郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍と故国山川 vol6

2012年05月10日 | 伝説の金日成将軍
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol5の続きです。

 検索をかけていましたら、朝鮮日報日本語版の 「抗日武装闘争リーダー、金擎天将軍の肉筆日記出版」という記事を見つけました。今年の3月の記事ですね。記事が消えると怖いので、引用させてもらいます。

 抗日運動家の金擎天(キム・ギョンチョン)将軍(1888-1942)ほど、波乱に満ちた人生を送った人物も珍しい。
 金擎天将軍は、大韓帝国期に政府の留学生として、日本の陸軍士官学校を卒業し、日本陸軍の騎兵中尉を務めていた際、三・一運動で満州に亡命し、沿海州の独立軍司令官として活躍したが、ソ連でスパイ容疑に問われ、強制労働収容所で死亡した。「満州の金日成(キム・イルソン)将軍」を描く伝説の主人公としても知られる。

 そんな金擎天将軍の、1920年代前後の亡命と抗日闘争を記録した肉筆の回顧録と日記『擎天児日録』が1日、出版された。国を失った軍人の悲痛な思いと独立運動最前線の実情がつづられた告白録だ。

■伊藤博文暗殺に感激
「ある日、東京郊外で反撃演習をしていると、伊藤博文暗殺という号外が飛び交い、東京市が大騒ぎになった。衝撃を受けた。ああ、偉大だ。われわれにも大人物がいるのだな」(1909年10月)

 日本の陸軍幼年学校を卒業したばかりの、20歳の金擎天の感激に満ちた心内だった。金擎天は幼年学校でも日本人に甘く見られないよう心掛けた。
 「六百数十人の日本の学徒が、初めて弱小国の人間である自分が入学したことを奇異に感じている。私は輝く眼差しで彼らを見つめ、一言でもみだりに言葉を発さず、鼻で笑うばかりか、行動も平凡な人間ではないことを見せつけた」

 1910年12月末、日本軍の少尉として任官された直後には、自分の数奇な運命についてこうつづっている。
 「実に奇妙だ。私は光武帝(高宗)の時期には駐日大韓帝国留学生だったが、今は日本の将校になった。ああ、私の前途はこれほどまでに変化に満ちているのだろうか」

■「友が刀を抜けと勧める」
 金擎天は1919年1月、休暇で京城(現在のソウル)を訪れた際、三・一運動に遭遇した。
 「東大門の内側にある婦人病院前で青年団が万歳を叫び、看護婦全員が泣きながら万歳で応じた場面は、私の心をさらに憤らせた。青年会館にいるときも友人が私に刀を抜け、今はほかにすべがないから刀を抜けと何度も勧める」(19年3月1日)

 金擎天は中国亡命を決心する。当時、金擎天は31歳で、妻と娘3人がいた。金擎天とともに中国に亡命した陸軍士官学校の同窓生が、後に光復軍総司令官を務める池青天(1888-1957)だ。

 金擎天は当時、国際情勢を冷徹に見つめる知識人だった。
 「直接の独立は第2次世界大戦が起きなければ不可能だ。ゆえに、私の亡命は少し早いと言える。しかし、私はまだ若く、気概と勇気があるため、海外を数年漂流し、功を積み上げる必要があると考えた」
 金擎天は1920年代初め、沿海州で日本軍、中国の馬賊、ロシア白軍(反革命軍)と戦った。「白馬に乗った金将軍」というエピソードが生まれたのもこのころだ。1921年3月1日の日記では、進展がない独立運動を批判した。「あまりにも努力する者が少なく、虚名に酔いしれた者たちが多い。上海臨時政府に役職をもらいに行くのを見てもしかり、当事者が勢力争いをするのを見てもしかり」

■「軍隊全体がこじきのようだ」
 独立軍の生活は悲惨だった。「食料、衣服、費用は全て不足し、軍隊全部が本当にこじきのようだった」(1921年10月11日)
 1922年夏、金擎天が率いる独立軍を含め、ロシア領内の朝鮮人系武装勢力はソ連当局に武装解除された。抗日武装運動が挫折した後、金擎天は独立運動の一線を退き、沿海州の協同農場で歳月を過ごした。その後、朝鮮人が中央アジアに強制移住させられる直前の1936年秋に政治犯として逮捕され、2年半服役した。だが、釈放から1カ月後に再びスパイ罪で懲役8年の刑を受け、ソ連北部の強制労働収容所で1942年に死亡した。

