☆ 謝罪と慰霊、戦争の放棄 (『子どもと法・21通信』から)
岡山輝明
私は、9月12日~17日、中国東北部吉林省の省都長春を訪ねました。人口900万にも達する大きな街です。1932年から1945年まで「満州国」の首都「新京」でもありました。この会報に「戦中戦後の子どもと若者」などで長く寄稿されてきた佐々木賢さんも日本の敗戦前の子ども時代、一時過ごしたことがあるように伺っています。
私がこの街を訪ねることができたのは、日中口述歴史文化研究会とPTSD日本兵家族会・寄り添う市民の会(黒井秋夫代表)の訪問団に加えて戴いたからです。主な目的は近代日本の中国侵略への謝罪と交流です。そのために長春師範大学での参加者の講演と、隣の公主嶺市の小学校での黒井さんのお話が予定されていました。公主嶺は黒井さんのお父さんが、日本兵として最初に任務についた場所です。黒井さんはここで父親の所業を謝罪したいと念願していました。
今回掲載して戴いた文章は、私が長春師範大学でお話した原稿です。大学院の院生(大学の講師でもある)に中国語に翻訳して戴き、さらに講演の場面では中国語版パワーポイント資料を示しながら、私の話す日本語を通訳して戴きました。長い原稿なので通訳も含めて70分の割り当て時間に収まるよう割愛した部分もあります。反対に師範大学(日本でいう教育大学のようです)の学生向けなので、私が都立高校在職時に作成した中国侵略についての授業プリントや写真など、新たに盛りこんだものもあります。図書館ホールに集まってくれた学生達は200人弱。朝からの講義の連続にもかかわらず、午後の私の話にもほとんどの学生が顔をあげていました。
5日間の滞在中、先生ばかりでなく、日本語学科の学生が訪問団9名の一人ひとりに、起床時から夕食時まで案内と通訳のために付いてくれました。「至れり尽くせり」という言葉が浮かんでくるほど、気配りが細やかでした。また歴史学科の学生達からも、団員一人ひとりがインタビューを受けました。日本語学科の学生さんが通訳にあたり、時には筆談も交えながら話し合ったのです。前日に渡された質問項目からは、私達の原稿に目を通して臨んでいることが分かりました。私の話した中で、学生さん達が最もニッコリしたのは「無理に学生に何かを押しつけてはいけない」という言葉です。
唯一の心残りは、街に出て学生さん達と乾杯できなかったことです。ラストエンペラー溥儀の暮らした「偽満皇宮博物院」なども見学させていただきましたが、私達には、大学の先生や学生さん達の他に終始数人の屈強なガードがついていました(現在の中国では、満州国関係を差す場合、日本の傀儡国家であったことを意味してか、必ず「偽」がついています)。日本人が襲われる事件が今年に入ってから続いていたからだと思います。戦争加害を謝罪する日本人グループが、中国を訪ねて大学や小学校でお話しさせて戴き、それが人民日報などメディアによって報道されたことで、こういう緊迫した空気が少しでも和らげば何よりです。それだけに18日深?で、10歳の日本人小学生が刺されて亡くなったことは残念でなりません。痛ましい限りです。
なお、私の原稿は今回の訪中の記録集などにも掲載を予定しています。
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始めまして、私は岡山輝明と申します。元東京都立高等学校社会科の教員です。1954年に石川県で生まれ、現在70歳になります。先ほどお話しされた黒井秋夫さんと同じ街に住んでいます。
今日は三つのお話をさせて下さい。一つ目は、私がここに来た理由です。二つ目は、中国侵略の先兵として上海に送り込まれて戦死した私の伯父についてです。三つ目は、私が、高校の教員として、「戦争は二度としてはならない」ことを念頭において、取り組んできたことです。
1)はじめに:私がここに来た理由
一昨年、私は黒井さんの講演を初めてお聴きしました。その時、私は亡き父親のことを思い出しました。私の父は1928年に生まれ、14歳で小学校の高等科を卒業する際、担任の先生から何度も「滿蒙開拓青少年義勇軍」に応募するよう説得されました。日本が軍事力によって作り上げた傀儡の国、「満州国」の「開拓」と防衛のために、少年達も送り込まれていたのです。当時の教師達は、教え子達に大日本帝国の国策に従って生きることを求めていました。しかし、父の父(私から見れば祖父)が応募に反対しました。その代り、父は愛知県名古屋市の軍需工場に徴用されました。1945年8月の日本の敗戦時まで、父は10代半ばの2年4ヶ月、戦闘機を作る工場で働かされたのです。私は子どもの頃、アメリカ軍の空襲に逃げ惑ったことなどを、父からよく聞かされました。
