いったい、いつごろから、中村半次郎の前に「人斬り」とつくようになったのか、といえば、実のところさっぱりわかっておりません。
ともかく、です。私が知る限り、桐野利秋の最初の伝記は、明治11年、つまりは、西南戦争直後に出版された、金田耕平著『近世英傑略伝』という全2巻の伝記集です。
一巻に、まだ生存中の三条実美、岩倉具視、大久保利通、森有礼、福沢諭吉、佐藤尚中、板垣退助の七人が収められ、そして二巻で、死去したばかりの三人、西郷隆盛、木戸孝允、桐野利秋が取り上げられているわけです。
ごく短いのですが、偉人伝といった趣で、内容はわりに正確です。
しかし、西南戦争当時の新聞紙面には、デマや中傷じみたものも散見されまして、当時、新聞条例によって、反政府的な内容は取り締まられていましたから、御用新聞ゆえなのか、と受け取れます。
鹿児島県資料に、『西南の役懲役人質問』というのがありまして、降伏して服役した参加者の取り調べ質問なんですが、実にくだらない質問が多くありまして、「桐野は酒を飲みたる時は泣く癖あると云うは実なりや」とか、「桐野の妾降参したる説あり、実なりや」とか、懲役人はみな、あきれて否定しているんですが、全部、戦争中の新聞に書かれていたことなんですね。
しかし、文字では悪くかくしかなくとも、当時の錦絵は、庶民の気持ちを代弁して、大方、政府軍よりも、反乱軍(西郷軍)の方を、美しく、りっぱに描いていたりするんです。そうでなければ、売れなかったんですね。
月岡芳年描く桐野の錦絵を持っておりますが、美しゅうございます。
そして、西南戦争が終結したとき、新聞も庶民が西郷軍に抱いた思いを、小さな記事で伝えています。
夜空に赤く輝く火星(軍神マルス)を、人々は西郷星と呼んでふり仰いだのですが、その火星に衛星が発見されました。
「至って小さき星ゆえ望遠鏡でなければ見られませんが、もしアリアリと見へたなら、多分桐野星とでも申して立ち騒ぎましたろう」と、郵便報知は、書いています。
さて、「人斬り」の方なんですが、戦前の資料にもフィクションにも、そういった表現は出てきません。
実際、桐野が斬ったとはっきりわかっているのは、自ら日記に記している赤松小三郎のみで、それを戦前に語ったのは、有馬藤太だけでしょう。
維新前の中村半次郎時代については、あまりにも確実な資料が少なく、逸話や物語のみが一人歩きをした、ということのようです。
西南戦争についても、「桐野は望んでいなかった」とする証言は多いのですが、大久保利通が「桐野が起こした」と信じ込んで、伊藤博文への書簡に書いたためでしょうか、戦後になって、そういう受け止め方が主流になったのではないでしょうか。
どうも、戦後のある時期から、太平洋戦争と西南戦争を重ねて見る風潮が生まれ、帝国陸軍の暴走と西郷軍がダブルイメージとなったように感じるのです。そしてその時期は、「剣豪」がマイナスイメージとなった時期に、重なるのではないでしょうか。
おそらく、昭和48年に発行された池波正太郎氏の『人斬り半次郎』 が、中村半次郎人斬り伝説を決定づけたのでしょうけれども、この小説は、作者の半次郎にそそがれる視線はあたたかいもので、また、「剣豪」が嫌われる時期でも、なかったのではないか、と思われるのです。
(えーと、掲示板の方でご指摘がありまして、「池波氏の『人斬り半次郎』は昭和44年2月、東京・文京区の東方社から既に出版されている」とのことです。謹んで、ご報告を)
決定的だったのは、昭和47年に毎日新聞に連載が始まり、昭和51年に単行本として刊行された、司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』だったでしょう。
ここに描かれた桐野が……、なんといえばいいのでしょうか、ある本で、丸谷才一氏が、以下のように述べておられました。
