じいじのひとりごと

高齢者の悲哀と愚痴を綴っています
唯一の相棒、mシュナウザーのベルが残り人生を伴走してくれます

夏が来れば思い出す

2018年08月04日 | 日々のこと

昭和18年生まれ、農家育ちである。

当時は米麦の二毛作中心で、野菜は自家用だけでしたね。

麦は余り手間いらずだが、稲作は大変な手間暇がかかっていた。

唯一の僅かな現金収入で、どこも貧しかったように思います。

 

子供ながら、特に田植えと収穫の農繁期には手伝っていたものです。

学校も2,3 日間の農繁期休みと言うのがあった。

 

稲作は真夏の田圃作業が特に過酷であったように思います。

稲が枯れてしまう「いもち病」という厄介な病気が蔓延すると皆おろおろした。

ホテイアオイのような雑草は「手押し草取り器」を転がして除草するのです。

やがて稲作用除草剤で駆除できるようになるが、

稲と酷似したヒエは駆除できず、水田を徘徊し見つけ次第引き抜いていった。

夜になるとあちこちに青白い誘蛾灯が有りました。

やがて農薬登場、ウンカなどの害虫駆除には共同で「ホリドール」を散布していた。

もちろんこれだけは大人の仕事でしたが・・・、

真夏にマスク・ゴム手の完全防御でも作業後に体調を崩した人もいた。

強烈な薬剤で、この時期バッタや蛙など田圃や用水路の生き物が居なくなった。

水路もコンクリートで固められて、ホタルなどもこの頃から消えてしまった。

 

稲穂が実る時期には、当番制で竹筒カーバイド砲をかましながらあぜ道を廻った。

鎌での刈りとり収穫、脱穀も長らく手作業でした。

品定めして米俵に60kg詰めて出荷することでやっとこさ・・・・

今思えば何と過酷な時代でした、

昭和までの農作業は江戸時代のままでしたよ。

 

 

今日も手間暇かけて「煮しめ」を作りましたよ。

買い入れた材料を残さず使い切ると大量になりました。2,3日分・・・

コメント (10)
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