戦後、父は出身地の石川県に戻って警察官になり、母と結婚し私が生まれました。父は母と出会って好意をもち、何とか結婚に漕ぎ着けたようです。何だか幸せそうな家庭に思えるかもしれませんが、私が幼い頃、両親の喧嘩が絶えませんでした。父は頑固な面もありましたが、普段はやさしい人でもありました。しかし、母との会話の途中、何かちょっと気に触ったのでしょうか、突然怒り出すのです。家族で食事中、父が突然怒りだして、ご飯のお茶碗や惣菜の盛られたお皿を床に投げつけたり、テーブル(卓袱台)ごとひっくり返すようなことが時々ありました。夜中に怒り狂っている父から逃れるために、母と二人で家から逃げ出したこともありました。母も言い返したりしていましたが、私にはそもそも何が原因なのか、よく分かりませんでした。
私自身にこのような経験があるので、PTSDの日本兵家族の方のお話をお聴きすると、とても他人事のようには思えませんでした。それで同じ街だということもあって、黒井さんの交流館をお訪ねするようになったのです。
昨年11月、長春師範大学の先生方が来日し、黒井さんを訪ねられました。仲介して下さった李素楨先生をはじめ「日中口述歴史文化研究会」のみなさんも同行され、三十人余りで交流会が開かれました。黒井さんは、その場で日本軍兵士だった父親の中国での所業を謝罪すると、前もって仰っていました。それで私も、第二次世界大戦中に日本軍兵士として戦死した二人の伯父のことを思い出し、謝罪と共に、日中両国の人々の末永い友好を念願していることをお話させていただいたのです。
その話を李先生が心に留められ、今回の中国訪問のお誘いを受けました。私も中国の皆さんに直接お話ししたいと思いやってきました。このような機会を設けていただいて有り難うございます。
2)戦死した二人の伯父
私の父は戦死した二人の兄のことをずっと気にかけていました。一人は上海で戦死し、もう一人はフィリピンのレイテ島でアメリカ軍と闘って戦死しています。10年前に父が亡くなった後、私にとっては伯父にあたる彼らをどう「慰霊」すればよいのか、私はずっと考えてきました。
戦後の日本では、アメリカ軍による空襲や原爆投下など、戦争で被害を受けた面が強調され、アジア・太平洋地域を侵略した加害の面については、ほとんど語られてきませんでした。日本の戦死者達は、各都道府県にある護国神社や東京の靖国神社などに神として祀られ、「お国のために命をささげた」と讃えられてきました。戦後の日本では、侵略した事実、それによって多大な被害を与えたことには目を向けず、国家のために命を差し出したことのみを切り取って、戦死者達を「名誉の戦死を遂げた」と「顕彰」する面がとても強かったのです。どうしてでしょうか。
「侵略」は間違いだと誰もが言うでしょう。しかし、日本の軍事行動が「侵略」だったと認めれば、そのために行った戦争は間違いだったことになり、戦死は「不名誉」なことになります。遺された家族は、兵隊にとられた自分の父、兄、弟、孫、あるいは伯父や甥達を、「不名誉な死」に追いやった政治や軍事の指導者達の責任を厳しく問わざるをえません。私は、悲嘆にくれた日本の遺族達の眼差しが、侵略戦争を命じた指導者達の責任追求に向かわないように仕向けたしかけこそ、靖国神社などによる戦死者の「顕彰」ではなかったかと考えます。戦前の指導者達が戦後も生き延びるために、日本が国外で起こした戦争を「侵略」とは認めず、戦死者達を一方的に「顕彰」をする風潮を作りだしてきたと、私は考えているのです。戦死者達は、「侵略」の手先として使われ、死後も「侵略」を主導した人達の立場を守る楯として利用されてきたのではないでしょうか。
「顕彰」はまた、銃後で戦争遂行を支えた人々の責任を見えなくしました。出征する兵士の身内や周囲の住民達は、「お国のために闘って来いよ」「手柄をたてろよ」と声をかけて戦場に送り出していたのです。兵士達は、国からの命令だけでなく、身近な人達の声援に背中を押されて戦場に向かいました。戦後、送り出した人達が、その責任をそれぞれ自分自身に問い始めれば、自分達がお互いに監視し合いながら、侵略戦争に協力したことを深く反省できたのではないでしょうか。
