rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

人はなぜ死ぬのかー医学教育における原初的問い

2011-11-22 00:34:00 | 医療

書評でも紹介したことのある評論家 米沢慧氏に先日病院主催の講演会として「いのちのステージ、往きの医療と還りの医療」という題で御講演をいただきました。我々の病院スタッフが主な聴衆でしたが、想像通りの素晴らしい内容の講演でした。 

 

現在我々が急性期病院で行なっている医療は、「効率良くできるだけ沢山の患者の病気を治す」ことに主眼がおかれています。病気が治らない、或いは癌などが進行して死期が近いというのは「医学的には敗北」と見做され、それでも緩和医療や看取りの医療が診療報酬的にも見直されてきているものの、治癒を目的とした医療を行なわないと赤字になるよう設定されているのが現実です。この「治癒を目指す医療」は人生上り坂における人材を想定した「往きの医療」と言うことができます。しかし米沢氏は人生には下り坂の部分もあり、それもその人の一生にとって大事な人生の一部であり、現在のように少子高齢化社会で人生80年が当たり前になった時代においては下り坂の部分を大事に扱う「還りの医療」こそが日本において求められていると主張されています。 

 

上り坂でなければ、その人は人間として価値がないのか。認知症や麻痺によって元気な時の半分しか能力がなくなってしまったらその人の価値は半分になるのか。と問われると本人的には「そうだ」と答えたくなりますが、やはりそのようなものではないと思います。下り坂の人生においては病気の部分を見つけるのではなく、健常な部分を見つけることが大事なのだという米沢氏の指摘は納得できるものです。

 

氏が提唱する「老いる」「病いる」「明け渡す」というのが下り坂の人生において大事な生き方である、つまり老いを認めて老いと共に生きる、病いと共存する、その時が来たら「死」も「出生」と同じ人生の段落として意味あるものと認める、それは「後に続く人達への命の明け渡しである」というのは素晴らしい考え方だと思いました。

 

内田 樹氏は「寝ながら学べる構造主義」(文春新書2002年)において「真にラディカルな「医学の入門書」があるとしたら、それはおそらく「人はなぜ死ぬのか」という問いから始まるでしょう。そして「死ぬ事の意味」や「老いることの必要性」について根源的な省察を行なうはずです。病気の治療法や長寿法についての知識や情報は、そのあとに、その根源的な省察の上に基礎づけられるべきものだからです。」(p11)と述べています。これは至言だと思います。

 

現在、医学教育における医学概論にしても看護学概論にしても、その入門においては、まず医療や看護の基本的考え方、癒しとは何か、といったことから入るのが常です。ヒポクラテス、アスクレピオス、科学的思考に基づくガレノスなどの医療やカソリックにおける修道院の癒しの医療などについて教えることはありますが、「人はなぜ死ぬのか」から入ることはありません。生物が生きる上では「健康」が絶対的な条件であり、病気になる=死というのが野生生物における現実です。旧人類であるネアンデルタール人は病気の人の世話をする「癒す」という行為を行なっていたという史跡があるそうですが、他人の病気を治したり癒したりする行為は人類以外行なわないものです。病気の行き着く先は「死」なのですから、「人は何故死ぬのか」を問わずして病気を治す目的(目標)、癒し、看護の目的(目標)は本来見つからないはずです。しかし現在の医学教育では「始めに医療ありき」「始めに看護ありき」で話しが始まるので、その目的・目標は「治癒」「健康」にならざるを得ず、「治らない病気」や「死に行く人」は医療の目的からは外れた存在となってしまうのです。

 

今回の米沢氏の講演では図らずも医学概論の原初的問いとなる「ひとは何故死ぬのか」「人は何故老いるのか」についての一つの答え、考え方を示してもらえたように思います。世代が交代してゆく中で医学が発達していなかった時代、或いは動物においては、往きの人生のみを考えていれば良く、人は発達してゆく中で子を産み育てて、ピークを迎えた後わずかで死んで次の世代に明け渡していたのですが、医学や公衆衛生が発達して平均余命が長くなるとピークを迎えて死ぬまでの時間が20年30年と長く存在し、そこに昔は存在しなかった「老いの人生」「還りの人生」が出現します。そこで改めて「老い」や「死」の意味を考えた上での「還りの医療」があるべきだ、ということです。

 

現在学会などが提唱する「癌の標準治療」は原則50歳の人も80歳の人も同じです。86歳のご老人が風呂場で息絶えていたといって救急車が呼ばれて救急病院に搬送され、挿管、心臓マッサージなどの蘇生が無駄に小一時間行われ希に心臓が数時間復活して動きますが大変な医療費を使った揚げ句に翌日までには死亡退院されます。これらは「始めに医療ありき」で医学概論が始まったせいではないかと愚考します。死期が近づいてからの医療費が日本は飛び抜けて高いのが特徴ですが、宗教的アプローチが日本では困難としても「死」というものの意味を「医療的敗北」という呪縛から開放することは、厚労省が望むところの医療費の削減にも貢献すると思いますし、型通りの無駄な蘇生を行いながら家族に自分達にとって大事な人の医療行為を「もう止めても良いです」を無理やり言わせなくてもすむ体制、大事な人の旅立ちを心安らかに見守ることができる医療を作ることにつながるのでは、と思いました。

 

 

 

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