 『擎天児日録』を整理した元高麗日報記者のキム・ビョンハク氏は「金擎天将軍が共産党に加入しないなど、ソ連式の共産主義に積極的に加わらなかったことが、迫害を受けた原因の一つとみられる」と述べた。『擎天児日録』は、崇実大韓国文芸研究所の学術資料叢書初巻として出版された。


 『擎天児日録』って、ハングルなんですかねえ。
 漢文だとなんとか読めるのでは、と思うのですが、どうすれば手に入れるのかも、問題です。場合によっては、wikiの書き換えが必要なこともあるかと思うのですけれども。
 なお朝鮮日報は、日本の統治時代からの伝統を誇ります韓国の保守紙でして、下手な日本の新聞よりよほど信用できますが、こと日本との歴史問題に関しますかぎり、おかしなことを書く場合も相当にありまして、金擎天(金光瑞)はシベリアで、日本軍と直接には戦っていません。

 それにいたしましても、朝鮮日報が言います通り、金光瑞の生涯は波乱に満ちて、私、ついのめりこんでしまったんですけれども、北朝鮮の金日成につきましては、実のところ、なんの興味もありませんでした。
 だって、スターリンのまねっこ乞食の恐怖統治のあげくに、あんな気色の悪い王朝を作りあげた瘤妖怪なんですよ?

 戦前、朝鮮半島に軍人として行っていた方が、小泉訪朝で金正日が拉致事件を認めた直後に、言っておられました。
 「やつら、昔満州でやりよったと同じことを、相変わらずやりよるんですよ。抗日といってもね、略奪で村を荒らし、人を拉致して、取れる場合は身代金を取り、仲間にできる者は下働きにしていただけですよ。金正日の父親の金日成は、そういう匪賊の親分でした」

 しかし、ですね。
 金光瑞に関連しまして、うんざりしながら北朝鮮の金日成(本名金成柱)を調べていますうちに、魅力的で、興味深い人物に行き着いたんです。
 満州で、金日成と同じ東北抗日聯軍(参照wiki-東北抗日聯軍)の部隊にいた、といいますか、東北抗日聯軍で金日成の上司だった吳成崙(全光)です。
 彼については、後述します。
 まずは、佐藤守氏がおっしゃいますところの「普天堡(ポチョンボ)の戦い(昭和12年・1937年)を指揮した本物の金日成将軍」から、話をはじめます。

金正日は日本人だった
佐藤 守
講談社


金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
李 命英
成甲書房


 李命英氏は「金日成は四人いた」の中で、北朝鮮の金日成とは世代がちがい、活躍時期もちがいます金光瑞と金一成を、伝説のモデルとして挙げた後、伝説の金日成将軍の名を踏襲しましたもう二人の金日成を、本物として描いているのですが、これは二人とも、北朝鮮の金日成が実際に所属しました東北抗日聯軍にいた、とされています。

 普天堡襲撃の指揮者が金日成no3、no3の死亡後、その後を継いだ金一星(キム・イルソンと読みます)がno4、北朝鮮の金日成は、このno4の部下だっただけで、ろくになにもしていないにもかかわらず、生き残って、no3、no4の事績のいいとこ取りをしたのだ、というわけです。

 李命英氏は、主に討伐する側だった日本軍関係者に話を聞いているのですけれども、日本の敗戦で、当地にあった日本側資料の多くは、中国、北朝鮮が押さえていますし、李命英氏が取材なさった当時、すでに関係者は高齢で、記憶が定かでありませんのは人の常です。

 先にno4の金一星なのですが、wiki-抗日パルチザンの「満州の抗日パルチザン/中国共産党に吸収されたパルチザン」の前半に以下のようにあります。

 1930年、コミンテルンの意向があり、満州の朝鮮共産党は、中国共産党に吸収されることとなる。中国共産党満州省委は、この方針に基づき「赤い五月」行動を指令した。朝鮮族の多い間島では、どれほど熱心にこの指令を実行するかで、朝鮮人の中国共産党入党の可否を決める、というような方針があり、間島五・三〇事件(間島暴動)が発生する。最初に行動を起こした部隊を率いていた人物の一人は、金一星(キム・イルソン)という龍井の大成中学生だった。