曲がりなりにも、日本政府が、文書によって初めて「侵略」であったことを認め、「反省」と「お詫びの気持」を表明したのは1995年8月15日です。敗戦から丁度50年目のこの日に発表された「村山首相談話」においてです。
しかし、その後もなお「侵略」であったことを認めず、戦死者の「顕彰」に拘る政治勢力が、日本では大きな力を持ってきました。「顕彰」は、戦争の肯定につながりかねないものがあります。今日の若者達に、かつての戦死者達の後に続いてお国のために戦場に出ることを促す恐れがあります。これは戦死者達の望むことではありません。それこそ彼らの死を「無駄死」にしてしまいます。
では日本人が「侵略」であったことを認めた場合、そのために倒れた日本側の戦死者達をどう「慰霊」すればよいのでしょうか。私は戦死した伯父達を通してこの問題を考えてきたのです。その答えを黒井さんが示してくれました。私も彼に習い侵略の「謝罪」をさせていただきました。伯父に代わって日本軍の暴虐に倒れた中国の人々に「謝罪」することが、伯父の「慰霊」になると確信しました。二度と戦争をしないことにつながるからです。
伯父自身のことをお話しします。
1人の伯父は、1937年10月6日、上海付近の戦闘で亡くなりました。彼は当時22歳で、陸軍で最下級の二等兵でした。この年の7月7日、大日本帝国は、盧溝橋事件をおこして中国との全面戦争に踏みだしました。それで伯父は、郷里の石川県金沢市の部隊に召集され、上海に派遣されました。この部隊は、伯父が戦死した後、南京に向かい、同年12月の南京大虐殺事件に加わった可能性があります。伯父自身は上海上陸後一週間ほどで戦死しました。だから彼は中国の一般住民に直接危害を加えたことはなかったかもしれません。しかし、紛れもなく大日本帝国の一兵士として、彼は中国侵略に動員され戦死したのです。
もし伯父が無事帰還していれば、あの戦争をどう振り返ったかは分かりません。しかし彼は、自分の人生を歩き出したばかりの22歳で召集され、中国の戦地に送られ、命を失いました。このことを考えると、伯父は「俺の命を返してくれ」「二度と戦争するな」と思っているに違いありません。日本が中国との戦争に踏み出さなければ、彼は兵隊にとられることもなく、やがて結婚し子どもをもうけ、家族を営むなど、自分の人生を生きることができたでしょう。だから私はそう思うのです。また日本が中国との戦争をやめていれば、アメリカとの戦争に発展することもありませんでした。アメリカとの戦争がなければ、もう一人の伯父も、23歳で1945年6月フィリピンで戦死することもなかったのです。この伯父もまた「俺の命を返してくれ」「二度と戦争するな」と叫んでいるに違いありません。
同様に、伯父達日本軍によって命を奪われた数限りない人々にも、生きたかった人生があったはずです。悲嘆にくれた家族がいたはずです。このことを視野に入れないで、戦死した自分の身内の日本軍兵士のみを「顕彰」することが、彼らの「慰霊」になるとは私にはどうしても思えません。私は、日本政府が侵略した事実の確認、謝罪と補償、犠牲者への追悼をおこなってこそ、侵略の先兵に駆り出されて戦死した、あるいはまた戦争後遺症に苦しんだ元日本軍兵士達も「慰霊」されると考えます。被害者を無視して加害者の霊だけが慰められることなどありえません。
1972年9月、中華人民共和国と日本とが、第二次世界大戦後断絶していた国交をようやく回復しました。当時の周恩来首相は「中日両国人民はともに日本軍国主義の被害者である」と述べました。ありがたい言葉です。しかし「日本人民」が、この言葉に甘えて、あの大戦争の遂行に協力したことを棚上げしてはならないのです。当時、「日本人民」の「戦争反対」の声が、政府や軍部によって押さえ込まれていたとはいえ、多くの「日本人民」が「軍国主義」に「熱狂」し、侵略を支え、その利益を受け取っていたのです。
戦後の日本は、戦争責任を軍隊におわせ、一般市民はあたかも戦争被害者であったかのよう振る舞ってきました。私も中国での日本軍の残虐行為を知るまでは、そのように思い込んでいたのです。これでは戦争の恐ろしさの理解は一面にとどまります。戦争を直接体験した人が少なくなり、戦後生まれの人が大多数となるにつれ、反省が風化してしまいかねません。しかし、戦後80年近くになるからと言って、私たちは過去の日本軍兵士達の残虐行為と無関係に今を生きている訳ではありません。
