▲ 「韓国併合」100年市民ネット・関東の発足
1910年8月、日本は大韓帝国を併合し朝群総督府を設置し「日帝36年」の植民地支配を開始した。来年は韓国併合100年の年に当たる。戦後補償、在日永住者の問題などいまも「植民地」に伴う未解決の問題は数多く残っている。日本側の近代史の歴史教育はまったく手付かずの段階といっても過言ではない。
3月21日(土)夜、飯田橋の東京しごとセンターで「共生を求めて 「韓国併合」100年・反省と和解のために」という集会が開催された(主催:「韓国併合」100年市民ネットワーク・関東 参加130人)
「韓国併合」100年市民ネットワークは、2008年10月京都で結成され、この日の集会は市民ネット・関東の発足集会として開催された。4月23日には、ソウルで韓日平和100年市民ネットが発足する予定だそうだ。
中山武敏さん(東京大空襲訴訟原告弁護団長)と宋富子さん(高麗博物館名誉館長)の報告をレポートする。

宋さんは「平和の歌を歌いながら踊りながら、夢をもって!」と、アリランを歌った。
●東京大空襲訴訟と朝鮮人被災者
1945年3月10日、325機の爆撃機から焼夷弾1665トンが東京下町に投下され、火の壁で逃げられないようにして10万人以上が焼き殺された。東京大空襲である。
2007年3月、国に対し謝罪と損害賠償を求めて原告132人が提訴した東京大空襲訴訟は、この5月に結審する予定である。空襲被害や戦争補償の裁判には大きな壁がある。「戦争被害ないし戦争損害は、国民はひとしく受忍しなければならない」(戦争被害受忍論)という1987年の最高裁小法廷判決である。しかし国は軍人・軍属には年間1兆円近くを補償している。民間人だけ「受忍せよ」というのは差別だ。
とりわけ大空襲で亡くなった朝鮮人は、戦災の事実すらあまり知られていない。この事実を世間に知らせたい、裁判記録に残したいと考え、陳述書に李一満(リイルマン)さんの「東京大空襲と朝鮮人」という論考を入れた。この論考には特別高等課が1945年9月25日に作成した「東京在住朝鮮人9万7632人中、被災者は4万1300人。死者は少なくとも1万人を軽く越すとみられる」という資料も含まれている。また裁判の証拠として菊地英昭さんの「太平洋戦争に朝鮮人の軍人、軍属24万人が動員され、戦死した2万数千人のハングルの名簿を作成した。そして3月10日の大空襲の際、海軍芝浦施設部深川宿舎で113人が死亡した」という朝日新聞の記事や、早乙女勝元さんが中心となり美濃部都政時代につくられた「東京大空襲・戦災誌」も提出した。
こうした問題を社会に知らせ、どうやって解決するかみんなで考えたい。またこの会でも今後継続して取り組んでいきたい。
この訴訟の意義は2つある。まず、人間回復を求める裁判であることだ。国は民間人被害者を切り捨て放置している。被害者は今も苦しみ続けている。この苦しみに共感し、いっしょに解決していく必要がある。この裁判は過去の出来事に対する訴えではなく、人間回復を求める裁判である。
もうひとつは、加害と被害を問う裁判であることだ。東京大空襲は国際法違反の無差別じゅうたん爆撃だった。戦争を開始したのは日本政府の責任だ。「戦略爆撃」は違法性・責任を問われることなく、その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン、イラク、レバノン、イスラエルのガザ空爆へとつながっている。
朝鮮人は、強制連行や土地を奪われて日本に来て、空襲に会うという二重の被害を受けた。また無差別爆撃は日本軍の重慶爆撃が先例である。その後のアメリカの対日政策に大きな影響を与え日本各都市の空襲へとつながった。重慶爆撃については、中国人が原告となりいま日本政府を提訴している。東京大空襲訴訟は加害(重慶爆撃)と被害(東京大空襲)を問う裁判でもある。
なぜわたくしが日韓問題や東京大空襲訴訟に取り組んでいるのか、話したい。わたしの父は1937年の南京攻略に従軍し、女性や子どもが殺されるのを目撃した。戦後、靴の修理をするかたわら平和運動・人権運動に取り組み、母は廃品回収をしていた。父は差別に負けないようにと憲法の条文を壁に貼ってくれた。「法の下の平等」という教えが法律家を志す原点となった。働きながら夜間大学で学び、司法修習23期生となった。同期で裁判官を志望した7人が任官拒否にあったが、そのとき父は1人で1万2000人の署名を集めた。死ぬ前に「人只有一生一死 要生得意義 死得有価値」(人は一度は死ぬ 意義ある生き方をすることが大事)という詩を書き写し残していた。
