ペトログラード(Petrograd/Петроград)
サンクトペテルブルグの旧称。1914年にドイツ語のペテルブルグをロシア語に改めたもの。
1916年、国際社会主義大会がスイスで開催され、各国の社会主義グループが統一されて、帝国主義戦争の内戦への転化、自国の帝国主義政府の壊滅など、ボリシェヴィキ(過激派)が示した方針を決定しました。
ボリシェヴィキは、ロシアにおいて、自国軍の敗戦、戦争による社会の混乱、戦争に反対する労働者や農民の革命的行動の組織化を計画し、ツアー(ロシア皇帝)と戦争利得を求めるブルジョワ体制を倒して、共産主義革命を成就(じょうじゅ)させ、無賠償・無侵略の即時和平、真の平和を実現する事を求めたのでした。
ツアー政府の戦争敗北は、労働者や農民にとっての解放です。 そして、国境を超えて交戦国の労働者とも連携するのです。 1917年になると、ロシア帝政は、断末魔的な危機に陥りました。
ドイツ軍に敗退を重ね、国内においては物資が底をつきました。 労働運動は、経済ストから政治ストに変わりロシア全土に広がります。 ロシアの労働者の数は、
1905年に150万人、2017年には200万人に過ぎませんでしたが、ストの数はどこの国にもないほど多くなりました。
レーニンは、スイスから地下組織を通じて、ペトログラード、モスクワ、キエフ(現在キーフ)などで革命檄文(げきぶん)の配布を行い、ストや暴動を指導しました。
ツアー政府は、ストの影響で兵器生産が不可能となり、同盟国に武器、弾薬などの援助を仰ぎます。 多くの兵士は銃も食料もなく戦闘に駆り出されたので、反政府的な雰囲気を帯びてきました。
1917年2月、ペトログラードで、約20万人の労働者がストに参加。 赤旗が翻(ひるがえ)り、「ツアーを倒せ!」「戦争反対!」「パンをよこせ!」のスローガンが溢れ、鎮圧するはずの兵士は群衆に向けて発砲しませんでした。
兵士は次第に民衆に加担し、民衆も武装を始めました。 労働者に加え、数百万の農民も武装しました。 軍は分裂し、大方の兵は反乱軍となり、ペトログラードを占領。
この勢いの前に政治犯は釈放されました。ツアーは最後の手段として、ユダヤ人に対する完全な自由と平等を与える法律を発布しましたが、時すでに遅く、飢えた群衆がペトログラードを全市で放棄したのです。
全市に戒厳令が敷かれましたが、政府閣僚は総辞職し、ここに2月革命が成立しました。
周到に準備された2月革命
新たにリボウフを首相に、アレクサンドル・ケレンスキー(36歳)を司法大臣とする臨時政府が組織されました。 臨時政府は、地主階級やブルジョワジーを拠り所とする政権でした。
いずれにせよ、1905年から1917年の第一次ロシア革命のエネルギーが、その後の反動の時代を耐え抜き、1917年2月の第二次革命として爆発したのでした。 但し、この間、地主階級やブルジョワジーが経済的、政治的に大きな力をつけたために、彼らが表舞台の政権を獲ったのでした。
ツアーは、ただの一撃で席を譲り退場しました。 この2月革命の結果、ロマノフ朝ニコライ2世は退位し、200年の歴史を誇ったロシア帝国は終わりを告げました。
ツアー政府の腐敗と無能力ぶりを憂慮していた米・英・仏などの連合国は、臨時政府をすぐに承認しました。 そして、アメリカのウィルソン大統領は多大な援助を臨時政府に与えました。
この2月革命は、よほど前から用意されていたようです。 革命の第一日目に、帝都ペテログラード(旧ペテルブルグ)にあったすべての自家用自動車が数時間のうちにものの見事に徴発されました。
大公の豪華な自動車も直ちに姿を消し、その後は臨時政府の指導者が乗り回し、また帰国あいて駅に着いたレーニンの出迎えにも使われました。 しかし、ボリシェヴィキ(過激派)は、せいぜいストを訴える檄文を配ったに過ぎません。
レーニン、ジノヴィエフは亡命中であり、カメーネフやスターリンは流刑中、トロッキーもアメリカにいました。 他の政党も2月革命を指導した形跡はなく後追いでした。
