新約聖書入門―心の糧を求める人へ (知恵の森文庫) | |
三浦 綾子 | |
光文社 |
三浦綾子さんの本はちょっと前に結構は待って読んでいました。面白いんだけど、宗教的なものが入ってくるとちょっとひいちゃったりしながら読んでいたんですが、この本は三浦綾子さんが疑問や理解が浅かったところなども含めて自分の経験からいろいろ話してくれているので、とてもわかりやすく読ませていただきました。
福音書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがあって、ヨハネ以外を共観福音書と言うそうで、そのほかに使徒行伝、書簡、黙示録があるなんていうこともはじめて知ったわけです。
自分は無宗教で、神の存在も否定する立場ですが、ここで紹介されている内容は人としてどう生きるのかというところではとても共感できるものです。そういう点では、人間社会の中で、宗教がいい影響を与えてきたことも事実だし、この教えに忠実であれば、人としての道を踏み外すことはないと思えました。
それが、なぜ、人の行いという範囲ではよさそうに思えるのに、歴史的な場面で、この教えに反していると思えるような行為が神の名の下に行われるのかがとても疑問です。アメリカの侵略の歴史も、神の名の下に行われてますが、なぜ、キリスト教のなかでこんな行為が許されるのかよくわかりません。
政治や経済的な問題はおいといて、宗教的な理由として、他の宗教の存在や宗教を認めない輩はつぶしてもかまわないという論理だとすれば、時の権力者がその権力を維持するためにイエスの存在を消そうとした論理と同じになってしまうのではないかと思えます。
宗教が国家と結びつくと、その国家の維持のために利用されるということなのかもしれませんが、その時点で、宗教は自浄能力を発揮できないのでしょうか。
あと、面白いのは、やはり「愛」という言葉の位置づけが大きいことでした。信仰があっても、どんな行いをしても、愛がなければ無に等しいとか言ってるし、見返りを求めない愛の形を感じて、いつまでも存続するものは信仰と希望と愛で、「そのうち最も大いなるものは愛であるといっています。その「愛」という自分的には照れてしまう言葉の宗教的な重みを感じました。くだらない歌の歌詞の「愛がすべてだ」「愛は地球を救う(って結局金かい!)」みたいな軽いものとはまったく違うんですねえ・・・
そしてもう一つ、「復活」がとても重要なことだということもなんとなくわかりました。「復活」がウソだったら、「私たちはすべての人たちの中で最もあわれむべき存在となる」という、存在意義の否定になるほどの意味があるようです。
この本の中でも、イエスが死に至るまでのよわっちい弟子たちが、その後は相当すごい弾圧を受けて殺されていて、そこにいたった変化に、復活があった事実を裏付けているみたいな書き方をしています。(そんな断定的には言ってない?)
最後に、人は悪いことを隠そうとするけれど、むしろ、いいことをしてもひた隠しにしなさいみたいな文章があって、自分は、人の評価を求めてしまう人間なので、「人の評価なんか、所詮人の目線であって、そういった行いは神に対して行うもの」みたいなところはとても励まされました。
神にという言葉は、真実とか、事実とかに置き換えたい気はするんだけど、人の評価を気にして行動するのはやはりちがうとおもいます。
しかし、やっぱり自分は悪いことの方をひた隠しにする人間です。
なんか、心の糧をここに求めてもいいかもしれないなあ・・・と、ちょっと思いました。