今年は、朝鮮半島をめぐって当時の清国と日本とが戦った「日清戦争」から130年目になります。日本は、近代化に踏み出した当初から、東アジアに侵略の手を伸ばしました。自国の近代化のために隣国を踏み台にした大日本帝国の時代は、決して誇るべきことではありません。私は、日本の辿った近代化の道が、多大な戦争の惨禍をもたらしたことを学んできました。しかし残念ながら、日本政府や多くの日本人が、加害の歴史を正面から見ようとしていません。私は、日本人の一人として、そのことも中国など近隣諸国の皆さんに申し訳なく思います。
3)教員として取り組んできたこと
①授業:戦争の反省と日本国憲法第9条
私は、東京都立高等学校の社会科の教員として主に「現代社会」の授業を担当していました。この授業で私は、日本国憲法第9条「戦争の放棄」を詳しく取り上げました。9条が戦後日本の出発点として
最も大切だと考えたからです。私はこの条文を黒板に書き、全体として次のように説明してきました。(下線とA~Fは岡山が付けました)。
日本国民は、(A)正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、(B)国権の発動たる戦争と、(C)武力による威嚇又は(D)武力の行使は、(B')国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、(E)陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の(F)交戦権は、これを認めない。
日本国憲法は、日本の敗戦後、連合国による占領の下で、アメリカ軍の示した草案を基に、大急ぎでまとめられたものです(1947年5月3日より施行)。その草案の民主的な条項は、「自由民権運動」の憲法案研究も参考にしてまとめられました。日本がアメリカやヨーロッパの国々と18世紀後半に国交を開いてから、天皇統治を位置づけた大日本帝国憲法が1889年に制定されるまでの間、民主的な憲法案が「自由民権運動」など民間で盛んに論じられていたのです。
但し、日本国憲法第9条は、政治権力を一切持たない象徴として天皇を位置付けた第1条とセットで設けられたものです。大日本帝国の国家元首であった昭和天皇は、最も戦争責任を追及されるべき立場にありました。そこでアメリカは、象徴天皇制と日本の非武装化をセットにすることで、連合国内の天皇の戦争責任追及と天皇制廃止の声を抑えたのです。いち早くアメリカ軍に協力することを申し出た昭和天皇を日本占領政策に利用することが、旧ソビエト連邦など共産主義勢力に対抗するために必要と考えられました。同時に憲法には「国民主権」や「基本的人権の尊重」など民主主義的要素も盛り込まれました。人々は平和で民主的な国になることに歓声をあげたのです。
さらに私は9条に述べられていることを一つ一つ解説しました。下線Aは国会の衆議院の審議で挿入された文言です。この時の衆議院議員は、初めて女性の参政権が認められ、20歳以上の男女の投票で、アメリカ軍の直接統治下にあった沖縄などを除く全国から選ばれた議員達です。彼らが9条に込めた願いがこの文言ににじみ出ています。
下線BB'は、第一次世界大戦後の1928年に結ばれたパリ不戦条約第1条に基づく文言です。ここには「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」と規定されていました。また「国権の発動たる戦争」とは、相手国に「宣戦布告」をしてから攻撃を始めることを指しています。下線CとDは、1945年10月に発効した国連憲章第2条の4に基づいています。具体的に「武力の行使」とは「宣戦布告」をしないで攻撃することであり、「武力による威嚇」とは軍事力を見せつけて要求を押し通すことです。
「国権の発動たる戦争」「武力の行使」「武力による威嚇」は、日本が近代化を始めた19世紀の終わりから1945年の敗戦に至るまで、朝鮮半島や中国など東アジアを侵略したばかりでなく、これが拡大してアジア全域と太平洋地域を戦禍に巻き込んだことを網羅する文言です。つまり9条の最初の段落は、日本が仕掛けた侵略の具体的な形をあげて、二度と「戦争しない」と明記しているのです。
