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ロスチャイルド財閥-98 世界連邦を夢見たセシル・ローズ、円卓会議そしてミルナー幼稚園

2022-11-11 16:27:06 | 国際政治・財閥

セシル・ローズ(1853-1902)

オックスフォード大学教授のジョン・ラスキンは、オックスフォード在学生に、次のように抗議しました。

「彼らが特権的支配階級の一員であると語りかけました。 彼らは教育、美、法の支配、自由、上品さ、自己規律という気高い伝統を継承いるが、その伝統が英国下層階級や英国人を除いた世界の大衆に広まらない限り、この伝統を維持するのは困難であり、伝統が保存に値しないと語った。 もし貴重な伝統がこの二つの大多数に広まなければ、少数の英国上流階級はこの大多数の前に屈し、伝統は失われる。 それを防ぐには、伝統が大衆と帝国に広まらなければならない」


ラスキンのメッセージは衝撃的でした。 彼の就任記念講義は、一人の大学生、セシル・ローズによって手書きで記録され、彼は30年間それを手放しませんでした。

ローズは、南アフリカのダイヤモンドと金の鉱脈を憑かれたように探し求め、初代ケープ植民地首相を務めました(1890-1896)。そして政党へ多額の献金をし、英国と南アフリカ両国の議席を支配し、喜望峰からエジプトまでアフリカを縦断した英国領土の確立に努め、この両端の地を電信で、しまいにはケープ・カイロ鉄道で結びつけました。

ローズは、南アフリカと英国の人々の献身的な支援を組織しました。 ロスチャイルド卿やアルフレッド・ビートから資金援助された彼は、南アフリカのダイヤモンド鉱山をデビアス・コンソリティテッド・マインズ社を通じて独占し、金鉱山の巨大企業コンソリディテッド・ゴールド・フィールズを設立しました。

1890年代の中頃、ローズ個人の年収は100万ポンド(約500万ドル)を下りませんでしたが、「得体の知れない目的のために浪費したので、口座はつねに当座借り越し状態でした」(『悲劇と希望(Tragedy & Hope)、キャロル・キグリー(Carroll Quigley)・ジョージタウン大学教授 著』130ページ)。





ローズは世界連邦を目指す長期戦略を開始
セシル・ローズの目的は、英語圏の人々を結集して、世界中の全居住地を彼らの支配下に置くという野望に尽きる。 このためローズは莫大な私財の一部を寄贈してオックスフォード大学にローズ奨学金を設立し、ラスキンの望み通りに、英国支配階級の伝統を英語圏に広めようとしました。


ローズは幅広い支援を受け秘密ネットワークを組織
オックスフォードの熱烈なラスキン崇拝者の中に、アーノルド・トインビー、アルフレッド・ミルナー(後のミルナー卿)、アーサー・グレイズブルック、ジョージ・パーキン(後のジョージ卿)、フィリップ・リトルトン・ゲル、ヘンリー・パーケナフ(後のヘンリー卿)などの盟友グループがありました。 彼らはラスキンの言葉に燻陶(くんとう)を受け、彼の構想を実行するために人生を捧げました。

ケンブリッジにも同じようなグループがあり、レギナルド・ペーリオル・ブレット(イーシャー卿)、ジョン・B・シーリイ卿)、
アルバート・グレー(卿)、エドムンド・ギャレット等もラスキンの言葉に燻陶を受け、いわゆる「英語圏の着想を拡大する」計画の両輪として、大英帝国の拡張と英国都市住民の意識向上に終生務めました。


彼らがめざましい成功を収めたのは、熱烈な社会改革者にして帝国主義者である英国一過激なジャーナリストのウィリアム・T.・ステッド(1840-1912)が彼らをローズに引き合わせたからであります。

この連合ができたのは公式には1891年2月5日のことであり、ローズとステッドは、ローズが16年間夢見ていた秘密ネットワークを組織しました。





ローズの秘密ネットワークの原形

ローズがこの秘密ネットワークの指揮を執りました。ステッド・ブレット(イーシャー卿)、ミルナーが幹部委員会のメンバーとなりました。 アーサー・バルフォア(卿)、ハリー・ジョンソン(卿)、ロスチャイルド卿、アルバート・グレー(卿)などが、「創始者グループ」の幹部メンバーに名を連ねました。

「支援組織」(後にミルナー卿によって『円卓会議(ラウンドテーブル)』として組織された)として知られる外郭団体もありました。

ブレットは当日、ミルナーは数週間後にエジプトから帰国すると、この組織に加わるように要請されました。 両者とも感激して受諾しました。 こうして、秘密ネットワークの中核が1891年3月までに出来上がりました。この組織は公的なグループとして機能し続けましたが、外郭団体は1909~1913年まで組織化されなかったことが明確になっています。





ローズの死後も秘密ネットワークは永遠に続く

グループは1902年にローズが死んだ後も、彼の資金やアルフレッド・ビート(2853-1906)やエイブ・ベーリー(1864-1940)といった忠実なローズ支援者の資金を使うことが出来ました。

こうした支援を背景に、ローズがラスキンやステッドから受け継いだ理想を広め、その実践に勤めました。 1902年以降、ミルナーがローズ遺産の筆頭管財人に、パーキンがローズ信託財団の理事長に就き、ゲルとバーケナフは他の同志と同じように、英国南アフリカ会社の役員に就任しました。

彼らの尽力によって、グレー卿、イーシャー卿、フローラ・ショー女史(後のレディ・るガード)といったラスキンを信奉するステッドの友人たちが加わりました。

1890年、ここで紹介しきれないほどの裏工作のあげく、ショーはタイムズの植民地部長に就任しますが、ステッドの経営するポール・モール・がゼータ社からも給料をもらっていました。

部長就任後10年間、彼女はセシル・ローズの帝国主義計画の実行に多大な役割を果たしました。 ステッドが彼女をローズに」引き合わせたのは、1889年のことでした。






他国にしだいに広まる秘密ネットワーク

1897年から1905年にかけて、南アフリカ総督兼高等弁務官としてミルナーは、オックスフォードやトインビー・ホールを中心に、若者たちを集めて統治運動を手伝わせました。