 李命英氏は、この金一星がno4だとしていたんですが、まずこれは、伝説の金日成将軍と故国山川 vol3でご紹介しました「北朝鮮王朝成立秘史」で、ソ連共産党の幹部だった許真氏が否定しておられます。
 いま、手元にこの本がありませんで、詳細は忘れたのですけれども、間島暴動の金一星は、東北抗日聯軍とは関係なく、北朝鮮の金日成が東北抗日聯軍で戦闘指揮者であったことは、事実とされています。許真氏は北朝鮮からソ連へ亡命された方で、けっして金日成を評価して書いているわけではありませんので、信憑性があります。

 
北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 (1982年)
林隠
自由社


 また、東北抗日聯軍は中国共産党の組織でして、朝鮮族を含む中国人には、北朝鮮の金日成と行動を共にしてソ連に入り、生き延びた人々もいたわけでして、こうした人々の証言により、李命英氏の描くno4は、そのまま北朝鮮の金日成その人だということは、あきらかになっている、といえるでしょう。

 ただ、日本軍関係者の話で留意すべきなのは、「複数の指揮者が金日成を名乗った」という証言です。
 北朝鮮の金日成にしましても、金日成(キム・イルソン)という名前は、伝説にあやかっての仮名でした。日本の敗戦後、北朝鮮に姿を現した当初の金日成は、金成柱(キム・ソンジュ)と本名を名乗っていたという証言もあります。

 したがいまして、金成柱(北朝鮮の金日成)は第一路軍・第二軍・第六師の師長でしたけれども、吳成崙が政治委員を務めました第一路軍・第二軍には、他にも複数、金日成を名乗る人物がいたのではないか、と私は思っています。
 といいますか、伝説の金日成将軍の名を利用しますこと自体、吳成崙のアイデアで、場合によっては、吳成崙自身も金日成を名乗ったこともあったのではなかったか、と。

 李命英氏が普天堡襲撃の指揮者である金日成no3を、北朝鮮の金日成と別人だとしておりました根拠は、まずは日本人関係者の証言と、当時の新聞記事などです。
 しかし、これにつきましては、和田春樹東大名誉教授が、朝鮮総督府が「本名金成柱当二十九年」と確定していることや、北朝鮮の金日成の実弟を特定し、母親もさがし出したりしておりますことから、別人説を否定しています。

 しかしこの普天堡襲撃、満州にいました東北抗日聯軍の第一路軍第二軍の第六師単独ではありませんで、朝鮮半島内の共産主義者の手引きがあって、襲撃に成功したものです。
 以下、wiki-東北抗日聯軍から引用です。

 一方、1936年、第一路軍の第二軍は、長白地区に根拠地を作ろうとしていた。第四師の師長・安鳳学が逮捕され投降、第二軍の軍長・王徳泰が包囲され戦死するなど、相当な犠牲を払いつつ、まずは金日成が師長を務める第六師が根拠地開拓に成功し、1937年には、一路軍の第一軍第二師と、第二軍の第四師も、長白へ根拠地を移しつつあった。
 もともと、1932年に東北人民革命軍を立ち上げたのは、中国共産党満州省委磐石県委だったが、その当初からの古参朝鮮人メンバーに、吳成崙(全光)、李相俊(李東光)がいた。吳成崙は第二軍の政治主任で、李相俊も第二軍にかかわっていたとみられるが、彼らは民生団事件の反省に基づき、、政治委員・魏拯民の支持を得て、朝鮮人の民族意識に訴えようと、在満韓人祖国光復会 を組織する方針を打ち出していたのである。長白への侵攻は、これに従ったもので、第六師は支持基盤の構築工作を開始し、その一環として、鴨緑江対岸の朝鮮半島内・咸鏡南道(現在は両江道)甲山郡を中心に活動していた朴金喆、朴達などの共産主義団体(のちの朝鮮労働党甲山派)と連絡をつけた。
 1937年6月、第六師は鴨緑江を渡り、甲山郡普天面保田里(旧名、普天堡)の襲撃に成功したが(普天堡の戦い)が、これは、甲山グループの手引き、参加によって成功したものである。


