《月刊救援から イキイキ弁護士山下ちゃんの現在(いま)を読む》
◆ 再開された死刑執行から考える
法務省は、昨年一二月二一日、三人の死刑確定者の死刑を執行した。死刑執行は二〇一九年一二月以来二年ぶりであった。
この間に死刑執行がなかったのは、昨年夏のオリンピック・パラリンピック開催のためであった。
しかも、その前の二〇一七年七月二六日、地下鉄サリンなど一連のオウム真理教事件に関与して殺人罪などに問われて死刑が確定していた教団元幹部ら一三人の死刑執行がされている。だから、政府が人権に配慮したために死刑執行をしなかった「モラトリアム」ではなかった。
法務省は、国際世論にもかかわらず、一貫して死刑を存置し、死刑執行を続ける姿勢を明確にしている。
しかしながら、日本政府は、国連の総会決議や人権理事会の普遍的定期審査、そして複数の国連人権機関から、死刑の執行停止と死刑廃止に向けた取り組みを行うように繰り返し強く勧告されている。
特に、国連自由権規約委員会は、二〇〇八年、「世論の動向にかかわりなく、締約国は死刑の廃止を考慮すべき」として、世論を口実として死刑廃止に向けた措置を一切とろうとしない日本の態度を強く批判していることを忘れてはならない。
そして、OECD加盟国の中で、死刑を執行している国は日本とアメリカ合衆国だけであり、そのアメリカ合衆国のうち二三の州で死刑が廃止されており(二〇二一年三月には南部のバージニア州で死刑を廃止している)、二〇二一年七月には、バイデン政権が連邦レベルでの死刑執行の一時停止を発表している。
それと比べると、日本での死刑執行は国際的には極めて珍しいことになる。
さらに、これまで再審請求中の死刑確定者は死刑執行されていなかったが、二〇一七年に行われた二度の死刑執行では再審請求中だった死刑囚計三人(うち一人は少年死刑囚)が死刑を執行されている。
オウム真理教事件の死刑囚に対する死刑執行においては、死刑確定一三人中、再審請求中の一〇人が死刑執行されている。
その後も、再審請求中の死刑確定者の死刑執行が続いており、昨年一二月の死刑執行でも二人は再審請求中であった。
これにより、再審請求中であっても死刑は執行されることが常態化しているため、死刑確定者にとっては、いつ自分が死刑執行されるかもしれないという恐怖の中で生きることを余儀なくされている。
法務省や政府が死刑存置の根拠として掲げるのは世論調査により国民の多数が死刑存置を支持しているということである。
しかし、世論調査の質問が誘導的ではないかという疑問とともに、日本では死刑執行に関する情報がほとんど国民に提供されていないという問題がある。
そもそも、死刑問題は人権問題であって、民主主義による多数決で決めるべき問題ではない。政府や法務省はこの点を全く理解していない。
死刑問題は、「人を殺してはならないと国民に求めておきながら、国家が殺人してはならない」というシンプルな問題である。
よく、一人を殺したら罰せられるが、戦争で無数の人を殺しても何も責任を問われないと言われる。死刑制度についても、「国家が刑罰として死刑を執行するのは許される」と考える人たちがいる。
しかしながら、国家の権限は主権者たる国民が付与したものであるが、国民は同胞である他の国民を殺す権限を国家には付与していないと考えるべきである。死刑問題はすぐれて人権問題であり、政治によって決断すれば明日にでも廃止することは可能である。
フランスでは、一九八一年に大統領に就任したミッテラン大統領(当時)が死刑反対を公約に掲げて当選し、弁護士のロベール・バダンテールを法務大臣に登用し、「世論の理解を待っていたのでは遅すぎる」として死刑廃止を提案し、国民議会の四分の三の支持を得て死刑廃止を決定した。
世論調査機関によると、死刑制度廃止当時の世論調査では、死刑制度の存続を求める声は六二%であったと言われる。
日本でも、政治家が死刑廃止を公約に掲げて当選して最大多数の議席を獲得すれば同様に死刑廃止は可能である。私たちはそれを諦めることなく、そのような政治を選択し、死刑廃止を実現したい。
そのために、死刑の執行を一時的に停止すべきである。今年を死刑廃止に向けた取り組みの最初の年にしたい。(二〇一二年一二月二九日記)
『月刊救援 633号』(2022年1月10日)
◆ 再開された死刑執行から考える
