『ジュリスト』(№1422 2011/5/15)
◎ 人権論の論証構造
~「人権の正当化」論と「人権制限の正当化」論
脚注 59) 日本国憲法は,個人の尊厳を根元的価値とする憲法である。それゆえに,個人を「個人として尊重」することを宣言して,個々人に自律的生を保障するのである。
人権とは,自律的生にとり不可欠の権利であり,それを最高規範としての憲法により保障し,時々の多数派が制定する法律から守っているのである。
多数派に支えられた政府は,社会全体の利益が要請する政策を策定し実行する。しかし,たとえ社会全体の利益であるからといっても,憲法で保障した人権を侵害することは許さない。これが日本国憲法の人権論の構造のはずである。
たしかに,人権の行使が社会全体の利益に役立つこともあろう。しかし,それは人権が憲法により保障されている理由,根拠ではない。根拠は,自律的生にとり不可欠だからということにある。社会全体の利益のために権利を認めるということは,法技術としてありえないわけではない。しかし,それは,通常は法律の領域の問題である。
法律により認められている権利には,たしかにその行使が社会全体に利益をもたらすことを理由にしたものが多く存在する。国家(立法府)は,公益実現の任務を負うのであるから,公益実現に最適な方法で「権利」を配分することは,当然認められる。それが個人(の権利行使)を公益実現の手段に使うという側面をもつとしても,憲法に反しない限り許されることである。
しかし,憲法は,このような意味での公益実現を目的とした規範ではない。憲法の目的は,個人を尊重する政治社会の基本的・構造的ルールを定めることである。私は,それを「法のプロセス」に関するルールと呼んでいるが,その時々の多数派の求める「公益」は,この「法のプロセス」を通じて実現されていくのである。
ゆえに,憲法上の権利には,公益のために認められた権利というものは原則的に存在しない。その存在を認めるためには,明文の規定が存在するか,それに匹敵するほどの説得的な論証が必要である。
日本国憲法の解釈として,少なくとも精神的自由権についてそのような論証が可能なのか,疑問である。経済的自由権については,公共の福祉のために認められる権利という観念も解釈論として不可能ではない。
22条1項および29条2項の公共の福祉については,内在的制限(市民国家的公共の福祉)ではなくて,社会経済的な制限(福祉国家的公共の福祉)であるという解釈もある。
この社会経済的公共の福祉とは,社会権の実現を目的とするものであるが,そのような目的での経済的自由権の制限は,経済的自由の行使が公益を害するからというよりは,公益を増進するという理由を意味した。その限りで,経済的自由権については,公益のために認められる権利という捉え方も不可能ではなかった。
宮沢説がこれを社会権との調整であると捉えたのは,経済的自由権の公共の福祉による制限が,公益の増進ではなく社会権を侵害するという論理による制限と捉えたことを意味するものと私は理解している。
『ジュリスト』(№1422 2011/5/15)
◎ 人権論の論証構造
~「人権の正当化」論と「人権制限の正当化」論
高橋和之(明治大学教授)
脚注 59) 日本国憲法は,個人の尊厳を根元的価値とする憲法である。それゆえに,個人を「個人として尊重」することを宣言して,個々人に自律的生を保障するのである。
人権とは,自律的生にとり不可欠の権利であり,それを最高規範としての憲法により保障し,時々の多数派が制定する法律から守っているのである。
多数派に支えられた政府は,社会全体の利益が要請する政策を策定し実行する。しかし,たとえ社会全体の利益であるからといっても,憲法で保障した人権を侵害することは許さない。これが日本国憲法の人権論の構造のはずである。
たしかに,人権の行使が社会全体の利益に役立つこともあろう。しかし,それは人権が憲法により保障されている理由,根拠ではない。根拠は,自律的生にとり不可欠だからということにある。社会全体の利益のために権利を認めるということは,法技術としてありえないわけではない。しかし,それは,通常は法律の領域の問題である。
法律により認められている権利には,たしかにその行使が社会全体に利益をもたらすことを理由にしたものが多く存在する。国家(立法府)は,公益実現の任務を負うのであるから,公益実現に最適な方法で「権利」を配分することは,当然認められる。それが個人(の権利行使)を公益実現の手段に使うという側面をもつとしても,憲法に反しない限り許されることである。
しかし,憲法は,このような意味での公益実現を目的とした規範ではない。憲法の目的は,個人を尊重する政治社会の基本的・構造的ルールを定めることである。私は,それを「法のプロセス」に関するルールと呼んでいるが,その時々の多数派の求める「公益」は,この「法のプロセス」を通じて実現されていくのである。
ゆえに,憲法上の権利には,公益のために認められた権利というものは原則的に存在しない。その存在を認めるためには,明文の規定が存在するか,それに匹敵するほどの説得的な論証が必要である。
日本国憲法の解釈として,少なくとも精神的自由権についてそのような論証が可能なのか,疑問である。経済的自由権については,公共の福祉のために認められる権利という観念も解釈論として不可能ではない。
22条1項および29条2項の公共の福祉については,内在的制限(市民国家的公共の福祉)ではなくて,社会経済的な制限(福祉国家的公共の福祉)であるという解釈もある。
この社会経済的公共の福祉とは,社会権の実現を目的とするものであるが,そのような目的での経済的自由権の制限は,経済的自由の行使が公益を害するからというよりは,公益を増進するという理由を意味した。その限りで,経済的自由権については,公益のために認められる権利という捉え方も不可能ではなかった。
宮沢説がこれを社会権との調整であると捉えたのは,経済的自由権の公共の福祉による制限が,公益の増進ではなく社会権を侵害するという論理による制限と捉えたことを意味するものと私は理解している。
『ジュリスト』(№1422 2011/5/15)
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