 この甲山グループの朴金喆、朴達など、金日成とともに普天堡を襲撃したはずのメンバーが、後に検挙されて取り調べを受け、日本の敗戦後まで生き残ったのですが、取り調べでも、また仲間への語り残しでも、「金日成は普天堡襲撃当時35、6歳くらいで、モスクワ共産党大学を出ている」というようなことを言っているんですね。
 李命英氏も佐藤守氏も、甲山グループの証言を重視して、別人説を唱えておられまして、一方、否定する側の和田春樹氏は、「捕まったパルチザンは偽情報を流すものだ」といいますような一般論で片づけておられるのですが、いま一つ、説得力がないんです。前述しましたように、朴金喆も朴達も、取り調べ側だけではなく、抗日同志にもそう語っていたといわれているから、なのですけれども。

 私、思いますに、要するに、ですね。
 朴金喆も朴達も、小さな村を襲撃しましたときの現場指揮者の若僧・金成柱が金日成将軍だとは思っておりませんで、自分たち甲山グループに働きかけてきましたモスクワ帰りの中国共産党の大物が金日成を名乗ったので、そちらが指導者だという認識だったのではなかったんでしょうか。
 普天堡襲撃の一年ほど前の日付で、「在満韓人祖国光復会宣言」という書類が残っておりまして、その発起委員は、吳成崙、嚴洙明、李相俊であり、金成柱(北朝鮮の金日成)の名前はないんです。

 吳成崙は1900年(明治33年)の生まれといわれますから、1912年(明治45年)生まれの金成柱より12歳年上で、この当時、満37歳。しかもモスクワで、東方勤労者共産大学(クートヴェ)に学んだ経歴がありました。
 つまりは、朴金喆や朴達が語り残しました普天堡の金日成将軍の条件に、ぴったりなのです。
 
 さらには、1930年(昭和5年)、金成柱は18歳の少年で、在南満州の朝鮮人民族派の抗日武装団(馬賊とあまり変わりませんが)朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団に属していたのですが、中国共産党から派遣されて満州入りしました吳成崙が、李鐘洛の一団と密接に関係していたことが、日本側の探索資料に見えます。
 アジア歴史資料センターの外務省外交史料館/外務省記録【 レファレンスコード 】B04013183200(日本共産党関係雑件/朝鮮共産党関係 第八巻 1.昭和五年八月ヨリ九月マデ 分割3)より、以下引用です。

 昭和5年9月18日 在吉林 総領事 石射猪太郎
 外務大臣男爵 幣原喜重郎 殿

 鮮人共産党員ノ行動ニ関スル件
 首題ノ件ニ関シ当館ノ得タル情報御参考迄別紙ノ通リ報告申○ス
 本信写送付先 上海、北平、奉天、哈爾浜、間島、長春
        関東長官、朝鮮総督

 在満鮮人共産主義ML派幹部タリシ陳公木(張国三、本名李炳照)及呉成崙(曽テ田中大将狙撃犯人)等ハ既ニ中国共産党ニ加入シ中共党満州省委員会ノ重要地位ヲ占メ磐石県煙筒山ヲ根拠トシテ支鮮人共産党員数名ト共ニ絶エス吉林省域ニ出入シ他ノ同志ト共ニ策動シツツアルカ数日前当地ニ於テ右両名及李鐘洛一派ノ金根赫等密会シ速ニ赤軍特務隊ヲ組織シ吉ニ於ケル走狗機関破壊走狗輩ノ暗殺撲滅等ヲ決議シタル上呉成崙ハ去一六日朝吉海線ニテ奉天ニ向ケ出発(後略)


 朴金喆は北朝鮮で要職につき、1968年(昭和42年)に粛正されるまで、金日成(成柱)のそばで生きていましたから、当然、東北抗日聯軍において、呉成崙が金成柱の指導者であり、在満韓人祖国光復会を組織して、朝鮮側で自分たちをリクルートし、すべてをお膳立てした真の金日成将軍は、実は吳成崙であったのだと、わかっていたはずです。
 しかし、いっさい、彼らが呉成崙について語り残していないことには、理由があります。
 
