モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

信仰

2020-07-17 06:23:38 | 教義と聖約
「信仰がなければ何も行えないことを覚えておきなさい」教義と聖約8:10

料理を作るときに、出来上がった料理を美味しいと喜びながら
食べている姿を思い描くのは信仰とよく似ています。
それを信じることなく、美味しい料理を作ることができるのでしょうか。

働くときに、その成果に報酬が伴うと信じることも信仰とよく似ています。
それを信じているから誠意をもって働くのではないでしょうか。

相手を信じないデートを楽しむことができるでしょうか。
疑いの心を抱えたままで正直な会話ができるでしょうか。

主の言葉と約束を信じているので、
誠心誠意をもって主に従い、その報いを期待して喜ぶことができます。

すべての喜びは信じることから始まります。
信じることができないとしたら、その心は苦渋の中にあることでしょう。
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賜物

2020-07-16 06:00:15 | 教義と聖約
「あなたの賜物…を使いなさい、そうすればあなたは幸いである」教義と聖約8:4

旧約聖書の冒頭には神による”この世の創造”の業が記されています。
つまりこの世は神から与えられた賜物です。

宇宙と地球や自然、わたしたちの肉体も、この世で過ごす時間(人生)も、人との交わりも、
経験とそこから学ぶ事柄も、身体的な力、霊的な力、信仰や御霊も賜物だと思います。

さて、わたしたちはこれらの賜物を”大切にし、有効に活用”しているでしょうか。
そうであるなら、神からの賜物は人に幸福をもたらし、
逆に粗末に扱い、乱用し、奪い合うなら人類に災いをもたらします。

賜物によって受けている祝福を感じているなら、
感謝して大切にし、どのように扱うべきかについて慎重になることでしょう。
それは人に喜びと充実感、生きることの意義を与えてくれます。
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思いと心②

2020-07-15 12:01:29 | 教義と聖約
思いと心が主に向かって一致していると、心の内に”さわやかな青空のような充実感”があります。
方法性のズレが大きくなるほどに、すっきりしない”心に霧がかかったような気分”になります。

心の内に御霊があるなら、悪を考えるときに葛藤が生じるでしょうし、
この世のものへの執着があるなら、霊的な事柄に没頭することが難しくなるでしょう。

思考では主を信じようとしていても、心に疑いがあると、祈りの応えを受け難くなるようです。
”主を望む思いと主を信じてへりくだる心”のあるときに御霊は下るように思います。

思いと心が一致して主に向いている人の特徴は、心が安定していることでしょう。
心に平安があり、怒ることに遅く、心が揺れ動くことも少ないので、
御霊の助けを受けることは比較的容易いようです。

「主を信じている」と言いながら怒りの気持ちを抱きやすいなら”心を主に委ねることができない”
つまり心から主を信頼することができていないのかも知れません。
そのような人の心はいつも揺れ動いています。
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思いと心①

2020-07-15 06:43:33 | 教義と聖約
「あなたの心の中に留まる聖霊によって…思いと…心に告げよう」教義と聖約8:2

「心」はどこにあると感じますか。
わたしは胸の奥、それこそハートと言われる部分にあるような気がします。
心には感情があり、聖霊の力は心に働きかけるようです。

「思い」はどこにあるのでしょうか。
頭の中にあるように感じられます。
思いには思考があり、天使の言葉、啓示は思いに与えられます。

聖霊から心に与えられるのは平安、心が震える、胸の内に燃えるものなど、
非常に霊的、感覚的なもので、言葉ではうまく説明することができません。

天使から思いに与えられる啓示は、直感やひらめき、理解力であったり、
記憶を呼び起こしてくれるものであったりします。
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正直な心

2020-07-14 06:33:17 | 教義と聖約
「信仰をもって正直な心で求めるものは…確かに与えられるであろう」教義と聖約8:1

心理テストやカウンセリングなどで”自分の意外な一面に気付いた”という経験があります。
「自分の正直な思いが見えていなかった」ということのようです。

主を信じているつもりであったのに、ふとした時に”疑いの心”のあることが見えたり、
心に生じる怖れによって”主に従えない自分”に気付いたりして、気落ちすることもあります。

そのようなときに、サタンの誘惑にさらされて信仰が揺らぐこともあります。
同時に「主に従うために頑張りたい」と願う気持ちも感じています。

そのような様々な感情に混乱することもありますが、
どれもが”自分の正直な心の一面”ではないのでしょうか。
それらを受け入れなければ、”真の悔い改め”に至ることはできません。
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