二番目の段落は、「戦争しない」ことに歯止めをかけ、「戦争できない」国にするものです。下線Eの「陸海空軍その他の戦力」がなければ、どんなことがあっても戦争はできません。最後の下線F「交戦権」はなかなか難しい概念です。私は生徒達に、「交戦権」とは軍隊として行動している場面での破壊や殺傷が罪に問われないことだと、説明してきました。交戦権がなければ、破壊や殺傷は通常の犯罪と同じに扱われます。兵士が破壊や殺傷をすれば、彼らは逮捕され、裁判にかけられ、処罰されます。これでは戦争ができません。
このように憲法9条は二重三重に「戦争放棄」を規定しています。しかし、第二次世界大戦後の国際情勢に大きな変化がありました。アジアでは、1949年に中華人民共和国が建国され、1950年には朝鮮戦争が勃発します。アメリカと旧ソビエト連邦との対立・にらみ合い、すなわち「冷戦」が深刻化します。1951年、日本は、連合国と講和条約を結ぶと同時に、アメリカと安全保障条約を結びました。この日米安保条約を根拠に、今日に至るまでアメリカ軍は日本に居座っています。日本はまたアメリカに要請されて再軍備を初め、1954年には陸海空の「自衛隊」を発足させました。
但し、9条との整合性を図るために、「専守防衛」、つまり日本からは絶対に攻撃をしかけず、防衛に徹することが長く確認されてきました。「国際紛争を解決する」ための「軍隊」ではなく、自国の防衛に徹した「自衛隊」という位置付けです。これは、人間個人として法的に認められた権利である「正当防衛」を、国家にあてはめた考え方です。「正当防衛」は、自分を守るためにやむをえず反撃した場合に成立します。他人に危害を加えたとしても、これが認められれば犯罪にはなりません。その意味では、日本から先に攻撃することは決してできないのです。
私の憲法9条の授業は以上のような内容です。皆さんも退屈されたかもしれませんが、黒板を使いながらこのような話をしても、生徒達はなかなか聴いてくれませんでした。時間をかけて勉強してきたにもかかわらず、授業中に生徒達があちこちでおしゃべりしているのです。私は腹が立って彼らを怒っていました。でも授業がつまらないのは生徒達の責任ではありません。
そこで私は、「戦争の反省」が日本国憲法の出発点であることを具体的に説明する必要を感じて、「戦争の惨禍」をイメージできるように授業を組み立てました。教科書を離れ、新聞記事などをもとに自分で作ったプリントを生徒達に配ったり、NHKなどの戦争関係のTV番組を録画して見せたりして、反省が迫られた背景を説明したのです。
日本各地へのアメリカ軍による空襲、広島・長崎への原爆投下や被曝者への差別、沖縄戦など、日本が受けた戦争被害と共に、朝鮮半島や中国などへの侵略、戦争加害の面も取り上げました。本多勝一『中国の旅』(朝日新聞社、1972年)を読み上げたりして、「平頂山事件」「万人坑」「731部隊」「南京大虐殺」などを扱いました。「強制連行」や「従軍慰安婦」も取り上げました。その上で、9条の条文を説明し、二度と戦争をしないことを世界の人々に誓ったのだと、日本国憲法の話をしたのです。授業中の生徒達のお喋りはほとんどなくなりました。
日本の学校教育では、日本がアメリカと闘った太平洋戦争で大きな被害を受け、人々が悲しい辛い思いをしたことが強調されてきました。私が、日本が加害者であったことを初めて知ったのは大学生の時です。先輩にすすめられて、平岡正明『日本人は中国で何をしたか』(潮出版社、1972年)を読みました。この本は、日本軍による「中国人大量虐殺」を記録した本です。残酷な場面の写真もあります。アメリカとの戦争ばかりに目がいき、日本は戦争被害者だとずっと思い込んできた私には衝撃でした。この衝撃が、私が教員になった時、目を背けてはならない問題として、戦争加害の問題を生徒達に突き付けさせたのだと思います。
また私は、日本が敗戦後、中国に置き去りにしてきた子どもたち、日本では「中国残留孤児」と呼ばれていますが、そのお孫さんを担任として受け持ったことがあります。侵略者である日本人の子どもを中国の皆さんが育ててくれ、日本に帰国したそのお孫さんが私のクラス(組)に入ってきたのです。何十年経とうと、日本が引き起した戦争の惨禍と無関係に私たちが生きていないことを実感しました。