この会は、身の回りの人と人とのつながりを大事にし連帯を強め、社会から差別をなくすような会になるとよいと思う。
●在日三代史・未来への夢――愛するとき奇跡は創られる
みなさまとの新しい出会いを心より感謝したい。
ごく普通の主婦で4人の子どもをもつ私が、なぜみなさまの前に立ちお話しするようになったのか。それは私が31歳のときの人との新しい出会いからだった。それからの私は自分の一度しかない人生、本気で生きてみよう、どうせ生きるなら「平和」を創って生きようと、はじめて大きな夢をもって生きるようになった。それから37年たった今も、大きい夢は実現に向け着実な歩みを続けている。私の心は青春の20歳である。
そういう意味で私はみなさまとの新しい出会いを宝にしたい。私の1時間の講演でぜひ私と「信友」になってほしいと、心から願っている。
私は1941年、奈良県の飛鳥地方の自然に囲まれた被差別部落のなかで在日二世として生まれ20歳まで育った。父は働きすぎで46歳で病死し、母は36歳だったが6人の兄妹を一日中リヤカーを引き、屑買いをして育ててくれた。私は母が大好きだったが、日本の小学校に入学すると白い眼を向けられ、貧しさと「チョーセン人」とからかわれるなかで、私を生んだ母を憎み、命を呪うようになった。
小学校3年生から自殺未遂を繰り返し、中学校を卒業しても漢字も読めず割り算、掛け算の計算もできず劣等感の塊だった。20歳まで22回も仕事を変えた。唯一の夢は日本国籍を取得し立派で上品な日本人になることだった。
31歳のとき子どもが通う桜本保育園で「自分を愛する、自分を愛するように隣り人を愛する」という聖書の言葉を聞いた。そのとき私は身体中に衝撃を受け心が震えた。この言葉こそ人間の本質であり、生きる目標と指針であると信じた。私はだれからもそんな言葉は学ばなかったし、隣人の日本人を愛することなど、とても考えられなかった。
はじめて祖国と日本の歴史の真実を学んだ。在日の多くは差別と偏見により通称名の日本名を使用している。名前は自分を表す大切なものだ。私は民族名に戻し4人の子どもに本名を名乗らせた。回りの人びとに支えられ励まされながら民族差別撤廃、人権回復運動に毎日夢中でかかわった。少数であっても運動にかかわる日本人学生、市民、教師たちの真剣な生きざまに、初めて日本人を心から信頼し尊敬した。うれしかった。私は自分の思いを書いた文章「民族と人間に目覚めて」を持ち、地域の同胞を一軒一軒訪ねて周りの多くの人々とともに「川崎市子どもを見守るオモニの会」を結成し6年間会長を務めた。命には限りがあるが、人間が求めるとき可能性は無限にあると信じた。どうすれば日本社会で民族差別を正すことができるのか、6か月間夢中で祈り考えた。日本人一人ひとりは善良で良い人たちだ。歴史の事実を識らないので在日に無関心なのだ。過去の歴史の真実を伝える歴史博物館が全国に皆無であることを知り、そうだ、知ることにより人は覚醒すると思い至った。
1988年46歳のとき、大阪の俳優、新屋英子さんとの出会いから、講演で話すのではなく思い切ってひとり芝居に切り替え、舞台から、秀吉の侵略から近代の加害を伝える歴史博物館建設を訴えた。会場での募金は1年半で、なんと115万円も集まった。そんなとき朝日新聞をみて心が躍った。そこには東京都稲城市で日本人市民グループと在日有志が、日本と朝鮮半島の古代から近代までの関係を伝え、在日の民族差別を知り、共生の社会作りを目指す「高麗博物館をつくる会」を結成したことが報道されていた。翌年私は入会し、役員を引き受けその後11年間、舞台から会員や募金を呼びかけてきた。
2001年、多くの人々の協力と支援で高麗博物館が開館し、私は初代館長を引き受けた。開館時は27坪のミニスペースで会員450人で出発したが、現在は900人近くになり、募金者を含めると1200人になった。ボランティアも50人を超えた。みんなで心を一つにし「民族差別のない平和な社会を創りましょう」と信じ合ったことにより高麗博物館が開設された。愛するとき奇跡は創られる。