法務省は、昨年一二月二一日、三人の死刑確定者の死刑を執行した。死刑執行は二〇一九年一二月以来二年ぶりであった。
この間に死刑執行がなかったのは、昨年夏のオリンピック・パラリンピック開催のためであった。
しかも、その前の二〇一七年七月二六日、地下鉄サリンなど一連のオウム真理教事件に関与して殺人罪などに問われて死刑が確定していた教団元幹部ら一三人の死刑執行がされている。だから、政府が人権に配慮したために死刑執行をしなかった「モラトリアム」ではなかった。
法務省は、国際世論にもかかわらず、一貫して死刑を存置し、死刑執行を続ける姿勢を明確にしている。
しかしながら、日本政府は、国連の総会決議や人権理事会の普遍的定期審査、そして複数の国連人権機関から、死刑の執行停止と死刑廃止に向けた取り組みを行うように繰り返し強く勧告されている。
特に、国連自由権規約委員会は、二〇〇八年、「世論の動向にかかわりなく、締約国は死刑の廃止を考慮すべき」として、世論を口実として死刑廃止に向けた措置を一切とろうとしない日本の態度を強く批判していることを忘れてはならない。
そして、OECD加盟国の中で、死刑を執行している国は日本とアメリカ合衆国だけであり、そのアメリカ合衆国のうち二三の州で死刑が廃止されており(二〇二一年三月には南部のバージニア州で死刑を廃止している)、二〇二一年七月には、バイデン政権が連邦レベルでの死刑執行の一時停止を発表している。
それと比べると、日本での死刑執行は国際的には極めて珍しいことになる。
さらに、これまで再審請求中の死刑確定者は死刑執行されていなかったが、二〇一七年に行われた二度の死刑執行では再審請求中だった死刑囚計三人(うち一人は少年死刑囚)が死刑を執行されている。
オウム真理教事件の死刑囚に対する死刑執行においては、死刑確定一三人中、再審請求中の一〇人が死刑執行されている。
その後も、再審請求中の死刑確定者の死刑執行が続いており、昨年一二月の死刑執行でも二人は再審請求中であった。
これにより、再審請求中であっても死刑は執行されることが常態化しているため、死刑確定者にとっては、いつ自分が死刑執行されるかもしれないという恐怖の中で生きることを余儀なくされている。
法務省や政府が死刑存置の根拠として掲げるのは世論調査により国民の多数が死刑存置を支持しているということである。
しかし、世論調査の質問が誘導的ではないかという疑問とともに、日本では死刑執行に関する情報がほとんど国民に提供されていないという問題がある。
そもそも、死刑問題は人権問題であって、民主主義による多数決で決めるべき問題ではない。政府や法務省はこの点を全く理解していない。
死刑問題は、「人を殺してはならないと国民に求めておきながら、国家が殺人してはならない」というシンプルな問題である。
よく、一人を殺したら罰せられるが、戦争で無数の人を殺しても何も責任を問われないと言われる。死刑制度についても、「国家が刑罰として死刑を執行するのは許される」と考える人たちがいる。
しかしながら、国家の権限は主権者たる国民が付与したものであるが、国民は同胞である他の国民を殺す権限を国家には付与していないと考えるべきである。死刑問題はすぐれて人権問題であり、政治によって決断すれば明日にでも廃止することは可能である。
フランスでは、一九八一年に大統領に就任したミッテラン大統領(当時)が死刑反対を公約に掲げて当選し、弁護士のロベール・バダンテールを法務大臣に登用し、「世論の理解を待っていたのでは遅すぎる」として死刑廃止を提案し、国民議会の四分の三の支持を得て死刑廃止を決定した。
世論調査機関によると、死刑制度廃止当時の世論調査では、死刑制度の存続を求める声は六二%であったと言われる。
日本でも、政治家が死刑廃止を公約に掲げて当選して最大多数の議席を獲得すれば同様に死刑廃止は可能である。私たちはそれを諦めることなく、そのような政治を選択し、死刑廃止を実現したい。
そのために、死刑の執行を一時的に停止すべきである。今年を死刑廃止に向けた取り組みの最初の年にしたい。(二〇一二年一二月二九日記)
弁護士 山下幸夫
『月刊救援 633号』(2022年1月10日)
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