☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

日本人に於ける愛国心とは

2016-02-07 05:03:38 | 今日の光明法語

日本の国の成立は、他の諸国家の成立と同じようではないのである。

他の諸国家の成立は、先ず個人があって、個人が幸福な生活をするために
団体で生活する方が便利であるというので、個人の幸福生活のための手段として
つくられた 「 契約による団結 」 の如きものであり、

国家は ただ個人の幸福のための手段であり、状態(Stateステート)で
あるに過ぎないから、国家のことを State というのである。

だから、このような国家は、個人の幸福のためにならぬと知ったならば
壊してしまってもよいような国家である。

しかるに 日本の国家は 個人の幸福のために、個人が相談して寄り集ったと
いうような国家ではないのであって、 「 国 」 と 「 家 」 とが
渾然(こんぜん)一体であるところの真に国家というべき国である。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかあまはら)より五伴緒命
(いつとものおのみこと)を引きつれて、天降(あまくだ)って来られて、


本来、一つの家族の生命なる子孫が繁栄して、他民族をも 姻戚(いんせき)関係に
おいて融合しつつ 国家 即 家族 を成 して来たのである。

その高天原が、歴史的考証の上から南洋であろうと、ギリシアであろうと、
ヒマラヤであろうと問うところではないのである。

兎(と)も角、 「 家族 」 が 即ち 「 国家 」 であるのが、日本の国であり、
家長としての代表が 天皇におわしますのである。

ここが断然、日本国家と他の国家との異(ことな)る特徴であるのである。
私たちが、個人を完全に生きるためには 国家をこわしても好いというような議論は
日本の国では成立たないのである。

私たちの生命は、父祖より出(い)で、その父祖の生命は 更に その父祖より出で、
更に遡(さかのぼ)って行くことによって、天皇を中心として貫くところの
「 生命 」 より 私たちの 「 生命 」 が 流れ出ていることを発見すると共に、
日本国民全体が、同じ家族の血の流れの中に於いて 生きていることを発見するのである。

私たち個人が、その生命を完全に生きるには、自分の生命を広く深く生きなければ
ならない。横に広く生きるには、博愛衆(しゅう)に及ぼして、隣人のために
生きなければならない。併しそれだけでは足りない。

私たちは 深く生命を生きなければならない。
という意味は、縦に連綿として貫くところの父祖の生命と共に
生きなければならないという意味である。


父祖の遺業として建設せられたる この日本国家は、父祖の生命の展開であり、
その日本国家を、よりよく理想的なものに完成することは
父祖の生命要求 ( 遺志 ) をつぐことであり、


自分の生命が 「 個 」 として ‘ 分断された生命 ’ を 生きるだけではなく、
「 縦に無窮(むきゅう)につながる久遠(くおん)の生命(いのち) 」 を
‘ 父祖と共に ’ 生きることであり、それこそが、自己の生命を 広く深く生きることだと
知らなければならないのである。



『 人生を見つめて 』 ( 48頁~50頁 ) 谷 口 雅 春 先 生




宗教の経世(けいせい)済民(さいみん)化について

2016-02-06 22:35:20 | 今日の光明法語

宗教の目的は 個人に於いては 生老病死の四苦を解放することにある。
従って ひとり山に籠(こも)るか 一室に静坐して、天地の理を悟り、
永遠不死の生命を覚り、不動の境地に遊ぶことによって 生なく死なく病なく
老なき自己の実体を体得することは、或る段階に於いては必要な過程である。

これは キリストも釈迦も その修行の過程に於いて 通過せられた道である。
釈迦の六年苦行と菩提樹下(ぼだいじゅげ)の静坐はそれであり、
イエスのヨルダン河畔の断食(だんじき)静坐もそれである。

しかし、釈尊(しゃくそん)は 「 天上天下唯我独尊 」の自覚を得られたる後に、
そしてイエスは 「 われ神の子 」 の自覚を得られたる後に、
ただ静坐、瞑想のみを事とせられたかというと決して そうではなかったのである。