「司馬さんのなかには桐野的人物に対する分裂した好悪の念があるんだね。かなり好きなところもある。でもね、おれが好きになる以上、もうちょっと利口であってほしかったていう恨みもかなりある」
実をいえば私は、『翔ぶが如く』をきっかけに、桐野のファンになったのです。
魅力的に描かれていないわけでは、ないのです。魅力はあります。しかし、『人斬り半次郎』の桐野のような、明るさがありません。暗いんです。
だいたいまあ、『翔ぶが如く』自体がじっとりと暗くて、それは、合理性の尊重をひとつの尺度にして、明快に幕末維新の人物像を描き分けてきた司馬遼太郎氏が、西郷隆盛という巨大な不合理を、扱いかねていた暗さ、なのではないでしょうか。
司馬遼太郎氏が桐野を描いたのは、『翔ぶが如く』が最初ではなく、昭和39年に刊行されました『新選組血風録』にも、脇役としてなのですが、ちらほらと出てきますし、昭和40年刊行の『十一番目の志士 』にも、わずかながら登場します。
そして、一番切れ者風に描かれていますのは、『新選組血風録』なのです。
『新選組血風録』は、土方歳三を主人公にした『燃えよ剣』と同時期に書かれたものですし、桐野と土方は、敵陣営にいる似たタイプ、という感じがあって、あるいは、素材としての中村半次郎は、『燃えよ剣』の土方歳三のように描かれる可能性もなくはなかったのだと、思えます。
ちがいを言えば、徹底して政治にかかわらなかった土方にくらべ、桐野は政治的な動きを見せますから、そこらへんが、司馬さんの好みにあわなかったのでしょう。
桐野が小説に描かれるとき、司馬さんに限らず、どうも短編の脇役の方が、好ましく描かれているような気がするのです。
私が好きなのは、船山馨氏の『薄野心中 新選組最後の人』(『新選組傑作コレクション〈烈士の巻〉』収録)です。
主人公は、新選組の斉藤一で、舞台は維新後の北海道です。
明治4年、斉藤一が北海道で土木人足をしていて、陸軍少将・桐野利秋が北海道視察に訪れるのですが、驕る勝者の中で、桐野一人、さわやかに描かれていたりしまして、ちらっとしか出てこないのですが、ラストシーンが感動的なんです。
結論を言いますと、中村半次郎人斬り伝説は、後世の講談や小説が作り上げたもの、としか思われません。
関連記事
中村半次郎人斬り伝説とホリエモン
桐野利秋は俊才だった
桐野利秋と高杉晋作
桐野利秋とアラビア馬
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ともかく、です。私が知る限り、桐野利秋の最初の伝記は、明治11年、つまりは、西南戦争直後に出版された、金田耕平著『近世英傑略伝』という全2巻の伝記集です。
一巻に、まだ生存中の三条実美、岩倉具視、大久保利通、森有礼、福沢諭吉、佐藤尚中、板垣退助の七人が収められ、そして二巻で、死去したばかりの三人、西郷隆盛、木戸孝允、桐野利秋が取り上げられているわけです。
ごく短いのですが、偉人伝といった趣で、内容はわりに正確です。
しかし、西南戦争当時の新聞紙面には、デマや中傷じみたものも散見されまして、当時、新聞条例によって、反政府的な内容は取り締まられていましたから、御用新聞ゆえなのか、と受け取れます。
鹿児島県資料に、『西南の役懲役人質問』というのがありまして、降伏して服役した参加者の取り調べ質問なんですが、実にくだらない質問が多くありまして、「桐野は酒を飲みたる時は泣く癖あると云うは実なりや」とか、「桐野の妾降参したる説あり、実なりや」とか、懲役人はみな、あきれて否定しているんですが、全部、戦争中の新聞に書かれていたことなんですね。
しかし、文字では悪くかくしかなくとも、当時の錦絵は、庶民の気持ちを代弁して、大方、政府軍よりも、反乱軍(西郷軍)の方を、美しく、りっぱに描いていたりするんです。そうでなければ、売れなかったんですね。
月岡芳年描く桐野の錦絵を持っておりますが、美しゅうございます。
そして、西南戦争が終結したとき、新聞も庶民が西郷軍に抱いた思いを、小さな記事で伝えています。
