伝説の金日成将軍と故国山川 vol3の続きです。
大正8年(1919年)、休暇をとって東京を離れた金光瑞は、ひとまず、ソウル仁旺山の麓にある家に、妻子とともに落ち着きました。
ソウル滞在は3ヶ月ほどでしたが、その間、後輩の池青天たちとともに、仁寺洞にあった売れっ子妓生(キーセン)の家に出入りしたり、中華料理店でビリヤードに興じたりと、遊蕩にふけるふりをしていたのだそうです。もちろんそれは、三・一独立運動後のきびしい取り締まりの目をのがれるために、なんですが。
さらに金光瑞は、義和君李カン(李垠殿下の異母兄)の愛人と浮き名を流し、ソウル中に名をとどろかせた、といいますから、「取り締まりの目をのがれるため」とはいうものの、女に好まれる素養を、そなえた人だったんでしょうね。
そして6月、金光瑞と池青天は満州に脱出し、柳河県孤山子(あるいは通化県とも)にあった新興軍官学校で、軍事教育に携わります。
この新興軍官学校というのは、明治40年(1907年)にはじまった丁未義兵闘争の独立運動家たちが、満州に入って作った私塾のようなものです。
これまでにも幾度か述べましたが、丁未義兵闘争は、大韓帝国の軍隊が解散させられたことに伴い、軍人が中心となって起こったものですし、独立とは戦いとるものである以上、独立軍を育成する必要がある、ということで設立されたのですが、学校というものは維持費のかかるものでして、次第に細々としたものになり、大正7年(1918年)、つまり第一次世界大戦が終結した年、三・一独立運動の前年、満州の大凶作により、ほぼ閉鎖状態に陥っていました。
そこへ、金光瑞、池青天という、日本陸軍の現役将校が教師として現れたわけで、600人の生徒が集まる盛況となりました。
なぜ満州か、ということなのですが、「伝説の金日成将軍と故国山川 」vol1で書きましたように、間島を中心に、国境に近い満州は、もともと朝鮮族が住む土地だったんですね。李朝の最盛期には、間島までも支配がおよんでいたようですが、末期にはおよばなくなり、かといって清朝の支配がおよんでいるかといえば、これもまたいいかげんで、朝鮮国内にくらべれば、勝手に耕せる土地が多かったんです。匪賊が跋扈していましたから、自衛の必要はあったんですけれども。
で、ですね、まず、半島内では、総督府の取り締まりで、独立武力闘争は不可能でした。そして、独立運動というものは、お金がかかります。その活動資金は、主に支持者の寄付です。その寄付を募るにも、また戦士となる人材を得るにも、朝鮮族の多く住む地である必要があるわけなのです。
したがって、まずは満州(わけても間島)、次いでロシア領沿海州に、独立運動家が、移り住んでいったのです。
三・一独立運動当時、満州はといえば、明治44年(1911年)の辛亥革命以降、一応は中華民国の領土となっていたわけなのですが、北京政府の威令は行き渡らず、軍閥割拠状態の中、馬賊上がりの張作霖が実権を握っていました。
また、ロシアの東清鉄道(辛亥革命によって中東鉄路と名が変わります)と、明治38年(1905年)以来、日本のものとなった満州鉄道と、その付属地が点在していますから、線路と付属地に関しては、ロシア、日本の警備、行政下にあったわけです。
沿海州はロシア領ですから、大正6年(1917年)に勃発したロシア革命の混乱のただ中です。満州の中東鉄路とその付属地にも、革命は押し寄せていました。
満州、沿海州における、これだけの混乱の中では、独立運動を取り締まる日本側も、外交ルートで異議を申し立てても無駄です。
そういうようなわけで、三・一独立運動以降も、武装闘争をめざす人々は、大挙して、まずは満州(主に間島)をめざしました。
