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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

★ 日本の教育が危ない 国語力の衰退は国家の衰退

2024年01月28日 | 暴走する都教委と闘う仲間たち

  《【wedge 特集】日本の教育が危ない 子どもたちに「問い」を立てる力を⑥》
 ★ 国語力の衰退は国家の衰退
   今こそ求められる大人の責任

 ヤバイ、ウザい、エグイー。SNSの発達などに伴い、子どもたちの国語力の衰退が著しい。
 答えのない時代を生きるために必要なこととは。

文・石井光太 ノンフィクション作家

 日本では数年前から若者の読解力の低下が話題になっている。2018年の経済協力開発機構(OECD)生徒の学習到達度(PISA)テストで、参加した79力国・地域の中で、日本の子どもの「読解力」の点数が15位だったことが議論のきっかけの一つとなったことは間違いない。
 しかし、現在の教育現場の声を一つひとつ丁寧に拾い上げていくと、多くの教員が憂えているのは、国語の文章題などに象徴される読解力以前のところで、言葉を扱う力の脆弱さが目立つということだ。
 具体的に言えば、豊富な語彙を身につけ、それを駆使して物事を感じ、考え、表現する力が足りていないというのである。教員の問からは次のような声が上がっている。

 「なんでもかんでも、ヤバイ、ウザい、エグイという言葉でしか考えないし、表現しないので、結局自分でも自分が何を言いたいのか分からず、ひどい時にはそれでトラブルになる」
 「最近の子どもは妙に理屈っぼく、他所から借りてきた言葉で人のことはすぐに批判はするくせに、自分の気持ちを言葉で表したり、何かトラブルが起きた時に話し合いで解決することができなかったりする」

 ほんの一例だが、身近に子どものいる人であれば、すぐにイメージできるのではないだろうか。

 ★ 語彙力を基盤とした力 社会の解像度の変化

 文部科学省は、子どもが言葉を使って物事を考え、主体性を持って未来を切り拓いていく力を「国語力」と定義している。
 言語は感覚や思考を形成する重要な要素だ。
 小さな子は「ヤダ!」「やりたい!」といった少数の言語でしか思考できないので行動も単純だが、成長するにつれて語彙が豊かになっていくと「~が~なので、私は~と思うから~をやりたい」と細かく考え、それに合わせて適切な行動ができるようになる。
 豊富な語彙を適切に使えれば使えるほど、感じること、想像すること、思考すること、全てが細かくできるようになるのだ。
 国語力とは、このように語彙を増やしながら情緒力、想像力、論理的思考力を総合的に伸ばしていった先にある能力だ。

 年齢に応じて語彙を増やし、さまざまな経験を積むことで、自分の感情を細かくグラデーション化したり、他者の心のひだまで読み取ったり、根拠に基づいた思考ができるようになる。その思考を適切な言葉で表現できれば、人間関係にせよ、仕事にせよ、大抵のことを円滑にすることが可能になる。いわば、国語力とは、複雑な社会で生き抜くために必要な全人的な力なのである。
 なぜ今、国語力の脆弱さが指摘されているのか。それは現代社会では、かつてないほど高い国語力を求められるからだといえるだろう。

 1980年代までの日本では、社会全体の解像度が粗かった。情報源はほぼ新聞やテレビに限られており、似通ったライフスタイルで暮らし、どのコミュニティーにも上意下達の伝統が根付いていた。コンプライアンスなんて言葉はなきに等しく、そこでは「言わなくても分かる」が当たり前であり、言葉による細かな意思の疎通はさほど求められなかった。

 それに比べると、現代の社会の在り様は大きく変化した。ネットによる情報の氾濫、グローバル化、格差の拡大の中で、人々のライフスタイルや価値観はバラバラになり、共通言語はほとんどなくなっている。そうした中では、同じ日本人、同じクラスメイトであっても、外国人ほどに違う別人だ。

