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ロスチャイルド財閥ー31 アメリカとアフリカ、そしてダイヤモンド利権(デビアス)

2022-10-08 10:25:58 | 国際政治・財閥
南北戦争の頃のアメリカに住むユダヤ人は15万人ほどで、その多くはドイツ出身者でした。 ところが、1881年にロシアでユダヤ人大虐殺が始まると、おびただしい数のユダヤ人移民がマンハッタンのロウアー・イーストサイドに流れ込み、19世紀末には60万人に達しました。

既にアメリカに同化したジェイコブ・シフらドイツ系ユダヤ人銀行家がアッパー、山の手に住み社会の上流にいたのに対して、これら貧しい東欧系ユダヤ人は社会の底辺にいました。

シフは、鉄道投資を中心にクーン・ローブ商会で大活躍し、1880年代に入ると、義父のローブを引退に追い込みました。 1885年、彼はクーン・ローブ商会の社長となり、アメリカ合衆国におけるロスチャイルド家の総支配人的な地位に就きました。


また、セリグマン社などを抱き込み、在米ドイツ系ユダヤ人銀行の大連盟をつくり、アメリカ金融界におけるユダヤ人銀行の地位を不動のものとしました。

シフとウォーバーグ家との連携も強く、巨大なペンシルバニア鉄道などクーン・ローブ商会が引き受けた鉄道関係の株式や債券を、M・Mウォーバーグ商会がドイツで売り捌き(さばき)ました。

1880年にアラスカで金鉱が発見され、やはりロスチャイルド家と関係が深いグッゲンハイム家が金鉱の支配の目途をつけていきました。




黄金の時代のアメリカを支えたイギリス資本
時期、第20代アメリカ合衆国大統領ガーフィールドは、「我々の国では、お金をコントロールする者が産業や商業の頭となっている」と語り、1881年3月の就任から半年後に首都ワシントンで暗殺されます。

「黄金の時代」のアメリカ合衆国の産業は活力に溢れ、新しい発見や発明の爆発は第二次産業革命と呼ばれました。 鉄道は飛躍的に距離を延ばし、低料金でより多くの商品や人々を送りました。

ちなみに、オハイオ州コロンバス市にある、バテル研究所をご存知でしょうか? 世界最大級の研究所で、一流大学の博士を数千人抱え、バテルBattele氏は、鉄道ビジネスで大儲けし、NPO法人の会社、バテル記念研究所を設立しています。この会社は、調査や委託研究を受け、これら一流の研究者たちが対応してくれます。

世界で初めてコピー機を発明したのが、このバテル社で、XEROX(ゼロックス)社は、バテル研究所からピンアウトしたベンチャー企業です。

日本人には理解しにくいのですが。アメリカのNREL(再生可能エネルギ研究所)など国立研究所群を束ねているのが、民間企業のバテル社です。私もこの研究所とは、付き合いがあり、ビジネスでお世話になった事があります。

hなしを戻します。 電灯、電話、蓄音機、タイプライターなどがアメリカで発明され、自動車が馬に替わり、アメリカは人類の夢の国となったかのようでした。

ミシン製造のシンガー社は世界中に支店網を広げて、多国籍企業のはしりとなりました。 他にも機関車、電灯、タイプライターなど海外で事業展開する会社が次々と現れます。


石炭はアパラチア山脈で、石油はペンシルベニア州西部で、鉄鉱はスペリオル湖地方で大規模に産出が始まり、製鉄所が反映しました。
銀,銅、鉛などの鉱山やセメント産業も発展します。

このようなアメリカ経済の発展は、主にイギリス資本によって支援されました。 その中核は、言うまでもなくロスチャイルド家です。

1880年(明治13年)以降、イギリスで投資信託会社が流行しましたが、設立当初の重役はほとんどイギリス人でした。 アメリカ側からは、石油王ロックフェラー財閥の最高幹部が参画します。




帝国主義への叛旗
1880年、エジプトでは名主なリズムが湧き上がり、イギリスは、反乱を軍事介入で鎮圧し、スエズ運河を含めエジプトを単独占領下に置きました。

形式的にはオスマン帝国の総主権が続きましたが、事実上、イギリスが保護国としたのでした。 この占領・保護国化の過程をナサニエルはパリ家と共に支援し、占領下のエジプトへの財政支援として850万ポンドの借款を提供しました。


スエズ運河の利権はイギリスが獲りましたが、フランスにも利権は残り、それは最終的に、ロスチャイルド系のラザール・フレール(フレールはフランス語で兄弟の意)社が支配するディスコント・バンク(パリ割引銀行)に譲渡されます。

