今、学校で何が起きているのか 最終回 2006年12月20日
3000人の校長を学校以外からヘッドハントせよ!
藤原和博=杉並区立和田中学校校長
最終回だから、結論から言おう。
日本の中学教育を変えるには、次の3つの施策を採るしかないと思われる。
(1)中学校1万校のうち3割の3000校に10年間かけて学校以外から校長を迎える。1年間に300人(東京都でせいぜい30人)、旧市区町村に1人ずつの勘定だから、それほど無理はない。「民間校長」というとビジネスマンをイメージするが、NPOや塾の経営者でもいい。文部科学省の官僚や大学の教授でもいい。地域社会が納得できる人材に兼務で経営に当たってもらうのである。
(2)教員から上がる場合は教頭からでなく校長試験一発とし、3年間教頭職を務めたあと2年間学校以外の世界でネットワークを作り、それをお土産に6年目に校長職に就くこととする。ただし、いったん校長になった後、不適格の場合は降格もあり。
(3)全国の中学校区に、中学校の中に拠点を持つ学校支援組織を作り、国と自治体から300万円程度の事務局人件費と、同じく300万円程度、ボランティアの諸活動への謝礼金の予算をつけ、任意団体、NPO、自営業者などにこれを運営させる。1校合計600万円という額は教員1人の人件費、一般管理費のおよそ半分。これで事務局5?6人が60?70人のボランティアを機動的に動かす体制がつくれるはずだ。
学校支援組織をスタートアップするためには、和田中のよのなか科のようなライフマネジメント教科を大人と子どもがともに学ぶ公開授業として毎週地域に開放することが有効だ。また、土曜日学校(和田中の場合には「土曜寺子屋」)の開設を機に、教師になりたい大学生のボランティアを大量に導入し教員のアシストをさせることも。和田中「地域本部」のケースのように、図書室の運営や学校の豊富な緑の維持管理を委託してしまうことも考えられてよい。
◎教員上がりの校長の大半はマネジメントが未熟
なぜ、学校以外の世界から校長を大量導入しなければならないかを見てみよう。
マネジメントというのは、調達しうる資源が限られているとき、その資源を上手に組み合わせて目標の達成につなげる、総合的で芸術的な行為を指す。
学校のマネジメントという場合、その目標は「子ども達により豊かな教育を」ということに尽きるだろう。もう少し砕いて言えば、「目の前の生徒ができないことをできるように、分からないことを分かるように、より豊かな世界観と柔らかな人生観を抱けるようにうながすこと」であろう。
そのために調達しうる資源とは、大雑把に言えば企業の経営と同様、「人(ヒト)」「金(カネ)」「物(モノ)」それに「情報(コミュニケーション)」と「時間」だ。
ただし、前述したように「人(ヒト)」は都道府県教委が、「金(カネ)」と「物(モノ)」は市区町村教委が握っているから、そう簡単には動かせない。従って「情報(コミュニケーション)」と「時間」という資源を動かすセンスが優先する。教員上がりの大半の校長にはこの感覚が分からないから、事務長のまま留まってしまう。「教頭の大きいの」として、つまり「大事務長」として、である。
また、教員集団は私企業のサラリーマンのように「昇進」や「賞与」を動機づけとして動いてはくれない。多くの教員は「あんなに事務仕事をやらされるなら教頭や校長にはなりたくない」と思っている。だから、「この仕事をやり遂げたらボーナスを20万円増額するから」というインセンティブで釣ることもできない。事実、授業がうまく部活指導に熱心な教員ほど、最後まで生徒とともにありたいと願っているのだ。だから、「昇進」や「賞与」で教員を動機づけようと考える中途半端な民間人が校長に就任すると失敗するケースが多い。
大手企業の部長などをやっていたケースでも、そこでいうマネジメントとは、人事権と予算権を握り「昇進」と「賞与」を決定する権力で部下を従えるマネジメントだったはずだ。数値目標をつくって命じてみても教員は容易には従わない。主幹を核としたピラミッド組織を編成してプロジェクトを動かしてみても、チームは空回りしてしまう。メーカーがよくやるQCサークルのようなことをやってパレート図をいじってみても、継続的な職務の改善運動には結びつかない。
校長という仕事が本来要求するマネジメント技術とは、むしろ「情報(コミュニケーション)」と「時間」という資源を使うものだ。だから、その「上手な組み合わせ」ができるかいなかで圧倒的な差が出てしまう。
民間企業であれば、出版、情報、ソフト産業、サービス業など、まっさらなカンバスに価値あるものを造形した経験を持つ起業家マインドのあるマネジャーにしか務まらないだろう。
◎家庭でできること?テレビとケータイ中毒に気をつける
(略)
◎地域社会を中学校の中に再生する
つぎに「地域社会」の復興について、具体的な方法を提案する。和田中で実現している「地域本部」の全国展開だ。