釈尊もイエスも政治家には ならなかったが、済世(さいせい)
救民(きゅうみん)のために 夜も日も その生命を献げつくされたのである。

みずから悟りたるのみを以て満足することなく、他を救おうとの
信仰の行動化こそ菩薩(ぼさつ)の行(ぎょう)なのである。

おのれ未(いま)だ 渡(わた)らざるさきに 他を彼岸にわたす行動を
実践するものこそ、真に自他一体の生命の真理を自覚した者だということが
できるのである。

釈尊もイエスも みずから政治家にならなかったが 国王に度々(たびたび)道を
説いておられるし、イエスに至っては 政治家を激しく批判していると見える
ふしがある。そのためにイエスは磔(はりつ)けに なったのであるが、
そのためにイエスは真に救世主となり得たのである。

生長の家の雑誌を 「 ‘ 自分の ’ 精神修養のために読んでいるが、
経済のことや、政治のことがでてくるので 一寸 幻滅を感じた 」 と
いうような投書をいただくことがあるが、

このような人は 声聞(しょうもん)の弟子であって 先人の声を聞いて
‘ 自分が ’ 少しばかりよくなったら好いのであって精神的利己主義に
過ぎないのである。

経済とは 経世(けいせい)済民(さいみん)であり、民を済(すく)うことで
あるから 真に宗教家のつくすべきことであり、政治は マツリゴト であり、
現実界を神界の理想と真釣(まつ)り合せて、現実界に神界の ウツシ を
実現するための道であるから、真の宗教家の道であらねばならぬのである。


『 人生を見つめて 』 ( 64頁~66頁 ) 谷 口 雅 春 先 生




観(かん)の転回(てんかい)

2016-02-05 16:46:47 | 今日の光明法語

「 物質 」 は 物質には相違(そうい)ないが、一度 「 物質なし 」 と
それを否定して、物質に臨(のぞ)まなければならないのである。

「 肉体 」 は 肉体には相違ないが、一度 「 肉体 」 を否定して、
肉体に臨まなければならないのである。 ・・・・・

其処(そこ)で必要なのは、クラリと 「 観の転回 」 をすることである。

物質や肉体や竹箆(しつぺい)を ただ否定するだけではなく、

「 物質、物質にあらず、これを物質と云(い)う 」 ― 
これは諸仏(しょぶつ)の ‘ いのち ’ の波動だと知ることである。

「 肉体、肉体にあらず、これを肉体と云う 」 -
ここに神の ‘ いのち ’ が生きていると知ることである。

人間は 「 物質に非(あら)ず、肉体に非ず 」 と云って、
それを単に否定 し去るのではなく、物質 ‘ そのまま ’ に、
肉体 ‘ そのまま ’ に、 “ 聖霊受胎 ” であるとすることである。


『 無門關解釋 』 ( 第 四十三 則 首山竹箆(しゅざんしつぺい) 312頁 )
 谷 口 雅 春 先 生



真理の精神リズム

2016-02-05 09:33:38 | 今日の光明法語

聖典を読むということは、覚えてしまったら もう読まなくても好(よ)いと
いうようなものではないのです。

これは仏教のお経でも、神道(しんとう)の祝詞(のりと)でも
キリスト教の讃美歌でも、此(こ)の 『 生命の實相 』 でも同じことです。

お経でも祝詞でも讃美歌でも、言葉に出して唱えるところに、そこに言葉の力で、
自分の心の中と、この大宇宙の中に善き精神的リズムを生出(うみだ)す ー 
それが肝腎なのであります。