日本政府は過去の真実の歴史を歪曲し、いまだに隠蔽し続けている。子どもたちを欺き人間性を破壊していることを、加害者の側に立つ日本人だれもが気づかなければならないと思う。教えられないことは反省と和解を遠ざけるばかりでなく、さらに大きな罪を生むことになる。真実を知らされず優越感だけを持つよう教育された子どもがどのような大人に成長するのかは、現在の日本社会のなかに如実に現われている。
このたび「韓国併合」100年市民ネットワークが、在日、韓国、日本人の人々の力で発足したことに私の心は躍る。朝鮮には「シージャギパニダ!」という言葉がある。「始めたらもう半分成功している」という意味だ。このネットワークははじめから全国組織で立ち上がった。私たちはもう一人ではない。全国に、仲間が、「信友」がいる。愛するとき奇跡は創られる。「自由で平等、真の民主主義の世界」にするために歴史の究明を始めよう!革命は一人から。識ったときから、今から今日から自分から、自分が変わることで、家族が職場が地域が学校が社会が変えられる。
平和の歌を歌いながら踊りながら、夢をもって!
☆他国との関係を考えるとき、櫻井よしこらは日本の「国益」を最優先に考える。たとえば「原油は日本の生命線なので、ソマリア沖への自衛隊艦船派兵は当然の権利」という主張はそのひとつだ。1930年代の「満蒙は日本の生命線」という論法そっくりである。
しかし国家の視点でなく、民衆や市民の立場から問題をとらえる視点もある。この市民ネットの「日本と朝鮮半島(韓国・朝鮮民主主義人民共和国)に暮らす人びとが、心からの和解を進めよう」という立場もその一つである。わたしたち市民は、民衆の立場で、共生と連帯を求めたいものである。
3月28日一部修正
◆「韓国併合」100年市民ネットワーク
http://www.nikkan100.net/
『多面体F』より(集会報告 / 2009年03月24日)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/
1910年8月、日本は大韓帝国を併合し朝群総督府を設置し「日帝36年」の植民地支配を開始した。来年は韓国併合100年の年に当たる。戦後補償、在日永住者の問題などいまも「植民地」に伴う未解決の問題は数多く残っている。日本側の近代史の歴史教育はまったく手付かずの段階といっても過言ではない。
3月21日(土)夜、飯田橋の東京しごとセンターで「共生を求めて 「韓国併合」100年・反省と和解のために」という集会が開催された(主催:「韓国併合」100年市民ネットワーク・関東 参加130人)
「韓国併合」100年市民ネットワークは、2008年10月京都で結成され、この日の集会は市民ネット・関東の発足集会として開催された。4月23日には、ソウルで韓日平和100年市民ネットが発足する予定だそうだ。
中山武敏さん(東京大空襲訴訟原告弁護団長)と宋富子さん(高麗博物館名誉館長)の報告をレポートする。

宋さんは「平和の歌を歌いながら踊りながら、夢をもって!」と、アリランを歌った。
●東京大空襲訴訟と朝鮮人被災者
中山武敏さん(東京大空襲訴訟原告弁護団長)
1945年3月10日、325機の爆撃機から焼夷弾1665トンが東京下町に投下され、火の壁で逃げられないようにして10万人以上が焼き殺された。東京大空襲である。
2007年3月、国に対し謝罪と損害賠償を求めて原告132人が提訴した東京大空襲訴訟は、この5月に結審する予定である。空襲被害や戦争補償の裁判には大きな壁がある。「戦争被害ないし戦争損害は、国民はひとしく受忍しなければならない」(戦争被害受忍論)という1987年の最高裁小法廷判決である。しかし国は軍人・軍属には年間1兆円近くを補償している。民間人だけ「受忍せよ」というのは差別だ。