和田中地域本部にはボランティアが60?70名おり、常時数名から十数名が学校に訪れて諸活動のサポートをしている。スタッフの詰め所として事務局の部屋が学内にあるのがミソだ。事務局長は歴代の元PTA会長である。
放課後の図書室を子ども達の居場所として解放。図書ボランティアとしてPTAのOGを置くことで、子どもたちと学校モードでないコミュニケーションが交わされている。これによって図書室が「第2の保健室」としての機能を持つことになった。
土曜日には、学校の空き教室を使って土曜寺子屋(通称ドテラ)を開催。生徒達の自主的な学習のサポートを学生ボランティアにさせながら、地域社会の人々との交流を実現している。
中庭の芝刈りや野菜畑での作物づくりを地域のお年寄りと生徒が協力して行う「グリーンキーパーズ」を組織。水曜日の朝には、毎週芝生で近隣のおじいちゃん、おばあちゃんと生徒たちが芝刈りで交流する習慣ができた。
ようするに、稼働していない時間と空間を使って、子ども達の豊かな教育のためには必要だが教員にとっては余計な仕事になってしまうものを、地域本部の仕事としてボランティアに任せることにしたわけだ。
ここで、生徒と、土曜寺子屋のお兄さん、お姉さん、図書室のオジさん、オバさん、芝生のおじいちゃん、おばあちゃんとの交流が生まれる。この関係のことを、親子や先生・生徒の「タテの関係」や同年齢の友だち同士の「タメ(ヨコ)の関係」に対比して、「ナナメの関係」と呼んでいる。
「ナナメの関係」は、親子の上下関係、先生・生徒の上下関係、そして生徒同士のヨコの関係に行き詰まっている子どもに救いを与える。
住宅だって柱と梁(はり)だけでは地震に弱い。ナナメに入る筋交(すじか)いがあって初めて、揺れに強い建物になる。人間関係も同じだと思う。だから、「ナナメの関係」をいかに豊かに育むかが、学校支援組織としての地域本部の使命なのだ。全国での「地域本部」の立ち上げが期待される。
◎こころの教育やいのちの教育は教員の仕事か?
最近、イジメから自殺に至る痛ましい事件の報道が相次いでいる。個別のケースについては情報が限られているのでコメントは控えるが、一方的にマスコミに攻められる傾向にある学校や校長が本当に「悪者」なのかについては疑問が残る。
実際には、ここ数年間3万数千人が自殺で死んでいる国の社会的なひずみが、いちばん弱い部分に吹き出しているという印象が強い。
だから、こういう事件が起こるといつも強調される学校での「心の教育」や「いのちの教育」の追加実施にも、どうも素直には頷けない。文科省や都道府県の教育長からの緊急アピールの類いも、「まだ将来がある」とか「いのちを大切に」とか「死ぬな!」とか分かり切ったことを言ったところで、はたして子どもたちの心にどれほど染み込むのだろうか?
もちろん、こころを養うことの大事さや、いのちの重みを感じさせることの重要さには疑問の余地はない。しかし、それはいったい、本当に学校本来の仕事なのかということだ。
私には、家庭と地域社会が担ってきた役割のほうがはるかに大きかったと思われる。だから、家庭の社会化機能がいくら低下したとはいえ、「こころ」や「いのち」については家庭教育にも譲れない一線があるだろう。また、なんとしてでも地域社会を再生し、身近な他人の「こころ」や「いのち」にどう向き合わせるのか、それは成熟社会に入った日本の最も大きな課題だろうとも思う。
そうでなければ、「こころ」や「いのち」の分野は、本来、宗教が担当する領域なのである。成熟社会を先輩として生きる他の先進国では、宗教という道具を使って、家庭や地域社会の機能の補完が行われている。日本は、この役割も結局、学校に期待することになるのだろうか。
◎信じられる学校づくりが急務
「信じられる学校づくり」が急務である。
まず、上部組織が現場を「信じられない」として調査を乱発すると、膨大に書類が増えてゆく。それが、本来の仕事──生徒に向き合う仕事──ができない教員を増やしていく。
保護者が学校を信じない前提では、学校はすべてのチャレンジを封じられてしまう。前例から少しも踏み外さないように、失敗しないように、余計な説明をしなくていいようにという力学が現場に働くから、改革は結局、起こらないだろう。
そしてなにより、信じられていない学校では、教育活動そのものが成立しない。子ども達は、親たちが信じないものを信じることはないからだ。
だから、まず、中学校の経営をそれぞれの地域社会が「信じよう」と合意できる経営者に任さなければならない。3000人を校長として外部から入れるのはそのためだ。
また、その地域社会は学校の内部にあって、自分たちが信じられる校長とともに学校を共同経営する体制になっていなければならない。
教育というのは、ある意味、信仰なのである。
『日経BPネット』
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/topics/fujihara/061220_4th/
3000人の校長を学校以外からヘッドハントせよ!
