ドイツの戦争犯罪人を連合国が裁いたニュールンべルグ裁判を3時間のドラマにしたものです。アメリカの作品です。まあ、この場合、主人公の側はアメリカだから、まだ許せます。
この裁判で、ただ、戦争をしたということでなく、人道に対する犯罪という新しい概念をうちだしました。
まだ、前半しか見ていませんが、最後に出てくる「強制収容所」(さっきの本でいう絶滅収容所かな?)の実録フィルムは、気持ちを重くします。被害者は当然そのときのことを思い出し、目をそむけてしまうだろうし・・・そして、裁判の傍聴をする人も追及する側も、裁判長も、実際の加害者の人たちも、その多くが、初めて見たその光景に、言葉を失ったでしょう。人間が、ここまで悪魔になれるのかと。
そういう衝撃があったはずです。
それまではただの数字でしかなかったモノが、ひとりひとりの犠牲であることがこの映像で結びつくわけです。ヒトラーを信望して、ドイツのための国づくりと思っていた信念も、この映像で動揺したかもしれません。
ニュールンベルグはそのとき廃墟でした。あのヒトラーの映画で党大会を開催したあの美しい光景はまったくありません。瓦礫の山が続くだけです。
後半に続く・・・・
なぜか不倫しちゃいますが…
まあ・・それはいいとして、いよいよ後半部分です。
判決が出ます。
ひとりひとり、4つの項目で有罪かどうかをそれぞれ、読み上げ、結果が出されます。
①侵略戦争などの共謀への参加
②侵略戦争などの計画、実行
③戦争犯罪
④非人道的犯罪
流れで見ると、やはり、3と4について有罪だと判決も重くなってます。
調べたら、ニュルンベルグ裁判も結構批判も多いみたいですね。
実際のこの裁判の歴史的意義というか、どうだったのでしょうか。
いずれにしても、ドイツのえらいところは、その裁判の後、国が自ら、戦争犯罪を追及しているところです。
人は人を裁く権利はあるんでしょうか。人が人の死を決めてしまう死刑って・・・正義のための殺人はあるんでしょうか…正義の基準は?なんて考えて行くと、よくわからなくなってしまいます。
恐ろしいのは、ユダヤ人を殺すことを何とも思っていないことです。この人たちにとって、ユダヤ人を殺すこと自体がドイツのための正義だったわけです。
被告の人たちの家族や看守とのやり取りなんかで人間的な一面も見ることができます。人間であると同時に人間でなくなれるところが人間の恐ろしいところです。
人ってなんだろうか…
最後の、絞首刑のシーン、死刑が続いていくのを見ているうちに、だんだん何でこの人たちが殺されていくのかわからなくなっていきます。
人が死ぬということに大きな抵抗感があるから当たり前ですが・・・
逆に、人を殺し続けると、その抵抗感も薄れるんでしょうね。それが日常になるから。
ゲーリングが、アメリカに対して、広島や黒人差別のことを言って、アメリカのやっていることとドイツのやっていることのどこが違うんだ!?というところは、正直何も言えないですよね。
正義の法廷を取り仕切る国家が、正義の国家とは限らないですもんね。そこでいろんな矛盾もあったのかもしれません。政治的要素が濃くなればなるほど、本来の裁きとはずれて行ってしまいますからね。
ソ連もそうですよね。それんだってまともな国家じゃないですもんね。
この裁判は、歴史的意義はありつつも、矛盾もあったということなんでしょうか。もうちょっと勉強してみないとわからないですね。