しかし、その人々の意志は、けっして統一されていたわけではなく、間島においては、複数の独立武装運動団体が競合することになり、これはある意味、ある意味、といいますのは、住民からの寄付の取り立て、という点において、なんですが、馬賊と競合することともなり、結局は、より武力の強い団体が生き残るわけですから、国境線を越えて半島内にも出没することとなり、朝鮮総督府の取り締まりを誘うこととなっていきます。
金光瑞と池青天がいた新興軍官学校は、武装独立団体がひしめく間島(東満)からは少々離れ、南満と呼ばれる地域にありました。
ここで、金光瑞は擎天、池大亨は青天と名のり、もう一人、旧大韓帝国軍官学校出身の将校だった申八均も新興軍官学校の教官となっていたのですが、申東天と名のり、「南満の三天」と称えられたといいます。しかしこれは、戦闘で名を挙げたというわけではなく、軍事教官としての名声でした。
金光瑞が新興軍官学校にいたのは、半年ほどのことでした。
大正9年(1920年)の初めには、ハルピン(満州中東鉄路の付属地で、ロシア人によって統治されていました)にいて、沿海州ウラジオストックの同志たちと、連絡をとっていたもようです。
以下は、防衛省に残っています、陸軍省大日記からです。
大正九年一月二十三日高警第一五三五号 秘 国外情報 不逞鮮人ノ行動 (浦潮派遣員報告)
哈爾賓埠頭区十三道街居住金擎天ナル者ヨリ、目下浦潮ニ居住セル元平安南道平壌鎮衛隊下士ニシテ暴徒派不逞鮮人金燦五、及元咸鏡南道北青鎮衛隊下士崔元吉、並海牙密使事件ノ張本人李儁ノ実子李鏞等十二名ニ宛テ、陰十二月十五日(陽暦二月四日)愈々前進ノ予定ナルヲ以テ各位ハ二十人長トシテ部下ヲ引率シ同日迄ニ哈爾賓ニ集合セラレ度シトノ書面ノ発送シ来レリト謂フ
発送先 内閣総理大臣 各省大臣 拓殖局長官 警視総監 検事総長 軍司令官 両師団長 憲兵隊司令官 関東長官 関東軍司令官
つまり、ハルピン埠頭区十三道街に住んでいる金擎天(光瑞)なるものが、ウラジオストックに住む金燦五(元平安南道平壌鎮衛隊下士)、崔元吉(元咸鏡南道北青鎮衛隊下士)、李鏞(ハーグ密使事件で客死した李儁の息子)など12名に宛てて、「2月4日に前進(進軍)するので、それぞれ20人長として部下を引率し、ハルピンに集合してくれ」という手紙を出した、というんですね。
ううっー、なんで、金光瑞が出した手紙の内容が、日本側にわかるんでしょう!!!
シベリア出兵中の話で、日本軍はウラジオストックを根拠地にしていましたから、密偵がもぐりこんでいた、といいますか、ウラジオの独立運動団体の中に、日本軍に内応する人物がいたんでしょうね。
「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」では、新興軍官学校にいたことがあるという李範ソク(韓国初代国務総理)の後年の談話から、「金光瑞は武器購入のルートを開拓するために沿海州へ行った」としているんですが、これを見ると、ウラジオストックの同志たちから指揮官として迎えられたのではないか、と思えます。
ということで、調べてみましたところ、あきらかに李範ソク氏の記憶ちがいです。
陸軍省大日記の資料などによりますと、この年の1月4日に、朝鮮銀行の咸鏡北道会寧出張所から、間島龍井村出張所へ、現金を運んでいましたところが、強盗団十数名に襲われ、日本人の警衛巡査長と朝鮮人の巡査が殺害され、現金15万円が奪われたんですね。捜査しましたところ、朝鮮銀行龍井村出張所の書記だった朝鮮人が、現金輸送のルートと時間を、間島独立武装団の一つに内報したことがわかり、強盗を働いた武装集団のメンバーも判明したんです。
彼らは、15万円をかかえて、「武器を購入する」といい置いてウラジオストックに逃げていました。
1月31日、日本軍はウラジオストックの新韓村(朝鮮人街)を急襲し、強盗団をはじめ数百人を逮捕し、現金12万8000円余りを押収した、といいます。
金光瑞は、この強盗とは、なんの関係もありません。
しかし、強盗が十数人でしかありませんのに、数百人の逮捕!
