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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

習志野学校跡地を訪ねて

2011年01月16日 | 平和憲法
 『毒ガス島歴史研究所会報(第11号)』習志野学校跡訪問記 その2
 ■ 習志野学校跡地を訪ねて
森崎 賢司

 05年7月,偶然に千葉での学習会に参加する機会を得た私は,ふと,「せっかく千葉に行くのだから,ついでに習志野学校の跡地を巡ってみたいな」と思いました。習志野学校といえば,かつて化学戦部隊を訓練する機関だったところです。
 そして,2003年の国内の遺棄化学兵器に関するフォローアップ調査の報告では,毒ガスが遺棄されている可能性が高いということが示され,引き続き詳細な調査が行われているところでもあります。
 「かつて習志野学校があったところは,現在どのようになっているのか。」「遺跡は残っているのか。」「遺棄弾が埋まっている可能性が高いのは,どのような場所なのか。」など,知りたいことばかりです。
 そして,日がたつにつれてその思いが膨らみ,とうとう案内してくださる方を紹介していただきました。私たちと同じように,教育現場で働きながら習志野学校にこだわり続けて調査しておられる方が案内してくださることになりました。

習志野学校正門跡

 フィールドワークは早朝に行うことになりました。
 私が宿泊していた京成線ユーカリが丘駅に隣接しているホテルから自動車で十数分のところに,習志野学校の跡は今も残っていました。
 今は「ならしのの森」と呼ばれているそうです。

 周囲は公営住宅や一戸建ての住宅が立ち並ぶとともに,いくつかの学校も建てられ,文教地区といった感じです。一方,その外側には自衛隊の演習地が広がっているという地域でした。
 私たちは森の近くに車を止めて中に入りました。
 周囲にはぐるりと柵がしてありました。案内の方が「数年前までは,柵もなく自由に出入りできたのに。」と言っておられました。といっても,以前は中に入ろうとする人もいないほどうっそうとした雑木林の森だったそうです。今は,遺棄毒ガスの調査が入ったときに草木が刈られたらしく,中を見通せるほどになっていてすっきりとした印象を受けました。
 柵の中に入ると,周りの雰囲気とは全く別の場所に居るような気分になりました。思ったよりも当時の跡が残っていました。
 ここは戦後,千葉大学の腐敗研究所として利用されたらしく,建物やその他の施設はそのまま使われたようです。
 さすがに木造の建物は全て壊されていましたが,コンクリートの土台部分は,そのまま残されていました。ただし,木造より強固な造りであるはずのコンクリート造りの実験室は,土台から全て壊されていました。どのような理由からそうしたのか疑問が残ります。
 また,近年の調査では,八角形の遺構が見つかったそうです。これは,ハルピンの731部隊に関する証言にある,「八面房」と同じ物で,全面ガラス張りの毒ガス実験室なのだそうです。「ハルピンでは証言はあるものの遺構が見つかっておらず,習志野では遺構は見つかっても証言は得られずといったことなのだ」と教えていただきました。
 その他,実験用の動物の霊を祀る「動物慰霊之塔」がありました。1940年に建てられたことは分かったのですが,碑文の中に刻まれていた陸軍将校の名前が削り取られていました。生物・化学兵器開発に携わった軍人や科学者の中には,戦後も社会的地位の高い職についている人もいるという話を聞きましたが,これはそのことと関係があるのだろうかと思いました。いずれにしても,それが関係者の仕業であるなら,名前を隠したい事実があるに違いありません。
 「ならしのの森」周辺の住宅地にも所々に空き地がありました。それらの空き地もすでに一応の調査はされたが遺棄毒ガス弾の存在は確認されていないとのことでした。
 それにしてもこのような住宅密集地にもかかわらず空き地になっているのだから,何か訳ありの土地なのだろうなどと疑ってみたくなります。
 また,戦時中の弾薬庫などの地下施設の上が公園になっていたり,幼稚園の敷地になっていたりしました。
 早朝のほんの短い時間だけしか見て回れませんでしたが,習志野学校で実際に行われたことや敗戦後のことについては,まだまだ分からないことが多いという印象を持ちました。
 また一方では,習志野学校の施設が戦後千葉大学に引き継がれ,その跡地は今も「ならしのの森」として残されていること,地域には他にも空き地がいくつもあること,周囲には陸上自衛隊の演習地が広がっていることなど,この地域に戦争の跡が色濃く残っていることが実感として分かりました。
 自分自身,まだまだ知らないことばかりなので,習志野学校と大久野島とのつながりも含めて,日本の化学戦について広い視野に立って学習していく必要を感じたフィールドワークになりました。
 ■ 参考資料 習志野学校とは・・・
 1933年(昭和8年)千葉県津田沼町大久保(現在の習志野市)にあった騎兵第一旅団司令部跡に陸軍習志野学校本部が設置された。
 旧陸軍の学校は訓練内容のわかる校名がつけられていた。田尾手羽歩兵学校、戦車学校、軍医学校などである。ところが習志野学校は地名だけの名前である。何を教える学校かわからないようにしてあった
 同様に地名だけの学校がもう一つ存在していた。*陸軍中野学校である。中野学校は諜報技術(スパイ活動)を教え、習志野学校は化学戦(毒ガス戦)を訓練する学校である。この二つの学校の実態は極秘中の極秘であった。
 化学戦に関する教育と研究を行う機関であった習志野学校には全国はもとより外地派遣部隊からも選抜派遣された将校に対して毒ガス防御を建前に化学戦を指導する能力を与え、化学戦遂行の拠点となった。 (戦争遺跡案内より要約)
 1933年8月1日千葉県習志野にあった騎兵第一旅団跡地に毒ガス戦の教育・訓練を行う陸軍習志野学校が創設された。(9月18日騎兵第一六連隊跡地に移転)将来の対ソ連戦を念頭に置いて毒ガス戦教育を行う学校が必要となったためである。
 習志野学校では全国の師団・連隊から派遣された将校・士官・兵に毒ガス戦教育・訓練を実施した。当初の人員は215名であったが1937年8月には990名に1941年には1371名に増加していった。日中全面戦争が始まると、陸軍習志野学校は中国各地に出張して、地上部隊や航空部隊に対する実戦使用のための化学戦教育を行うようになった。 (「毒ガス戦と日本軍」吉見義明著より)