夜空に赤く輝く火星(軍神マルス)を、人々は西郷星と呼んでふり仰いだのですが、その火星に衛星が発見されました。
「至って小さき星ゆえ望遠鏡でなければ見られませんが、もしアリアリと見へたなら、多分桐野星とでも申して立ち騒ぎましたろう」と、郵便報知は、書いています。
さて、「人斬り」の方なんですが、戦前の資料にもフィクションにも、そういった表現は出てきません。
実際、桐野が斬ったとはっきりわかっているのは、自ら日記に記している赤松小三郎のみで、それを戦前に語ったのは、有馬藤太だけでしょう。
維新前の中村半次郎時代については、あまりにも確実な資料が少なく、逸話や物語のみが一人歩きをした、ということのようです。
西南戦争についても、「桐野は望んでいなかった」とする証言は多いのですが、大久保利通が「桐野が起こした」と信じ込んで、伊藤博文への書簡に書いたためでしょうか、戦後になって、そういう受け止め方が主流になったのではないでしょうか。
どうも、戦後のある時期から、太平洋戦争と西南戦争を重ねて見る風潮が生まれ、帝国陸軍の暴走と西郷軍がダブルイメージとなったように感じるのです。そしてその時期は、「剣豪」がマイナスイメージとなった時期に、重なるのではないでしょうか。
おそらく、昭和48年に発行された池波正太郎氏の『人斬り半次郎』 が、中村半次郎人斬り伝説を決定づけたのでしょうけれども、この小説は、作者の半次郎にそそがれる視線はあたたかいもので、また、「剣豪」が嫌われる時期でも、なかったのではないか、と思われるのです。
(えーと、掲示板の方でご指摘がありまして、「池波氏の『人斬り半次郎』は昭和44年2月、東京・文京区の東方社から既に出版されている」とのことです。謹んで、ご報告を)
決定的だったのは、昭和47年に毎日新聞に連載が始まり、昭和51年に単行本として刊行された、司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』だったでしょう。
ここに描かれた桐野が……、なんといえばいいのでしょうか、ある本で、丸谷才一氏が、以下のように述べておられました。
「司馬さんのなかには桐野的人物に対する分裂した好悪の念があるんだね。かなり好きなところもある。でもね、おれが好きになる以上、もうちょっと利口であってほしかったていう恨みもかなりある」
実をいえば私は、『翔ぶが如く』をきっかけに、桐野のファンになったのです。
魅力的に描かれていないわけでは、ないのです。魅力はあります。しかし、『人斬り半次郎』の桐野のような、明るさがありません。暗いんです。
だいたいまあ、『翔ぶが如く』自体がじっとりと暗くて、それは、合理性の尊重をひとつの尺度にして、明快に幕末維新の人物像を描き分けてきた司馬遼太郎氏が、西郷隆盛という巨大な不合理を、扱いかねていた暗さ、なのではないでしょうか。
司馬遼太郎氏が桐野を描いたのは、『翔ぶが如く』が最初ではなく、昭和39年に刊行されました『新選組血風録』にも、脇役としてなのですが、ちらほらと出てきますし、昭和40年刊行の『十一番目の志士 』にも、わずかながら登場します。
そして、一番切れ者風に描かれていますのは、『新選組血風録』なのです。
『新選組血風録』は、土方歳三を主人公にした『燃えよ剣』と同時期に書かれたものですし、桐野と土方は、敵陣営にいる似たタイプ、という感じがあって、あるいは、素材としての中村半次郎は、『燃えよ剣』の土方歳三のように描かれる可能性もなくはなかったのだと、思えます。
ちがいを言えば、徹底して政治にかかわらなかった土方にくらべ、桐野は政治的な動きを見せますから、そこらへんが、司馬さんの好みにあわなかったのでしょう。
桐野が小説に描かれるとき、司馬さんに限らず、どうも短編の脇役の方が、好ましく描かれているような気がするのです。
