Renaissancejapan

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ロスチャイルド財閥ー48 ロシア南下と日英同盟

2022-10-12 14:33:55 | 国際政治・財閥

日英同盟 批准書署名原本
署名 1902年1月30日、署名 1902年1月30日
署名場所 ロンドン

日英同盟(にちえいどうめい、英: Anglo-Japanese Alliance)は、日本とイギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)である。

1902年(明治35年)1月30日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として、駐英日本公使・林董(はやしただす)とイギリス外相・第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で、ランズダウン侯爵邸オーバルルームにおいて調印された。

その後、第二次(1905年:明治38年)、第三次(1911年:明治44年)と継続更新されたが、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議の結果、調印された四カ国条約成立に伴って、1923年(大正12年)8月17日に失効した。



1902年、北清事変(義和団の乱)が勃発、清国に出兵したロシアが満州一帯を占領し、乱後も満州に駐兵を継続しました。

ロシアの南下政策の脅威を前に、日本は海軍の本格的な建設に着手し、N・M・ロスチャイルド&サンズはイギリスの造船所などで日本の軍艦を建造するための資金を融資しました。

ロシアに対抗する日本の軍備拡張は、ロスチャイルド家に負うところが大きいのが現実でした。 一方でロスチャイルド家は、ロシアの極東の軍備にも肩入れしました。


1902年に日英同盟が調印された直後に、ナサニエルはロンドンを訪問した元老の松方正義と邸宅で会い、イギリス銀行協会主催の晩餐会で歓待しました。

日本政府が500万ポンドをロンドンで起債調達した際には、ナサニエルは表に立たずに、ベアリング商会や香港上海銀行に主導させました。


1903年には、ナサニエルは、自分の代理人として、次男のチャールズ(1877年ー1923年)に日本を視察させます。 彼は、ロスチャイルド家のなかで、最初に日本に来た人物です。


兄のウォルター同様、動物学に造詣が深く、とりわけノミ研究で知られているオタクです。 俗悪な人間の権力社会から離れて、動物と深く向き合う時間が欠かせなかったのでしょう。

チャールズは、珍しい動物や昆虫、草花の収集のために世界各地を旅行し、日本視察はその一環でもありました。 彼は日本を非常に気に入り、、友人への手紙の中で、

「日本は天国だよ。 親がとやかく言わなければここで暮らしたい」と記しています。 そして、明治後期の日本の急速な経済発展にも注目しました。


ロスチャイルド家でも、後述するロックフェラー家でも、日本に大きな関心を寄せ、日本に詳しい「親日家」や「知日家」が数多くでてきます。

 


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ロスチャイルド財閥-47  レウミ(ヘブライ語:民族)銀行設立

2022-10-12 11:55:08 | 国際政治・財閥

テオドール・ヘルツル(ヘブライ語: בנימין זאב הרצל‎(Binyamin Ze'ev Herzl、ビニャミン・ゼエヴ・ヘルツェル)、ハンガリー語: Herzl Tivadar、ドイツ語: Theodor Herzl、1860年ー 1904年)は、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした一人。 1968年発行の旧100イスラエル・リラ紙幣から1978年発行の旧10シェケル紙幣まで肖像が使用されていた。

ハンガリー(当時はオーストリア帝国の一部)のブダペストで生まれた。18歳の時にウィーンに移り、法律・ジャーナリズム・文学を学んだ。当初はコスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であったが、新聞記者としてフランスのドレフュス事件(1894年)の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見に遭遇してショックを受け、またモーゼス・ヘスの影響も受け、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。

1893年、キリスト教社会党党首で反ユダヤ主義を主張していたカール・ルエーガーがウィーン市長に選ばれたことに衝撃を受ける。ヘルツルは、「ユダヤ人の間には一種の絶望感が漂っている」と日記に記した。同じ頃の東ヨーロッパでのユダヤ人迫害(ポグロム)、また、当時のオーストリアにおけるルエーガーやゲオルク・フォン・シェーネラーによる反ユダヤ主義的大衆運動に接することによって、彼の態度が鮮明になったといわれる。




ロスチャイルド家は、その利害関係が各国の主催の枠組みを超えており、なおも成長し続けるビジネスを背景に、一族の国際的なつながりや広汎な代理人網によって、世界のあらゆる人物に関する情報、事件の真相に関して、新聞や外務省のレポート以上の事を常に把握していました。

1902年から1905年、保守党の実力者バルフォア首相の3年間の任期中、ナサニエルは彼とも緊密に連携しました。 ナサニエルは、頻繁に保守主義に基づく見解を公式演説し、保守党に多額の寄付をしました。

ナサニエルは、常に「ニューコート用(金融家)とウェストミンスター用(政治家)のふたつの帽子」を用いていました。


1902年、イギリスのボーア戦争勝利の年、それまでユダヤ国家建設に否定的であったナサニエルが、シオニズムの提唱者テオドール・ヘルツル(1860年ー1904年)の計画に協力し始め、まずロンドンに「レウミ(ヘブライ語:民族)銀行」を設立しました。