とりわけ大空襲で亡くなった朝鮮人は、戦災の事実すらあまり知られていない。この事実を世間に知らせたい、裁判記録に残したいと考え、陳述書に李一満(リイルマン)さんの「東京大空襲と朝鮮人」という論考を入れた。この論考には特別高等課が1945年9月25日に作成した「東京在住朝鮮人9万7632人中、被災者は4万1300人。死者は少なくとも1万人を軽く越すとみられる」という資料も含まれている。また裁判の証拠として菊地英昭さんの「太平洋戦争に朝鮮人の軍人、軍属24万人が動員され、戦死した2万数千人のハングルの名簿を作成した。そして3月10日の大空襲の際、海軍芝浦施設部深川宿舎で113人が死亡した」という朝日新聞の記事や、早乙女勝元さんが中心となり美濃部都政時代につくられた「東京大空襲・戦災誌」も提出した。
こうした問題を社会に知らせ、どうやって解決するかみんなで考えたい。またこの会でも今後継続して取り組んでいきたい。
この訴訟の意義は2つある。まず、人間回復を求める裁判であることだ。国は民間人被害者を切り捨て放置している。被害者は今も苦しみ続けている。この苦しみに共感し、いっしょに解決していく必要がある。この裁判は過去の出来事に対する訴えではなく、人間回復を求める裁判である。
もうひとつは、加害と被害を問う裁判であることだ。東京大空襲は国際法違反の無差別じゅうたん爆撃だった。戦争を開始したのは日本政府の責任だ。「戦略爆撃」は違法性・責任を問われることなく、その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン、イラク、レバノン、イスラエルのガザ空爆へとつながっている。
朝鮮人は、強制連行や土地を奪われて日本に来て、空襲に会うという二重の被害を受けた。また無差別爆撃は日本軍の重慶爆撃が先例である。その後のアメリカの対日政策に大きな影響を与え日本各都市の空襲へとつながった。重慶爆撃については、中国人が原告となりいま日本政府を提訴している。東京大空襲訴訟は加害(重慶爆撃)と被害(東京大空襲)を問う裁判でもある。
なぜわたくしが日韓問題や東京大空襲訴訟に取り組んでいるのか、話したい。わたしの父は1937年の南京攻略に従軍し、女性や子どもが殺されるのを目撃した。戦後、靴の修理をするかたわら平和運動・人権運動に取り組み、母は廃品回収をしていた。父は差別に負けないようにと憲法の条文を壁に貼ってくれた。「法の下の平等」という教えが法律家を志す原点となった。働きながら夜間大学で学び、司法修習23期生となった。同期で裁判官を志望した7人が任官拒否にあったが、そのとき父は1人で1万2000人の署名を集めた。死ぬ前に「人只有一生一死 要生得意義 死得有価値」(人は一度は死ぬ 意義ある生き方をすることが大事)という詩を書き写し残していた。
この会は、身の回りの人と人とのつながりを大事にし連帯を強め、社会から差別をなくすような会になるとよいと思う。
●在日三代史・未来への夢――愛するとき奇跡は創られる
宋富子(ソンプジャ)さん(高麗博物館名誉館長)
みなさまとの新しい出会いを心より感謝したい。
ごく普通の主婦で4人の子どもをもつ私が、なぜみなさまの前に立ちお話しするようになったのか。それは私が31歳のときの人との新しい出会いからだった。それからの私は自分の一度しかない人生、本気で生きてみよう、どうせ生きるなら「平和」を創って生きようと、はじめて大きな夢をもって生きるようになった。それから37年たった今も、大きい夢は実現に向け着実な歩みを続けている。私の心は青春の20歳である。
そういう意味で私はみなさまとの新しい出会いを宝にしたい。私の1時間の講演でぜひ私と「信友」になってほしいと、心から願っている。
私は1941年、奈良県の飛鳥地方の自然に囲まれた被差別部落のなかで在日二世として生まれ20歳まで育った。父は働きすぎで46歳で病死し、母は36歳だったが6人の兄妹を一日中リヤカーを引き、屑買いをして育ててくれた。私は母が大好きだったが、日本の小学校に入学すると白い眼を向けられ、貧しさと「チョーセン人」とからかわれるなかで、私を生んだ母を憎み、命を呪うようになった。
小学校3年生から自殺未遂を繰り返し、中学校を卒業しても漢字も読めず割り算、掛け算の計算もできず劣等感の塊だった。20歳まで22回も仕事を変えた。唯一の夢は日本国籍を取得し立派で上品な日本人になることだった。
31歳のとき子どもが通う桜本保育園で「自分を愛する、自分を愛するように隣り人を愛する」という聖書の言葉を聞いた。そのとき私は身体中に衝撃を受け心が震えた。この言葉こそ人間の本質であり、生きる目標と指針であると信じた。私はだれからもそんな言葉は学ばなかったし、隣人の日本人を愛することなど、とても考えられなかった。
