7月はWAYAZ合宿などもあり、都合がつかなかったので、2カ月ぶり。
今回は、先日の美彌先生の時に感じた「ありがたい」と、常日頃の自分との乖離、距離を埋めるための相談。
あと、先日のもそうだけれど、何故、いつも音楽家講座で演奏すると、あんなにダメダメになるか?ということで、もちろん原因は甲野先生に良いとこみせたい、という邪念というのはわかっているのだけれど・・
ちなみに、流石に実際のコンサートでは、それどころではないので、そんなこともないのだけれど、やはり素のままの自分は、まだまだ。
このあたりが、いつでも、とにかくフルートを手にしたら、シュっとフルート奏者の心身になりたいなあ、というのが今回の悩み相談でした。
いつもそうなのですが、陽紀先生のお話は、いつもよどみなく、「あ、そうだ。これこれ・・」とまるでドラえもんのポケットのように、次から次に、必要な道具ならぬ教えが出て来る。
例によって「言葉」によるご指導なので、ここに書くことはできないけれど、自分にとっての大きなヒントをいただいたので、キーワードだけ記録。
・指先・空間・他者、 自分・間・他者 、 自分・間・フルート
フルート体(自分とフルート)・音・他者(観客)
実際に短い棒を掴んで、3通りの意識の置き方を体験したのだけれど、こちらの身体の環境がガラっと変わってしまうことに驚いた。
陽紀先生の研究テーマの一つでもある「間」。
これをどのように捉えることが出来るかで、大きく変わる心身。
「他者が居るからこそ、間は生まれるんですよ。」という言葉にはっとする。
これは仏教の「縁起」にも通じる。
それに何より、ハイデガーの「存在と時間」にも通じると思った。
「存在していること」
自分、道具、他者・・もろもろ。
また、この「間」ハタオの思想にもあてはまる?
「空」だからこそ、というのは「間」といってよいのではないか?と思い至った。
ハイデガーも老子も、最初に植村先生から読むように、と本を差し出されたのだけれど、家の本棚には両方ともあるし、読んだこともある、と言ったら、驚かれたような顔で、喜んでいらしたっけ・・
また先生が持っていない本を私が持っていたのをお貸ししたら、羨ましがられたので、一生懸命神田の古本屋で捜してプレゼントしたこともあったっけ・・
『音楽のたのしみ』ロラン・マニュエル 吉田秀和訳 白水社)全4巻
フランスのFM放送の記録で、イベールやプーランク、モイーズがゲストで実際にその番組で語っているという貴重な記録の本を何故か、父が持っていた。
フルートを始める前、小学生の頃になんとなく読んでいて、なんとなくこの雰囲気が素敵だなあ、と思っていた本。中身もゲストもどんな人かよくわからないままに、芸術家たちの洒脱な雰囲気に憧れていた。
音楽を聴くよりも、本を読む方が好きな子供だったので、勉強するふりをして、父の書棚の本は、ざっくりとではあるけれど、こうしたものからハヤカワのSFマガジンまで目を通していた。
とはいえ、やはり、難しく、どちらかというと、そういう知的な言葉の雰囲気にうっとりとして味わっていただけ、というザツな読み方だったけれど。
と急に色々思い出しました。
20年前に植村先生が読め、と仰ったこの2冊の本と、今日のご指導がシンクロするとは・・
何故、植村先生が、この2冊を読めと仰ったのか、ずっと良く分かっていなかったのだけれど、本日ようやく・・・
それはある意味、フルート演奏法の秘伝になるのではなかろうか。
どちらも、「間」に意識を置くことを暗示しているように思える。
帰宅後、早速、音出ししましたが、息の通りが全く違う。
短い棒を持って実験した時と同じことがフルートでも。
なんというか偏らない身体と心?
甲野先生に良いとこ見せよう、というのは意識が他者に置かれ過ぎて釣り合いが崩れるから、というのも納得。
また音楽家講座で受講チャンスがあったら・・今度こそ!?
