パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

藤田の日記

2009年04月20日 | 藤田の部屋
 <板橋高校卒業式> 杜撰きわまりない高裁判決!
 ☆☆ 偽証を見抜けない高裁判事は辞職せよ! ☆☆
 ★ 最高裁に『上告趣意書』を提出。 ★

 ■ 「最高裁に公正な判決を求める署名用紙」ダウンロード ↓ (PDFファイル)
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「オオハクチョウ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》

 『藤田の日記』 (大野昭之 「自主独立」「民主集中」の虚構)
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2008/11/09(日)     大野昭之 「自主独立」 「民主集中」の虚構 1
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 (新宿模索舎にて販売中、
  {ひらく}連載  編集部、酒井雅巳、g95@peachi.ocn.ne.jp)
 一学生、一教員の目に映った占領下から60年安保までの日本共産党史の一断面

* 60年安保と私

1、 私はどうして党をやめたか?


 中学教師に

 私は1951年3月、東大農学部農業経済学科を卒業した。
 50年1月にコミンフォルムが行った日本共産党批判によって、徳田球一ら多数派(所感派)と、国際批判を全面的に承認する志賀義雄、宮本顕治、春日庄次郎ら国際派に分裂し、その一環として、東大細胞も解散(全員除名)の処分を受けた。
 表面的には解散処分に忠実に従っていたが、国際派統一委員会の結成と共に、東大にもその下部組織としてゲハイムニッシェ・パルタイ(秘密党)、通称GP(ガー・ペー)が存在し、私は農学部の責任者であった。
 卒業式一週間前くらいに、組活(組織活動部)の不破哲三君から、「君の就職、駄目になった。 所感派から日農岡山県連に妨害が入り、あんなトロッキスト学生を採用するなということで取り消しの通知があった。 もし就職するのだったら、自分で探してくれ」と言われた。
 今さら就職試験も終わっているし、しょうがないから大学院に残って勉強でもするかなと思っていたところ、同級生で同志であった井上良彦君(主流派農業理論家、井上晴丸の甥)から、中学校の教師の口があるがどうか、文京区内だから大学院に残るにしてもよいのでは、という有り難い話があり、とんとん拍子に話が進み、当時新制中学といわれ発足したばかりの中学の教師となってしまった。
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2008/11/10(月)     2 六全協ショック
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 それ以来、東大G・Pとの連絡が切れてしまったが、統一委員会から袴田里見が密航して北京に派遣されたが、そこでは結論が出せずモスクワに送られ、スターリンの御前会議で一喝され、自己批判して51年綱領による統一の促進役にまわりそれ以後、国際派は雪崩をうって自己批判をし、主流派に復帰したことを風の便りに聞いていた。
 さらに追い打ちをかけたのが、コミンフォルムが再度、狂気の沙汰ともいえる所感派の武装革命と軍事方針を支持すると共に、分派を解消し、党に復帰することを呼びかけた論評を行ったことである。
 スターリンにとっては、日本の革命にとってどのような方針が正しいかより、拡大し敗北しつつあった朝鮮戦争の背後で、日本の党が一致して武装闘争による後方撹乱をすることを望んだのであろう。
 国際派的な権威の前に、納得せぬまま自己批判、復党が続出し、統一委員会は消滅した。
 私は、そのような昔の同志などの行動を見るたびに、もう再びこのような党にはもどるまいと考え、教師の道を邁進すると共に、組合運動に専念することになった。
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2008/11/11(火)     3
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 党の方針の誤りの深さは、党を傷つけ崩壊の寸前に追い込んでいた。
 そのような状況の中でも、自己批判することもできぬこの党は、北京の同志の力によって「極左冒険主義」と手を切ることを宣明した。
 いわゆる六全協(第六回全国協議会)であったが、新綱領・軍事方針を推進した指導部は、真剣な自己批判一つせず、新綱領の正しさを繰り返していた。
 外から与えられた六全協は、党員にとっては大転換で、「六全協ノイローゼ」や「六全協ボケ」と呼ばれた状況が続いた。
 旧東大細胞の中でも、信念に基づいて復党をしなかった安東仁兵衛君、武井昭夫君が旧同志に復党の呼びかけを行い、「復党局」などと呼ばれていた。
 私のまわりでも、党員らしき人物が「六全協」と言って何か良いことをしたような顔をしているのを尻目に、都教組文京支部の書記長として砂川闘争や原水爆禁止運動に全力を投入していた。
 当時、党の影響力、権威がまったく地に墜ちていたことが、逆に大衆闘争の高揚をもたらしたと言える。
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2008/11/12(水)     4 砂川闘争
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 砂川闘争では、加藤勘十など社会党国会議員団が、赤ダスキをかけ、畑の中を駆け回っていたのを思い出す。
 立川という、都心から離れたとはいえ、東京都の一角で、米軍戦略の変更にともなう飛行場の拡張による五日市街道分断、砂川町の分断を許すことは、東京の労働者にとっては耐え切れぬことであった。
 労働組合は、毎回最大限の動員を砂川に行い、なかでも東京都に勤務する地方公務員の組織、都労連は動員力の中心となり、その他公労協や民間の労組と共に、砂川の現場で、体を張って警察隊と対峙した。
 当時、党の指導を離れ、先駆的な役割を担ったのが全学連であった。
 彼らの体をはった闘いに、労組側も大いに激励されたことを思い出す。
 砂川闘争の中から、後に安保闘争を担う東京地評が結成されてゆく。
 砂川での現地闘争、特に全学連の体をはっての闘いは、ついに憲法改正を公言していた首相鳩山に測量の打ち切りを言明させるに至った。
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2008/11/13(木)     5 そして復党
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 私が文京支部書記長をしているとき、学生時代からの同志、安東君に会った。
 彼は私が卒業してから、やはり同志であった針谷君の誘いによって山口武秀氏の常東農民組合で活動していることを聞いていたが、文京区で出会うとは全く意外であった。
 お互いになつかしく、話し合うと、彼は復党して文京地区党の地区委員として党の再建に努力しているという。
 しかも私の勤務校から歩いて15分くらいの共同印刷のある谷間、千川のオハグロどぶの流れている所にあった白山御殿小学校、空襲で焼けて廃校になっていたが、いつのまにか不法占拠でたくさんのバラックが建ち、その中の一戸、安物の角材にベニヤの壁、トタン屋根の十畳足らずの一間のバラックが、彼が毎日勤務している文京地区委員会であった。
 なつかしい学生時代の仲間の話を聞かされながら、復党の誘いを受けた。

