快になることはありませんし、最近の大河ドラマのように、いくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎるっ!!!と叫びたくなることもなかったので、これから先が楽しみです。
で、先日、青山霊園へ出かけたとき、ご同行のみなさまにお付き合い願い、秋山家(好古の方)の墓にお参りしました。昭和5年に死去しました陸軍大将のお墓にしましては、実にささやかでして、お人柄がしのばれます。
戦死した方の墓石が大きいのは、遺族のお気持ちとしてよくわかるのですが、青山霊園を歩いていますと、異様に大きな権力者一家のお墓も目につきまして、悪趣味きわまりない、と感じました。
秋山兄弟の生家跡は、以前は常磐同郷会(元松山藩主・久松家が元藩士の学業援助のために作った常磐会と、松山から海軍兵学校へ進学した真之と山路一善-wikiが故郷の青年たちの錬成のために作った松山同郷会が後にいっしょになったもの)が運営する、ぼろぼろの道場と下宿(松山で勉学する学生のためのもの)だけだったんですが、現在ではきれいに整備されていまして、好古の銅像もあり、写真を撮っております。
秋山兄弟生誕地
好古のお墓は、松山市営鷺谷墓地(道後温泉のそばです)にもありまして、実はうちのごく近所なんですが、えー、これまで行ったことがありませんでした。さっそく本日、行ってまいりました!
ああ、もっと若い頃にお参りするべきでした!
ご覧のように、こちらも実にささやかな墓石なんですが、日章旗がくくりつけられているのは、大きな桜の枯れ木でして、この木が元気だったときには、満開の桜が実に見事だったことでしょう。そばの「永仰遺光」の碑は、昭和7年、北予中学校と松山同郷会によって建てられたもののようです。
好古は、晩年、故郷松山で北予中学校の校長を務めるのですが、戦後、この北予中学校と城北女学校がいっしょになって、現在の松山北高等学校ができ、私の母校なのですが、出来の悪い生徒でして、在学中、校内に好古の像があることにも気付きませんでした。
最後の写真は、好古のお墓のそばから、松山城を仰いだところ、です。現在では、道後温泉街の旅館の建物が建て込んできていまひとつの眺望ですが、それでも、天守閣が臨めます。
どうも私、近代陸軍における騎兵というものが、いまだによくわかりません。
だいたい、司馬氏の原作が、騎兵については、さっぱりわけのわからない書き方をなさっている、と思うのです。
えー、騎兵について勉強すること、今後の私の課題の一つです。
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NHK スペシャルドラマ「坂の上の雲」
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わりに原作に忠実で、悪くはありませんでした。
細かいことを言いますなら、松山中学時代の子規と真之、妹の律、秋山好古が下宿していた当時の旗本の大屋の娘・多美(後に好古の妻になります)が、ちとふけすぎで、少年、少女役を使ってもよかったのでは、という気がしないでもなかったのですが、まあ許せる範囲かなあ、と。配役そのものに文句はないです。
一番、あれっ???と思ったのは、陸軍士官学校へ進学した兄の秋山好古が帰郷した場面でした。原作にない場面なんですが、それが問題ではないんです。陸士の制服が白かったりしたの???ってことなんですが、好古は陸軍士官学校三期、明治10年の入学です。まるで海軍兵学校の夏の制服みたいで、一瞬、話がとびまくって、原作にある江田島の海兵に行った弟の真之が帰郷する場面になったのかと驚いたら、好古だったんです。聞いたことがないんですが、明治10年ころには、陸士の制服が白かったりしたんでしょうか???