②「日の丸・君が代」強制との闘い
私は都立高校在職中、東京都教育委員会から懲戒処分を受けました。処分の内容は、賃金が少し減らされたり、研修を受けさせられたりするものです。処分は、このような損害以上に、私の人生にとってとても不名誉なことでした。処分の理由は、担当するクラスの生徒達が卒業式を迎えた際、その冒頭の「国旗掲揚国歌斉唱」場面で起立して歌わなかったことです。
東京都の公立学校の教職員は、20年前から、毎年春の卒業式や入学式などの式典で、会場の講堂正面に「国旗(日の丸)」を掲げ、これに向かって「国歌(君が代)」を歌うことが命じられています。式典に先だって、校長から教職員全員に、一人ひとりの名前を明記した職務命令の文書が手渡されるのです。この命令に従えない東京都教職員への処分の件数は、今日まで480件余りにのぼります。
私たちには、それぞれ自分の体験や考えに根ざした職務命令に従えない理由があります。その中でも共通する大きな理由の一つが、「日の丸」「君が代」には「日本軍国主義」を象徴した歴史があることです。やむをえず命令に従っている者も含めて、このように受け止めている教職員が多いのです。生徒や保護者のみなさんにとって人生の門出である式典の場面で、私たちがどうして「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌うことができるでしょうか。
もちろん国旗掲揚国歌斉唱自体は世界各国でも見られることです。諸外国では建物の外のポールに国旗が掲揚され、これに向かって国歌を歌う形が一般的です。しかし、東京都教育委員会が命じる「形式」は、ステージ正面に「国旗(日の丸)」を張り出し、これに向かって式典の参列者全員が整列して「国歌(君が代)」を歌えというものです。なぜ教育委員会はこの「形」でなければならないと命令するのでしょうか。私は退職後もずっと勉強を続けてきました。分かったことが二つあります。
一つは、諸外国ではまず見られないこの国旗掲揚国歌斉唱の「形」が日本で広まったのは、1940年頃からだということです。中国との戦争が拡大し、さらにアメリカなどとの戦争に向かう時代です。もう一つは、この式典の「形」は、大日本帝国の時代の天皇崇拝儀礼に基づいていることです。
日本は、1853年のアメリカ海軍の提督ペリーの来航を契機に、アメリカをはじめイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどと国交を結び通商を始めます。1868年、それまで日本を治めていた徳川幕府を倒して明治新政府が樹立されます。明治政府は欧米にならって近代化を進めます。学校教育が整備され、その中に天皇崇拝儀礼がもち込まれました。アメリカやヨーロッパなどの近代国家の国民意識の核にはキリスト教の精神があります。明治政府は、この礼拝儀式を取り入れ、「神聖天皇崇敬」を行き渡らせることで国民意識を固め、欧米諸国に対抗しようとしたのです。
これは「国家神道」と呼ばれています。私は、宗教学者の島薗進先生の『国家神道と日本人』(岩波書店、2010年)などに学び、「国家神道」を「神聖天皇崇敬」を通して国家を神聖視し、お国のためなら命を差し出すことも厭わない「集団観念」とその「実践のシステム」と考えています。これは、「万世一系」の天皇による統治の正当性と共に、天皇と国民との一体性を強調し、他国への優越感を与えるものでした。「万世一系」とは、神話上の初代天皇から現在の天皇まで、延々と血脈が続いてきたとするものです。「神聖天皇崇敬」は、宮中で行われた天皇家の先祖を祀る皇室祭祀、全国各地の神社神道、軍隊・靖国神社、そして学校教育を通して人々に浸透していきました。
学校で天皇崇拝儀礼が行われたのは国家祝祭日です。これは、四方拝(1/1天皇による四方拝礼)、紀元節(2/11初代神武天皇の即位日)、天長節(4/29昭和天皇誕生日)、明治節(11/3明治天皇誕生日)、この四つの祝日にまとめられていきました。当日には厳粛な「学校儀式」が実施され、生徒と教職員ばかりでなく、地域の有力者、保護者も参列しました。講堂正面に掲げられた天皇・皇后の御写真「御真影」に向かって天皇賛歌である「君が代」を斉唱し、拝礼し、校長が「教育勅語(天皇のために命を差し出すことを誓う内容)」を恭しく読み上げていたのです。お饅頭なども配られました。