 最初、私は決して再びこのような党にはもどらぬつもりでいたが、彼も暇をみて学校に遊びにきて、宿直室でヘボ碁を打ったり、一緒に飯を食ったりしているうち、彼が一生懸命、党再生の努力をしているのに遂にほだされて、復党することにした。
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2008/11/14(金)     6 自己批判できない幹部
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 当時、文京区の小中学校千名のうち、党員は2名であり、独立の細胞を作ることができず、居住細胞に属していたり、高校や私立の教師と共に細胞を作ったりしていたが、私が復党することによって教員の細胞が成立することになった。
 軍事方針から解放された党員は、いわゆる「六全協」ボケで、まともな政治活動を行っておらず、私が党員らしいと目をつけたO君は、誤った方針と資金カンパのノルマの苦境に立たされ、酒に身を持ち崩し、飲み屋の女性と仲良くなり、家庭争議が起こっていた。
 最初の細胞会議が居住細胞と合同で、彼の家庭問題が唯一の議題だと聞かされて驚いてしまった。
 共産党という政治組織の会議は、政治活動の方針を討議するのが当然で、個人のプライバシーに関する問題を、いくら運命共同体とはいいながら、中国流の人民裁判ではあるまいし、よってたかって自己批判させるなど、まったく政治組織としては間違いだと言って欠席した。
 誤った軍事方針の下で苦境に立たされ、堕落させられていた下部党員にとって、このようなことは、当時、日常茶飯事であった。
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2008/11/15(土)     7
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 当時、O君の最大の仕事は、党から命じられた資金カンパを消化することと、火炎ビンによる交番襲撃のデモの尻にくっついていくことであった。
 後から聞いた話では、共同印刷の向かいの白山交番が目標とされ、デモが組織されたが、交番に近づくにつれて、デモから一人抜け、二人抜けで、交番の前に来たときは、中核自衛隊で火炎ビンをもった者しかおらず、さすがに火炎ビンを投げるわけにもいかず、前を素通りしたとのことであった。
 このような誤った軍事方針と資金カンパの押しつけは、下部党員を退廃させた。
 それに対し、当時の最高責任者であった春日正一は、問題を党員の品性や工作態度に帰着させる論文を「前衛」で主張しており、幹部自らの政治責任を全く自覚すらしていない態度に、心から憤激を感ずると共に、安東君らと党の再建に努力しようという気になってきた。
 砂川闘争の勝利という大衆運動の高揚の中で、都教員の党員会議が開かれた。
 といっても、正式に都委員会が招集したのではなく、本部の書記であったI君が、六全協ボケの党員活動家が活動を停止し、何とかしなくてはという孤立感から、当時組合の中で活動していた党員を集めたのであった。
 全都の会議といっても、十人に満たないさびしいものであった。

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2008/11/16(日)     8 教室にこもっていいか
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 当時、56年5月、本部の文化委員であった国分一太郎先生が、岩波新書で『教師』という本を出版された。
 それは当時ベストセラーになって多くの教員に読まれた。
 現在読んでも、誠に立派な本であるが、教員の仕事は、全く政治活動と一体のものではなく、それ自体自立性をもったものであり、教育の仕事、教員の仕事とは何かを、丁寧に解説したものであった。
 誤った軍事方針に駆り立てられ、自らを失った多くの党員教師にとっては、まさに干天の慈雨のような本で、極左政治方針に邁進していた党員教師は、その本の影響によって組合活動から総退陣し、教室へ、教育実践へ舞いもどってしまった。
 東京においても、その例にもれなかった。
 当時、社会党系の都教組幹部に対抗して、反幹部闘争を展開していた党員活動家は、潮の引くごとく姿を消してしまった。
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2008/11/17(月)     9
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 初めて他地区の党員に出会った私の最大の驚きは、彼らは一貫して主流派(所感派)に属し、50年分裂といっても他人事であったということであった。
 かって国際派に所属して最近復党したのは、私一人であった。
 彼らの多くは、国分先生の『教師』を読んでおり、組合活動をやめて教育実践に投入しようとしていた。
 私は教育実践を否定するつもりはないが、組合運動という大衆運動は、前衛党を自称する共産党にとって大切な活動の場であり、講和条約後、盛り上がってきた三大国民運動、「原水爆禁止運動」「日中友好運動」「軍事基地撤廃運動」は党にとっても大切な運動であり、誤った方針で党は全く大衆から見放されているが、真面目な党員が個人の資格で努力している、一刻も早く、党のヘゲモニーを確立せよと主張した。
 そのせいか、次の役員選挙に立候補しろという、ひょうたんから駒が出るようなことになってしまった。
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