誰がこの武装2月革命を実際に計画し指導したのか。 これまでの経緯から、ユダヤ人資本家などの世界戦略が背景にあったことは間違いなあそうです。
ブルジョワジー政権だった臨時政府
臨時政府が「自由公債」を公募すると、ロスチャイルド家は即座に100万ルーブルを応募し支援しました。 シフもユダヤ人を迫害するロシア帝政が崩壊したことで、2月革命を
「奇跡に近い快挙・・・我々先祖たちをエジプト人の奴隷から解放したことよりもずっと偉大と言って良い快挙」と褒め称え、臨時政府に100万ルーブルを融資しました。
臨時政府は、社会改革等(エス・エル)やメンシェヴィキ(穏健派)が加わっていますが、十月党や立憲民主党(カデット)が主体で、あくまでも地政権であり、かつブルジョワジー政権でありました。
彼らは基本的には反革命の立場であり、可能ならばツアー制さえ維持しようとしていました。 さらには、大地次世界大戦を継続して革命の動きを外敵に向けながら、莫大な戦時利潤を獲得しつつ、地中海への出入り口ダーダネルス海峡確保の必要性を論じたのでした。
プロレタリアートはまだ意識と組織が不十分であったために、政権を地主やブルジョアジーに渡してしまったのです。
これに対して、ボリシェヴィキ(過激派)はあくまでもプロレタリアートによる政権獲得を目指して革命の継続を主張しました。 労働者および革命側についた兵士の代表たちは、労働者兵士代表ソヴィエート(ロシア語で評議会の意。 ソビエトとも表記)に参集し、臨時政府に対抗しました。
ここに二つの政権、臨時政府(地主・ブルジョア主体)とソヴィエート(プロレタリア)主体が並立しました。 ソヴィエートの勢力は増大して、民衆もソヴィエートの方が真の実力機関であると認識し始めました。
アレクサンドル・ケレンスキー
アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー(アレクサーンドル・フョードロヴィチ・ケーレンスキイ;ロシア語: Алекса́ндр Фёдорович Ке́ренский, ラテン文字転写: Aleksandr Fyodorovich Kerenskii, アリクサーンドル・フョーダラヴィチ・キェーリェンスキイ、1881年4月22日(ロシア旧暦、グレゴリオ暦では5月4日) - 1970年6月11日)は、ロシアの政治家。ロシア革命の指導者の一人で、ロシア臨時政府大臣会議議長(首相)を務めた。社会革命党党員、弁護士。
母がドイツ系ユダヤ人であり、レーニンと同郷シンビルスク生まれのアレクサンドル・ケレンスキー(1881年ー1970年)は、野心的な政治家であり、3月に社会革命党の一員となり、その巧みな弁舌によって、臨時政府からもソヴィエートからも支持を受けました。
2月革命直後、多くの民衆に支持された社会革命党は、マルクス主義的なプロレタリアート独裁革命には反対し、民主主義的な社会革命を掲げていました。 3月になると、ロシア全土の都市や工場にどんどんソヴィエートが設立されていきました。
2月革命直後、多くの民衆に支持された社会革命党は、マルクス主義的なプロレタリアート独裁革命には反対し、民主主義的社会革命を掲げていました。 3月になると、ロシア全土の都市や工場にどんどんソヴィエートが設立されていきました。
ペトログラード・ソヴィエートはそれらの中心となり、国家的統一機関として位置づけられたのです。 ペトログラード・ソヴィエートでは、当初、社会革命党とメンシェヴィキ(穏健派)が優勢でした。
そのペトログラード・ソヴィエートにおいて、執行委員会が政治的・軍事的主導権を握ります。執行委員会は、議長にチヘーゼ(メンシェヴィキ)、副議長にケレンスキーが就きました。