スエズ運河会社のトップの座には、後のフランス大統領ジスカール・デスタン大統領の親族が就いていました。

1884年以降、エジプト国債は、すべてロンドン家を通してイギリス政府が引き受けることとなりました。 また同時期、スーダンでもトルコやエジプトによる支配に対して反乱が起きましたが、これについてもロスチャイルド家は、イギリスによる介入を促し、帝国主義政策をを支援しました。

しかし、1885年にイギリス軍がスーダン軍に敗北してしまいます。 この危機において、ナサニエルは、姪の夫で貴族院議員のローズベリー卿をグラッドストーン内閣に外務大臣として入閣させ、来るスーダン戦に万全を期させたのでした。


ローズベリー卿は、ロスチャイルドの親戚で、お金での面でずぶずぶの関係でした。例えば、1878年、同家のフェルディナンドは彼に、同家が仕切って発行するエジプト国債に投資するよう勧めて存分に儲けさせています。

彼は外務大臣になると、ロスチャイルド家と、アフガニスタン問題などの外交問題にビjネスを絡めて緊密に連携しました。




ダイヤモンド・ラッシュ
ナサニエルは南アフリカ(英領ケープ植民地)のダイヤモンド・ラッシュに注目しました。 ここで登場するのがセシル・ローズという人物です。



セシル・ジョン・ローズ Cecil John Rhodes(1853年ー1902年)
南アフリカの鉱物採掘で巨富を得て植民地首相となり、占領地に自分の名(ローデシア)を冠した。ローズの遺言で、オックスフォード大学のローズ奨学金制度は有名。


彼は、イギリスでキリスト教牧師の子として生まれ、1871年に兄とともに、南アフリカのダイヤモンド産地キンバリーに移りました。以降、南アフリカのダヤモンドの独占という大望の実現に向けて全力を挙げ、帝国主義の権化(ごんげ)として名を馳せて行きました。

彼はダイヤモンドを掘り当て、ダイヤモンドの採掘権への投機で儲け、ナサニエルから融資や出資を受け、1880年(明治13年)、デビアス鉱業会社を設立しました。

ロスチャイルド家は、デビアスだけではなく、キンバリー社、アングロ・アフリカン・ダイヤモンド鉱業社、フランス社という南アフリカの4つの主要なダイヤモンド会社に出資しました。

1882年、ナサニエルはキンバリーのダイヤモンド産業を調査させ、百もの鉱山会社が乱立してどこも経営難に陥っている事を知り、統合が必要えあると考えました。

ローズは、最大の鉱区を持つキンバリー社の後継者であり、同時にキンバリー社に次ぐ2番手で自ら設立したデビスの取締役で、かつナサニエルには及ばないものの大株牛でした。


ローズは、ロンドン家の多大な支援を受けて、デビアスによってフランス社を買収しました。 N・M・ロスチャルド&sンズは、デビアス株を割安で入手して持ち株比率を上げ、ローズをコントロールしながら、莫大な利益を得ていきます。


1886年、南アフリカの北方にあるトランスヴァール共和国に金鉱が発見されると、ローズはデビアス社を通じてトランスヴァール共和国の金鉱業にも進出し、急速に世界最大の金産出王にのし上がり、さらには南アフリカの・電話・電信・新聞を支配下に入れていきました。

彼は経済力をバックに政界へ進出し、英領ケープ植民地政府の財務相、その後、首相になります。


ナサニエルは、デビアスをダイヤモンド独占企業として発展させました。 1888年、デビアスはキンバリー社と合併し、新デビアスは、ダイヤモンド生産の世界シェア90%を握りました。

同時に、世界中にダイヤモンド販売のためのシンジケートを構築し、デビアス社は10社で構成されたロンドン・タイやモンド・シンジケートと販売契約を結び、原石を供給していきました。

ロスチャイルドによる世界のダイヤモンド支配体制の完成です。

1888年に、ローズは全財産をナサニエルに遺贈する遺書を書きました。 ディズレーリと同じパターンです。 ローズもナサニエルに丸抱えされていたのです。




南アフリカにダイヤモンド、金、白金など貴金属が偏在してる理由
それは、この地方に地球史上最大の隕石が落ちてきて、その巨大な熱と圧力のエネルギーで生成されたのです。

フレデフォート・ドームは、南アフリカ共和国フリーステイト州にある直径190キロメートルに及ぶ世界最大の隕石衝突跡であります。ヨハネスブルグの南西120kmの位置にあり、現存する世界最古の隕石跡でもあります。