初代ミルナー子爵アルフレッド・ミルナー(英: Alfred Milner, 1st Viscount Milner、1854年 - 1925年)は、イギリスの政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCB)、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCMG)、枢密顧問官(PC)。

生涯
ドイツのギーセンで生まれ、イギリスに渡り、オックスフォード大学で学んだ。財務大臣ジョージ・ゴーシェンの個人秘書となった。1897年、植民地大臣ジョセフ・チェンバレンによりケープ植民地の長官に任命される。南アフリカのイギリス代表として、ボーア政府と対立、ボーア戦争を起こした。第1次世界大戦時にロイド・ジョージの戦時内閣で活躍、フェルディナン・フォッシュ元帥を連合軍司令官に任命した。1891年、アスター卿、ロスチャイルド卿の出資により『帝国評論』(のちに『ラウンド・テーブル(英語版)』)を発行する。王室とオックスフォード大学から表彰されている。1925年、オックスフォード大学の総長に選ばれたが、就任前に亡くなる。





ミルナー幼稚園
ボーア戦争に際し、ミルナーはオックスフォード大学で優秀な若者をスカウトし、アフリカ征服のためのエリートとして養成した。これが「ミルナー幼稚園(英語版)(ミルナー・キンダーガーデン)」です。

ミルナーの影響力によって、若者たちは政府や国際金融の要職に就き、1939年ころには、英国の帝国主義的外交に辣腕(らつわん)をふるうようになりました。

南アフリカでミルナーに仕えた彼らは、1910年まで「ミルナーズ・キンダーガルテン(ミルナーの幼稚園)」と呼ばれていました。 1909年から1913年にかけて彼らは英国の主だった属領や米国で、円卓会議グループという、半ば秘密結社を組織しました。この秘密結社は、いまだに存続しています。

彼らの私信のやりとりや頻繁(ひんぱん)な相互訪問によって、あるいは、1910年にエイブ・ベリー卿の資金で創刊された影響力のある季節誌『ラウンド・テーブル』を通じて連絡を絶やしませんでした。 1919年、おもにエイブ・ベリー卿やアスター一族(タイムズの社主)から資金を援助された彼らは、「王立国際問題研究所」(チャタム・ハウス)を設立しました。




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ロスチャイルド財閥-97 世界大恐慌 カモになった農民たち

2022-11-09 21:13:39 | 国際政治・財閥

1929年10月24日、暗黒の木曜日の株価暴落 Brooklyn Daily Eagle

席大恐慌 1929年10月24日、暗黒の木曜日の株価暴落~1930年代後半


1929年に始まった世界大恐慌
https://www.youtube.com/watch?v=ApC8U_myIPA


ロスチャイルド財閥ー96 盛大なカモの晩餐
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f855fd1613cd0571fcb8724c1ab25f21




第一次世界大戦後の世界の概要

第一次世界大戦で、戦場とならなかったアメリカは、ヨーロッパなどへの輸出を増やし,第一次世界大戦後,世界経済の中心となりました。しかし,やがてヨーロッパの経済は復調したためアメリカの輸出量は減少,生産過剰となり製品が大量に売れ残り,経済の不安が広がりました。

株価大暴落
1929年10月24日,アメリカの株式市場で株価が大暴落し,アメリカはいっきに不景気となりました。銀行や工場が倒産し,農産物の価格も下落,多数の失業者が出ました。

世界のほかの国への影響
アメリカは,第一次世界大戦後,ヨーロッパ諸国に復興のための資金を貸していました。貸し手であるアメリカが不景気に陥ったことで,借り手であったヨーロッパ諸国などにも大きな影響が及びました。また,アメリカと貿易を行っていた日本などの資本主義国も影響を受けました。

アメリカの対応
アメリカではルーズベルト大統領が「ニューディール(新規まき直し)政策」を打ち出し,政府が行うダム建設などの公共事業で失業者を雇うことにより,経済を安定させました。農業の面でも,政府が農産物を買い取るなどの政策を行い、また、労働者の権利の保護なども行い,国民の生活も安定させました。



世界の国々がとった政策

[イギリス・フランス]
イギリス・フランスは,自国と植民地との貿易を強化して,他国との貿易には高い関税をかけて締め出す「ブロック経済」政策を行うことにより,経済を安定させました。


[ソ連]
ソ連では社会主義国化が進められ,国が計画を立てて農業生産や工業生産をする計画経済が行われていたため、世界恐慌の影響をあまり受けませんでした。ソ連は共産主義国家だったため、主要国の中でただ一国、世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続け、1930年にはGDP2523.3億ドルでイギリスを超えて世界第2の経済大国になりました。

以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出ましたが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていました。極東・シベリア開発には政権により意図的に作り上げられた「にわか囚人」が大量に動員されました。

世界各国が大恐慌に苦しむ中、計画経済で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とヨシフ・スターリン書記長の神格化傾向が進みます。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の上流階級で裏切りが続出し、スパイになる人材が輩出された事は冷戦時代に大きな意味を持ちます。ユダヤ系国際金融資本バックの共産主義ソ連の台頭です。


ロスチャイルド財閥ー91  プロトコール 「シオン長老の議定書」
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/4fb7833b087ab8882497419caa331c74
ロスチャイルド財閥-92 団結の絆 タルムード ~プロトコールは本物~
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/b279a199d9c6444cd8667256b93ebba2
ロスチャイルド財閥ー85 ヴェネチアの黒い貴族: 人類史絶対勝者のルーツ
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/ee17d9c2af99e8fb646a1c44d6e8e129

ユダヤ教(実は軍事同盟)とグローバリズム、そして軍需産業
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/703f7d4234db701908bfd7cbaa536e30
明治以降、日本語訳の旧約聖書に書かれなかった一節
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/02df639b5ab25372db80ce9dca89b4af
イスラム教もユダヤ教も教義は、自分たちが世界征服するワンワールド化が目標
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/c3d70d0413c2f79c9e782733e2ddc704