委員は合計15名で、ユダヤ人9名、ロシア人3名、ジョージア人1名、不明2名と、ユダヤ人勢力が圧倒しました。 特に、ステクロフ・ナハムスケやスハノフ・ギンメルなどは、ユダヤ人勢力の指導者であり、これらユダヤ人委員が事実上、執行委員会の意思決定を仕切っていました。
また、ブンド(ロシアとポーランドにおける全ユダヤ労働組合)が執行委員のなかで力を持ち、ユダヤ人の平等権に関する法令を発議しました。
ボリシェヴィキへの支持の高まり
執行委員会のユダヤ人たちは、やがて、ケレンスキー副議長の温和な路線は、ユダヤ王国の樹立と他民族への復讐には役立たないと、見切りをつけ始めます。
加えて、ケレンスキーは、連合国側に立っての対独戦戦継続を閣僚として宣言して、資本家を儲けさせるだけの戦争にうんざりしていた農民や労働者を敵に回すことになります。
ケレンスキーは、ニコライ2世をイギリスへ亡命させようという動きさえも見せました。 彼はブルジョア的であり、帝国主義の片棒を担いでいるとさえ、見なされるようになります。
ユダヤ人勢力は、ケレンスキーを見限り、ペトログラード・ソヴィエートで優勢な社会革命党とメンシェヴィキ(穏健派)を見限ります。 多額の軍資金を持ってドイツ経由で帰国するレーニンが率いるボリシェヴィキ(過激派)に乗り替えていきました。
ロシア民衆は、そもそもボリシェヴィキ(過激派)に馴染まず歓迎していませんでした。 そこで、ボリシェヴィキは、先ず、ユダヤ人たちにぢ時を求めたのでした。
実は、2月革命が成功すると同時に、各国から夥(おびただ)しい数のユダヤ人が、次なるユダヤ的革命を期待してロシアに殺到していました。 これらユダヤ人の大部分はインテリあるいは半インテリでした。
ユダヤ人は民族圧迫から自らを開放するために、国家の拘束を否定するインターナショナリズムを主張し、民族平等の原則の下に、世界革命を実現しようとしました。
国際的なユダヤ人勢力は、すべての国家権力の上に大きな支配権をふるうことを企図していました。 マルクス主義を理論的かつ科学的に見せたボリシェヴィキの宣伝は、多くのユダヤ人のインテリや半インテリを共鳴させ、運動の手先とすることに成功しました。
「封印列車」でペトログラード(サンクトペテルブルグの旧名)へ
スイスにいたレーニンはボリシェヴィキ(過激派)を直接指導すべく祖国を目指しましたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されていました。 スイスの情報網を通じて、レーニンの帰国意思を掴んだドイツ政府やドイツ軍のルーデンドルフ参謀長は、「ドイツ政府の資金とドイツ軍の手でレーニンをロシアへ送り、ロシア政府を転覆させよう」と企て、彼を「封印列車」に乗せ、秘密裏にドイツ領内を通過させ、帰国できるよう手はずを整えたのでした。
レーニンが、ドイツの計らいでロシアに送られることが決まると、社会主義者や革命家たちの間では賛否両論が起こりました。 彼は多くの賛同者から赤旗を振られ、反対者からは「ドイツのスパイ」と罵られながら、ベルンの駅で封印列車に乗り、ドイツ士官3人とともに、悟られる事なくドイツを通過して北部に移動した後、船でヘルシンキへ向かい、そこから列車でペトログラードに向かったのでした。
この封印列車の手配には、ロスチャイルド家の下で働きドイツ政府の右腕となっていたフェリックスなどウォーバーグ兄弟が一役買ったと言われています。
1917年4月3日未明、ペトログラードに着いたレーニンは、駅頭で歓呼する数千人のボリシェヴィキの労働者や兵士を前に、臨時政府を厳しく非難するとともに、プロレタリア革命を訴えました。
彼は、封印列車内で書き上げた『4月テーゼ』を党の綱領として発表しました。 彼は臨時政府はツアー政府と同程度に帝国主義的であると断定し、ブルジョワ革命をプロレタリア革命へ転化してプロレタリア政権を樹立、ドイツなどとの資本家的戦争の即時和平、2千万人の組織化された人々を代表するソヴィエートへの権力の集中、産業と銀行の国有化、国家による地主の土地収用などを提唱しました。
