丸山眞男(写真)は昭和の後半における著名な社会思想学者で、左翼的であるのが一般的であった時代に比較的体制的ともいえる評論姿勢から評価が分かれているようですが、私は氏の論文はどれも緻密な論考に基づくすばらしい内容に見えます。
現在のウクライナ情勢は東部ウクライナの親露独立派に対して政府軍が攻撃を続けており、詳細はわからないものの、東部に住む一般の人達の生活は既にシリアなどと同様悲惨な状況になりつつあるようです。以下のyou tube動画には、現在の前線や町の様子などの片鱗がかなり具体的に伺えます。中でもウクライナ政府軍が見方のヘリに攻撃を受けて混乱する動画などは、交錯した前線ではありがちなことではありますが、一体自分達が何に忠誠をつくして身を危険にさらしながら何のために自国民と戦っているのか、を考えさせる内容に思えます。
https://www.youtube.com/watch?v=7ZGZaxz26GU これは比較的よくまとまっている動画で、タイヤを燃やして煙幕にしている生々しさや、犠牲になった若者の葬儀の空しさが戦争の現実を現しています。
https://www.youtube.com/watch?v=vw66-xqYgJo 装甲車がバリケードを荒々しく乗り越えて行く様が見られ、実際の市街戦が印象づけられます。
https://www.youtube.com/watch?v=3r0UJXUw8WI 自軍のヘリ攻撃を受けるウクライナ軍の動画です。自軍に攻撃される理不尽、そもそもこの国内戦自体に必要性などないのです。
丸山眞男の「忠誠と反逆」(ちくま学芸文庫1998年刊)は、主に明治維新の日本を題材に「日本人にとっての忠誠とは何に対してであったのか、幕府への反抗、また西南戦争における政府への反抗は忠を否定した反逆であったのか、を論考した興味深い内容です。
国民国家における職業軍人にとって「忠誠と反逆」の意味するものは何なのか。例えば、第二次大戦において、ドイツ軍内で起きたヒトラー暗殺計画やパリ撤退と同時に文化あふれる都、パリを破壊しろとの命令を無視し、貴重な文明の破壊を阻止したコルティッツ将軍は反逆者だったのか。現代のタイやエジプトのクーデターの主犯となった軍人達は反逆者として扱われるべきなのか、その際の忠誠とは誰に対するものであるべきなのか。ウクライナ国防軍は暴力的に暫定政権に変わった時点でその政権に従うのが忠誠で良かったのか、では日本で暴力的に政変が起こったら、権力を掌握した新体制の指示に自衛隊や警察は従うことが公務員として正しい姿なのか。こういった問いは一つの解答に限られる事はない(丸山は見方と状況で評価が異なることを限界効用と表現していますが)とは思いますが、これらの悩ましい問いを検討するきっかけを丸山の論文は答えてくれているように思いました。以下抄録ではありませんが、氏の内容を加味して自分なりにまとめた内容を記してみます。
映画(パリは燃えているか?) ヒトラー暗殺を描いた(ワルキューレ)
1)西洋(或はイスラム一神教も含む)のエトスにおける忠誠
一神教における社会では各個人が一義的に忠誠を誓う相手は「神」であり、雇い主や国王、或は社会そのものが神の教えに背くものであればそれに「反旗を翻す」ことが忠誠であり、倫理的にも良しとされます。これは「倫理的善悪の決め方」の項でいつも私が述べていることと同じです。だから神の教えに背く行いをする国家を倒す権利が国民に認められていると考えるのが常識となっているのです。これを「テロリズム」とレッテルを張って取り締まりたいのが体制側ですが、本来それは許されない(米国にとって都合が良い場合は「民主化勢力」といって支援することになっている)ことであり、神の教えに背くことこそが反逆者の汚名を着るべき者達と言えるのです。
2)日本における伝統的な忠誠の考え方
日本における伝統的な忠義の根源は親分子分、主従の関係に求めることができ、神や仏の教えは忠誠という概念とはあまり結びつかなかったと言えます。徳川の幕藩体制は分散した主従関係がピラミッド的に集約してうまく権力の分散に陥らないようになっていたに過ぎず、直接全ての侍が徳川の家臣でなかった所に維新に結びつく忠義のゆらぎがあったとされます。