[ドイツ・イタリア]
有力な植民地を持たないドイツ・イタリアでは,不景気による社会不安を利用して独裁者が現れ、軍事力で反対派をおさえ、反民主主義・反自由主義をかかげた全体主義の政治(ファシズム)を行い,他国を侵略して経済を安定させようとしました。
 ドイツ・ヒトラー率いるナチスが独裁政治を行い,東ヨーロッパなどを侵略。イタリア・ムッソリーニ率いるファシスト党が独裁政治を行い、エチオピアを併合。


[日本]
日本も、新たな資源を求めて満州へ進出し,経済を安定させようとしました。世界恐慌への対策として軍事力で他国を侵略していったドイツ・イタリア・日本は,やがて国際社会で孤立していきます。 そして、その後、世界戦争(第二次世界大戦)へと発展してゆきます。





カモ料理になった農民たち
第一次世界大戦中、農産物の価格はかつてなかったほど上昇し、利益も同じく増えました。 農民たちはその金の一部で戦時国債を買いましたが、多くは農業地帯の、ということは大半が中西部や南部の銀行に預金しました。

これは預金シェアが低下するニューヨークの銀行にとっては我慢のならないことでした。 この金を取り戻す方法を考えなければならない。 すでにニューヨークの銀行に取り込まれていたFRS(連邦準備制度理事会)がそのために引っ張り出されました。

地方銀行の多くはFRSに参加していませんでした。 これも不愉快の種で、FRSが経済戦争を仕掛ける口実になりました。 計画は複雑でも独創的でもありませんでした。

中央銀行家が何度も使ってきた方法です。 

(1)農民がに低金利で貸しこんで、借金漬けにし、
(2)不況をつくりだして、借金の返済ができなくなるまで農民の所得を減少させる。 これで地方銀行は大量の不良債権と赤字でなけ れば処分できない担保を抱え込む。 結局、農民も地方銀行も一掃される。標的は銀行でした。気の毒なのは農民です。

最初の単独大西洋横断飛行をした飛行家の父であるチャールズ・リンドバーグ・シニア下院議員はこう述べました。
「連邦準備法の下では、恐慌が科学的に引き起こされる。現在の恐慌は科学的に引き起こされた最初のもので、数学の問題のように仕組まれた」。

この恐慌がいかに仕組まれたか、詳しいことを上院銀行通貨委員会の委員長だったロバート・オウエン議員が1939年に説明しています。 オウエン自身、銀行家で連邦準備法の共同提案者でしたが、のちにはその役割を後悔していました。 オウエンは言います。


1920年5月・・・農民は非常に豊かだった。・・・借金の返済も進んでいた。 政府の勧めで新しくたくさんの土地をーーそのために借金をしてーー買い入れ、そして1920年に起こった急激な信用収縮と金融引き締めで破産した。・・・

連邦準備制度は理事会は非公式会議を開きーー1920年5月18日、秘密会議ーー会議は1日中続きました。 議事録は60ページにわたり、これは1923年2月に上院文書310号として公表されました。・・・1920年5月18日にFRBが取った行動により、暴力的な信用収縮が起こりました。・・・この信用収縮と金融引き締めのせいで、翌年の国民総資産は150億ドル減少しました。何百人もが職を失い、土地や農場の価値は200億ドル低下しました。

信用収縮は農民だけでなく国全体に墓的な影響をもたらしました。しかし特にひどい目にあったのが農民でした。少し前に創設された連邦農業融資公社に低金利の融資で--例の池のカモのように--誘われて、債務が極端に増えていたからです。 しかもFRSのメンバーだった大都市の銀行は、1920年夏にFRSの支援を受けて製造業や商人への融資を拡大していました。

このために多くが不況を乗り切ることが出来ました。 しかし、農民にはそのような支援はなく、1221年にはドミノ倒しのように次々と倒産しました。 歴史書には1920~21年の農業不況と記されていますが、ニューヨークのカモ料理晩餐会と呼んだ方がふさわしいのかもしれません。





マネーサプライ
公開市場での債務証券の売買がマネーサプライに大きな影響を及ぼします。 FRSが証券をマネーの裏付けのない小切手で購入するとマネーが創出されます。 証券を売却するとマネーは消滅します。

FRSは世界に存在するほとんどすべての証券を売買を認められてますが、とくに連邦政府の債権や手形を優先することが義務付けられています。

これによって、金融のサイエンティストたちはパートナーである政治のサイエンティストたちのためにマネーを創出する義務を果たします。 このサービスがなければパートナーシップは崩壊し、議会はFRSを廃止するでしょう。

1913年にFRSが創設されたとき、マネーサプライ捜査の最大の方法は「準備率」と「割引窓口」のコントロールだと考えられてきました。これは各銀行の預金額に対する支払準備率を設定すること、それにFRSが銀行に貸し出す金利を設定することを指します。

古い国法銀行法のもとでの準備率は25%でしたが、1913年の連邦準備法ではニューヨークの大銀行では28%も引き下げられて18%に決められました。しかし、わずか4年後には中心都市準備銀行の準備率はさらに13%に下がりました(中小企業の引き下げ率はもう少しし小さかった)。 またも28%引き下げられたのです。

準備率の変更はツールとして効果的でないことがすぐに明らかになりました。コントロールの刻みが小さすぎ、世論の注目が大きすぎたのです。 二つ目の商業融資の利率変更の方が有効性は高かったのです。 これは次のように働きます。

部分準備制度銀行制度のもとでは、銀行は融資するだけで新しいマネーを創出できます。 創出するマネーの量はキャッシュフローのニーズに応じるために保持すべき部分、つまり準備率に制約されます。 準備率が10%なら貸し出す10ドルのうち9ドルはそれまで存在していなかったマネーであります。

したがって、商業銀行は貸し出しを行うだけで相当のマネーを創出できます。 しかし貸切ってしまったら、つまり準備金1ドルに対し9ドルを貸してしまったら、そこで中止して以前の融資の返済を待たなければ、新たな貸し出しはできません。 

このプロセスを拡大するには準備金を増やすしかありません。 それには4つの方法があります。 
(1)預金額を増やす
(2)銀行の利益を振り向ける
(3)株式を追加発行して投資家に売る
(4)FRSからマネーを借り入れる