もしかして……、真之が帰郷する場面をとばすつもりで、好古の帰郷場面を入れたのかしら、と勘ぐってみたり。だとすれば、ちょっと残念。帰郷した真之がまず大街道で父親に会って、帰宅するのですが、そのときの父母と真之の会話が秀逸なんです。大街道は私の生まれた街でもありますし。
上京した真之と子規が、高橋是清とともに横浜へ行く場面も、原作にはありません。西田敏行が高橋是清というのは、ちょっとイメージじゃないんですが、まあそれは置いておいて、治外法権のあり様を語り、当時の日本が置かれた状況を説明するエピソードとしては、悪くありませんでした。
あー、そうです。全体に説明が多すぎるのですが、それも仕方がないんでしょう。
そのせいなのかどうなのか、どうもすべてが作り物めいて、リアリティが今ひとつ、でした。
しかし、見ていて不愉快になることはありませんし、最近の大河ドラマのように、いくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎるっ!!!と叫びたくなることもなかったので、これから先が楽しみです。
で、先日、青山霊園へ出かけたとき、ご同行のみなさまにお付き合い願い、秋山家(好古の方)の墓にお参りしました。昭和5年に死去しました陸軍大将のお墓にしましては、実にささやかでして、お人柄がしのばれます。
戦死した方の墓石が大きいのは、遺族のお気持ちとしてよくわかるのですが、青山霊園を歩いていますと、異様に大きな権力者一家のお墓も目につきまして、悪趣味きわまりない、と感じました。
秋山兄弟の生家跡は、以前は常磐同郷会(元松山藩主・久松家が元藩士の学業援助のために作った常磐会と、松山から海軍兵学校へ進学した真之と山路一善-wikiが故郷の青年たちの錬成のために作った松山同郷会が後にいっしょになったもの)が運営する、ぼろぼろの道場と下宿(松山で勉学する学生のためのもの)だけだったんですが、現在ではきれいに整備されていまして、好古の銅像もあり、写真を撮っております。
秋山兄弟生誕地
好古のお墓は、松山市営鷺谷墓地(道後温泉のそばです)にもありまして、実はうちのごく近所なんですが、えー、これまで行ったことがありませんでした。さっそく本日、行ってまいりました!
ああ、もっと若い頃にお参りするべきでした!
ご覧のように、こちらも実にささやかな墓石なんですが、日章旗がくくりつけられているのは、大きな桜の枯れ木でして、この木が元気だったときには、満開の桜が実に見事だったことでしょう。そばの「永仰遺光」の碑は、昭和7年、北予中学校と松山同郷会によって建てられたもののようです。
好古は、晩年、故郷松山で北予中学校の校長を務めるのですが、戦後、この北予中学校と城北女学校がいっしょになって、現在の松山北高等学校ができ、私の母校なのですが、出来の悪い生徒でして、在学中、校内に好古の像があることにも気付きませんでした。
最後の写真は、好古のお墓のそばから、松山城を仰いだところ、です。現在では、道後温泉街の旅館の建物が建て込んできていまひとつの眺望ですが、それでも、天守閣が臨めます。
どうも私、近代陸軍における騎兵というものが、いまだによくわかりません。
だいたい、司馬氏の原作が、騎兵については、さっぱりわけのわからない書き方をなさっている、と思うのです。
えー、騎兵について勉強すること、今後の私の課題の一つです。
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いろいろ教えて下さいまして有難う御座います。
衆愚 国民一人でも多く賢く真理を見つめたいものです。三上卓?の盲いたる民、世に踊り・・という日本青年の歌を思い出しました。
幕末の日本でのヘボン博士の嘆きは大変興味深いお話でした。女優キャサリン・ヘップバーンのご先祖様ですよね。
極限状態で「偶然」に立ち向かい乗り越えた。という表現に紙一重の勝敗であったと私は受け取ります。まさかの勝利であったと思います。
森有礼、鮫島尚信のことは何も知識が有りません。おいおい勉強します。また御教示下さいませ。宜しくお願い致します。
「国民の思い騰がり」は、20世紀の戦争のあり方を先取りしたものであったでしょう。
いうまでもなく、戦争の形態を変えたのは、第1次世界大戦です。欧州において大戦の戦勝国の国民が、多大な賠償金を求めてデモを繰り返し、第2次大戦の遠因ともなる苛酷な講和条件とならざるをえなかったのは、よく知られた話です。世界中、どこへいっても、大衆とはそんなものです。