面白いのは仁政を勧めるために主君に諌言を上梓する事も忠義の現れとする思想があったことで、「君も天の御心を御心とし、臣も天の御心を心とするぞ、正しき道なりける」という思想であり、西洋の神の教えとは少しことなるもののより大きな儒教的思想を大義とする部分が日本の忠義にも影響していたと言えます。但し、中国では「三諌して聴かざれば其の国を去る」と天下の広さやダイナミズムを感じさせるのに対して、日本においては諌言が受け入れられなければ不本意ながらも主君に従うか、どうしても自己主張を通したければ切腹して一死をもって忠を示すのが道であるとされた所が異なります。
3)維新における忠誠のゆらぎと国民という概念の目覚め
幕末の異人来航によって「日本」と「外国」を強く意識せざるを得ない状況になり、忠義の対象が天皇を中心とする「神国日本」となり、体制維持をまかされた幕府が神国日本に忠ならざるならば倒すも良しという考えが出てきました。西洋で言う所のミリシア(民兵)は日本では「賊」と言うべきかと思いますが、同じ集団も状況によって義族(民主化勢力)と呼ばれたり逆賊(テロリスト)と呼ばれたりします。
戊辰戦争における西郷、勝海舟の江戸城明け渡しの際には二人の脳内では「幕藩体制を超越した日本国の概念」に基づいて、「日本国に忠なるべきはいかにすれば良いか」という視点で「江戸を焼け野原にしない」ために話し合いがなされていたように思われます。西郷隆盛という人の生涯は何に忠誠を尽くしていたのか、若い頃の島津家との確執や、維新における活躍、下野してから西南戦争での行動など簡単には理解しにくいのですが、彼なりの大義とするものに常に誠実であろうとした生き方が、ある時は義族、ある時は国賊としての行動になったものと思われます。その誠実さがあったからこそ明治帝を始めとする多くの人達から愛される人物となったのでしょう。
4)忠誠の対象が天皇に集約されたこと
明治の新政府において、新憲法が発布されると、明治20年代になって「国体」の概念が成立し、「忠君愛国」が一体の思想となったと説明されます。つまり「日本国」全体や社会に対する忠誠が天皇に対する忠誠と同一であると規定されてしまうのです。結果として外来の思想であるキリスト教のように「天主」の存在を神である天皇の上に据えるような思想は敵視される結果になり、日本における「忠誠」の対象がかなり窮屈な内容になって自由民権などの社会思想の発展や展開が限られたものになります。一方以降の社会で「忠君愛国」のあり方を巡っての勢力争いが許される環境ができてしまうのです。
5)戦後はどうなったか
丸山の本論文では戦後における「忠誠と反逆」の様相は語られていません。それは一度「国体」の絶対性が否定されて、価値観の多様化が許され、国家やネーションに忠誠を置くことがむしろ否定的に扱われる社会になったことを反映していると思われます。私としてはそのような時代だからこそ日本古来の考え方である「天の道」とか「仁」、身近な所では「自らの良心」といったものに忠誠を誓う生き方に戻ることが「拝金主義」や「会社への忠誠」といった空しい生き方から開放され、他国を利するための「みせかけの愛国主義」といったものに踊らされないために重要になってくるのではないかと思います。
米国で自国民の生存と関係ない、グローバル企業の利益のために戦争をさせられた退役兵士達(多くがホームレスやinvaridとして無為な生活を強いられている)にとって「忠誠と反逆」の意味するものは何か、ウクライナで同士討ちをしている人達にとって「忠誠と反逆」とは何か、心ある日本の国会議員達にとっての現在進行している各種事態についての忠誠と反逆は、と問うて行くと、現在の自分の行いが天に恥じない「忠誠」なのか忸怩たる「反逆」なのか明らかになってくるように思います。
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