日本の国の成立は、他の諸国家の成立と同じようではないのである。
他の諸国家の成立は、先ず個人があって、個人が幸福な生活をするために
団体で生活する方が便利であるというので、個人の幸福生活のための手段として
つくられた 「 契約による団結 」 の如きものであり、
国家は ただ個人の幸福のための手段であり、状態(Stateステート)で
あるに過ぎないから、国家のことを State というのである。
だから、このような国家は、個人の幸福のためにならぬと知ったならば
壊してしまってもよいような国家である。
しかるに 日本の国家は 個人の幸福のために、個人が相談して寄り集ったと
いうような国家ではないのであって、 「 国 」 と 「 家 」 とが
渾然(こんぜん)一体であるところの真に国家というべき国である。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかあまはら)より五伴緒命
(いつとものおのみこと)を引きつれて、天降(あまくだ)って来られて、
本来、一つの家族の生命なる子孫が繁栄して、他民族をも 姻戚(いんせき)関係に
おいて融合しつつ 国家 即 家族 を成 して来たのである。
その高天原が、歴史的考証の上から南洋であろうと、ギリシアであろうと、
ヒマラヤであろうと問うところではないのである。
兎(と)も角、 「 家族 」 が 即ち 「 国家 」 であるのが、日本の国であり、
家長としての代表が 天皇におわしますのである。
ここが断然、日本国家と他の国家との異(ことな)る特徴であるのである。
私たちが、個人を完全に生きるためには 国家をこわしても好いというような議論は
日本の国では成立たないのである。
私たちの生命は、父祖より出(い)で、その父祖の生命は 更に その父祖より出で、
更に遡(さかのぼ)って行くことによって、天皇を中心として貫くところの
「 生命 」 より 私たちの 「 生命 」 が 流れ出ていることを発見すると共に、
日本国民全体が、同じ家族の血の流れの中に於いて 生きていることを発見するのである。
私たち個人が、その生命を完全に生きるには、自分の生命を広く深く生きなければ
ならない。横に広く生きるには、博愛衆(しゅう)に及ぼして、隣人のために
生きなければならない。併しそれだけでは足りない。
私たちは 深く生命を生きなければならない。
という意味は、縦に連綿として貫くところの父祖の生命と共に
生きなければならないという意味である。
父祖の遺業として建設せられたる この日本国家は、父祖の生命の展開であり、
その日本国家を、よりよく理想的なものに完成することは
父祖の生命要求 ( 遺志 ) をつぐことであり、
自分の生命が 「 個 」 として ‘ 分断された生命 ’ を 生きるだけではなく、
「 縦に無窮(むきゅう)につながる久遠(くおん)の生命(いのち) 」 を
‘ 父祖と共に ’ 生きることであり、それこそが、自己の生命を 広く深く生きることだと
知らなければならないのである。
『 人生を見つめて 』 ( 48頁~50頁 ) 谷 口 雅 春 先 生