風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

とある男性作家

2008年06月08日 19時26分43秒 | エッセイ、随筆、小説





最近になって読み始めた男性作家がいる。
その人は苦労人で、幼少の頃から作家を目指していたものの、
作家としてデビューできたのは40歳を過ぎてから・・・だそうだ。
先日、その人の小説ではなくてエッセイを初めて買って、
実はちょっと後悔していることを書きたいと思う。


ものを書けない私が「なにを生意気に・・・」と自覚しながら書くので
その辺は「自分のことを棚上げして・・・」などとは言わずに
ぜひ、ご勘弁いただき、この愚文を読んでいただけたら・・・と願う。
時代なのか、それともその人そのものなのかは私にはわからないけれど、
気分的には“肩透かしに遭った”とか“期待を裏切られた”という言い方が合っているように思う。


それはエッセイの中に「学力と出身校」に関わる記述によるもので
今も昔も“収入の多い家庭=高学力の子息を生み出す背景”というお決まりの方程式が
さも当然のように書かれていたことによる。


そこには「見えざるカースト」という表現も使われていて
日本の社会的階級について触れられていた。
それは昔の日本を指しているのではなくて、現代の日本についての記述だったので
私は驚いてしまったのだ。


「親の収入と機会や経験のチャンスと子供が学業に費やす時間」については
実際に私も一理あると正直に思う。
だから、それについては否定も異議を唱えるつもりもない。
もちろん、その作家はそれを言い切っているのではなくて、
むしろ、進学校に通い、家庭環境的にも恵まれている者は
社会的構図が見難いハンディを負っていると言っている。
ということは、私が解釈しているのはその作家への誤解なのだろうけど、
なぜかしっくりと入ってこなかったのには、なにかわけがありそうだ、と
自分の感情に忠実になっただけのことなのだが。


私はその作家に抱いていた熱狂にも近かった崇拝が一気に、一瞬にして冷めてしまった。
自分でも実際によくわからないのだけど、
その作家にはそうしたことを
言葉に置き換えて欲しくなかったといった一方的な感情があったためかもしれないし、
その人が人生を語る言葉を自分の中に取り入れれば入れるほどに安っぽく聞こえてしまい、
なぜか物語のすべてが色あせてしまったのだ。


それが本当に身勝手なことだということは自分でもよくわかっている。
言葉を綴る上で自分のようなわがままな読者を相手にしなければならないのだから、
過酷な職業だということも承知しているつもりだ。
が、同時に「苦労」とか「家庭環境」とか「社会的階級」とか「地位」とか「名誉」だとかの
連なりを視覚から入力するたびに、嫌悪しかわかなくなってしまった。


私のコンプレックスが浮き彫りになっただけだとも思うのだけど、
作家の背景、つまり、私が好む作家とは異するニオイでも嗅ぎ取ってしまったように
好物に突然そっぽを向く子供の気まぐれ同様、
読み手のやる気を削がないでくれ・・・と、頼み込む心境に陥ってしまったのだった。


そう考えると、作家という稼業は私が考えている以上に甘っちょろいものではない。
読者の感情を引き受けるのと同時に
表現者としての自分の心の置き場や居場所も、
言葉を商売道具にする以上、隠したままにしておくことは不可能だと感じるからなのだろう。


余談だが、先日本屋に行って、あまりの新刊の数を目前にして
眩暈を覚え、結局、新しい作家の作品を手にする余裕もなく退散した。
今は読書以外にもたくさんの娯楽があるし、
逆に本の数もさることながら、種類もジャンルも多様化しているために
選ぶ作業が一苦労だ、と
買わずに後にした際、私は痛感させられたのだった。
本を買うことも読むことも書くことも書き続けることも、
私が思うよりも、そんなに甘っちょろいものではなさそうだ。












最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。