| ランボー―怒りの脱出 (ハヤカワ文庫 NV (385)) (ハヤカワ文庫 NV (385)) (ハヤカワ文庫 NV (385))デイヴィッド・マレル早川書房このアイテムの詳細を見る |
映画ランボー怒りの脱出の小説です。
映画ランボーと、その原作の小説は、お話はまったくの別物・・・というと言いすぎかな?・・小説ではランボーは死んじゃいますし、トラウトマンとの関係も、顔も見たことがないグリーンベレーの養成所の校長ということで関係はすごく希薄で・・・ランボーとティーズルの心の葛藤なんかも描かれていたり、・・・そうそう。ティーズルのことが結構ランボーと同じくらい前面に描かれていて、主人公はランボーとティーズルって感じだし・・・そういう点で映画とはまったく違う世界を感じることができました。
とはいっても、ランボーの映画を何度も見ているので、思い浮かぶ映像は映画のキャストの顔ぶれで、風景も映画の風景でしたが・・・
それで、この2作目につながるのですが、小説ではランボーもティーズルも死んでいるので当然続編はできません。ジェームスキャメロンの映画の脚本を元に原作者デイヴィドマレルさんがあらためて執筆したものだということです。
ということで、映画のランボーの続編ということになるわけですね。
だから、小説のランボーを読んだあとに続いてこの小説を読むと、なんとなく違和感があります。ランボーが生きているというのはまあ、生きてるのが前提じゃなきゃ話がすすまないのでそれはいいとして、トラウトマンとの関係が小説を引きずっているとものすごい違和感があります。前の小説では顔も知らない、自分をこんな殺人機械に仕立て上げた男・・・という「仲間」でなくて、敵・・・とまではいかないけれど、ランボーを助けてくれる人ではなかった感じだったので、そのイメージのままこの小説を読むと、いつの間にこんな近しい関係に?という感じになってしまって・・・
ランボーの性格も、なんとなく変わった気がします。
小説では結構自分から暴れまわって、多くの人を殺してるけど、映画では、やむにやまれず追い詰められてちょっとした過ちで一人人を殺してしまったけれど・・・って感じですもんね。その辺も、どっちのランボーに合わせていいのか、戸惑うときがあります。
さて、また読みすすめながら、書き足していきたいと思います。
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それで3分の2ほど読みすすめました。
映画の流れと同じように進んでいますが、小説ならではのところもあります。
ひとつは、「禅」がでてくるところ。ランボーの宗教観とでも言いますか・・・1作目の小説ではかなり「無神論者」であることが強調されて、それでも、たまに「神よ!」みたいに時々その信じていない神にすがると言うか、思わずそれが脳裏をかすめるというかたちででてきますが、今回の小説では、ランボーは「禅」を取り入れていることが書かれています。
ただし、これは、心のよりどころとか、宗教として「禅」を取り入れているということではなくて、生き延びる手段として「禅」を取り入れることが最も合理的ということででています。
「禅」というものがどういうものなのか、自分自身よく知りませんが、無の境地にすることで、難局を乗り切るということですね。このお話では、目の前の事実を否定していくと言うか、痛いと思うから痛いんだ・・・みたいな、観念的に思い込むことで無になっていくという、主観的観念論の立場とイコールになっています。
無になる(無心になる)ということが、現実の否定とつながっているわけですが、「禅」の立場がそういうものなのかはよくわからないのでなんともいえません。自分としてはそこのところは違和感を感じました。
それはそれとして、その無の境地に立つことを難局を乗り越える手段にしているランボーには好感を持ちます。
あと、弓矢とランボーの関係がここでは描かれていて・・・インディアンの血が流れているランボーが云々・・・弓をひく力というのは、実際の力のあるなしではなく、なんたらかんたら・・・正確ではないけれど、もっと精神的なものというか、太極拳的というか・・・「禅」と結び付けてもいましたが、力でひっぱろうとか、目で的にあてようとか、そういう余計な力がぬけたときにうまくいくというか・・・・まあ・・・読んでください。そういう精神的なところだけでなく、弓の構造とか・・ランボーの使っているナイフの説明とかもあります。普通はすすをつけて光沢を消すんだそうですが、このナイフは最初っから光沢がないようにコーティングしてアリアンス。アリアンスって・・・「あります」の間違いです。
あと、戦場では女のことを考えなくなるとか、・・・でもオナニーは時たまするとか。
そして、今回読んだ最後の方では、ランボーがつかまったときに、ヘドロに体を沈めさせられちゃうシーンが出てきますが、そこの描写がまた・・・あのコウモリとか甲虫のシーンを思い出させますが、かなりきつい描写ですが、そこで、その坑道での体験が回想ででてくるのです。作者は、ここは小説のランボーとつなげているわけです。
そう。確かに、コーとのやり取りをみていると、映画の暗いランボーではなく、小説の、口も達者なランボーである感じがします。そこで、やっぱり、このランボーは、小説の続編という要素が濃くなってきます。そうなってくると、トラウトマンとの関係が矛盾してくるわけですけれども・・・
まあ、完結させてしまった小説の続編を書く・・・死んだ人間を生き返らせて話を書くという最大の矛盾があるので、そういった矛盾は避けられないわけだけれども・・・作者の思い入れは、やっぱり映画のランボーでなくて、小説のランボーだろうから・・・それは仕方がないことです。
コーはランボーに結婚を迫ります。ランボーもそれを受け入れます。アメリカに行くための手段でもあるわけですが、明らかにそこには、2人の心の結びつきがあるわけです。
つかまったランボーを助けに行くコーの心の中は、私の男を助けなければ!という強い気持ちがあります。
さあ、コーが助けに向かいました。
―つづく―
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コ―は映画と同様死んでしまいます。
コーの存在はランボーにとって大きかったみたいです。何しろ、ずっと失っていた女性に対する感情を呼び覚ましてくれたのですから。だから、コーの死はランボーにとって大きな転機になります。
ベトナム戦争だって、今回の戦いだって、自分の意志で戦ったわけじゃない。でも、コーの死によって、自分の意思として、相手を殺そうと決意するわけですね。
積極的に怒りの矛先をベトナム兵にぶつけていきます。ぶつけるということは殺すということです。恐ろしいことをするもんだと思いますが・・・そうなっちゃったもんは仕方がない。
ベトナム戦争のときにランボーが脱走したおかげでこんな山奥に居続けなければならなかったテイさん、マードックとトラウトマンのやり取りなど、絡みながらいよいよ最終版に突入します。
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そしてランボーは殺します。殺します。殺して殺して殺します。
ヘドロにぶっこんじゃうところ想像すると「うげぇ」ですね。時間がたてばヘドロの仲間入りだろうけど・・・ヘドロは、どんな人間でも受け入れてくれます。人間が受け入れないだけです。あー気持ち悪い。
ランボーはどこへ行くのでしょうか・・・・
おしまい