はじめて祖国と日本の歴史の真実を学んだ。在日の多くは差別と偏見により通称名の日本名を使用している。名前は自分を表す大切なものだ。私は民族名に戻し4人の子どもに本名を名乗らせた。回りの人びとに支えられ励まされながら民族差別撤廃、人権回復運動に毎日夢中でかかわった。少数であっても運動にかかわる日本人学生、市民、教師たちの真剣な生きざまに、初めて日本人を心から信頼し尊敬した。うれしかった。私は自分の思いを書いた文章「民族と人間に目覚めて」を持ち、地域の同胞を一軒一軒訪ねて周りの多くの人々とともに「川崎市子どもを見守るオモニの会」を結成し6年間会長を務めた。命には限りがあるが、人間が求めるとき可能性は無限にあると信じた。どうすれば日本社会で民族差別を正すことができるのか、6か月間夢中で祈り考えた。日本人一人ひとりは善良で良い人たちだ。歴史の事実を識らないので在日に無関心なのだ。過去の歴史の真実を伝える歴史博物館が全国に皆無であることを知り、そうだ、知ることにより人は覚醒すると思い至った。
1988年46歳のとき、大阪の俳優、新屋英子さんとの出会いから、講演で話すのではなく思い切ってひとり芝居に切り替え、舞台から、秀吉の侵略から近代の加害を伝える歴史博物館建設を訴えた。会場での募金は1年半で、なんと115万円も集まった。そんなとき朝日新聞をみて心が躍った。そこには東京都稲城市で日本人市民グループと在日有志が、日本と朝鮮半島の古代から近代までの関係を伝え、在日の民族差別を知り、共生の社会作りを目指す「高麗博物館をつくる会」を結成したことが報道されていた。翌年私は入会し、役員を引き受けその後11年間、舞台から会員や募金を呼びかけてきた。
2001年、多くの人々の協力と支援で高麗博物館が開館し、私は初代館長を引き受けた。開館時は27坪のミニスペースで会員450人で出発したが、現在は900人近くになり、募金者を含めると1200人になった。ボランティアも50人を超えた。みんなで心を一つにし「民族差別のない平和な社会を創りましょう」と信じ合ったことにより高麗博物館が開設された。愛するとき奇跡は創られる。
日本政府は過去の真実の歴史を歪曲し、いまだに隠蔽し続けている。子どもたちを欺き人間性を破壊していることを、加害者の側に立つ日本人だれもが気づかなければならないと思う。教えられないことは反省と和解を遠ざけるばかりでなく、さらに大きな罪を生むことになる。真実を知らされず優越感だけを持つよう教育された子どもがどのような大人に成長するのかは、現在の日本社会のなかに如実に現われている。
このたび「韓国併合」100年市民ネットワークが、在日、韓国、日本人の人々の力で発足したことに私の心は躍る。朝鮮には「シージャギパニダ!」という言葉がある。「始めたらもう半分成功している」という意味だ。このネットワークははじめから全国組織で立ち上がった。私たちはもう一人ではない。全国に、仲間が、「信友」がいる。愛するとき奇跡は創られる。「自由で平等、真の民主主義の世界」にするために歴史の究明を始めよう!革命は一人から。識ったときから、今から今日から自分から、自分が変わることで、家族が職場が地域が学校が社会が変えられる。
平和の歌を歌いながら踊りながら、夢をもって!
☆他国との関係を考えるとき、櫻井よしこらは日本の「国益」を最優先に考える。たとえば「原油は日本の生命線なので、ソマリア沖への自衛隊艦船派兵は当然の権利」という主張はそのひとつだ。1930年代の「満蒙は日本の生命線」という論法そっくりである。
しかし国家の視点でなく、民衆や市民の立場から問題をとらえる視点もある。この市民ネットの「日本と朝鮮半島(韓国・朝鮮民主主義人民共和国)に暮らす人びとが、心からの和解を進めよう」という立場もその一つである。わたしたち市民は、民衆の立場で、共生と連帯を求めたいものである。
3月28日一部修正
◆「韓国併合」100年市民ネットワーク
http://www.nikkan100.net/
『多面体F』より(集会報告 / 2009年03月24日)
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