1930年代後半、中国との戦争が拡大し、日本国内では「国民精神総動員運動」が巻きおこるなど、「軍国主義」が吹き荒れました。その象徴として、「日の丸」が学校ばかりでなく様々な式典で、「御真影」の代りのように式典会場正面に掲げられるようになります。これに向かって「君が代」を斉唱する形が広がったのです。神聖視された「御真影」では畏れ多いので、その身代わりに「日の丸」が張り出されたと考えられます。この頃「日の丸」は、国旗というだけでなく、天皇家の祖先とされる天照大神の化身と見なされていました(天皇の化身と見なされたのが、旭日旗「軍旗」です)。
1945年の日本の敗戦後、「御真影」と「教育勅語」は学校から回収されました。新しく日本国憲法や教育基本法、学校教育法などが施行され、「学校儀式」そのものも次第に行われなくなりました。しかし、「日の丸」と「君が代」は国旗国歌としてそのまま存続します。
1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、アメリカ軍を中心にした連合国の日本占領が一応は終わります。しかし1950年に勃発した朝鮮戦争など、アメリカと旧ソビエト連邦との対立が深刻化していました。民主化が進んでいた戦後日本の学校教育でも「愛国心」教育が求められるようになります。それを受けて「日の丸・君が代」は、国旗国歌と見なされてきたことを根拠として、卒業式などの式典で次第に強制されるようになってきました。とくに1980年代半ば以降、沖縄をはじめ全国各地の学校で、これに反対する教職員の処分が相次ぐようになりました。
いま、日本中の国公立の小学校、中学校、高校、特別支援学校、大学等の卒業式や入学式などの式典冒頭では、ステージ正面の「日の丸」に向かって、参列者全員が正対して「君が代」を歌う国旗掲揚国歌斉唱の「形」が、当たり前の風景になってきました。しかし、ここに至るまでには、全国各地の学校で教職員や保護者、生徒達の強制反対の闘いがありました。東京や大阪などでは、今も教職員の処分取り消しを求める裁判闘争が続いているのです。東京の裁判闘争の中心を担っている元教員のお父さんは、戦前は哈爾浜で南満州鉄道に務めていた方です。彼は、日本に帰国後、公立学校の教員となり、口癖のように「戦争してはいけない」と繰り返していたそうです。
4)おわりに:「国体」と民主主義とがせめぎ合う戦後日本の中で
戦死者の「慰霊」が「顕彰」にすり替えられてきたこと。戦争の「被害」の面ばかりが強調され、「加害」の面が隠されてきたこと。天皇崇拝儀礼だった戦前の学校儀式の形が、「御真影」を「日の丸」に代えて、卒業式などの式典で強制されてきたこと。この三つに共通する背景があります。
日本が近代化の中で仕掛けた侵略戦争は、神聖な天皇の軍隊による「聖戦」とされました。日本軍は「皇軍」とも呼ばれました。戦後もその社会意識が生き延びてきたからこそ、戦死者が「顕彰」される一方で、日本軍による数々の虐殺事件や「強制連行」「従軍慰安婦」などの「戦争犯罪」、戦争神経症に苦しむ兵士達とその家族の存在が隠されてきたのです。
先ほどお話しした島薗先生は、戦後も「国家神道」は解体されていないとお話しされています。連合軍は日本占領中、「神道指令」を出して「国家神道」を解体しようとしました。それが日本を戦争に突き進ませた土台と見たのです。しかし、この指令では解体が不十分だったということです。私は、そのお話をお聴きするまで、戦後の日本は、日本国憲法を制定して、それなりに民主的な国になったと思い込んでいました。その思い込みが揺らぎました。
「国家神道」はまた「国体」とも言い換えることができます。「国体」とは、日本が二千数百年前の神武天皇以来、「万世一系」の天皇が代々治めてきた神聖な国であるという固い信念です。戦後の日本では、「民主主義」を装いながら、実は「国体」が生き延びてきたのではないか。私はこのように考えるようになりました。戦後の歴史が、生き延びた「国体」と「民主主義」とのせめぎ合いのように見えてきたのです。学校現場におけるこのせめぎ合いの最前線が、「日の丸・君が代」の強制です。この強制は、日本国憲法の理念である「個人の尊重」「平和主義」を押し流し、大日本帝国の時代のように、人々を国家の道具として戦争に引き摺り込む危険があります。