「 言葉 」 に出すと申しましても、必ずしも 「 音読(おんどく) 」 しなければ
ならぬというわけではなく、黙読(もくどく)もまた言葉です。

ともかく、読んでいる その時に起(おこ)る心のリズム 「 精神波動 」 が
大切でありまして、真理を読めば 真理の精神リズムが発生し、

それに従って迷える霊魂に 悟りを開かせ、神 及び 高き霊魂を招き寄せ、
病的念霊を退散せしめて、病気が治ることになるのであります。

だから、もう原理を知ったなら、記憶したなら、読まなくても好いというわけの
ものではありません。


『 新編 生命の實相 』 ( 第 6 巻 「 生命円相の真理 」 164頁~165頁 )
 谷 口 雅 春 先 生




合掌修行

2016-02-05 09:07:10 | 今日の光明法語

合掌修行をするときには、必ず招神歌(かみよびうた)をとなえて、
正しき神の来臨(らいりん)を願って、その守護のもとに

悪霊(あくれい)の感憑(かんぴょう)を避け、同時に自分の心は、
完全円満なる存在の実相、神の子たる自己の実相を観(かん)じ、

心のリズムを高めて、低い霊波と波長を合わせないようにすることが
必要なのであります。


『 新編 生命の實相 』 ( 第 6 巻 「 生命円相の真理 」 175頁 )
 谷 口 雅 春 先 生





愛の神による運命の修正

2016-02-03 22:38:42 | 今日の光明法語

【 運命の神癒治療をなすには 先ず神に祈れ 】


私は本稿の始めに、「 今日展開する人間の運命 」 というものは
過去のその人の念の集積の現実化として、‘ 既に 前日以前に決定している ’という
多数の事実を挙げた。

そして それに続いて‘ 今日の運命が 今日の祈りによって改善された ’と
認(みと)むべき四つの実例を挙げたのであります。

( 1 ) 吾々の今日の運命は 既に決定している。
( 2 ) しかし今日の運命は 今日の祈りによって改善される。

この二つの一見(いっけん)相反(あいはん)するが如き事実は
如何(いか)に解釈すべきものであろうか。どちらも正しい。

吾々の 「 今日の運命 」 は 既に吾々自身の過去の念の自然的展開、
自然的自叙作用、自然的自浄作用として高まれる波が、平(たいら)かに
復(ふく)する自然の作用として決定しているのであります。・・・・・

‘ 因果は 迷いの世界では 破ることが出来ない。 ’・・・・・

しかしながら、吾々が一(ひと)たび 神に祈りますときには、
神は光でありますから、光の前に闇の世界の法則は消え、
その迷界(めいかい)の法則は 超越されてしまうのであります。・・・・・

では 誌友よ、運命の神癒治療(メタフィジカルヒーリング)をなすには
先(ま)ず 神に祈れ。

今日の運命は 吾らにとっては 既に決定したものでありますが、
‘ 神の前には 尚 修正の余地のあるものであります。 ’

況(いわ)んや 吾ら自身にとっても 未決定なる吾々の将来の運命が、
吾々の祈りによる神への結び附きによって 如何に改善良化されるかは
論(ろん)を俟(ま)たないのであります。

そして吾らの祈る対象たる神は、すべての闇を照らす光なる神、
すべての罪を許し給う無限絶対の愛の神でなければなりません。
生長の家の神様は そういう愛の神の一顕現として お現(あら)われに
なったのであります。


『 新編 生命の實相 』 ( 第 6 巻 「 生命円相の真理 」 147頁~150頁 )
 谷 口 雅 春 先 生







心の世界における運命の形成

2016-02-03 22:31:02 | 今日の光明法語

『 生命の實相 』 ( 新編版 第 2 巻、頭注版 第 1 巻 ) の中で、

心の世界における運命の形成 」 という章がございます。


常に、言葉の力で、「 私は 神の子である 」 という思想の種子(たね)を

自分の心に植え付けるようにしましょう。


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私は 神の子、完全円満、無限力なり。

私は 神の子、毎日 あらゆる点において、一層 すばらしくなる !

私は 神の子、うれしい !  たのしい !  ありがたい !

うれしいなぁ~ たのしいなぁ~ ありがたいなぁ~

ありがとうございます。 ありがとうございます。




肉体も境遇も心の影であるから、生命自身の創化作用で自由自在になる

2016-02-03 16:45:15 | 今日の光明法語

肉体も境遇も心の影であることを知れば、肉体や境遇に執着しなくなる。
その結果 却(かえ)って 生命それ自身の創化作用が 伸び伸びと発現されて、
却って肉体も境遇もよくなる ―
病気もなくなり境遇も改善されて来るのであります。 ・・・・・

だから 幸福な生活、健康な生活には 自己の 「 生命の実相(ほんとうのすがた)が
霊なる神の子である 」 という真理をさとることが 肝腎(かんじん)であり・・・・・

真理を覚(さと)った人、即(すなわ)ち 真理 ( 神 ) と結ばれた人の上には
神の智慧、神の思慮分別というものが導いてくれるのであります。


『 新編 生命の實相 』 ( 第 6 巻 「 生命円相の真理 」 109頁~111頁 )
 谷 口 雅 春 先 生