あきらかに日本軍は、沿海州での独立運動をつぶそうとしていたわけでして、強盗事件はいい口実となったわけです。
すでに、白軍と共闘していましたチェコスロバキア軍団は戦闘をやめ、2月から引き上げがはじまる予定でしたし、それにあわせて、出兵中のアメリカも、撤兵する予定でした。
となれば、赤軍と共闘していました沿海州の朝鮮独立軍団は、これからが、活動を活発化させる好機だったのです。
にもかかわらず、です。「強盗の摘発」となれば、抗議の声を上げるわけにもいきませんし、これは、とんでもない迷惑だったでしょう。
おそらく、なんですが、日本軍の将校だった金光瑞にとって、間島における、強盗まで発生するような独立武装団の乱立は、運動の先細りにしかつながらない苦々しいものに見え、世界に認知される武装闘争をするならばシベリア、ということになったのではないでしょうか。
またシベリアには、旧知の人々がいもしたのでしょう。手紙の宛先の一人である崔元吉は、「元咸鏡南道北青鎮衛隊下士」と見えますが、元咸鏡南道北青郡は、金光瑞の故郷です。彼らが、自分たちには能力のある指揮官が必要だ、ということで、金光瑞に来援を求めたのではないか、と思うのです。
ただ、1月31日にウラジオストックの新韓村手入れがあったとすれば、当時ハルピンにいたらしい金光瑞の書簡の件は、あるいは、実現しなかったのではないでしょうか。日本側は、ハルピンに手勢を率いていくはずのメンバーの名前まで、つかんでいたわけなのですから。
とすれば、金光瑞は、事態を案じて、そのままウラジオストック入りしたのではないか、と推測できるのです。
えーと、ですね。
なぜシベリアでの武闘闘争なのか、ということなのですが、当時の現実として、独立国家の設立は、民族自決の理念をいくら口で唱えても、容易に得られるものではありませんでした。
武装闘争と巧みな外交が不可欠で、しかもそれが、うまく連動する必要があります。
そのお手本、チェコスロバキア独立運動の成功が、このとき、金光瑞の目の前にあったのです。
次回は、成功のお手本であったシベリアのチェコスロバキア軍団から、お話を進めて行きたいと思います。
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大正8年(1919年)、休暇をとって東京を離れた金光瑞は、ひとまず、ソウル仁旺山の麓にある家に、妻子とともに落ち着きました。
ソウル滞在は3ヶ月ほどでしたが、その間、後輩の池青天たちとともに、仁寺洞にあった売れっ子妓生(キーセン)の家に出入りしたり、中華料理店でビリヤードに興じたりと、遊蕩にふけるふりをしていたのだそうです。もちろんそれは、三・一独立運動後のきびしい取り締まりの目をのがれるために、なんですが。
さらに金光瑞は、義和君李カン(李垠殿下の異母兄)の愛人と浮き名を流し、ソウル中に名をとどろかせた、といいますから、「取り締まりの目をのがれるため」とはいうものの、女に好まれる素養を、そなえた人だったんでしょうね。
そして6月、金光瑞と池青天は満州に脱出し、柳河県孤山子(あるいは通化県とも)にあった新興軍官学校で、軍事教育に携わります。
この新興軍官学校というのは、明治40年(1907年)にはじまった丁未義兵闘争の独立運動家たちが、満州に入って作った私塾のようなものです。
これまでにも幾度か述べましたが、丁未義兵闘争は、大韓帝国の軍隊が解散させられたことに伴い、軍人が中心となって起こったものですし、独立とは戦いとるものである以上、独立軍を育成する必要がある、ということで設立されたのですが、学校というものは維持費のかかるものでして、次第に細々としたものになり、大正7年(1918年)、つまり第一次世界大戦が終結した年、三・一独立運動の前年、満州の大凶作により、ほぼ閉鎖状態に陥っていました。
そこへ、金光瑞、池青天という、日本陸軍の現役将校が教師として現れたわけで、600人の生徒が集まる盛況となりました。