黒井さんの掲げる白旗には、「戦争はしません 白旗を掲げましょう 話し合い和解しましょう」と書かれています。これは9条の思想だと私は受け止めています。この白旗は国家間等の対立を戦争によってではなく、話し合いによって解決しようと呼びかけているからです。その9条の思想を世界に訴えるのは、国内外に多大な戦争の惨禍をもたらした日本人の責務です。
しかし、戦後の日本人は、近代日本の「加害」の歴史、それを支えた社会の構造に目が向かないように誘導されてきました。戦後も生き延びてきた大日本帝国の時代を肯定する勢力が次第に社会や政治の表に現れ、いま9条をはじめ憲法の「改正」をせまる勢いです。そうさせてはならないのです。私は教員として「日の丸・君が代」の強制に反対してきました。同じように日本が引き起した戦争を反省し、平和を求めて様々な形で運動している人達が、黒井さんをはじめ日本のあちこちにいます。そのことを中国の皆さんにお伝えしたいとも思い、ここに来ました。
私達は明日、公主嶺を訪ねます。公主嶺は李素楨先生の出身地でもありますが、戦時中、後に憲兵となって暴虐の限りを尽くした土屋芳雄氏が、関東軍独立守備隊の兵士として最初に任務についた場所でもあります。その土屋氏が戦後、中国を訪問して謝罪する姿をTVで見て、黒井さんは同じ山形県出身の兵士として公主嶺に派遣されたお父様の所業に思い至ったと伺っています。公主嶺を初めとして転戦した中国各地での所業がトラウマとなって、心身ともに頑健だった父親を、戦後全くの無気力人間に代えてしまったと悟ったのです。
土屋氏が「人間の良心」を取り戻せたのは、撫順戦犯管理所で手厚いもてなしを受け、「認罪」の機会を与えられたからです。当時の周恩来首相の指示があったとはいえ、中国の人々の例えようもない寛大さが日本鬼子を改悛させ、回りまわって今黒井さんを公主嶺に導いているようにも見えます。その旅に同行できて有り難い限りです。"我是日本人"。"我来中国謝罪"。
《追記》
私は今回の訪中で「愛国教育」の場面を目にしました。講演会の会場となった大学図書館のホールでは、開演に先立って一人の学生が前に進み、会場に向かって右手を折り曲げて頭上にかざし"銘??史""珍?和平""?国有我""振?中?"と一つひとつ唱えると、学生達も同じように敬礼して大きな声で唱和していました。意味は「歴史を忘れず、平和を大切にし、我が国を強化し、中国を振興させる」というものです。黒井さんがお話しした公主嶺の小学校校庭でも同じ場面がありました。掲揚塔に昇る国旗「五星紅旗」を仰ぎながら、国歌「義勇軍行進曲」を斉唱した後です。校庭にキチンと整列した子ども達は敬礼しながら歌い、先生の発声に続いて唱和していました。これらは今年元旦から施行された「愛国主義教育法」によって強化されたものでしょうか。
私は1991年の夏、平壌などを訪ねた帰路、北京飯店に一泊したことがあります。この時、バスで北京市内を回った限り、政治スローガンのような看板は、天安門広場の毛沢東の肖像画の左右に「中?人民共和国万?」「世界人民大??万?」を見ただけです。今回、長春の街路で商業看板に混じって政治的経済的な標示を幾つか目にしました。大学構内でも「?国、敬?、?信、友善、自由、平等、公正、法治、富?、民主、文明、和?」と12語を標示した小さな看板が、外灯に連続して掲げられていました。習近平国家主席が唱えている文言のようです。また新年度の始まりを前に、大学構内では新入生が一週間ほど「軍事教練」を受けるらしく、迷彩服姿の男女の若者達が広場で整列していました。
ただ私は、このような思想教育の場面に「宗教性」を感じませんでした。軍旗として考案された「旭日旗」を天皇の、国旗として扱われた「日の丸」を天照大神の化身と見なし、拝み奉ったような所作が全くなかったからです。「国体護持」のためなら「玉砕」も「一億総特攻」も辞さないというのは、天皇崇拝儀礼や相次ぐ戦争勝利等々による「国家神道」の浸透と見るべきではないでしょうか。国境線を引き、その内側の人々に「国民意識」を持たせなければ近代国家は成り立ちません。しかしその意識が「滅私奉公」にまで行き着くには、天皇を通した国家の神聖視が不可欠だったと考えます。
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