◎ 意 見 陳 述 書
2018年7月25日 大阪高裁
控訴人 松 村 宜 彦
控訴人 松 村 宜 彦
下記のとおり陳述します。
記
1.私は、とりわけ「府国旗国歌条例4条が憲法94条に反すること(争点5)」について陳述します。
ここに、私が枚方市内の府立高校に勤めていた時の、2001年と書かれた卒業アルバムがあります。そこに、当学年の入学式の写真があります。
それは、全員着席したままの新入生、着席した8人の担任、約4分の3の保護者が着席、起立した来賓の教育委員会関係者ら4名が写っている写真です。
これはまぎれもない、入学式での君が代斉唱時の写真です。この年、式会場に初めてテープによる君が代演奏が持ち込まれました。起立する者がわずかでも、何の混乱も起こりませんでした。
これまで、ほとんどの府立高校の入学式・卒業式では、君が代斉唱や起立が慣習などにはなっていないこと、日の丸の掲揚・君が代斉唱が式で教育上必要だと考え提案する教員などいなかったこと、日の丸・君が代は府教委によって強制を伴って持ち込まれたものであること、これらは大阪の府立学校に勤めた者ならばだれもが知っていることです。
しかし、2012年卒業式からはそれが一変しました。それは2011年6月に、大阪府国旗国歌条例が制定されたからです。
2012年の卒業式を前にした多くの府立学校の教職員会議では、校長がそれまでとは違って「君が代起立の職務命令」を出してきました。いえ、それまでの様に校長が職務命令を判断するのではなく、校長の頭越しに教育長が直接教員に対して学校行事での職務命令を行うというものでした。
学習指導要領には日の丸・君が代は学校行事の項で扱われているだけであり、学校行事のあり方は所属長である校長が判断するものとなっています。
私が戒告処分を受けたB高校の当時の中田校長は、前年の2011年の組合交渉の場で「教育の場で職務命令はなじまない、職務命令は100年に1度出すか出さないかのものだ。」と言っていました。
私たちはその年の入学式で君が代斉唱時、起立しませんでしたが、当然処分もされませんでした。そう言っていた校長は、なんと2012年卒業式からは毎年、職務命令を出しているではありませんか。何が、校長の行動を変えさせたのでしょうか。
2.1999年8月に国会で「国旗国歌法」が制定されました。これは、国旗が日の丸で、国歌が君が代であるという慣習を明文化したものと言われました。
国会における議論では、当然、日清戦争から第2次大戦までの52年間にわたる日本の戦争の歴史の中で日の丸・君が代がどう使われたかが問われ、天皇をアマテラスオオミカミ=太陽神としてシンボル化した日の丸や、「君が代は千代に八千代に」=天皇の支配する時代は千年も万年も続け、としていた歌詞が取り上げられ、これが現憲法の国民主権、思想信条の自由、信仰の自由と相いれないのではないかと指摘されました。
なによりも教育の場で、かっての様に国家の進める軍国教育の道具として、日の丸・君が代を使ってはならないとの危惧から、当時の小渕首相が、法案成立時の談話で「今回の法制化は、国民に新たな義務を課すものではありません」と述べ、国会において「現行の運用に変更が生ずることにはならない」、「子どもの良心の自由を制約しようというものではない」と答弁しました。
3.しかし、大阪では明らかに運用が変わったのです。「大阪の教育委員会をぶっ潰せ」と主張し、大衆の教育不信をあおって登場した橋下徹前府知事は、その支持団体である大阪維新の会をして作らせたのが、2011年6月の「府国旗国歌条例」です。
彼は「大阪府は倒産しかけの会社で、教員を含む全ての府職員は私の部下である。」と言い張り、行政から独立しているはずの教育にも乱暴に介入してきました。「府国旗国歌条例」では、それまでなかった「教職員による国歌の斉唱」義務を負わせ、府立学校での運用を変更してきたのです。
更には、この条例の目的として「子どもが伝統を尊重し、愛国心を養う」ことを定め、日の丸や君が代の歴史に疑問をもつ子どもの良心の自由を、特定の方向に制約しようとしています。この合同裁判の梅原事案に登場する教え子の思想信条の自由は、大きく制約されてしまったのです。
以上から、府国旗国歌条例4条は、憲法94条に反することは明らかです。
4.ナチスドイツが戦争に向かう時、最初に収容し虐殺したのがエホバの証人信徒1万人でした。信仰の自由から、ナチスドイツが強制する「ハイル・ヒットラー」の敬礼を拒否したからです。この様に、愛国的儀礼的所作を強制し、それに従わない者を処分で脅すことは戦争への一里塚になることを忘れてはいけません。
「日の丸」「君が代」を学校行事でどう扱うかは、学校ごとに主体的に判断されるべきものであり、配慮されるべきは生徒たちの思想・信条の自由です。
それゆえ、生徒自身が、日の丸・君が代の歴史的意味や戦後の扱われ方を学んで自分の判断を持てるようにすることこそ、主権者を育てる上で欠かすことのできないことなのです。
そして、その生徒の人権を守るためにも、「式の中での、処分をちらつかせた強制」に従わないことが教員の良心なのです。
『グループZAZA』(2018-07-30)
https://blog.goo.ne.jp/zaza0924/e/d089316211ea2c8a0ed48e63a9ba54f7
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