☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

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【総本山境内地内ヒルクライムについて】良識ある行動を求めます / 谷口貴康先生

2016-02-24 16:13:25 | 今日の光明法語

http://blogs.yahoo.co.jp/tachiyan50/33271420.html

2016/2/24(水) 午後 0:12

 信仰に無関係なオフィスである国際本部周辺でで自転車競技に興ずることは
別に異論はありません。頭でっかちなお宅の様な人達はたまには汗でもカクことは
良い事でしょう。ただ環境問題を考えれば、マラソンか競歩の方が格段に良い事は
言うまでもありません。金属を加工する事は環境に負荷がかかるからです。

 さて、最近になって驚くべき話が伝わってきました。信仰の中心とされる総本山の
境内地内において、自転車競技をするという事なのです。大鳥居をスタートして
東雲台を登りさらに奥津城までを走破するという事のように聞きました。
驚きと悲しみの後に、ふつふつとして怒りがこみ上げてきました。

 私は総本山建立前よりこの地に住み込み、谷口雅春先生の全身全霊をかけた最後の
お仕事に奉仕してきました。全国から多くの信徒の方たちが熱き思いで参集し、
献労して落慶の日を迎え、そしてその後も多くの人達が魂の故郷として

「 谷口雅春先生 !! 只今 帰ってまいりました・・・ 」

と大鳥居を通過するところで涙を流し、谷口家奥津城においては尊師の願いを
継承する力を与えたまえと祈り、次の行動する力を蓄えて各地に帰っていく事が
幹部信徒の第一とすべき心得として何十年という歳月続けられていたのがこの総本山です。

 奥津城のある場所は、谷口雅春先生が輝子先生と共に数回山を登り定められた場所であり、
最後に上られた時は険しい山道を車いすの脇にかご担ぎの様なパイプを通して四隅を
荒地・松下・岩本・菅原という当時若き職員が担ぎ登ったことを思い出します。
奥津城を囲む山々に七つの燈台を計画されたのもこの時でした。

 私がこの総本山を下山してはや10年の年月が流れました。
総裁が三代目となり、信じがたき様々な変化がありました。歴史と伝統はまるで
忘れ去られるように原宿の本部は解体され、龍宮住吉本宮には幽の幽なる神である神を
新たに勧請するという考えられない不可能な事を行ったと吹聴する教団となり、
そのことあるたびに私は谷口雅春先生はどのように御感じになられるのかを祈り聞きました。

「 ならぬものはならぬ 」

この短いお言葉が心に響いてきました。私が長崎の地を離れないのは、
常に谷口雅春先生のお心を忘れてはならないという強い思いがあるからです。

どうか心ある本部職員、そして幹部信徒のみなさん。
谷口雅春先生は晩年このようにお話になられていました。

「 私に会いたいと念願する信徒の人は、直接会えない時があってもこの総本山こそが
私自身の想いを現したものであると知って下さい 」

総本山をヒルクライムなどという自転車競技の場所にするようなことを拒否していただきたい。
服装を整え、感謝のコトバを唱えながら奥津城へ上って下さい。徒歩でも走ってでも結構。
奥津城には心を整えて参拝していただきたく谷口家の一員として強く要望します。
 






その北条時宗を去れ!

2016-02-24 15:20:15 | 今日の光明法語

鎌倉時代に“ 元寇(げんこう)の役(えき) ”で、日本を属国にしようと
攻めてきた “ 元寇 ” を断々呼として退けた勇将が、北条(ほうじょう)
時宗(ときむね)であります。

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“ 自分 ” を超えよ ― 祖元禅師と北条時宗 ―

時宗は、自分の柔弱(にゅうじゃく)な性格を改めたいと思って、
わざわざ宗国(そうこく)から祖元禅師(そげんぜんじ)をおむかえして
教えを受けられたのであります。その時、時宗は、

「 わたしくしの最大の悩みは、自分の性格が柔弱なことであります。どうしたら
この性格の欠点を改めることができますか? 」

とおたずね申し上げた。すると、禅師は、

「 そんなことは何でもない。その柔弱な性格が どこから来るか。
その‘ もと’をたずねて、その‘ もと’を断(た)てばよい 」

と答えられた。時宗は そのとき、

「 その ‘ もと ’ が どこにあるか私には分かりません 」

と言うと、

「 お前の名前は 何といったかね ? 」

と禅師は問われる。

「 北条時宗です 」

「 その北条時宗を去れ ! 」

と禅師は一喝(かつ)された。ここに時宗は、ハッと気がついたのである。

“ 時宗 ” が “ 時宗 ” をにぎっていて、 “ 自分 ” というものを
忘れることができない。自分のいのち、自分の利益、自分の幸福、
自分の名誉・・・・・・等々、いつも “ 時宗 ” がついてまわっているから、
大胆勇敢に事を処することができないのである。

「 どうしたら、この時宗を去ることができますか? 」

と時宗がきく。

「 “ われ在(あ)り ” という念(おも)いを断つのだ 」

「 どうしたらその “ われ在り ” という念いを断つことが出来ますか? 」

「 ひたすら静坐し神想観して身心を静かならしめる修行をせよ 」

「 政治の事がいそがしく神想観に はげむ時間がほとんど無いのでございまする 」

「 一切の事務、一切の仕事、そこが道場だ。その道場に坐って、北条時宗が
今仕事をしているのではない。神が自分を通して仕事をしていて下さるのだと
思って仕事をするがよい。

それが 時宗を去る道である。時宗が無くなり、神のみがそこにある事がわかれば、
もう怯懦(きょうだ)の心も、柔弱な性格もない 」

と教えられた。

それから愈々(いよいよ)元寇の時が近づいた頃、弘安(こうあん)四年正月、
時宗が円覚寺(えんがくじ)に祖元禅師をおたずねすると、
禅師は 「 莫妄想(まくもうぞう) 」 の三字を大書して時宗に与えられた。そして、

「 春夏の候、博多に重大事が起こる。 莫妄想、莫妄想 」

妄想を断てといわれたのだ。元寇のことを予言せられていたのであった。
そしてその年五月、いよいよ元が十万の大軍をもって押し寄せて来たのである。

その報をきくと、時宗は円覚寺に祖元禅師をお目にかかった。禅師は、

「 驀直(まくじき)に向前(こうぜん)せよ。更に回顧すること勿(なか)れ 」

と教えられた。驀直とは“マッシグラに”ということだ。向前とは前に進むことだ。
回顧すること勿れとは、 「 背後の橋を断ち切って、背水の陣を布(し)いて
将軍 時宗なく、神のみがある、ここにあるのは神が前進するのだ 」 と思って進め
という意味であったのである。

こうして時宗の自覚が高まると共に 大自然もそれに感応(かんのう)ましますということ
になり、折からの台風の襲来と共に、さすがの蒙古軍を撃滅することができたのであった。


『 子供と母の本 』 ( 70頁 ~ 73頁 ) 谷 口 雅 春 先 生