私が好きなのは、船山馨氏の『薄野心中 新選組最後の人』(『新選組傑作コレクション〈烈士の巻〉』収録)です。
主人公は、新選組の斉藤一で、舞台は維新後の北海道です。
明治4年、斉藤一が北海道で土木人足をしていて、陸軍少将・桐野利秋が北海道視察に訪れるのですが、驕る勝者の中で、桐野一人、さわやかに描かれていたりしまして、ちらっとしか出てこないのですが、ラストシーンが感動的なんです。
結論を言いますと、中村半次郎人斬り伝説は、後世の講談や小説が作り上げたもの、としか思われません。
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桐野利秋は俊才だった
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歴史人物、人物、人物評伝 |
すぐに、三傑とか、御三家、四天王、三人娘(?)などと数字の語呂合わせをしたがる日本人としては、「今週の人斬りベスト3!」としたかったのでしょうが、岡田いぞうや河上げんさいが「今週」なのに対し、田中新兵衛は「先週」ですから・・・。
私は、確か、司馬小説で読んだと思うのですが、桐野は個人的な快男児であったかもしれませんが、軍人としては、高度な指揮能力はあまり、無かったように思います。
なんの本だったか、たしか三好徹氏の『青雲を行く』だったと思うんですが、司馬さんが書いておられるような「軍人としてだめ」みたいな話に、具体的に反論しておられたのですが、私は、そちらの方が納得がいきました。
司馬さんが書かれた時点では、『鹿児島県資料』がまだ編纂されていなくて、お読みになってなかったように思えるんです。
どこまでを高度な指揮というか、なんですが、現場総指揮官としては、悪くなかったと思っています。
鳥羽伏見から指揮能力を養った、という点でも、土方と同じで、部下の掌握にもすぐれていたかと。
軍政についていうなら、それはちょっと、向いてなかったという気がするんですけど。
西南戦争は反乱ですから、海軍も電信もなかったですし、つぎこめる予算もちがって、政府軍とは格段に差があります。
条件を比較すれば、よく戦った方だと思うんですけど、惜しむらくは熊本城。初戦であれをとっていれば、かなり展開がちがったのではないかと。
陸奥宗光とか、かなり呼応しようとした政治家もいましたし。
谷干城は名将だった、ですね。
もっとも谷さんも軍政には向かず、でしたけど。
私も最初聞いたときは、いくら何でも、少しうがちすぎではないか?と思ったのですが、何だか、最近、状況証拠を見ていると、そう思えるようになってきました。
わざと負けたのではないかと。
永山弥一郎でしたっけ?彼なんかが、一番、的確な戦略を持っていたと言われてますよね。
なのに、西郷は一切、無視しますし、村田新八も一切、献策らしい献策をしてませんよね。
(まあ、彼の場合は別の意味があったのでしょうが)
そう考えれば、桐野も篠原も、西郷からの「負ける」という指示があったとは考えられないでしょうか?
彼がもし、言われるとおりに実践指揮官として、的確な戦術眼などを持っていたとすると、西南戦争でのあまりの戦略不在は、敢えて、愚直な作戦を採ろう採ろうとしたとも考えられるような気がします。
置かれた条件を考えれば。
九州を離れては補給線がもちません。海軍がないですから。
できるだけ華々しい火花を上げて、呼応を待つしかないわけでして、しかしかといって、他県は薩摩と同じ条件を持ってないですからね。銃と弾薬なんですが。
銃が個人の所有で、火薬庫も藩のものではなく藩士の共同所有だったのは、薩摩藩の特異性でしょう。
詳細に戦史を読めば、負けようとしていたとは思えませんが、かといって、勝算があったかといえば、どんな戦術眼があったところで、補給がなければどうにもなりませんし。兵站の問題です。
熊本城を押さえて、九州に割拠するのが、やはり最良だったのではないですか?