形成時のクレーター全体の大きさは、約300キロメートルで東京から名古屋までの距離に相当します。今から約20億2300万年前の古原生代に直径10から12kmの小惑星が速度約20km/sで衝突し、フレデフォート・ドームが生成されたと考えられていますが、その威力は広島原発の58億倍の威力でした。 現在の大きさは中央のドームが直径約50kmとそれを取り囲む外輪山リングからなっています。




オッペンハイマー財閥(ロスチャイルドGr)
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ロスチャイルド財閥ー30 世界の帝王 ナサニエルとアルフレッド

2022-10-08 01:50:27 | 国際政治・財閥
ロンドン家によるアジア・アフリカへの帝国主義的浸透


ナサニエル・ロスチャイルド  Nathaniel Rothschild(1812年ー1870年)

1879年、ライオネルの跡を継いで長男ナサニエル(ロンドン家三代目当主、初代男爵:1885年にビクトリア女王によりロスチャイルド男爵位を)がN・M・ロスチャイルド&サンズの頭取となりました。

ロンドン家は王室と張り合うためもあり、大邸宅をつくりました。 ロンドンの一等地ピカデリーにはナサニエルの邸宅があり、その弟のアルフレッドの邸宅もシーモア・プレイスと近くにありました。



アルフレッド・ド・ロスチャイルド Alfred Charles Freiherr de Rothschild(1842年ー1918年)

いとこのハンナの夫ローズベリー卿(首相・自由党)の邸宅も近くのバークレイズ・スクエアにありました。

ナサニエルの末弟レオポルドの子供たち、ライオネル、エヴェリン、アンソニーはすぐそばのハミルトン・プレイスの邸宅で育ちました。


ピカデリー通りなど一帯にロスチャイルド一族がいくつも邸宅を構えていて「ロスチャイルド通り」とも呼ばれました。

ロンドン以外では、郊外のガナズベリやバッキンガムシャーのアスコットがロスチャイルド家における拠点でした。

バッキンガムシャーはロスチャイルド州と称されることもありました。ロンドン家の諸邸宅のほかに、ライオネルの娘である妻をお産で失ってイギリス定住を決意したウィーン家フェルディナンドの邸宅もあります。



フェルディナンドと愛妻エヴェリーナ
フェルディナンド・ド・ロスチャイルド Ferdinand de Rothschild(1839年ー1898年)


この邸宅は、ワデスドン・マナー(館)と呼ばれ、敷地面積1080ヘクタール(327万坪、皇居の9倍強)、220部屋を擁し、威容を誇っています。



ロスチャイルド財閥ー12 ワデスドンマナー
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1957年頃にナショナル・トラスト(イギリス文化財保護財団)に寄託されつつ、今も自由に供されています。 お城のような大邸宅は、それぞれ少なくとも数十人の使用人をだ変えていました。

皇太子をはじめとする王室、イギリス政界の名士、各国の王や元首をはじめとする来客が訪れました。 言うまでもなく、ビクトリア女王もよく訪れていたと言います。皇太子とナサニエル兄弟はケンブリッジ時代からの友人でした。

ナサニエルとその弟アルフレッドは、ヨーロッパのロスチャイルド家の全体利益よりもロンドン家によるアジア・アフリカへの帝国主義的浸透に関心を寄せ、イギリス政府の帝国主義政策への政治的関りを強めました。


その結果、ロンドン家からの資本輸出は極めて高水準となりました。 ナサニエルは自らを称して、「ニューコート用(金融家)」とウェストミンスター用(政治家)の二つの帽子をかぶり分けている」と言っていました。

ロンドン家とパリ家の関係は、英仏間の植民地をめぐる紛争の煽りで、特に緊張が走る場面も出てくるようになりました。 アルフレッド・ロスチャイルドは、N・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者であると共に、イングランド銀行の理事を1869年、26歳のときから20年余務めます。

彼は生涯独身でしたが、アルミナという隠し子がいたと言われています。 後に古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの王墓発掘の資金提供者として知られるカーナボン卿が、その夫となりました。

彼は、生前そして遺言で莫大な資産をアルミナやカーナボン卿に贈っています。 加えて、アルフレッドはロンドン駐在オーストリア・ハンガリー帝国総領事でした。


ロスチャイルド財閥-9 ウィーン体制
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この職は、ロンドン家三代にわたって受け継がれてきました。 ネイサンからライオネルに、ライオネルの下院銀選出で弟のアンソニーに、アンソニーに息子がなかったので、甥のアルフレッドに受け継がれたのでした。





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