なぜ満州か、ということなのですが、「伝説の金日成将軍と故国山川 」vol1で書きましたように、間島を中心に、国境に近い満州は、もともと朝鮮族が住む土地だったんですね。李朝の最盛期には、間島までも支配がおよんでいたようですが、末期にはおよばなくなり、かといって清朝の支配がおよんでいるかといえば、これもまたいいかげんで、朝鮮国内にくらべれば、勝手に耕せる土地が多かったんです。匪賊が跋扈していましたから、自衛の必要はあったんですけれども。
で、ですね、まず、半島内では、総督府の取り締まりで、独立武力闘争は不可能でした。そして、独立運動というものは、お金がかかります。その活動資金は、主に支持者の寄付です。その寄付を募るにも、また戦士となる人材を得るにも、朝鮮族の多く住む地である必要があるわけなのです。
したがって、まずは満州(わけても間島)、次いでロシア領沿海州に、独立運動家が、移り住んでいったのです。
三・一独立運動当時、満州はといえば、明治44年(1911年)の辛亥革命以降、一応は中華民国の領土となっていたわけなのですが、北京政府の威令は行き渡らず、軍閥割拠状態の中、馬賊上がりの張作霖が実権を握っていました。
また、ロシアの東清鉄道(辛亥革命によって中東鉄路と名が変わります)と、明治38年(1905年)以来、日本のものとなった満州鉄道と、その付属地が点在していますから、線路と付属地に関しては、ロシア、日本の警備、行政下にあったわけです。
沿海州はロシア領ですから、大正6年(1917年)に勃発したロシア革命の混乱のただ中です。満州の中東鉄路とその付属地にも、革命は押し寄せていました。
満州、沿海州における、これだけの混乱の中では、独立運動を取り締まる日本側も、外交ルートで異議を申し立てても無駄です。
そういうようなわけで、三・一独立運動以降も、武装闘争をめざす人々は、大挙して、まずは満州(主に間島)をめざしました。
しかし、その人々の意志は、けっして統一されていたわけではなく、間島においては、複数の独立武装運動団体が競合することになり、これはある意味、ある意味、といいますのは、住民からの寄付の取り立て、という点において、なんですが、馬賊と競合することともなり、結局は、より武力の強い団体が生き残るわけですから、国境線を越えて半島内にも出没することとなり、朝鮮総督府の取り締まりを誘うこととなっていきます。
金光瑞と池青天がいた新興軍官学校は、武装独立団体がひしめく間島(東満)からは少々離れ、南満と呼ばれる地域にありました。
ここで、金光瑞は擎天、池大亨は青天と名のり、もう一人、旧大韓帝国軍官学校出身の将校だった申八均も新興軍官学校の教官となっていたのですが、申東天と名のり、「南満の三天」と称えられたといいます。しかしこれは、戦闘で名を挙げたというわけではなく、軍事教官としての名声でした。
金光瑞が新興軍官学校にいたのは、半年ほどのことでした。
大正9年(1920年)の初めには、ハルピン(満州中東鉄路の付属地で、ロシア人によって統治されていました)にいて、沿海州ウラジオストックの同志たちと、連絡をとっていたもようです。
以下は、防衛省に残っています、陸軍省大日記からです。
大正九年一月二十三日高警第一五三五号 秘 国外情報 不逞鮮人ノ行動 (浦潮派遣員報告)
哈爾賓埠頭区十三道街居住金擎天ナル者ヨリ、目下浦潮ニ居住セル元平安南道平壌鎮衛隊下士ニシテ暴徒派不逞鮮人金燦五、及元咸鏡南道北青鎮衛隊下士崔元吉、並海牙密使事件ノ張本人李儁ノ実子李鏞等十二名ニ宛テ、陰十二月十五日(陽暦二月四日)愈々前進ノ予定ナルヲ以テ各位ハ二十人長トシテ部下ヲ引率シ同日迄ニ哈爾賓ニ集合セラレ度シトノ書面ノ発送シ来レリト謂フ
発送先 内閣総理大臣 各省大臣 拓殖局長官 警視総監 検事総長 軍司令官 両師団長 憲兵隊司令官 関東長官 関東軍司令官
つまり、ハルピン埠頭区十三道街に住んでいる金擎天(光瑞)なるものが、ウラジオストックに住む金燦五(元平安南道平壌鎮衛隊下士)、崔元吉(元咸鏡南道北青鎮衛隊下士)、李鏞(ハーグ密使事件で客死した李儁の息子)など12名に宛てて、「2月4日に前進(進軍)するので、それぞれ20人長として部下を引率し、ハルピンに集合してくれ」という手紙を出した、というんですね。
ううっー、なんで、金光瑞が出した手紙の内容が、日本側にわかるんでしょう!!!