藤原和博=杉並区立和田中学校校長
最終回だから、結論から言おう。
日本の中学教育を変えるには、次の3つの施策を採るしかないと思われる。
(1)中学校1万校のうち3割の3000校に10年間かけて学校以外から校長を迎える。1年間に300人(東京都でせいぜい30人)、旧市区町村に1人ずつの勘定だから、それほど無理はない。「民間校長」というとビジネスマンをイメージするが、NPOや塾の経営者でもいい。文部科学省の官僚や大学の教授でもいい。地域社会が納得できる人材に兼務で経営に当たってもらうのである。
(2)教員から上がる場合は教頭からでなく校長試験一発とし、3年間教頭職を務めたあと2年間学校以外の世界でネットワークを作り、それをお土産に6年目に校長職に就くこととする。ただし、いったん校長になった後、不適格の場合は降格もあり。
(3)全国の中学校区に、中学校の中に拠点を持つ学校支援組織を作り、国と自治体から300万円程度の事務局人件費と、同じく300万円程度、ボランティアの諸活動への謝礼金の予算をつけ、任意団体、NPO、自営業者などにこれを運営させる。1校合計600万円という額は教員1人の人件費、一般管理費のおよそ半分。これで事務局5?6人が60?70人のボランティアを機動的に動かす体制がつくれるはずだ。
学校支援組織をスタートアップするためには、和田中のよのなか科のようなライフマネジメント教科を大人と子どもがともに学ぶ公開授業として毎週地域に開放することが有効だ。また、土曜日学校(和田中の場合には「土曜寺子屋」)の開設を機に、教師になりたい大学生のボランティアを大量に導入し教員のアシストをさせることも。和田中「地域本部」のケースのように、図書室の運営や学校の豊富な緑の維持管理を委託してしまうことも考えられてよい。
◎教員上がりの校長の大半はマネジメントが未熟
なぜ、学校以外の世界から校長を大量導入しなければならないかを見てみよう。
マネジメントというのは、調達しうる資源が限られているとき、その資源を上手に組み合わせて目標の達成につなげる、総合的で芸術的な行為を指す。
学校のマネジメントという場合、その目標は「子ども達により豊かな教育を」ということに尽きるだろう。もう少し砕いて言えば、「目の前の生徒ができないことをできるように、分からないことを分かるように、より豊かな世界観と柔らかな人生観を抱けるようにうながすこと」であろう。
そのために調達しうる資源とは、大雑把に言えば企業の経営と同様、「人(ヒト)」「金(カネ)」「物(モノ)」それに「情報(コミュニケーション)」と「時間」だ。
ただし、前述したように「人(ヒト)」は都道府県教委が、「金(カネ)」と「物(モノ)」は市区町村教委が握っているから、そう簡単には動かせない。従って「情報(コミュニケーション)」と「時間」という資源を動かすセンスが優先する。教員上がりの大半の校長にはこの感覚が分からないから、事務長のまま留まってしまう。「教頭の大きいの」として、つまり「大事務長」として、である。
また、教員集団は私企業のサラリーマンのように「昇進」や「賞与」を動機づけとして動いてはくれない。多くの教員は「あんなに事務仕事をやらされるなら教頭や校長にはなりたくない」と思っている。だから、「この仕事をやり遂げたらボーナスを20万円増額するから」というインセンティブで釣ることもできない。事実、授業がうまく部活指導に熱心な教員ほど、最後まで生徒とともにありたいと願っているのだ。だから、「昇進」や「賞与」で教員を動機づけようと考える中途半端な民間人が校長に就任すると失敗するケースが多い。
大手企業の部長などをやっていたケースでも、そこでいうマネジメントとは、人事権と予算権を握り「昇進」と「賞与」を決定する権力で部下を従えるマネジメントだったはずだ。数値目標をつくって命じてみても教員は容易には従わない。主幹を核としたピラミッド組織を編成してプロジェクトを動かしてみても、チームは空回りしてしまう。メーカーがよくやるQCサークルのようなことをやってパレート図をいじってみても、継続的な職務の改善運動には結びつかない。
校長という仕事が本来要求するマネジメント技術とは、むしろ「情報(コミュニケーション)」と「時間」という資源を使うものだ。だから、その「上手な組み合わせ」ができるかいなかで圧倒的な差が出てしまう。
民間企業であれば、出版、情報、ソフト産業、サービス業など、まっさらなカンバスに価値あるものを造形した経験を持つ起業家マインドのあるマネジャーにしか務まらないだろう。
◎家庭でできること?テレビとケータイ中毒に気をつける
(略)
◎地域社会を中学校の中に再生する
つぎに「地域社会」の復興について、具体的な方法を提案する。和田中で実現している「地域本部」の全国展開だ。