さらに彼は、ペトログラード・ソヴィエートにおいて社会革命党とメンシェヴィキ(穏健派)とが臨時政府に協力を示していることを、革命への裏切りとして糾弾しました。
また、彼は党名称を「共産党」と改める事を主張しました。 1917年4月28日、ボリシェビキ(過激派)は、挙げてレーニンの『4月テーゼ』を採用しました。
ソヴィエートはますます勢いを増し、4月中には全国の農村につくられました。
一方、メンシェヴィキ(穏健派)はロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと主張し、「レーニンは誕生したばかりの新しい共和国を内戦へと導こうと試と非難しました。
臨時政府は、レーニンを「ドイツのスパイ」「ヴィルヘルム2世の代理人」と呼んで攻撃しました。
トロッキーの帰還
レフ・トロッキー
レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(ロシア語: Лев Давидович Троцкий、発音例: リィエーフ・ダヴィーダヴィチ・トローツキー、ラテン文字転写の例:Lev Davidovich Trotsky、1879年10月26日(グレゴリオ暦11月7日) - 1940年8月21日)は、ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家、ボリシェヴィキの革命家、思想家。本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン(ロシア語: Лев Давидович Бронштейн, ラテン文字転写: Lev Davidovich Bronstein)。
1917年のロシア十月革命における指導者の1人であり、ウラジーミル・レーニンに次ぐ中央委員会の一員であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員(外相)として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。
1920年代、政策を巡って政治局内の多数派と対立、「左翼反対派」を結成した。しかし、権力闘争に敗れたトロツキーはソ連共産党を除名された。初期のトロツキーは、ヨーロッパの結束主義に対する赤軍による介入の提唱者であり、1930年代にソ連とドイツが結んだ和平協定(en:Soviet–German relations before 1941)にも反対している。
メキシコに亡命したトロツキーは第四インターナショナルを結成し、官僚制に反対し続けたが、1940年、スターリンの刺客ラモン・メルカデルによって同地で暗殺された。トロツキーおよびその継承者の思想を、トロツキズムと呼ぶが、この語自体は、対立者によって1905年の早い時期に作られた造語である。その意味するものも、1905年革命、その後のロシア社会民主労働党内での対立、1917年革命、スターリン派による権力掌握、といった時期によって変化してきた。
戦術家トロッキーは、1914年に第一次世界大戦が始まると、スイスからフランスに居を移し、反戦を唱え、戦争支持のドイツやフランスの社会主義政党を批判しました。
しかし、彼は。1916年にフランスからも追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国へ亡命しました。 彼は、ニュージャージー州にあるロックフェラー家のスタンダード石油の製油所内で革命私兵集団を訓練して毎日をおくったとか、ニューヨークでシフのの支援を受け大邸宅に住み、護衛隊まで付いていたと言う話があります。
ニューヨークでは、ロシア語新聞にロシア情勢を書きました。 2月革命を知ると、、トロッキーはシフから貰った多額の革命資金を持ってニューヨークを発ち、1917年5月、レーニンに1ケ月遅れてペトログラードに到着。