 ビジネスにおいては実質的に国境の存在はほぼないに等しい。ゆえに、現代を生きる人々は昔以上に膨大な語彙を駆使して相手の気持ちや立場を細部にわたって考えたり、自分の気持ちや意思を正確に伝えたりすることで、相手と関係性を構築していく必要が出てくる。
 考えてみてほしい。昔と比べると、今の学校ではどれだけ教師が生徒や親の気持ちを先回りして考え、手厚い対応を行わなければならなくなっているか。あるいは、今の企業ではどれだけ上司が新入社員の気持ちを慮り、丁寧に対応しなければならなくなっているか。
 それを考えるだけで、今の時代が人々に非常に高い国語力を求めていることが分かるのではないだろうか。

 ★ 国語力の低下は多方面からまずは応用ではなく基本を

 昨年、私は『ルポ誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)という著書を出すために学校の教員100人以上にアンケートを取った。その結果、8割くらいの教員が子どもたちの国語力に危機感を抱いていた。
 なぜそのような状況に陥っているのか。主な原因を3つの観点から考えてみたい。家庭的要因、社会的要因、教育的要因だ。

 まず、家庭によって子どもの語彙や体験に大きな違いが生まれていることが指摘できる。かつて国語力は、子どもが家にある文学全集を読んだり、異年齢の仲間たちと公園で自由に遊んだり、祖父母や近所の大人に物事を教えてもらいながら自然に培うものだった。だからこそ、ある程度平等に国語力を高めていくことが可能だった。
 ところが、核家族化と個人主義が進んだ現代では、社会からそうした機会が激減した
 そのため、親が高い意識を持ち、習い事によって子どもの語彙や経験を増やさなければならなくなった。「~式教育法」「~メソッド」を標榜する習い事に通わせたり、キャンプ場や海外へ旅行に連れていったりすることによって獲得させる必要が出てきたのだ。
 問題は、これらを行うには高額な費用がかかる点だ。それは、どの家庭に生まれたかによって子どもの国語力に差が生じることを意味している。
 親が高い意識を持って経済的に裕福であれば、子どもに英才教育を受けさせて国語力を高めることができる。だが、そうでない家庭では、子どもは語彙を増やす機会も、多様な経験を積む機会も乏しくなる。つまり、家庭の格差が、そのまま子どもの国語力を左右するのである。

 次に、社会的要因としては、社会のデジタル化が大きい。
 スマホの普及によって、今のデジタルネイティブ世代の子どもたちは、平均して2歳でそれらを使いこなせるようになっている。こうした子どもたちがネットの中で多くの時間を費やしているのが動画やゲームであり、LINEやInstagramといったSNSだ。
 子どもは一日のうち多くの時間をこれらに費やしているが、果たして国語力を高めることにつながるだろうか。
 まず、動画ゲームは基本的に言葉をほとんど必要としないツールなので、そこから十分な語彙を獲得することは難しい。
 また、LINEなどのSNSは必要な情報だけを最低限の言葉で伝えるツールであって、初めから数多の言葉を駆使して細かな意思疎通をするようにデザインされたものではない。
 さらにいえば、デジタルを通した体験は、リアルの体験に比べて情緒力や想像力を育てることが困難だ。いくら戦闘ゲームで敵に銃で撃たれようとも、実際にバラの棘に触れたり、蜂に刺されたりした時に感じる痛みには及ばないし、いくら動画でおいしそうな料理を見ようとも、本物の肉じゃがを食べた時の味、匂い、温かさといった感覚にはかなわない。
 つまり、どんなにスマホの画面に没入したところで、リアルの体験に比べれば国語力を総合的に向上させることが難しいのだ。

 社会がこのように変容しているのなら、一体子どもたちはどこで国語力をつければいいのだろう。そこで期待されるのが、学校がその役割を担うことだ。
 つまり、学校が家庭や社会の穴を埋めるような形で国語力を習得させるということだ。しかし、今の学校はそれとは真逆の方向に進んでいる