シベリア出兵中の話で、日本軍はウラジオストックを根拠地にしていましたから、密偵がもぐりこんでいた、といいますか、ウラジオの独立運動団体の中に、日本軍に内応する人物がいたんでしょうね。
「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」では、新興軍官学校にいたことがあるという李範ソク(韓国初代国務総理)の後年の談話から、「金光瑞は武器購入のルートを開拓するために沿海州へ行った」としているんですが、これを見ると、ウラジオストックの同志たちから指揮官として迎えられたのではないか、と思えます。
ということで、調べてみましたところ、あきらかに李範ソク氏の記憶ちがいです。
陸軍省大日記の資料などによりますと、この年の1月4日に、朝鮮銀行の咸鏡北道会寧出張所から、間島龍井村出張所へ、現金を運んでいましたところが、強盗団十数名に襲われ、日本人の警衛巡査長と朝鮮人の巡査が殺害され、現金15万円が奪われたんですね。捜査しましたところ、朝鮮銀行龍井村出張所の書記だった朝鮮人が、現金輸送のルートと時間を、間島独立武装団の一つに内報したことがわかり、強盗を働いた武装集団のメンバーも判明したんです。
彼らは、15万円をかかえて、「武器を購入する」といい置いてウラジオストックに逃げていました。
1月31日、日本軍はウラジオストックの新韓村(朝鮮人街)を急襲し、強盗団をはじめ数百人を逮捕し、現金12万8000円余りを押収した、といいます。
金光瑞は、この強盗とは、なんの関係もありません。
しかし、強盗が十数人でしかありませんのに、数百人の逮捕!
あきらかに日本軍は、沿海州での独立運動をつぶそうとしていたわけでして、強盗事件はいい口実となったわけです。
すでに、白軍と共闘していましたチェコスロバキア軍団は戦闘をやめ、2月から引き上げがはじまる予定でしたし、それにあわせて、出兵中のアメリカも、撤兵する予定でした。
となれば、赤軍と共闘していました沿海州の朝鮮独立軍団は、これからが、活動を活発化させる好機だったのです。
にもかかわらず、です。「強盗の摘発」となれば、抗議の声を上げるわけにもいきませんし、これは、とんでもない迷惑だったでしょう。
おそらく、なんですが、日本軍の将校だった金光瑞にとって、間島における、強盗まで発生するような独立武装団の乱立は、運動の先細りにしかつながらない苦々しいものに見え、世界に認知される武装闘争をするならばシベリア、ということになったのではないでしょうか。
またシベリアには、旧知の人々がいもしたのでしょう。手紙の宛先の一人である崔元吉は、「元咸鏡南道北青鎮衛隊下士」と見えますが、元咸鏡南道北青郡は、金光瑞の故郷です。彼らが、自分たちには能力のある指揮官が必要だ、ということで、金光瑞に来援を求めたのではないか、と思うのです。
ただ、1月31日にウラジオストックの新韓村手入れがあったとすれば、当時ハルピンにいたらしい金光瑞の書簡の件は、あるいは、実現しなかったのではないでしょうか。日本側は、ハルピンに手勢を率いていくはずのメンバーの名前まで、つかんでいたわけなのですから。
とすれば、金光瑞は、事態を案じて、そのままウラジオストック入りしたのではないか、と推測できるのです。
えーと、ですね。
なぜシベリアでの武闘闘争なのか、ということなのですが、当時の現実として、独立国家の設立は、民族自決の理念をいくら口で唱えても、容易に得られるものではありませんでした。
武装闘争と巧みな外交が不可欠で、しかもそれが、うまく連動する必要があります。
そのお手本、チェコスロバキア独立運動の成功が、このとき、金光瑞の目の前にあったのです。
次回は、成功のお手本であったシベリアのチェコスロバキア軍団から、お話を進めて行きたいと思います。
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そのブログの「北朝鮮空軍創設者が呂運亨の地下組織にかかわっていた」は、コメントにもありますように、怪しいです。北朝鮮の空軍創設者ならば、おそらく、満州の中国共産党系の朝鮮義勇軍(通化事件にかかわった人々です)に関係していたと思われます。なにしろ中国共産党の空軍は、日本陸軍の在満州空軍部隊が、敗戦後に協力させられて、形になったそうですので。