銀行がFRSから借りるとき
いちばん人気があるのが第4の方法で、これが「割引窓口」と呼ばれます。銀行、がFRSの割引窓口に行ってマネーを借りようとすると
当然、担保を求められます。 これは国債を含め銀行が持っている債権ならほとんど何でもかまいませんが、たいていは商業債権です。

FRSは担保債権と同額の信用を銀行に供与します。 要するに銀行は既存債権を新しい「準備金」に転換できるわけです。 この新しい準備金は、1ドルあたり9ドルの新たな小切手マネー創出の裏付けとして使うことができます。

話はまだ終わりません。新たな貸し出しが行われると、これを担保にしてまたFRSから準備金を借りることが出来ます。手品はこうして回り続け、新しい債務は「準備」になって、また次の債務を産み、ついに28倍に達して終わります。 このプロセスはふつう「商業手形の割引」と呼ばれています。

FRSが1929年の決壊に先立って国中に新たなマネーをあふれさせることができたのも、この手段のおかげでした。しかし、少なくてもFRSにとっては、この方法には問題がありました。 割引窓口の金利を低くして、ただのトウモロコシに群がるカモのように、銀行家が集まるよう仕向けても、銀行家の中にはーー特に地方銀行の「田舎者」にはーー誘惑に抵抗する者がいたのです。 

銀行にプロセスへの参加を強制する方法はありませんでした。 しかもその銀行のほうも、それぞれの理由で銀行が望むもほど借金をしたらがらないかもしれない顧客の気まぐれに振り回されます。 顧客が借りてくれなければ、銀行は準備金を増やすもとになる債権が手に入りません。

こうなると、もっと使い勝手の良い方法として、第3のメカニズムが浮かび上がります。 公開市場における債権その他の債務証書の売買です。 割引窓口で銀行に借り入れをさせても、銀行はいずれ借金を返済しなければならず、ときには銀行側が借金を渋ることもあります。 

しかし公開市場操作ならFRSは証券を購入するために小切手を書くだけで済みます。この小切手が現金化されると創出しされた新たなマネーは直接に経済につぎ込まれ、扱いにくい銀行の協力は必要ありません。しかし、この方法にも問題はありました。

第一次世界大戦前には、公開市場で売買できる国債は少なく、戦後になっても供給は限られていました。つまり、1929年の暴落に先立つマネーサプライの増加は財政赤字のせいではありませんでした。

1920年から1930年まで、連邦政府の財政は毎年黒字でした。以外に思われるかも知れませんが、、恐慌前夜、アメリカは債務から脱出しかけていたのです。 その結果、FRSが購入しようにも国債はそう多くありまっせんでした。 国債がなければ、公開市場のエンジンは年中ガソリン切れです。

これらの問題を一挙に解決する方法は、FRSの要求にぴったりする割引窓口と公開市場を折衷した新しい市場を創設することでした。

これはFRSが、銀行引受手形と呼ばれる独特の債務証書を購入するという意味で、「引受窓口」と呼ばれました。






銀行引受手形
銀行引受手形とは、商品購入代金の将来の支払いを約束する契約の事です。」ふつうは国際的な取引で、支払いまでのずれが3ケ月から6ケ月あります。 ある国の売り手は別の国の未知の買い手が商品到着時に代金を支払ってくれると信頼して商品を送り出します。

国際貿易の常識 Letter ofCredit(LC)
この取引は売り手と買い手双方の銀行が保証して行われます。 まず買い手側の銀行が商品代金支払いを保証する信用状を発行します。たとえ買い手が破産しても支払いは保証するということです。 売り手側の銀行はこの信用状を受け取ると、「引き受けた」旨を信用状記入し、売り手に販売代金を支払います。引受銀行は将来、買い手側の銀行から支払いを受けることを期待して、売り手に代金を立て替えます。 このサービスに対して、両銀行とも契約額の一定の割合の料金を徴収します。こうして買い手は販売代金より少し余分に支払い、売り手側は販売代金より少し少なく受け取ります。

歴史的にこのような契約は安全でした。 銀行は慎重で財務が健全な企業の支払いしか保証しないからです。 しかし、恐慌になれば健全な企業でさえ契約が履行できなくなるかもしれません。

1857年恐慌
1857年の恐慌時に破綻しかけたジョージ・ピーボディとJ・P・モルガンが裏書きしていたのは、そのような手形でした。もしイングランド銀行が救済してくれなければ、破綻していたでしょう。

引受手形
引受手形は商業貸付債権と同じで、証券市場での売買の対象になります。 引受銀行は満期まで手形を保有していても良いし、売却してもOKです。 保有していれば契約通りの支払いが行われたときに利益が実現するし、それは」銀行用語で引き受け料金を指す「割引」額と同額になります。 最初に割り引いた(=引き受けた)銀行が引き受け手形を売却することを「再割引」と言います。 再割引すると3ケ月から6ケ月待たずに利益が確保できます。その資金を投資して金利を稼ぐことができます。 引受手形の価格は引き受けた契約の額面y李必ず低い。 そうでなければ誰も買いません。 差額は買い手の利益です。その額は契約のパーセンテージで表され、割引または再割引「率」と呼ばれます。売り手が設定する割引率は、自分が割り引いた率よりも低く、そうでなければ、売り手は手形を保有していたほうが得になります。



金融用語に騙されてはいけない
この記事を読んでくれている中には学生さんもおられると思います。 ここまで金融商品の話をしてきましたが、ややこしそうで読みに食ったと思います。 しかし、現実社会で使われている用語なので、読むのはすっとばしてくれても良いですが、とりあえずこのまま残していて勉強される際に再度読んで頂けらばと思います。 なんら数学的に難しくはなく、アホみたいなことを言っているにすぎませんが、「金融サイエンティスト」と彼らは自分の事を言っていますが、一般の我々は「ハゲタカ詐欺師」と彼ら金融家の事を呼んでいます。 このように、金融用語はわざと一般人に分かりにくくして騙しているにすぎません。