作戦が愚直であったとは、いえないと思います。
ただ、桐野はもちろん、西郷さんにしても戦うつもりがあって準備していたわけではなく、まさか政府が挑発するとは思ってなかったでしょう。
あの挑発は、西郷さんをも怒らせていたと思いますよ。
永山さんをくどいたのは桐野です。勝算があってくどいたのではなく、こうなってしまっては立つしかない、ということなんですけど。桐野に頼まれなければ、永山さんは参加しなかったと、いわれています。
永山さんをはじめ、西郷派ではなかった人たちをくどいたのは桐野で、そういう意味では、桐野が中心であったといえなくもないのですが、桐野は私学校には、ほとんど関係していないのです。
言論を押さえると、最後は武力による抗議しかなくなると、福沢諭吉が言い残した通りです。
これが、一番、的確だったって聞いたような・・・。
まあ、熊本城落城は、単に要衝の陥落にとどまらず、全国の不平士族呼応の引き金になりかねませんでしたから、船がだめなら、確かにあそこを落とすのが一番良かったでしょうね。
同時に、新政府側も秀吉の九州征伐(ていうか、何で征伐なんだ・・・と。九州人としては少し納得が・・・(笑)。)のときと違い、熊本城が危ないというので、次々に兵力を送り込んだおかげで、軍事的に一番避けるべき各個撃破の形となってしまったと聞いておりますが、もし、山県がその愚を犯さなければ、いずれにしても、兵力差が大きすぎたので勝ち目はなかったのでは?と思います。
薩摩軍の兵站は、確かにお粗末でしたね。
ああいう正面攻撃型の軍隊というのは、得てして、そういうところがあるみたいです。
永山さんは、出兵そのものに反対だったのです。西郷さん本人と有力者数人のみで東京に出て、尋問すればいいではないか、ということだったんですけど、不可能、といいますか。
大久保さんがどういうつもりだったかは、はっきりとはわかりませんが、江藤新平の例を考えると、川路さんの独断ではなく、挑発して叩きつぶすつもりがあったと推測できます。
ただ、西郷さんが乗るかどうかは、半信半疑だったかもしれません。少なくとも上京すれば、拘束して、鹿児島に兵を向けたでしょう。
勝ち目は、なかったですね。
薩摩はもともと、兵站はしっかりしています。現実的ですから。
だから、九州割拠を狙ったんです。海軍がなくとも、それならば兵站線を保つことが可能ですから。
もともとの物量のちがいと、なんといっても海軍を持っていないこと、でしたね。海軍はお金がかかりますからね。
弥一郎につきましては縁があるようで色々調べており
こちらのページにたどり着きました。
さて、
西南戦争の西郷軍における戦争反対派は主に3人おりました。
その筆頭格が永山弥一郎です。
彼は
「西郷と篠原と桐野が何人かの供を連れて江戸へ行き、
政府を問い質せ」と最後まで主張し
兵を連れて行けば必ず戦争になるからと反対しました。
これに野村忍介と村田三介という人が賛成します。
「途中で西郷たちが政府の人間に襲われたらどうするか」という問題について野村は永山の助け舟を出し
「交渉のため川村純義が乗ってきた鹿児島湾に停泊している船で海路若狭湾を目指し丁度京都にいる天皇の勅命を受ければ政府軍も手出しできまい」
と答えて周囲を黙らせますが
篠原国幹の
「死ぬのが怖いのか」
という一声で大評定の場は主戦派一辺倒になります。
(それでも永山と野村は反対だったため、参陣を固辞し、桐野が説得にいきます)
永山は戊辰戦争時川村純義小銃4番隊の副官でしたし、
野村はその部下でしたから、川村・永山・野村の三人は考え方も適確な分析能力も冷静な判断力も似通っていたのではないかと想像します。
結果西南戦争に突入していくわけですが
永山は戦争には消極的だったのか鹿児島出発を
遅らせに遅らせた上、熊本城を攻める本隊には合流せず、
予備軍として熊本花岡山に駐留し、その後八代方面の海岸沿いの警備にあたります。
ここで北海道開拓使時代の上司でもあり、一緒に坂本竜馬と薩摩藩の連絡役も勤めた黒田清隆と屯田兵部隊、川路利良との隊と激突して永山の隊は撃破され
永山は御船の農家を買い取って火を放って自刃する、
という最期を遂げることになります。
その傍らで一緒に自刃した片が税所在一郎は輜重兵長(補給部隊の隊長)さんで、
彼は永山を止めるために御船にやってきたんですが
一緒に自刃したことで
西郷軍の兵站もこれ以降破綻していくことになります。
残った野村忍介は西郷軍の参謀的な役割を担い、
長崎を衝いて船を奪い、東京を目指すとか
熊本には最低限の兵を置き、一路北九州小倉を目指すとか四国から大阪を目指すなどの具体案を次々に繰り出すのですがことごとく却下され、
西郷軍での立場を失いケガを理由に西郷軍から置き去りにされ
結果政府軍に降伏します。
破綻した西郷軍の兵站の回復に勤めたのも彼です。
最後に、
西郷と桐野は西南戦争において勝つ気はあまり無かったのではないかと考えています。
熊本城や田原坂に固執していたずらに消耗し、
新政府軍の練習台として不平士族たちを道連れにして
死んでいったという説を支持しています。
幕末の桐野の日記で、中井桜州とも仲がよかったところを見ますと、西郷隆盛に心酔していたわけではない、というような記述も、信憑性をおびてきますよね。
「愉快な」中井とともに、桐野の愛人の家であった村田の煙草屋さんに入り浸っていたあたり、こう、永山さんも、けっこうな遊び好きでおられたんでしょうか、やっぱり。
忘れてしまったので、ちょっとお訪ねしたいのですが、兵をあげる前に、明治天皇はすでに、京におられたんでしたでしょうか?