以前より郎女様の 天の原異聞 を読んでいたのですが、本日 09/8/21 拙ブログで簡単ですがご紹介させていただきました。お知らせをと思いブログの方に来たのですが、こちらは又こちらで凄い情報量 ! 読み応えがありそうです。
こちらも楽しみにじっくり読ませていただきますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
m(_ _)m
今日偶々Yhooのブログでこんなものを見つけました。
http://blogs.yahoo.co.jp/infeartinstitute/22022002.html
旧日本軍パイロット出身の北朝鮮空軍創設者ー河信基の深読みー
ヨムジュ出身のリファル
北朝鮮人民軍空軍上将(中将)
新義州飛行場で空軍創設
最近では、金光瑞のお孫さんが韓国を訪れているようです。
ハングルの詳しいページがいくつかありまして、機械翻訳にかけて、ようやく消息がつかめたような次第です。韓国が建国勲章を追敍していたとは、どびっくりでした。
wikiには独特の記述方法があってめんどうなんですが、どのようなページでも上部の「編集」をクリックしますと、編集できる画面となり、この編集画面と本文画面とを見比べますと、どのように記述すればいいのか、だいたいがわかります。
あと、もしwikiに書かれるようでしたら、利用者アカウントを作られて、ログインされた方が便利です。
ご活動を楽しみにしております。
同窓会名簿には親子ともども生年月日も大佐(大佐に昇進)の死亡年月日もはっきりしていますので試して見ます。
時々wikkiの項目で知っていることがあれば投稿もしたいと思っております。
金光瑞騎兵中尉の息子、娘の二人は韓国に来たそうですね!
そうすると鴨緑江の鮮支国境で騒いでいた金日成はただの匪賊でしたか?
早速のレス有難うございました・
ただ、新しい項目を立ち上げるには、最低限書かなければならないことがありまして、例えば同じく26期の「李応俊」を見ていただければわかりますが、生年月日、死亡年月日は、できれば欲しいところみたいです。
あと、一応、百科事典ですから、参考文献や参考URLを明示する必要があります。「李応俊」のように、最低限の事柄のみで立ち上げ、「書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています」という告知テンプレートを貼る方法もあるのですが、これをするにも、最低限の項目は必要です。
ハングル版wikiには、「유승렬 (1893년)」で項目がありますが、ごく簡単なものです。機械翻訳にかければ、おおよそのところはわかりますので、日本語版でも立ち上げは可能ですが、どんなものでしょうか。生年月日、死亡年月日も書いてないですし。ハングル版wikiは日本語版にまして、不正確な記事が多いように思います。
左翼政権が続いて価値観が変わった現在の韓国では、劉中佐はご子息とともに、親日罪の告発名簿に載っています。顕彰とは反対の方向ですので、非常に情報が少なく、「유승렬」で検索をかけてみたのですが、詳しいページにいきあたりませんでした。
グーグルアースの衛星写真で見るほかがありません。ですがめぼしいところには同じような建物が並んで推測しか出来ないでおります
旧道庁、府庁、守備隊、税関などは新義州に入ったときに写真を撮ってきました。
この新義州にあった旧制中等学校の軍事訓練には軍から配属将校が
派遣されていました。
佐官級と尉官級の二名です。
劉昇烈少佐と安達大尉でした。
専ら教育に当たられた将校は安達大尉でしたが、劉少佐は在任中に
中佐に昇任されたことを記憶しています。ですが2年生の時戦争が
始まり中佐は一線に転任されました。
この劉中佐には子息がいて同校の
同窓生ですが四年生で陸軍士官学校に進学されました。陸士55期
の劉載興韓国陸軍少将です。
親子の日本陸軍士官学校出身です。
wikkiで調べますと、日本陸士の卒業名簿には26期に朝鮮出身の
将校が8名おられますね!