アメリカの中央銀行FRB(連邦準備制度銀行)、あたかも政府が保有しているような名前を付けて、実はロスチャイルド・クーン・ローブ・モルガン・ロックフェラー財閥等、国際財閥が100%保有している私有銀行で、アメリカ政府が保有する株式0%です。 アメリカは各州が集まった合衆国なので連邦という言葉は良いでしょう。 

準備制度とか準備金はなんやねんと一般の人が疑問に思うのは当然です。 銀行は皆さんが預けたお金を運用し、企業とかに金利(利子)を付けて貸し付けてますよね。この金利(利子)が銀行の利益です。 もし預金者が全員預けたお金(自分たちのもの)を引き出しに行くとどうなるでしょう? 銀行にはそれだけのお金はありませんと言われます。 

どういうことかと言えば、皆さんが預けているお金を準備金と言います。 そしてまさか皆さんが全員引き出しに来るとは過去の経験からないと思っているので、実際の運用は皆さんが預けている金額以上なのです。 

その準備金の割合いが一般易には10%です。 銀行により多少の差はありあますが。準備制度とはそういうことです。 アメリカ合衆国の中央銀行と聞くとあ誰もが信用しますが、100%民間企業が所有する銀行ですわと聞けば、だれも信用しません。 だからわざとにややこしい名前で皆さんとだましているのです。 

CDSとかいろんな金融商品があります。 会社が倒産すると、その金融商品を買った人は儲かるとカ・・・多くはインチキ手品のような話が多いのです。しかしだまされて購入した人は対象企業が倒産すると実際に儲かります。 こうしてバブルははじまるのです。 

そうして国際金融資本家と癒着した政治家が中央銀行に、紙幣の発行権、貨幣の流通量や金利の%などを決める権限を与えているので、彼らは自由にバブル経済、恐慌を作ることが出来ます。 歴史的に、彼らは低金利かつ貨幣の流通量を増やしてバブル経済を作りだします。 それはそれで銀行も中央銀行も儲かります。ただの紙切れにただ同然に印刷だけで高額紙幣になりますからね。
ちなみに日本銀行の場合、1万円札は国立印刷局に印刷を依頼し、日銀は約3円で購入し、それをわれわれ市場にバラまくときには1万円になっているのです。調べてごらんなさい。

だから、国際金融財閥はアメリカ政府に巨大PJを政治的に作らせるのです。戦争・環境・アフリカなど後進国への巨額資金援助など。 我々から見ると、そんなところにお金を使って間違っとると言うのは当然ですが、PJが巨大なほど彼らはぼろ儲けできるのです。

そして政府は巨額の国債を発行します。 その国債を買うのは中央銀行(株主はただでさえ大富豪の国際金融資本家たち)、そしてその国債は満期の期限と金利が最初に決められたうえで購入しますので、満期が来ると政府は中央銀行に金利をつけて返さなければなりません。

それで国際金融資本家たちは、その利子でも、ぼろ儲け。 その利子のお金は国民から徴収した自動的に税金です。制度化してますから、いちいち選挙の公約で税金上げまっせと言って政治家は選挙でのリスクをとる必要がないのです。 

こう言ったことを何年も繰り返し国債の額は巨大化し、あの世界一豊かだった大英帝国・アメリカ帝国・日本の国民は中間層が、ほぼ全員貧困層に陥っているのが現在です。

アホの一つ覚えのMMT信者のいうここことをしんっじてはイケマセン。 彼らはアホなのですから。

それではデフレや恐慌を起こしてなにがうれしいのか? 民間銀行や企業、さらに国土を2足3文で買い叩き、国際金融資本家たちの銀行や企業がただ同然に買収できます。 

恐慌の後、必ずどの国も復活しますよね。 当たり前です。企業銀行・企業・土地をした彼らは今度は自分のために儲けてもらわなければならないので、バブルを創す出すわけですわ。 

ただし、円安だから損をするというわけでもなく資本力や技術力のある会社が買収してくれると、雇用を生み出し国内経済が発展してきたという一面もあります。1ドル360円の時代で日本は高度成長できましたからね、大事なのはバランスです。 今の円安も一長一短あり、どんな時代でも成功する人・企業、失敗する字と・企業がいます。

金融商品でだましの王様は保険でしょうね。 小さい文字でいっぱい専門用語など書かれて、まともに読んでいる人は一人もいないと思います。 保険会社が親切のに自分の商品を説明したら、皆さんから集めたお金を運用するとある確率・期待値で保険会社はぼろ儲けしますとしか言いようがないですからね。





国法銀行は引受手形の購入を禁じられていた
話を大恐慌に戻します。 銀行引取手形はヨーロッパででは普通に売買されていましたが、アメリカではそれほど一般的ではあろませんでした。 連邦準備制法成立までは、国法銀行は引受手形の購入を禁じられていました。 したがって市場を創り出す必要がありました。 

FRSは引受手形の割引(=引き受け)率を低く設定し、よほどの愚か者でない限り利用せずにはいられないように仕向けました。低い割引率で短期資金を獲得し、もっと高利回りの投資をすることができます。 こうして、たちまちアメリカの公開市場に割引手形が大量に出回ることになりました。

しかし、そんな低利周りの手形をだれが買うのか? もちろん、買い手はいません。 そこで市場をつくりだすために、FRSは割引率を人為的に低く設定しただけでなく、提供される割引手形をすべて買い取ることを約束しました。

FRSはこれらの手形の最大の買い手となりました。 銀行も買い手として市場に出てきましたが、売りたくなければFRSがことが買い取ってくれることが約束されているからでした。

マネーはもともと無から創出されるので、コストは問題にならないし、低利回りも問題にはなりません。 FRSの目的は投資で利益をあげることではなく、マネーサプライを増やす事でした。





ウォーバーグとクー㎜・ローブが儲かった
この人工的な市場創出で誰よりも利益を得たのは、クーン・ローブ商会の共同経営者ポール・ウォーバーグでした。 ウォーバーグは連邦準備制度を考え出したジキル島の会合の一員です。