 習志野学校は地元では毒ガス学校と呼んでいました。この学校は中国で実際に行った毒ガス戦を資料に調査研究「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」「瓦斯防護教範」など化学戦用のテキスト類の作成・迫撃砲などの改良研究・実験・全国各地の部隊から選抜した兵士の訓練や演習をおこない化学戦の幹部を養成しました。中国の東北部(満州)の関東軍には第516部隊という毒ガス専門の部隊も設置され習志野学校から多数の人材が派遣されました。これらの部隊は中国で大規模な毒ガス実弾演習を行い、第731部隊では毒ガスを使った人体実験も行われました。1944年大本営はアメリカの警告により毒ガスの使用を中止し、習志野学校は砲兵の訓練や地下陣地防御の研究に重点を移し一部を予備士官学校に改編しました。 (「習志野学校」研究会編のパンフより)
 敗戦後は千葉大学医学部腐敗研究所として長くその施設が利用されました。
 1955年公務員住宅建設のため旧習志野学校の建物が解体されました。その解体工事中に毒ガス実験室と推定される八角形の鉄筋コンクリート基礎や送風機などが出土しました。また唯一つ残っていた堅牢な建物は、毒ガスの中和排気塔であったことがわかりました。現在習志野学校の敷地の約三分の一が地域の住民運動で残され「習志野の森」と呼ばれています。雑木林が茂る中に動物慰霊之塔や建物の跡が残っています。 (「習志野学校」研究会編のパンフより)

『毒ガス島歴史研究所』 毒ガス島歴史研究所会報 第11号(2006/7/31)から
http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou11/kaihou1172.html
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2011/1/11)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/18679311.html

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