 例えば、現在、小学校が次々と導入しているのは、英語教育必修化であり、プログラミングであり、金融教育であり、GIGAスクール構想に基づく教育のICT化だ。
 世界でも最も高い少子化の中では、小学校どころか、幼稚園や保育園までもが生徒を獲得するために英会話やICT教育などを打ち出している。
 冷静になって考えていただきたい。日本語で物事を感じ、考え、表現できない子どもが、英会話で何を話すというのだろう、あるいはプログラミングで何をつくるというのだろう。
 本来は子どもたちに十分な国語力をつけさせることを優先し、それができた子どもに対して英会話やプログラミングを教えるのが筋だろう。その順序を逆にしてしまえば、子どもに運動するための体力や筋力をつけさせず、いきなりスノーボードやラグビーのルールを教えて「やれ」と言っているようなものだ。
 そんなことをすれば、子どもは道具もルールも使いこなせないし、無理に挑戦したところで怪我のリスクしかない。国語力をつけさせずに、英会話やプログラミングを教えるというのは、それと似たようなことなのだ。
 これは今の学校教育が学力のような分かりやすい成果や目先の新しいプログラムを優先する一方で、全ての基本となる力を養うことを軽視していることを示しているといえるだろう。

 ★ 影響は個人単位ではない 本質的な力の構築が急務

 著名な数学者である藤原正彦さんの言葉に次のようなものがある。

「一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下」

 人にとって国語力は全ての根幹となる能力だ。
 日本人全体の国語力が衰退すれば、ビジネスや政治で必要とされる高度な思考が難しくなり、国際関係や人間関係を維持するための対話もできない。
 短歌、浄瑠璃、神事など長く続いた日本の伝統文化を継承することもままならなくなり、日本人としてのアイデンティティーも成り立ちにくくなる。
 そういう意味では、国語力の衰退は、国力の衰退と同義なのだ。今後、社会は今以上に複雑なものになり、人は自らの力で問いを立て解決していくことが求められるようになる。それができる大人になるためには、子ども時代に躍起になって英語やプログラミングの訓練をするのではなく、日本語でたくさんの語彙を身につけ、言葉によって感じ、悩み、表現する力を鍛えていかなければならない
 国語力は偏差値のように簡単に点数化できるものではない。ゆえに、大人には子どもの国語力が育っているのかどうかを客観的に測る術がないから、それを育ませることに不安を抱きがちだ。しかし、だからこそ、親や大入は子どもを全面的に信頼し、毎日草に水を与えるようにみずみずしい言葉のシャワーを浴びせ、心が震える経験をさせ、子どもが十分な語彙を身につけ、それを駆使して生きていける力をつけさせることに注力するべきではないだろうか。

 実際に、本当の意味で子どもの未来を考え、国語力を伸ばそうとする学校は、目先のことに飛びつくのではなく、本質的なところで国語力を鍛えようとしている。
 中学校の中には国語の授業を『アンネの日記』の文庫本一冊を熟読することによって行ったり、哲学対話を中学校の3年間の授業計画に組み込んだりしている。
 「作家の時間」という生徒が作家となり作品をつくることを授業にしている小学校もある。

 こうした取り組みこそが、10年後、20年後の答えのない時代を生き抜くための力となることを確信しているからだ。
 答えのない時代を生きるとは、既に社会に散らばっている手垢のついた言葉を借りるのではなく、何もないところから自分の言葉を構築していくことに他ならない。そのために、国は、社会は、大人は何をしなければならないのか。まずは、あなたが、あなた自身の言葉でその答えを考えてほしい。

文・石井光太 ノンフィクション作家

1977年.東京都生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。国内外の貧困、事件などをテーマに取材・執筆活動を行う。小説や児童書、浸画原作なども手掛ける。「こどもホスピスの奇跡」(新潮社)で第20回新潮ドキュメント賞受賞。著書に「ルポ誰が国語力を殺すのか」(文藝春秋)、「教育虐待」(早川書房)など多数。

『Wedge』(2023年11月号)


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