ユンカースJu87の派生型であるG-2タンクバスターを作りました。ユンカース87は88と並んで第二次大戦初期のドイツ軍電撃戦の「破竹の進撃」で有名になった急降下爆撃機で、陸軍の直協機として数メートルの正確さで爆撃が可能であったことから多用されました。しかしポーランド、ノルウェー、フランス戦までは無敵であったJu87も、1940年の制空権がないバトルオブブリテンでは英国空軍のスピットファイアに面白いように撃墜され、対空戦闘力の弱さが露呈します。1960年台の映画Battle of Britainでもレーダーサイト攻撃に来たスツーカが新米のスピットファイアパイロットに次々と撃墜されて(rats in a bottle)と揶揄されるシーンがあります。
特徴的な逆ガル型の翼を持つJu87
Junkers Ju87は1935年にアラド、ハインケル、B&W(ブルーム・ウント・フォス当時はハンブルグ航空機製作所)の4社の試作機からやや強引に実力者のウーデット大佐と空軍総監になるミルヒによって選ばれた機体でした。初期のAシリーズは600馬力のエンジンで爆弾搭載量にも限界がありましたが、ドイツが支援したスペイン内乱ではフランコ派のコンドル軍団で十分威力を発揮する事が出来ました。改良型のBシリーズ(1938年)は1200馬力のJumo210を装備して電撃戦の中心的役割を果たします。1941年の改良型Dシリーズは1400馬力の強力なエンジンを装備し、主翼の機銃も7.7mmから20mmになりましたが、重量も4,250Kgから5,720kgに増加したため、運動性や対空戦闘では期待したほどの性能向上には至りませんでした。空軍省はJu87の後継となる機体の開発を望みましたが(引き込み脚を持つJu87F)開発に至らず、Ju87は大戦後期まで様々な派生型を生みながら生産され、総生産数は5,700機に至りました。
迷彩は当時の爆撃機の標準パターン迷彩RLM70&71(ブラックグリーンとダークグリーン)、下面RLM65(ライトブルー)東部戦線1944年SG2航空団所属にしました。
G-2タンクバスターは最も量産されたD―5型(翼端を左右60cm延長)をベースに37mm高射砲2門を翼下に取り付けたタイプで、各6発の対戦車弾を発射可能でした。有名なハンス・ルデル大尉はG1型で592台のソ連軍戦車を破壊した記録を持ちます。この空から戦車の弱点であるエンジン上面を狙う攻撃は、隠れる場所の少ない大平原や砂漠の対戦車戦における革新的ゲームチェンジャーになりますが、以降の様なヘリコプターからのロケット攻撃や現代のジャベリンなどのコンピューター制御の対戦車攻撃と異なりJu87や75mm砲を装備したヘンシェルHs129からの戦車攻撃は高度な操縦技術を要するものでした。特にJu87の対戦車攻撃型は重い砲のために離着陸にも操縦が難しかったと記録されます。軟降下を行いながら疾走する敵戦車の後上方5-600mから正確に砲を発射する技術は大変なものだったと思います。また敵戦闘機に対する脆弱性は他のスツーカ以上に弱く、制空権のない戦場では飛行不可能でした。
87G1の実機 対戦車砲の細部やエアインテイクの構造が見える。D型からはオイルクーラーが機首上面から下面に移動になった。翼機銃は重いので取り外されている。
模型は古い金型ながらドイツレベル製で整合などは良好で、D-5とのコンバーチブル可能なキットでした。ハセガワ1/48のG-2も対戦車砲の砲口がないという不評がありますが、1/72の当キットもなかったのでドリルでそれらしく整形しました。また機首右側面の気化器空気取り入れ口も穴がなかったので作りました。昔作ったD-5冬季型(ハセガワだったか?)と並べてみました。対戦車砲の細部も1983年文林堂世界の傑作機(Ju87B-G)の写真を見ながら追加しました。同書によるとG型の塗装は一部資料に見られるRLM70(ブラックグリーン)一色のものはなく、通常みられる基本塗装であったとわざわざ記されているので同書の塗装指示どうりにしました。胴体の国籍標識は、大戦後期は白抜きの物が一般的であったとされるので古いD-5モデルのデカールが正しいと解ります。エンジンカウルが少し浮いているのは、取り外してエンジン部を一部見せる事が可能なためです(余り精密ではない)。
白の水性塗料で冬季塗装されたD-5 ダイブブレーキを装備した通常の爆撃機型
D型は翼端が延長されているのでスマートに見える。