ドイツのユダヤ人資本家マックス・ウォーバーグもトロッキーに資金を提供しました。 トロッキーは7月、ボリシェヴィキ(過激派)に入党し、やがてペトログラード・ソヴィエート議長に就任します。
なお、ドイツのルーデンドルフ参謀長は、後の1931年2月、ボリシェヴィキ(過激派)の背後にユダヤ人国際禁輸資本家がいて、ロシア帝国とドイツ帝国への闘争を指揮していたと暴露します。
彼は「トロッキーは国際金融資本持って、アメリカからスウェーデンを経てペトログラードに到着した。 別の金はドイツあら、ユダヤ人ゾルムビンによってボリシェヴィキに与えられたと述べています」。
こうして、2月革命後に、レーニンやtロッキーを始めとして、スターリンを含めて、数千人の革命家がペトログラードbに帰ってきました。 世界各地から帰還した亡命ユダヤ人革命家たちは、直ちに、ボリシェビキ(過激派)のユダヤ人指導者たちと結合したのでした。
ボリシェヴィキへの弾圧
1917年5月5日、臨時政府は、ソヴィエートからの政権参加を認め、8人の資本家、ケレンスキーを含む2人の社会革命党員、2人のメンシェヴィキ(穏健派)、そして2人のその他社会主義者からなる改造内閣をつくりましたが、ボリシェヴィキ(過激派)は、加わりませんでした。
依然としてブルジョワジー中心の政権でした。 野心家のケレンスキーは司法大臣から軍夢相(陸海相)となりました。 6月上旬、第1回全国ロシア労働者兵士代表ソヴィエート大会が開催され、ボリシェヴィキ(過激派)の兵士や労働者がレーニンを支持したものの、多数を占める社会革命党とメンシェヴィキ(穏健派)が、これ以上の革命と、その後の反動を恐れてケレンスキーを支持し、結局大会は臨時政府の戦争継続方針を支持したのでした。
ケレンスキーは、国内闘争を外敵(ドイツ)に対する総攻撃に転化し、戦争によって国内の反対勢力を粉砕することを企図しました。 ところが、スターリンらによる新聞やポスターなどでの呼びかけが奏功し、6月18日、ペテログラードで50万人の労働者と兵士が「戦争反対!」「ケレンスキー反対!」「全権力をソヴィエートへ!」と叫ぶデモが勃発しました。
7月4日にも40万人の労働者と兵士によるデモが起こりました。 地主やブルジョワジーに背中を押された臨時政府はこれを鎮圧し、社会革命党やメンシェヴィキ(穏健派)は臨時政府を支持しました。
さらに、「レーニンやボリシェヴィキ(過激派)は、ドイツから資金を受け取っている。 ドイツのスパイだ! 」との嫌疑を世間に流布させたためにボリシェヴィキは苦しい立場に追い込まれました。
捜査で押収されたレーニン筆跡の手紙や逮捕された資金の運び屋の供述からして、ドイツから引き続きレーニンやボリシェヴィキ(過激派)に資金が流れていたことは事実でしょう。
臨時政府はさらに踏み込んで、トロッキーたちボリシェヴィキ指導者を逮捕しました。 レーニンは変装して逃れ、10月下旬までフィンランド郊外の草むらやヘルシンキの隠れ家に身を潜めていました。
7月7日に首相兼軍務相となったケレンスキーは、詰襟服を着てナポレオンを真似た独裁者となり、ボリシェビキ弾圧と戦争継続を断行していきました。 一方、戦争の最前線では、ボリシェヴィキのスローガンが浸透して反戦の空気が広がり、兵士たちの戦意は失われていきました。
ロシア軍はドイツ軍に敗北と後退を重ねていきます。 ロシア国内では、長引く戦争の影響で、民衆は極度の栄養不足に陥り、背勝必需品は激減し、配給のための輸送は燃料不足のために止まり、壊れた鉄道馬車が軍用貨物を運んでいました。
莫大な国債発行と紙幣の増発によって極度のインフレとなり、ルーブルはどんどん無価値になっていきました。
次の投稿は「10月革命を指導するユダヤ人たち」です。
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