京へ御幸なさったのは、西南戦争がはじめってから、のような気がしておりましたです。
木戸は、当初からおそばにおりましたですか?
木戸さんはなかなか本心を見せない方で、板垣、後藤の土佐勢も木戸の真意を勘違いして失敗しておりますが、鹿児島を叩きつぶすことについては、わざわざ言葉に出す必要もないほど、大久保に大賛成だったお方です。
帝のそばに大久保一派と長州閥がはりついていた以上、「帝に直訴」は、とてつもなく甘い考えです。
幕末以来、「玉をおさえる」ことをなによりも重視したのが、大久保と木戸であり、幕末のそういった状況を、西郷、桐野は熟知しておりましたからこそ、帝を玉あつかいして政治利用することに、嫌悪があったのだと、私は思っております。
私には、イギリス公使館のアーネスト・サトウが、客観性があるとしてパークス公使にまであげた見解、「現在の争いは、政府に身を置き、長州藩出身者の助けを借りている薩摩人たちと、薩摩士族一般との間の闘争と見なしうる」という説が、一番、納得がいっているのですが。
ようこそ、おこしくださいました。
あと、言い忘れておりましたが、サトウの見解は、勝海舟から聞き込んだものです。勝海舟は、そういった政治的人間観察には、とてもすぐれていた、と私は思っております。お人が悪いだけに、ですが。
故郷の偉人への恩恵の念があり、以下に薩摩人のひとりの思惑として記載させて頂きます。
大西郷にしても、桐野にしても、そして篠原しかりで、勝ち戦ではない!ことは充々承知の上であったと感じております。
大西郷にとって、政府への反乱は帝への反乱であり、自身の信条からして良しとしないもので
あったものと想われます。
何故ならば、薩摩における郷中教育は、云わば藩公勅命でもあり指針などとは比較にならない程の絶対的教育訓示なのです。
年長者を敬え、年小者を教え導け精神は、薩摩藩全土に亘った浸透したバイブルであったはずです。
その意味から察するに余り有りますが、帝への反意は毛頭なく、大久保への異論も胸中には抱いていなかったものと察しています。
征韓論は事実としても物語としては面白いお話ですし、下野した大西郷を祭り上げ賊軍の頭目として官軍への反旗を揚げたのは所謂、郷中教育の成せる技でもあったものと察しています。
大久保も川路も薩摩においては平成の世になっても支持を受けることはありません。
恐らくは、郷中教育のなごりが続く限り未来永劫にないものと想われます。
これは薩摩人の魂!であり、これを失することは薩摩人としての誇りを喜捨するものでもあり、相入れません。
大西郷の功績と桐野の残した足跡は、敗軍の将たるや凄惨な最期であったからこそ、薩摩人の心中を今尚、捉え続けているのです。
桐野が人切りであったのか否か?を論議の渦中とされるのは、薩摩人として受け入れられるものではありません。
感情論に走り過ぎたきらいがあるものと、受け止められるかも知れませんが、薩摩人にとってそれだけ大西郷を中心にした薩摩志士達の残した影響力は、多大なものであった!ことを認識して頂きたく一筆啓上致しました。