彼こそ参加者の議論を主導する理論家だったことは衆目の一致するところでした。 その後の公的な議論でも、最大の影響力をふるった一人でした。 彼はFRBの初代理事の一人に任命され、のちには副議長を務めましたが、戦争勃発で辞任しました。

ドイツの銀行との関係を世間に知られていたからです。 ウォーバーグは、I・G・ケミカル・コーポレーションとアグファ・アンスコ社の取締役でしたが、どちらも悪名高いドイツのカルテルで、数年後にアドルフ・ヒトラーを支持して政権の座に押し上げたI・G・ファルベン(イーゲーファルベン)の支配下にありました。

ウォーバーグは、世界最大の引受銀行であるニューヨークのインターナショナル・アクセプタンス・バンク(IAB)の創立者で会長でした。

また、ウェスティングハウス・アクセプタンス・バンクを含め、もっと規模の小さいいくつかの「ライバル」の取締役でもありました。
ウォーバーグこそアメリカの引受市場だったのです。

アメリカ最大の金融機関をコントロールしていた人々は、さまざまな引受銀行の取締役や幹部になっていました。 お互いに取締役を出し合っていた企業を挙げると、

クーン・ローブ商会、ニューヨーク・トラスト・カンパニー、バンク・オブ・マンハッタン・トラスト・カンパニー。アメリカン・トラスト・カンパニー、ニューヨーク・タイトル・アンド・モーゲージ・カンパニー、チェース・ナショナル・バンク、メトロポリタン生命保険会社、アメリカン・エキスプレス・カンパニー、カーネギー・コーポレーション、gギャランティ・トラスト・カンパニー、ミューチュアル生命保険会社、ニューヨークのエクイタブル生命保険、ぼすとんやセントルイスやロサンゼルスのファースト・ナショナル・バンクなどがありますが、これらはほんの一部にすぎません。

引受銀行の世界はウォール街の金融エリートの独壇場でした。 しかし、アメリカ的なイメージの舞台裏では、ヨーロッパの投資家が全面的にかかわっていました。


IABの総資本に占めるアメリカ人株主の持ち株は2億7600万ドルで、2億7100万ドルは外国人投資家が出資していました。 そのうちの相当部分はドイツのウォーバーグ英国のロスチャイルドが分け合っていました。


引受手形市場では、どのくらいのマネーが動いていたのでしょう? 1929年には1兆7000億ドル規模でした。 1020年代を通じて、FRSが創出した新たななマネーの半分強をこの市場が占めていました。

公開市場での他の債券購入と割引窓口を通じたすべての銀行への融資を合わせたよりも大規模だったのです。 FRSを創設した金融のサイエンティストたちと産業界の仲間は、自分たちの努力に対する見返りをたっぷりと得ました。

しかし、インサイダーたちがどれほど儲けたかが問題ではありません。 もっと重要なのは、この我田引水メカニズムの結果としてマネーサプライが大々的に拡大し、それが大恐慌を不可避にした事実です。 これこそ引受手形に注目しなければならない理由です。





ローラーコースター
1920年から1929年まで、3度の大きな景気変動がありその間にもっと小規模の循環が何度かあり、平均的なアメリカ人に混乱と破壊をもたらしました。 投資家にとっては、たちまち忘却の彼方に走り去るローラーコースターでした。

(景気の上昇)
FRSは第一次世界大戦の戦費をまかなうために、マネーサプライを拡大しました。結果として景気は過熱し、物価は上昇。
(景気の下降)
1920年、FRSはインフレを冷やすために金利を引き上げ。 景気は後退し、物価は下落。 一番打撃を受けたのが農民で、何百もの地方銀行閉鎖。
(景気の上昇)
1921年、FRSは景気対策とヨーロッパ政府援助のために金利を引き下げ。結果、インフレと債務の増加。
(景気の下降)
1923年、FRSはインフレにブレーキをかけるために金融引き締め。
(景気の上昇)
しかし、同時に割引窓口では低金利による景気刺激策が取られ効果は相殺。銀行は新たな準備金を借り入れマネーサプライ拡大。
(景気の上昇)
1924年、FRSは突然、5億ドルの新たなマネー創出。1年もしないうちに商業銀行は、これを8倍の40億ドルあまりにふくらせる。
結果として起こった好景気は投資というより投機の様相。株価は急騰。
(景気の下降)
1926年、フロリダの土地ブームが崩壊。経済は再び収縮。
(景気の上昇)
1927年、イングランド銀行のミンタギュー・ノーマンが訪米。ベンジャミン・ストロングと協議。ノーマン訪米後まもなくFRSは新たなマネーを経済につぎ込み、景気は回復。
(景気の下降)
1928年春、FRSは景気を減速させるため金融引き締め。
(景気の上昇)
銀行は準備金を定期預金(顧客が一定期間待ってから引き出す預金)に転換。定期預金の方が要求払い預金より準備金は低くて済むので、銀行は以前より多額の貸し出し可能となった。これがFRSの金融引き締めを相殺。
(景気の上昇)
この頃には英国政府は福祉国家維持のために以前の貯金を使い果たす。 1928年春、国際市場で再びポンド下落し、金はアメリカに還流し始める。FRSは再び病む親であるイングランド救援に乗り出す。FRSは多額の銀行引受け手形を買い入れ、、金利を押し下げ、金の注入に歯止めをかけた。マネーサプライは突然突然、20億ドルもも増加。
(景気の下降)
1928年8月、FRSは拡大政策を転換し、公開市場で財務省証券を売却。金利引き上げ。 マネーサプライは再び収縮。これが最終的なバブルであった。

(カモ料理の晩餐始まる。 2019年10月24日木曜日 暗黒の木曜日、株価大暴落)

1929年、証券市場は9月19日に最高値をつけ、その後じわじわと下げ始めた。一般投資家はまだ終わりが来たことに気づいていなかった。ローラーコースターは、前(1920年)にも急降下したことがある。じきにまた、急上昇するだろう。 それから先に5週間、一般投資家は下げ相場で大量に買い続けた。この期間の取引量は100万株を超えた。 