今回は、先日の美彌先生の時に感じた「ありがたい」と、常日頃の自分との乖離、距離を埋めるための相談。
あと、先日のもそうだけれど、何故、いつも音楽家講座で演奏すると、あんなにダメダメになるか?ということで、もちろん原因は甲野先生に良いとこみせたい、という邪念というのはわかっているのだけれど・・
ちなみに、流石に実際のコンサートでは、それどころではないので、そんなこともないのだけれど、やはり素のままの自分は、まだまだ。
このあたりが、いつでも、とにかくフルートを手にしたら、シュっとフルート奏者の心身になりたいなあ、というのが今回の悩み相談でした。
いつもそうなのですが、陽紀先生のお話は、いつもよどみなく、「あ、そうだ。これこれ・・」とまるでドラえもんのポケットのように、次から次に、必要な道具ならぬ教えが出て来る。
例によって「言葉」によるご指導なので、ここに書くことはできないけれど、自分にとっての大きなヒントをいただいたので、キーワードだけ記録。
・指先・空間・他者、 自分・間・他者 、 自分・間・フルート
フルート体(自分とフルート)・音・他者(観客)
実際に短い棒を掴んで、3通りの意識の置き方を体験したのだけれど、こちらの身体の環境がガラっと変わってしまうことに驚いた。
陽紀先生の研究テーマの一つでもある「間」。
これをどのように捉えることが出来るかで、大きく変わる心身。
「他者が居るからこそ、間は生まれるんですよ。」という言葉にはっとする。
これは仏教の「縁起」にも通じる。
それに何より、ハイデガーの「存在と時間」にも通じると思った。
「存在していること」
自分、道具、他者・・もろもろ。
また、この「間」ハタオの思想にもあてはまる?
「空」だからこそ、というのは「間」といってよいのではないか?と思い至った。
ハイデガーも老子も、最初に植村先生から読むように、と本を差し出されたのだけれど、家の本棚には両方ともあるし、読んだこともある、と言ったら、驚かれたような顔で、喜んでいらしたっけ・・
また先生が持っていない本を私が持っていたのをお貸ししたら、羨ましがられたので、一生懸命神田の古本屋で捜してプレゼントしたこともあったっけ・・
『音楽のたのしみ』ロラン・マニュエル 吉田秀和訳 白水社)全4巻
フランスのFM放送の記録で、イベールやプーランク、モイーズがゲストで実際にその番組で語っているという貴重な記録の本を何故か、父が持っていた。
フルートを始める前、小学生の頃になんとなく読んでいて、なんとなくこの雰囲気が素敵だなあ、と思っていた本。中身もゲストもどんな人かよくわからないままに、芸術家たちの洒脱な雰囲気に憧れていた。
音楽を聴くよりも、本を読む方が好きな子供だったので、勉強するふりをして、父の書棚の本は、ざっくりとではあるけれど、こうしたものからハヤカワのSFマガジンまで目を通していた。
とはいえ、やはり、難しく、どちらかというと、そういう知的な言葉の雰囲気にうっとりとして味わっていただけ、というザツな読み方だったけれど。
と急に色々思い出しました。
20年前に植村先生が読め、と仰ったこの2冊の本と、今日のご指導がシンクロするとは・・
何故、植村先生が、この2冊を読めと仰ったのか、ずっと良く分かっていなかったのだけれど、本日ようやく・・・
それはある意味、フルート演奏法の秘伝になるのではなかろうか。
どちらも、「間」に意識を置くことを暗示しているように思える。
帰宅後、早速、音出ししましたが、息の通りが全く違う。
短い棒を持って実験した時と同じことがフルートでも。
なんというか偏らない身体と心?
甲野先生に良いとこ見せよう、というのは意識が他者に置かれ過ぎて釣り合いが崩れるから、というのも納得。
また音楽家講座で受講チャンスがあったら・・今度こそ!?
以下、学びの記録
1回目・・「フルート体」・末端から動く
2回目・・足 、「ヒトデとウニ」(これは私のイメージ)
3回目・・下駄・目・置く
4回目・・足先・呼吸(間の呼吸)
5回目・・「感じる」と「生じる」の違い・「自分を失くす」・ショートカット
6回目・・「間」、「目的」の取り扱い方。手首、肘裏、歩行、蹲踞
7回目・・フルート体・音・他者(観客)