吳成崙は、昭和16年(1941年)、満州国通化地区討伐隊(日本側)に投降し、満州国の治安部顧問になっているんです。日本の敗戦後、通化に入ってきた中国共産党に粛正された、といわれていましたが、一方、許されて一年ほどは生き延び、病死した、というような話もあるみたいです。

 そのためなのか、吳成崙は、北朝鮮はもちろん、現在の韓国でも人気がないようでして、ハングルサイトをさがしてみたのですが、あまり情報がありません。
 吳成崙は金光瑞とちがいまして、非常にくせのある人物で、テロリストでもあったのですが、波乱の人生といえば金光瑞以上です。
 北朝鮮の歴史書では、吳成崙が組織しました在満韓人祖国光復会が、金成柱が組織したことになっていたりしまして、あきらかに、北朝鮮の金日成(金成柱)は、吳成崙の業績を盗んでもいます。

 とはいえ、略歴のみで見ますかぎり、吳成崙は、それほど魅力的な人物ではないんですけれども、実は、このシリーズを書き始めましたとき、さまざまな関連書を読みました中で、私、「アリランの歌」を読んだんです。

 
アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)
ニム ウェールズ,キム サン
岩波書店


 「アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯」の著者、ニム・ウェールズは、1907年(明治40年)生まれのアメリカ人女性で、本名はヘレン・フォスター・スノー。中国共産党を擁護宣伝しましたことで名高いアメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーの最初の妻で、自身もジャーナリストでした。
 夫とともに中国で活動し、普天堡襲撃が起こりました1937年(昭和12年)に中国共産党の本拠延安に取材に入り、朝鮮人革命家のキム・サン、本名張志楽に出会います。

 張志楽は1905年(明治38年)、日露戦争の最中に生まれた朝鮮人で、ニム・ウェールズより二つ年上。
 日本語、中国語をこなし、さらに英語も流ちょうに話しました張志楽とニム・ウェールズは意気投合し、張志楽が自分の人生を英語で語り、ニム・ウェールズが聞き取って文字に起こし、「アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯」が生まれました。
 張志楽は母国語で語ったわけではないですし、ニム・ウェールズの聞き取りには、当然、主観が入ったでしょう。
 あるいはまた、かならずしも事実ではない噂話も含まれていたりもしている様子ではあるのですけれども、二人の魂がふれあい、共鳴して生まれた本であることが、読む者に伝わってくる一冊です。

 ニム・ウェールズと別れて間もなく、33歳の若さで張志楽が粛正されてしまった悲劇を知れば、なおさらに、この二人の出会いは貴重です。
 そして張志楽は、この本におきまして、吳成崙こそが、一番の親友、生涯の友であると、語り残しているんです。

 えー、長くなりましたので、このシリーズ、もう一回、続きます。

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2 コメント

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気になる記事があります (ポン太)
2018-03-23 12:56:46
 お初お目にかかります。ポン太と申します。ここに気になる記事を見つけましたので、URLを貼っておきます。

 http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2017021701634

 この記事によると、そもそも首領様はポチョンボにはいなかったということになりますが(しかも中国の吉林省にその資料があるらしいですが)、もしこの作家の本が邦訳されるのでしたら、ぜひとも読んでみたいですね。また違う形での議論になるかもしれません。
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ポン太さま (郎女)
2018-03-24 14:11:20
情報、ありがとうございます。ぜひ、読んでみたいですね。
普天堡事件は、ほんとうに腹立たしい事件でして、日本人の被害者は、巡査の娘(二歳の幼女)と武器を持つはずもない小さな食堂の店主のみ、なんですが、無抵抗のものを惨殺しています。朝鮮人の税金で作られた朝鮮人のための役場や小学校、郵便局などに放火し、朝鮮人から物資や金品など、略奪のかぎりをつくしています。これを英雄的なものとして、おまけに、吳成崙の業績まで盗んだ北朝鮮の金日成伝説は、私には到底、許すことができないものです。
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