10月24日、木曜日、巨大な魚群が見えない合図で突然方向転換するように、何千人もの投資家が売りに走った。 株価を打ち出すティッカーテープが追いつけなかった。 株価は急落した。

1300万株が手から手へ渡った。誰もが市場の底が抜けたと言った。しかし、それは間違いだった。5日後、本当に底が抜けた。 
10月29日火曜日、売り一色となり市場は崩壊した。 買い手は全く見つからなかった。 取引時間が終わるまでに1600万株以上が投げ売りされ、ほとんどはぢんな価格でもおかまいなしだった。 たった1日で、何百万もの投資家がすべてを失った。 

さらに株価が下落した数週間で、30億ドル以上の富が消えた。12ケ月で400億ドルが蒸発した。帳簿上ん利益をあてにして、急に金持ちに担ったと信じていた人々は、自分がとんでもない貧乏人だと気づいた。

コインの裏側は、売り手がいれば買い手がいたということだ。買い手は株を現金や金に換えていたおインサイダーだった。株価が下がったからと言って、株式そのものはまったく悪くはなかったことを忘れてはならない。 堅実な会社の株は依然として配当していたし、--現実的な株価であれば--良い投資先であった。 パニックで株価は本来の水準よりはるかに下がっていた。現金を持っていた人たちは、真の価値に比べればほんのわずかな代償で株式を手に入れた。

このために、巨大な持株会社つくられた。マリン・ミッドランド・コーポレーション、リーマン・コーポレーション、エクティ・コーポレーションなどである。 J・P・モルガンはスタンダード・ブランズという食品トラストを創設した。 サバを食らうサメのように大物投機家が小物を餌食にした。

儲けのために暴落を仕組んだという証拠は何もない。それどころか、金融のサイエンティストたちは、一生懸命に暴落を回避しようとしていたらしいし、もっと優先されるアジェンダが邪魔しなければ回避に成功していたかもしれない。 しかし、市場の崩壊は不可避であると気づいたあとは、特権的な立場を活用して遠慮なく利益を図った。

その意味で、「世界のマネーパワーが計算ずくで一般市民を食い物にした」と書いたFDRの女婿カーティス・ドールは正しかった。






コール・ローン

120年代のアメリカの信用拡大の最終段階では、株価上昇は完全に投機的現象になっていました。 買い手は株価が配当に比べて割高dも気にしませんでした。 売買の煩雑な株式は収益の20倍から50倍の価格で、場合によっては100倍の価格で売られました。 投機家はしばらく所有したあと売って利益を得る目的だけに株式を買いました。 

これは「もっと馬関なやつがいる」戦略でした。 今日どんなに高値でも。明日はもっと高値で買う馬鹿が入るかもしれない。しばらくはこの戦略は当たったかに見えました。 

さらに興奮の度が高まったのは、、投資家の間で信用取引が一般的になったためでした。 買い手は少額の委託保証金(証拠金)を払うだけで、残りの代金はブローカーから借りて株式を買います。 ブローカーは銀行から借り、銀行はFRSから借ります。

1920年代には小規模の投資家の場合、っ証拠金は10%と低いものでした。 平均的な株式の年間配当は3%程度でしたが、投機家は12%以上の金利を払っても金を借りたから、株が9%以上値上がりしなければ、元が取れなかったことになります。


これらの信用取引の貸し付けは「コール・ローン」と呼ばれました。ブローカーはごく短期の予告、ふつうは24時間前の通告で、返済を求める(コール)ことができたからです。

ブローカーが返済を求めると、投資家はすぐに返済資金をつくらなければなりません。それができなければ、ブローカーは株を売ってお金(マネー)を取り戻します。理論的には、株式を売れば借金の返済に足りるはずでした。

しかし実際には、ブローカーが返済を要求するのは株価が下がっているときだけでした。 株価が下がっているときには株を売れば損が出ます。投資家は補償金を丸ごと失い、ブローカーも相場下落の度合いに応じて程度はいろいろですが、損をします。

投資家はもっと多額の資金を獲得するために、ときには持ち株を担保にして信用取引で新たに株を買いました。 だから新しい株式購入の返済ができないと、以前の持株までうしなうことになります。

このように、一般人素人投資家が、金も十分持っていないのに、ブローカーに足らない分は貸してやると耳元でささやかれ、今株を買えば儲かると言われて、危険な金融商品に手を出し、大体ドツボにはまるのです。

リーマンショックのときもそうでした。 とても自己資金を考えると家の購入なんかできるわけないのに、ブローカーに足らない分は貸してやるからと言われて貧乏人たちが家の購入をおこなったのです。 

貧乏人の其時の考えはこうです。 住宅の値段はますます上がる。よってその時売ればブローカー(銀行など)に借金した分は返却できて、かつ自分の持ち家を持てる。

そんなうまい話が転がっているわけないでしょ。 本当にアホネ! この記事を読んでくれている学生さんたちは気を付けて下さいよ。  「何事も失敗の原因の本質は、根拠なき楽観です」。 

美人の学生さんだったら借金を返せなかったら、そのままヤクザが運営する風俗送りとなり一生抜け出せないかも知れませんよ。 
「気を付けよう、甘い言葉と暗い道。 そして金融の詐欺師たちと統一教会!」






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ロスチャイルド財閥ー96 盛大なカモの晩餐

2022-11-09 15:46:55 | 国際政治・財閥
ニューイングランドの農民の物語があります。 彼の農場の中には、小さな池があった。 毎年夏になると野生のカモが池にやってくるのだが、いくら頑張っても農民は一羽も捕まえられなかった。

どんなに早起きして近づいても、どんなにうまく遮蔽物をつくって隠れても、どんなに巧みに鳴き声をまねても、どういうわけか賢い鳥たちは危険を察知して逃げてしまう。

もちろん秋になればカモは南へ飛び去り、農民のカモは料理に対する欲求はつのるばかりだった。 そのとき、いい考えが浮かんだ。

早春、農は池の周りにトウモロコシをがらまき始めた。 カモはトウモロコシが大好きだし、トウモロコシはいつでもあるので、まもなくカモたちは自力で池に潜って餌を探すのをやめた。

