三浦綾子さんの本を読んでまた観たくなったので観ましたが、やっぱりすごいです。何度観ても重苦しい。大工だったころの身軽さや教えを説くシーンの穏やかさが別人のように、悩み、苦しみ、痛めつけられている、そんなイエスをずっと見せ付けられます。苦しみつつも、なぜあれだけ神に忠実でいられるのか、人に対して愛を向けられるのか、考えてしまいます。
自分はできないですよ。人に傷つけられて、ああ、この人はこういう人なんだと切り捨て、その人とまともに口を利く気にもなれないし、毎日がつらいとなんで自分だけが?と思ってふてくされちゃうし、長々だらだらした会議なんかに出ちゃうとすごいイライラしちゃうし、これはよく言われますが、小さい人間なんですよね。でも、その感情はなかなか拭い去れない。拭い去ろうという努力もしてないですけど。
イエスは死ぬことによって自分の存在意義を示したような気がします。磔にされるまでのあいだに、何度も助かる道はあったけれど、自分が死をもって背負わなければならないものを自覚していたのでしょうね。あえて生きるという選択を自ら無くしていった気がします。苦しくてもつらくても痛くてもイエスは死ななければならなかったのでしょう。
今回も、母親が床に飛び散ったイエスの血をぬぐうところと、十字架を背負って倒れるところで子どものころとオーバーラップするところなど、母親が出てくるところで涙が出てしまいました。
あと、金具のついた鞭であばらのところが引き剥がされるシーンは思わずうなってしまいました。
人間のおろかさを象徴するように、鞭打ちで傷つく人がいても笑っていたり、酒に酔いながら十字架を運ぶイエスを痛めつけたりする兵隊たちがいますが、それは、その場にいない人たちも、その後、時を越えて現代に至っても、世界の戦争や紛争、日本でも今の政治で苦しめられている人たちがいる中でもそれを知らずに傍観している自分たちのようにも思えました。
映画を観ただけではわからないのは、ユダが裏切り者とされるところで、ただイエスの居場所を教えただけだと思うんだけど、そのときのイエスは、別に隠れていたわけではないだろうに。ユダが教えなくても、どの道そうなったような気がするのです。そこのシーンだけでなく、もっと最初の計画の段階から、深く関与していたということなのかもしれませんね。三浦さんの本では民衆を恐れてかなり秘密裏に裁判なんかもやられたらしいので、いついつの夜中にイエスを捕まえて、民衆を組織して、裁判をやって刑を執行してもらうという短時間で事を運ぶためにかなり綿密に計画されていて、計画は最初の段階からユダが関わっていたということなのかもしれません。
DVDの付録でQ&Aを読みましたが、旧約聖書にでてくるメシアの到来が、イエスだとするのがキリスト教で、メシアはまだ訪れないというのがユダヤ教・・・みたいな事を書いてありました。インターネットで見たら、イスラム教は、モハメッドもイエスも預言者で神の名前がアラーという神なんだそうで、もともとのルーツは一緒なんですね。
そんなこんなで、いろいろ勉強になりました。
三浦綾子さんの本には預言者は予言者じゃないよって書いてありました。預言者とは神の声を語る人みたいです。
ユダヤ今日の人が自分の服をびりっと破くところとか、片耳を切りおとすところとか、砂に線を引いて云々するシーンとか、ロバにまたがってるシーンとか三浦さんの本や安彦さんのマンガを読んだところがでてくると知った気になってうれしくなります。あくまで知った気で、ここに書こうとすると、また自分の知識の無さが邪魔をして、うまく表現できなくなってしまいますが。
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2010/7/20
よかったとか、いい映画とかいうより、すごい映画です。
映像でうったえるという点で、この映画はすごい力を持っています。
最初のシーンからイエスはこれから起こることに恐怖し、おびえています。
そして、なぜ神は私を見捨てたのか嘆きもします。安彦良和さんのイエスでも、苦悩するイエスは印象的でした。
この映画を見てあらためて、イエスの人間らしい弱い部分に感動します。安彦さんがあとがきで書いているからその影響がつよいですけど・・・
弟子に対しても、裏切り、救おうともしない態度は、心の中では、うらんでいたかもしれません。自分にそれまで寄せていた忠誠はなんだったのかと。それは彼が求めたものでなく、一方的に押し付けられた忠誠だったとしても、いや、そうであればなおさら、利用されていた自分を感じてしまうのではないかと思うのです。
あの、忠誠を誓うペドロに「私を3度知らないというだろう」というシーンはドキッとするシーンですが、それは預言者としてすごいということでなくて、弟子に対する不信というか、言葉の軽さに対する苛立ちを感じるのです。言わずにいられなかったというか・・・
最初のシーンも、自分がこんなにつらい思いをしているのに、平気で寝ていられる弟子への苛立ちにも見えます。
人間の社会の中で、人間の汚い部分を人一倍感じることができ、その世界を嘆きながらも、それらを救うために、純粋に神の御心にわが身をささげる姿が、人間としてとても尊敬できる姿なのではないかと思ったのです。
悟りきった超人が何の迷いもなく死んでいく物語だったら、自分は感動しないと思います。
苦悩しながらも、自分の信念、正しいと思う道をすすむ、それがたとえ自分の死の道だったとしても、その死に向かう恐怖におびえながら、苦しみながら、それを全うする姿に感動するんだと思いました。
神を信じない立場からの感じ方ですが・・・
そこで疑問が出てきます。
イエスが死んだあと弟子によって広げられたキリスト教は、イエスの教えを忠実に守ったものなのか。イエスを利用して自分の利益のために弟子たちが都合よく作り上げてしまった可能性もあるのかな・・などと思いつつ・・・
でも、友達が言ってました。弟子たちも時の権力に殺されてるらしいですね。
みながら、弟子たちを嫌悪してしまう感情が沸きつつも、それが人間なんだよなあ・・・とも思ってしまいます。イエスが愛した人間の姿なのかもしれませんね。自分がその状況になったときに、どういう道を選択するのか。いくら崇高な理念を並べ立てていても、そのときになってみないと、人間の行動はわかりません。だからこそ、イエスの選ぶ道が感動させるわけですが・・・
あと、その中で美しいのが女性ですね。
母親の愛も感動です。磔られたあとに、「婦人よ」といったのは少し寂しい気がしましたが、イエスの使命がそうさせたのだと思いますが・・・
自分の生んだ子はほかの誰とも違うのに、それは、人間のエゴで、人類みな兄弟みたいなことを言ってのけちゃうんだから。いや、ヨハネに「母親を頼んだよ」ということなのかもしれませんが・・・
もうひとつ、最後の復活のシーンは必要だったのかが疑問でした。
自分にとっては、人間イエスの物語としては死ぬまででよかったのですが・・・
でも、実は、キリスト教にとっては、この「復活」が重要らしいです。よくわかりませんが・・・
今回はいろんな知識がある友人と見たので、それまでの感想よりも、ちょっと進歩したかな?