劉昇烈さんの項目には何も記されていません。
で上記の事項を登記したいのですがどのようにすれば良いかご教示下さい。
というのは、なにも私が日本人だから感じること、では、ないみたいです。
かつて、T.K生という匿名で「世界」にコラムを持ち、北朝鮮を擁護していた池明観氏が、実際に北朝鮮を訪問し、言っておられます。
「北の状況をひとことでいえば、1945年以前日本の統治下にいた時よりももっとひどい状況にあります。私は北に行って来て、北に対して何をどうすればいいのかわからなくなってしまった」
http://ncc-j.org/oikumene/no35/chi-myongan.html
経済発展だけでは片付かない感情というものが、あるのだと思います。
「ライアンの娘」は、第1次大戦中のアイルランドを描いて、一方に偏らず、いい映画でした。あれで、当時のドイツがアイルランド独立運動を助けていたと、初めて知りましたし。
三・一独立運動以降は、日本も文治統治に切り替えましたし、そういう中で生まれて成人した方々は、その時代を懐かしむ気持ちも、十分お持ちなのだと思います。私が日本人だからかもしれませんが、金日成の統治より、はるかにましだったように感じられますし(笑)
私には、金日成のしたことは、粛清に次ぐ粛清の出口のない恐怖政治、としか、受け取れません。スターリンを見習ったのは、そういう点での大物ぶりです。
金光瑞が消息を絶った時期は、ソ連が金日成を担いだ時期と、ほぼ一致します。
憶測の世界でしかないのですが、ソ連側にも、金光瑞がモデルとなった金日成伝説を、知る人物がいたのかもしれないですね。
ありえないことですが、金日成ではなく金光瑞が北朝鮮の指導者となっていれば、少なくとも朝鮮戦争は起こらなかっただろうに、と、つい妄想してしまいます。
置ける、匪賊、馬賊は金日成の類
と思っていましたが、考えて見ると、私が中学生になった昭和15年
には鮮満国境には匪、馬賊などの
話も過去の話になっていて、昭和
5,6年頃の話や写真に残っている話題だけが残っていたのだと、今はそう考えます。
確かに警察官や年配の方々の話として、金日成の話は面白く興味が
もてる話題でした。
特に日本陸軍士官学校での金日成
とは、話に尾ひれが付き「陸士を
出たキンジッセイは陸士で日本を
学びそれならば日本国に倣って朝鮮の天皇になるために抗日運動をするのが目的だったのだと実しやかな話が飛んでいたものと思います。
「キムイルソン」と言えば朝鮮民族の星とまで言われ憧れだったのでしょうが、日本の統治下にあった朝鮮の人からは聞いたこともなかったのです。
金日成の話は、中学生から予科練に、そして終戦、戦後も生活に追われ、考えたこともなかったのですが、「金日成は四人いた」の本を買って以来少年時代の興味が再燃したところです。
日本政府も朝鮮総督府を通じての行政は内鮮一体とか言って、道知事、郡守、警察署長、税務署長も
朝鮮の人を多く採用してたようです。
5月6日、新義州高女の最終回同窓会が「帝國ホテル」で開催されました。そこへ私の生まれた町の「定州税務署の署長」だったと言う韓国の女性が私を訪ねて着ました。私も知らなかったのですが、
中学校に入学した昭和15年に父親が定州の税務署長になって日本人の小学校に転校して、同じく新義州の女学校に入学したのだそうです。中学生になってからは殆ど下宿にいて帰省することは、夏、冬、春休み位ですから、町の行政人事などは知らぬことです。だが当の韓国ご婦人は全く今でも日本人になりきっていました。話して見ると年齢の割には心の純粋な人柄で税務署長の父親は早稲田大学政経学部出身のことでした。朝鮮の人にはこのような日本の国に愛情を持っている人々も大勢おります。
ですが全てではありません。金光瑞騎兵中尉のように日本の教育を受けながらも何時か日本から独立を勝ち取ろうと志を持った人たちもおります。それは戦後まで私達には判らなかっただけで、金光瑞の場合は軍人教育を受けて抗日に走ったものと思います。
しかし今の北朝鮮では社会主義の国なのに三代目も世襲になるようでこの方の「金日成」も中々の大物だったようですね!スターリンからマキャべリスト教育を受けたのでしょうか?
それにしても「金光瑞騎兵中尉」の行方が気がかりになりました。