眞之と大本教についても、まずは時代相というものがあると思うのですね。明治、進化論が日本で急速に普及しますが、それには下地がありました。幕末、横浜で英語を教えていたヘボン博士は、生徒の武士たちが「聖書の話をおとぎ話としか受け取らない」というようなことを書いて、嘆いています。すでに幕末、知識人の宗教離れは進んでいて、維新はそれに拍車をかけるのですが、人間、合理的なだけでは生きていけないものなのでしょう。
幕末に勃興した平田国学は、すでに「霊界」に大きな関心を払っていますし、進化論が生まれたイギリスでは、降霊会が盛んになります。
当時の戦争に絶対はなく、いくら周到な戦略を立てていましても、気候などの偶然に左右される要素が多大にあったわけでして、まして海軍は、一つの艦の乗組員は運命共同体。指揮者が乗組員全体の運命を左右する度合いが、陸軍よりも大きいんです。指揮者の受けるプレッシャーは、想像を絶するほどのものであったのではないでしょうか。
進化論を信奉し、合理主義者であった真之が、極限状態で「偶然」に立ち向かって乗り越えた後、神秘主義に引かれたのは、自然の成り行きであったように思います。
タイプとしては、森有礼、鮫島尚信と似ているような気がしますです。
軍上層部が近代騎兵隊の使い方を知らなかた。というご説明は悲しいかな、そうであったのでしょうと気持ちを納めます。第二次世界大戦末期でのインパールの敗退も戦線決死の情報を軽んじていた事を思い出しました。好古の見てきた国境という概念の無いに近い地域の状況を少しでも知りたいと強くねがいます。
そして日露戦争を紙一重の危うい勝利であったのに国民を思い騰がらせたままにしていた時代をどう考えたらよいのでしょう。
眞之と大本教については真理探究の一環であったと考えたら良いのでしょうか?
私は今22歳と23歳の女性に働いてもらってますがお茶の入れ方から知識、知恵の低さに恐怖を感じさせられています。どうしたことなのでしょう?亡国の危機を感じずに居られません。
好古の報告を情報本部が無視した、といいますのは、近代騎兵の使い方がわかってなかった、ということなんだろう、と思います。ドラマでは、描き方が難しそうですね。騎兵の歴史を熟知している日本人は少ないと思いますし、どう説明するのか。あー、そういうことで、やたらに説明だらけのドラマになるのだと思うのですが、教育にしろドラマや著述にしろ、戦後の日本で軍事史を無視しきったつけなのではないんでしょうか。
もうごらんになっているとは思うのですが、眞之と大本教については、下のサイトさんが詳しく、資料も書いてくださっています。
http://sakanouenokumo.hp.infoseek.co.jp/syukyo.htm
大本教の流行は、米英の上流階級で流行った降霊会を思い起こさせます。国学を身につけ海軍を学ぼうとイギリスに渡った薩摩藩密航留学生がハリスにはまり、日露戦争後の海軍将校が大本教にはまるんですよね。
日露戦争後に、同盟国のイギリスがガーター勲章授与のためコンノート公を派遣しますが、そのお供をした晩年のミットフォードが、仏教思想にはまってまして、19世紀末から20世紀初頭にかけては、そういう時代だったのだと思います。
眞之は日露戦争で心身すり減らし戦後、大本教の熱心な信者になった時期があったと司馬先生からお聞きしたことがあります。その頃と、その後のことを是非知りたいです。宗教に関するので公には難しい事と思いますのでドラマには扱われないでしょうから、ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えて下さいませ。
あの原作はー、日露戦争の部分が実に膨大なんです。秋山兄弟もあまり出てこなくなりまして、それはそれで、とても面白いのですけれど、今現在の私は、旅順攻囲戦の記述など、ちょっとちがうだろう、と思ったりもしています。
やはり、原作の魅力は、なによりも子規と秋山兄弟でして、司馬氏の作品の中で、もっとも好きなものの一つです。わが街が舞台ですし。ぜひ、道後温泉へおこしくださいませ。って、私、松山市のまわし者というわけではないのですが。
記事面白く拝見させていただきました。
やっぱり原作を読んでみたくなりました。
原作を読むとドラマがつまらなくなるんじゃないかと思ったりもしましたが
そんなこともなさそうですね。
好古さんのお墓はご近所なんですね。
お墓参りが出来たような得をした気分です。