書評 おどろきの中国 講談社現代新書 橋爪大三郎、大澤 真幸、宮代真司 対談2013年 刊
意外と知られていない中国の社会、歴史、日本との関係などについて、奥様が中国人で自身も中国の研究を長年している橋爪大三郎氏を中心に、大澤、宮代の両氏が問答形式で論を進めて行くという内容で、日本的感覚からは「ほう!」と驚く事が多い中国の社会を再認識するという意味でこの題名が付けられたそうです。
私としては中国人が物事を「良し」と判断するエトスのようなものが分かればという部分と、毛沢東思想や文革であれだけ資本主義を嫌っていながら、現在の拝金主義に矛盾を感じないのは何故か、といったことに興味を持って読みました。
構成としては、第一部で「中国とはそもそも何か」を問い、国民国家という概念ではない古代からの「中国という枠組み」をそこに住む人達がどのように認識していたかが語られます。種々の民族や社会が「漢字」という統治を行う一部のエリートだけが共通に理解できる文字と四書五経という教科書によって儒教と法家を使い分けながら適宜易姓革命によって王となる人を代えながら社会が成り立ってきたという過程です。面白いのは諸派分立している春秋戦国時代のような状態は中国としては据わりが悪く、専制的であっても一人の皇帝がいて、冊封体制で周りが従っている方が落ち着くという体質です。これが実は現在の共産党王朝の専制体制が続いていることにつながっている可能性があるということです。
第二部は辛亥革命から共産党政権の樹立、ソ連東欧の崩壊と現在中国の関係までの歴史的な背景を解説しています。興味深いのは文化大革命についての考察で、中国文化の権威とされるものが破壊されて行く中で、権力者である党の幹部までもが紅衛兵という末端の民衆によって粛正されて行く所がナチズムやスターリニズムとも異なるということです。そしてこの古くからの中国的な伝統の破壊が、次に来る改革開放をスムーズに行わせる元を築いた、つまり「文革と改革開放は結果論的にワンセットになっている」のではないか、という考察はなかなか面白いと思いました。
第三部は日中関係について、主に日中戦争について検討されます。解りやすい説明として、中国が日本を信用できない理由として、本来日本はロシアに対抗するために満州に進出して行ったのに意図が不明確なうちに中国と戦争を始めてしまった所にあるという点です。何を目的、ゴールとして中国と戦争していたのか解らないから戦後の現在も何を謝罪したらよいのか良くわからない、というのはその通りと思います。勿論中国一流の外交カードとしての謝罪要求というものもありますが、それを逆手に取って中国の上を行く日本の外交が行われないのも事実ですから。
第四部は現在とこれからの中国と日中関係についての考察で、中国は21世紀の覇権国家になるか、社会主義と市場経済は両立し続けるか、日本はそれらといかにつき合うべきか、といった非常に興味深い問題が語られます。まず、覇権国家については、今まで交代してきた覇権国は全てキリスト教文化圏の中で交代してきたのであって、考え方の異なる中国やイスラム国家が覇権国として世界の中心となることは難しいのではないか、まず欧米先進国が追従しようとせず、衰えたりといえ、米国が覇権国であり続けるように支援するのではないか、と考察されます。結果日本は米国を支える国家の端っこにくっついて、しかも中国ともそこそこうまくつき合って行くのがよいのではないかと語られます。
社会主義・市場経済というのは本来両立しない概念なのですが、始めに思想から入る民族性ではない中国においては「何でもあり」である程度うまくやってしまう可能性があると考察されます。しかし現在危惧されているシャドーバンキングなどの問題で、一度経済の信用がなくなると誰も(外国の資本家が)中国内で金のやり取りをしなくなって経済が破綻する危険性があります。「危ない物へのフタ」を国家権力がやり続ける事は、資本主義経済では不可能でしょう。
終わりの方で、中国との尖閣問題や小泉政権時に拉致被害者を北朝鮮に戻さなかった事で外務省と中国・北朝鮮が描いたその後のストーリーが崩れたといった事が裏話を交えて語られるのですが、日本には日本の作法があるのだから、その点全てを相手国に合わせなかったといって日本の政治家を批難するのは少しいただけない内容に思いました。相手に合わせていればこちらの筋書き通りに事が運ぶというのは甘いと思います。もっと外交は狡猾で汚いものであり、そのなかから何とか妥協点を見つけて国益を守って行くのが外交ではないかと私は思います。
全体としては、この本は読みやすく、また興味深い内容で、読む価値があると思いました。