当初は、「アングロ・パレスチナ社」という無難な名称を名乗りながら、イスラエル建国のための資金を調達し、後にイスラエル建国(1948年)からオ年後に中央銀行「イスラエル銀行」が設立されるまで一切の公的資金を提供しました。

その後、ふたたび「レウミ銀行」の名に戻ります。 レウミ銀行がロンドンに設立されてから年後、「イスラエル国の大統領」を嫁見たヘルツルがこの世を去りました。

替わって、ポーランド生まれのユダヤ人ハイム・ワイツマン博士がシオニズムの指導者となります。 ロシアでのぽグロムを逃れてイギリスに来た彼は、爆弾製造に直結するアセトンの合成法を開発した世界的な化学者で、イスラエル建国に重要な役割を担います。




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ロスチャイルド財閥ー46 第一次世界大戦 欧米列強

2022-10-12 05:59:56 | 国際政治・財閥

エドワード7世(英語: Edward VII、全名:アルバート・エドワード(英語: Albert Edward)、1841年ー- 1910年)

サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王、インド皇帝(在位:1901年1月22日 - 1910年5月6日)。母であるヴィクトリア女王の在位が長期にわたったため、チャールズ3世に次いで長くプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の立場にあった。
在位は1901年から1910年までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝(Edwardian era)」と呼ばれる。在位中は1905年まで保守党(ソールズベリー侯爵とバルフォア)、その後は自由党(キャンベル=バナマンとアスキス)が政権を担当した。彼の治世下に日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。

美貌で有名な王妃は、デンマーク国王クリスチャン9世の娘アレクサンドラ(愛称アリックス)。


アレクサンドラ・オブ・デンマーク(英語: Alexandra of Denmark,デンマーク語: Alexandra af Denmark, 1844年ー1925年)はコペンハーゲン生まれ、イギリス国王エドワード7世の妃でイギリス王妃、インド皇后。
リュクスボー朝初代デンマーク国王クリスチャン9世の長女。長兄にデンマーク王フレゼリク8世、弟にギリシャ国王ゲオルギオス1世、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリアとハノーファー王国の元王太子妃テューラ。ジョージ5世とノルウェー王妃モードの母。イギリス女王エリザベス2世とノルウェー国王ハーラル5世の曾祖母。





20世紀の初頭までに地球のほとんどの地域は、欧米の勢力圏に分割されました。 イギリス、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツ、日本、イタリアの領土は、1862年(文久2年)には地球陸地全体の28%でしたが、1912年(明治45年、大正元年)には、その領土は62%に増大しました。

アフリカやポリネシアは99%が領有されたのです。

19世紀半ばから20世紀初頭までの約60年間の鉱工業の目覚ましい発展は、必然的に、資源供給地としての植民地への侵略をますます激化させるとともに、既に広大な植民地を領有している英仏と、新たな植民地獲得を目指すドイツ帝国などの新興国との間に激しい植民地再分割闘争を起こしていきます。



ロンドン家とパリ家は、植民地政策で利害が一致しているとは言えないものの、ともにドイツ帝国の激しい攻勢は邪魔であったので、反ドイツの感情が共有され、国際金融資本市場の安定という共通利害もあり、1900年(明治33年)を境に連携を強化していきました。

1901年1月、ビクトリア女王が81歳で崩御し、息子のエドワードがエドワード7世(在位1901年ー1910年)として即位しました。 大帝国史上、最大の富豪はビクトリア女王ではないかと言われ、資産は500万ポンドと推定されました。

これに対して、ロスチャイルド家が19世紀の100年間で得た資産は、その80倍の4億ポンド(20世紀末の時価で200兆円?)を超えるといわれてぃます。 20世紀の初頭、ロスチャイルド家は、地球上の富の約半分をを支配していた、との推定もあります。


エドワードワード7世は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の叔父にあたります。 しかしイギリスとドイツは、後に第一次世界大戦で激突する運命にありました。
彼は、ナサニエル兄弟とはケンブリッジ大学からの友人でした。

エドワード7世として即位すると、彼とロスチィルド家とのつながりは、さらに強固なものとなりました。 彼の顧問団には、ロスチャイルド家のアルフレッドとレオポルド、サッスーン一族(ロスチャイルド家とは個人的な親戚関係)、そして個人的な財政顧問としてアーネスト・カッセル卿がいました。


カッセル卿は、数年前に買収を通じて世界的な鉄砲兵器メーカーのヴィッカース・サンズ&マキシム社を設立していました。 N・M・ロスチャイルド&サンズが設立時の新株を発行し、彼が莫大な金を投じた同社は、ユダヤ系「死の商人」ザハロフ(’ザカリアス・バジレイオス・ザハリアス、1849年ー1936年、トルコ生まれ)を代理人として急成長し一気に世界第4位の兵器メーカーとなりました。


エドワード7世にとっても、 N・M・ロスチャイルド&サンズのパトナーは特権的に見え、ロスチャイルド一族の貴公子的マナーをはじめとする貴族的な社交生活や、彼に対する盛大なもてなしぶりは心地よいものでした。




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