「愛国の作法」 姜 尚中 著 朝日新書001 2006年刊
8年前の第一次安倍政権の際に書かれた著作であり、「愛国」という右翼的な響きの持つ言葉のイメージに惑わされずに「国を愛する」とはどのような心構えであるべきか、を在日2世である著者の視点から論考したものです。実は私も「愛国の作法」というような題名のエッセイを書きたいと思っていた所、完全にかぶった題名の本があった(勿論姜氏の方が専売特許)のでこれは読まねばと購入した次第。以下自分の思っていた「愛国の作法」に比較して、姜氏の著作の1)共感できるところ、2)共感できないところ、3)物足りないと思う所、の3点に分けて書評としてまとめてみたいと思います。
1) 共感できるところ
○ 特定の政権や組織が作った方針に沿って行動することが愛国ではない。
「愛国心に基づく行動」を特定の集団が自分達の利益のために作った、「愛国の衣をまとった体の良い暴力的な政策」を遂行させる使い走りにされぬよう自分でよく考える必要があります。それは現在戦争が行われているウクライナにも中東にも当てはまる事柄です。
○ 愛国には迷いや対立があってはならないなどと言う事はない、それぞれの愛国のありようがあってよい(盲目的な愛国というのはありえない)。
100人100様の愛国があって良い、ただし本心からの売国は良くない。自分と意見が違い、一見他国を利するように見えてもその人なりのしっかりした考えがあっての事であれば理解してもよいと思う。例えば日露戦争の時に明石元二郎から資金援助をもらって帝政ロシアを倒した共産主義者達は日露戦争では敗戦を導いたから「売国奴」と批難されるかも知れないが、その後の強大なソ連の形成に貢献した事からは愛国とも言えるはず。
○ 国家には単なる郷土とは異なる意味合いや意義が存在する。
国家は国民の自由を奪い、時には生命をも害する権力を持っている。それは国民が豊かな社会生活を送る方便として権利の一部を国家に移譲した結果ではあるが、単なる郷土や故郷といった概念とは異なるというのはもっともな理屈だと思う。
○ それぞれの人が信ずる大義を自国に尽くすことが愛国ではないか。
丸山眞男の「忠誠と反逆」でも述べられていた「大義への忠誠」という事が「真の愛国」につながるという思想は共感できると思う。
2) 共感できないところ
○ 郷土愛の同心円的拡大が愛国になることはないという意見。
一民族一国家は一つの理想であり、米国のように「憲法を国の柱」とする国家もあるし、アフリカや中東のような他国の都合で線引きされてできた国家もある。しかし日本の一民族一国家を僥倖とすることはあっても悪い事であるかのごとく敢えて否定する必要はないと思う。それはひねくれである。第二次大戦以降国家の数は増加し続けている。それは一民族一国家の理想を追求している結果であることを筆者は考えていない。他民族多文化を良しとする国家があっても勿論よいけれど、現状ではうまくいっていないのである。しかしイスラム教のような一宗教一国家的な発想が今後強くなる可能性はあるとは思いますが。
○ 自分以外の愛国の論考を全て「右翼小児病」的な盲目的愛国という型にはめて批難しているところ。
自分と相容れない意見や考え方の人を自分が批判しやすいステレオタイプの型にはめ込んで「レッテル張り」をした上で滔々と批判を述べるやり方を右翼も左翼も得意とします。批判されている方は自分とかけ離れた人格や思想について相手が批難しているだけなので痛くも痒くもないのですが、時間の無駄というか非建設的なやりとりに嫌気がさしてこのような批難しかできない人を「知性の限界」として相手にしなくなる、という繰り返しをネット上でも現実社会でも経験してきました。勿論自分自身が人にレッテルを張って批難するような陥穽に陥らないように気をつけてはいますが、建設的な討論ができる社会というのは極めてレベルの高い社会であると思いますし、そのような社会を目指してゆきたいと思います。
○ 著者は最終的に韓国人としての国籍を選び、外国人として日本の愛国を論じているのに、韓国を始めとする諸外国の愛国事情について論考がなく、ひたすら倫理的善悪に基づく判定を日本の愛国に対して行っている点。
最後の章に種明かしの如く自分の立ち位置が書かれているのは何だかなあという感じで、それならもっと広い視野で世界の愛国について論考して欲しかったです。
3) 物足りないところ(論考がないところ)
○ 国民国家における愛国とグローバリズム世界における愛国の違い。
20世紀的な国民国家における愛国は比較的理解しやすいのですが、グローバリズム的拝金主義資本主義の社会においては、国民国家的な愛国心がそのまま通用しなくなってきています。米国の軍人は米国の国益のためにイラクやアフガンで命をかけてイスラム教徒と戦いますが、得をするのは本社がタックスヘイブンにあり、国家に税金を払わないグローバル企業であり、米国は1%の金持ちと99%の奴隷的貧民社会に別れ、国家の借金ばかりが増加して行くという現実。真の愛国(自国民全てが豊かで幸せに暮らせるための国益の増進)を考える時、グローバリズムの促進は矛盾する結果にしかならない。
交易の原則は「互恵、平等、無差別」という浜矩子氏の主張の通りで、この原則に沿わない貿易協定は一切拒否するのが真の愛国であると確信します。また国家に税金を払わない企業は売国企業として国際社会から排除する国際的な協定こそ作るべきでしょう。
○ イスラム世界における「ジハード」と愛国の相克。
丸山眞男の「忠誠と反逆」に述べられているように、一神教においては忠誠を誓う相手は「神」であって、国家が神の教えに反するならばそれを倒すことが大義に基づく忠誠になるのであって、神の教えに忠実な国家であるならば愛国を貫けばよいのだと考えられます。現在のイスラム国家は特定の部族を王とする国家が多く、特定の人達の利害のみが国益につながっている場合が多いのが現実です。だから国民は愛国心などという概念はもともと持っていないと考えるのが妥当ではないかと思います。
○ 国家資本主義における愛国の立ち位置。
中国、ロシアや一部中東の国で盛んになっている国家資本主義(国家社会主義ナチズムと実態は変わらないという意見も)は、グローバル企業を中心とする資本主義よりも愛国を前面に出しやすいように感じます。これは重要な論点と思われ、現在イアン・ブレマーの「自由市場の終焉」(国家資本主義とどう闘うか)などを読んでいますのでいずれ論考します。
という事で、自分が「愛国の作法」を書くとすれば、1)を取り入れ、2)の内容は却下し、3)について新たに論考を加えた内容になるだろうと思われます。
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