和田中地域本部にはボランティアが60?70名おり、常時数名から十数名が学校に訪れて諸活動のサポートをしている。スタッフの詰め所として事務局の部屋が学内にあるのがミソだ。事務局長は歴代の元PTA会長である。
放課後の図書室を子ども達の居場所として解放。図書ボランティアとしてPTAのOGを置くことで、子どもたちと学校モードでないコミュニケーションが交わされている。これによって図書室が「第2の保健室」としての機能を持つことになった。
土曜日には、学校の空き教室を使って土曜寺子屋(通称ドテラ)を開催。生徒達の自主的な学習のサポートを学生ボランティアにさせながら、地域社会の人々との交流を実現している。
中庭の芝刈りや野菜畑での作物づくりを地域のお年寄りと生徒が協力して行う「グリーンキーパーズ」を組織。水曜日の朝には、毎週芝生で近隣のおじいちゃん、おばあちゃんと生徒たちが芝刈りで交流する習慣ができた。
ようするに、稼働していない時間と空間を使って、子ども達の豊かな教育のためには必要だが教員にとっては余計な仕事になってしまうものを、地域本部の仕事としてボランティアに任せることにしたわけだ。
ここで、生徒と、土曜寺子屋のお兄さん、お姉さん、図書室のオジさん、オバさん、芝生のおじいちゃん、おばあちゃんとの交流が生まれる。この関係のことを、親子や先生・生徒の「タテの関係」や同年齢の友だち同士の「タメ(ヨコ)の関係」に対比して、「ナナメの関係」と呼んでいる。
「ナナメの関係」は、親子の上下関係、先生・生徒の上下関係、そして生徒同士のヨコの関係に行き詰まっている子どもに救いを与える。
住宅だって柱と梁(はり)だけでは地震に弱い。ナナメに入る筋交(すじか)いがあって初めて、揺れに強い建物になる。人間関係も同じだと思う。だから、「ナナメの関係」をいかに豊かに育むかが、学校支援組織としての地域本部の使命なのだ。全国での「地域本部」の立ち上げが期待される。
◎こころの教育やいのちの教育は教員の仕事か?
最近、イジメから自殺に至る痛ましい事件の報道が相次いでいる。個別のケースについては情報が限られているのでコメントは控えるが、一方的にマスコミに攻められる傾向にある学校や校長が本当に「悪者」なのかについては疑問が残る。
実際には、ここ数年間3万数千人が自殺で死んでいる国の社会的なひずみが、いちばん弱い部分に吹き出しているという印象が強い。
だから、こういう事件が起こるといつも強調される学校での「心の教育」や「いのちの教育」の追加実施にも、どうも素直には頷けない。文科省や都道府県の教育長からの緊急アピールの類いも、「まだ将来がある」とか「いのちを大切に」とか「死ぬな!」とか分かり切ったことを言ったところで、はたして子どもたちの心にどれほど染み込むのだろうか?
もちろん、こころを養うことの大事さや、いのちの重みを感じさせることの重要さには疑問の余地はない。しかし、それはいったい、本当に学校本来の仕事なのかということだ。
私には、家庭と地域社会が担ってきた役割のほうがはるかに大きかったと思われる。だから、家庭の社会化機能がいくら低下したとはいえ、「こころ」や「いのち」については家庭教育にも譲れない一線があるだろう。また、なんとしてでも地域社会を再生し、身近な他人の「こころ」や「いのち」にどう向き合わせるのか、それは成熟社会に入った日本の最も大きな課題だろうとも思う。
そうでなければ、「こころ」や「いのち」の分野は、本来、宗教が担当する領域なのである。成熟社会を先輩として生きる他の先進国では、宗教という道具を使って、家庭や地域社会の機能の補完が行われている。日本は、この役割も結局、学校に期待することになるのだろうか。
◎信じられる学校づくりが急務
「信じられる学校づくり」が急務である。
まず、上部組織が現場を「信じられない」として調査を乱発すると、膨大に書類が増えてゆく。それが、本来の仕事──生徒に向き合う仕事──ができない教員を増やしていく。
保護者が学校を信じない前提では、学校はすべてのチャレンジを封じられてしまう。前例から少しも踏み外さないように、失敗しないように、余計な説明をしなくていいようにという力学が現場に働くから、改革は結局、起こらないだろう。
そしてなにより、信じられていない学校では、教育活動そのものが成立しない。子ども達は、親たちが信じないものを信じることはないからだ。
だから、まず、中学校の経営をそれぞれの地域社会が「信じよう」と合意できる経営者に任さなければならない。3000人を校長として外部から入れるのはそのためだ。
また、その地域社会は学校の内部にあって、自分たちが信じられる校長とともに学校を共同経営する体制になっていなければならない。
教育というのは、ある意味、信仰なのである。
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