まあ、いろいろ考えさせられました。仕事が始まるのでこの辺で・・・
2006/12/15
自分は無神論者ですし、聖書のことも歴史的なことも知らない人間なので、その教え自体が正しいかとか、史実に合っているかとか、そういう事は抜きにして一人の人間が無実の罪を負わされて、何らかの政治的な思惑も絡んで命を落としたという話というだけで、かなり重いテーマであると思います。
一番心に来るのは母親の子に対する愛情です。十字架を落として倒れる時に子どものころとダブりながら走り寄るシーンは見ていてつらいものがあります。
キリストの目がこわい。目の色が恐い。傷つけられた体が恐い。回想シーンできれいな顔のキリストが出てくるので、それと見比べてまたまた恐くなる。何を考えているのかがわからないのもちょっと恐い。
最初から最後まで目をそむけたくなるようなシーンの連続ですが、画面から目が離せなくなってしまいます。
お母さんも傷ついていく息子の姿はみていられないでしょう。でも、最後まで見届けます。それがお母さんです。たぶん・・・・
あのムチは反則わざです。でも、そういう拷問の道具が事実としてあったということに人間の恐ろしさを感じます。そして、それは2000年前の過去の話ですといえない現代の世界でも同じような人間の狂気があるわけです。
でも、一方で、正しい心や理性は、2000年分成長しています。そこに希望をみたいと思います。
教育基本法が今日変えられました。これは日本の歴史の逆流であり、権力の力によって理性や正しいものを押さえつけられた結果なわけですが、いっぽうで、なぜそこまで世論を無視して急いで成立させなければならなかったのかを考える必要があります。本当に正しい法案であったら、ゆっくり時間をかけて審議すればいいのを急がざるを得なかったところに安倍内閣の基盤の弱さというか大義のなさを感じたわけです。
そして、じゃあ、通してしまったらそれで喜んでいられるか・・・そう簡単ではないと思います。無茶をすればそれだけ反発は大きくなると思います。そして、火種は必ず大きク燃え上がります。チャングムもきっと這い上がってくれるでしょう!
パッションの話でした・・・
・・・またあと一年はみたくない・・・・
2005/08/07 03:45
キリスト教のことは知りません。信じてもいませんし・・
キリストが何を皆に教えたのかもわかりません。正しいかどうかも知りません。十字架にかけた人たちがキリストの何に憎しみや恐怖を持ったのかも知りません。
この物語には、キリストが何をしてきたのかは描かれていません。つかまってから磔にされて死ぬまでが描かれているだけです。
この物語は、人間が描かれており、人間の社会の構図が描かれていると思います。
キリスト教が本当に正しいかどうかは別として、「正しい」ことが必ずしも社会の大勢とならないし、正しいものが迫害を受け、それを貫くには、まさに命をかけなければならないことがあるということを感じました。
体制は力によって大衆の思想をコントロールできてしまう。その思想的な支配によって体制を維持するわけです。
そして人間は環境によって、人間をさげすみ、残虐になることができることも思いました。この映画でショックなのは、キリストを磔にしたのは、大衆でもあるというところですね。
人間の強さ、弱さ、やさしさ、冷酷さ、この12時間にいろいろなものが凝縮されているような気がしました。
ストーリーは最初から同じテンポで進んでいきます。でも、退屈にはなりません。重苦しい感じがどんどんのしかかってくるような感じでした。
鞭打ちのシーン、十字架を担ぐシーン、釘を打たれるシーンは、もう、凝視するしかないって感じでした。(・・・っていうか、目を背けろよってかんじですか?)
この物語の面白さは、基本的に神が出てこないところだと思います。奇跡も起きないところ。(まあ、地震がおきて、手に穴のあいた人が立ち上がったりはするけれど・・・)人間が人間によって殺されていく姿をただ描いているところだと思います。