しばらくすると、農民にも慣れて警戒しなくなった。 親切にしてくれると思い、平気でそばへ寄ってくるようになった。安楽な暮らしに、カモは飛ぶことさえ忘れた。

だが、それはどうでもよかった。 カモたちは飛ぼうとしても湖面から飛び立てないくらい太ってしまっていた。 秋になったが、カモは池に留まった。

冬が来て、池は凍った。農民はカモが凍えないように小屋をつくってやった。 カモは飛ばなくてももすむので幸せだった。農民はもっと幸せだった。

長い冬のあいだ、いつもおいしいかも料理を他ばれれたからである。 これが第一次世界戦の後の好景気で、黄金の1920年代を満喫した、1930年代のアメリカの大恐慌の大恐慌の物語である。




ロスチャイルド財閥ー86 アメリカ黄金の1920年代
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ロスチャイルド財閥-89 大正バブル(第一次世界大戦景気)

ロスチャイルド財閥-90 ロスチャイルド家と松方正義
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ロスチャイルド財閥-94  大正バブル、大財閥、新規財閥の台頭、そして松方財閥 
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ロスチャイルド財閥ー95 三井財閥 日本製鋼所(JSW)
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ロスチャイルド財閥ー85 ヴェネチアの黒い貴族: 人類史絶対勝者のルーツ
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それでは、1930年代の世界大恐慌が起こるまで、具体的に何が起こっていたのが見ていきましょう。






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ロスチャイルド財閥ー95 三井財閥 日本製鋼所(JSW)

2022-11-09 04:05:02 | 国際政治・財閥

日本製鋼所 本社

【JSW 日本製鋼所】会社紹介ムービー (short ver.)
https://www.youtube.com/watch?v=FHWg7VZXqiY


概要
旧株式会社日本製鋼所は、1907年(明治40年)、英国の技術を導入して国産の兵器を製造する会社として、北海道炭礦汽船株式会社、国アームストロング・ホイットワース会社(Sir W.G.Armstrong, Whitworth and Co., Ltd.)、英国ヴィッカース会(Vickers Sons and Maxim, Ltd.)の出資によって北海道室蘭市に設立された。これは、製鋼事業としては安来製鋼所に次ぐ画期的な出来事であった。太平洋戦争の敗戦に伴い、企業再建整備法により後の1950年(昭和25年)に解散した。

解散された旧会社の資産と人材をもとに新たに設立された株式会社日本製鋼所は、兵器の製造で培った鍛造技術、鋳造技術を活用し、発電所、化学プラントに用いられる特殊な鍛造品、鋳造品、プラスチック・マグネシウムの射出成形機や各種の産業機器を製造している。また、戦車や艦艇の火砲や発射システムなどの防衛機器の製造も続けている。

首都高速道路公団からの依頼を受け、首都高速道路江戸橋ジャンクションの曲線道路橋桁の鋳造に関わったことでも知られている。

製作所として、発電用蒸気タービンや原子力用部材、化学プラントに用いられる鉄鋼製品やブレードやタワーなど風力発電用風車を生産する室蘭、プラスチック・マグネシウムの射出成形機、戦車や艦艇の火砲などを生産する広島、レーザーアニール装置など電子機器用装置を生産する横浜がある。かつては産業用機械を生産する東京、鹿島工場のほか、軍需用機器を製造・補修していた宇都宮(後のシンガー日鋼)、赤羽作業所、および輪西工場(現・日本製鉄室蘭製鉄所)があった。

従来、本社機能は東京都千代田区有楽町、日比谷三井ビルディングと東京都府中市日鋼町1番地1号の旧自社ビル(日本製鋼所東京製作所跡地、2004年(平成16年)に売却)に分かれていたが、2007年(平成19年)8月14日、東京都品川区のゲートシティ大崎ウエストタワーに移転した。


設立経緯
日本製鋼所の設立経緯について、特筆しておくべきこととして帝国海軍(以下、海軍)との関係や、初の外国資本導入(ここでは英国)が挙げられる。

当時代議士でもあった、北海道炭礦汽船の専務取締役の井上角五郎は、かねてより製鉄業こそが近代化の根幹であると考えており、鉄道国有化による売却益を利用して、北海道の地に製鉄事業に進出することを計画して、伊藤博文、松方正義(ロスチャイルド・パリ家とズブズブの関係で、中央銀行である日本銀行を設立し金本位制を導入)ら元老に働きかけた(日本製鋼所室蘭製作所の迎賓館である瑞泉閣には、伊藤博文の「日本製鋼所」という揮毫が残っている)。

ロスチャイルド財閥-90 ロスチャイルド家と松方正義
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2937f6a912651bdd2e98d71af2d889df

一方、海軍においても日露戦争の経験から兵器国産化を目指していたが、そのためには先進国から技術を導入する必要があった。そこで、この計画に乗る形で呉鎮守府の山内万寿治中将を参画させる(現役将官が民間企業の顧問となるのは極めて異例である)ことで、兵器国産化を目的とした、製鋼事業を起業することが急速に具体化していった。当初、井上は追分で産出された石炭から作ったコークスと、倶知安などで産出した鉄鉱石を用いて高炉製鉄とそれに付随して製鋼を行うことを企図していたが、海軍側の説得により製鋼と兵器製造を中心とすることになっていった。井上の念願であった製鉄事業については、1909年(明治42年)に北海道炭礦汽船輪西製鐵場を開設して、現在の日本製鉄室蘭製鉄所へとつながっていく。

先進国からの技術導入であるが、当時の海軍は英国のアームストロング・ウイットウォース會社(Sir W.G.Armstrong, Whitworth and Co., Ltd.)から軍艦や兵器を多く買い付けていた。山内はこれを北炭に紹介するとともに、日英合弁事業とすることを勧めたとされる。そこに英国ビッカース會社(Vickers Sons and Maxim, Ltd.)が参加して、日本製鋼所を室蘭に設立することが決まった。

なぜ室蘭に日本製鋼所が設立されたかについてであるが、もともと、室蘭には海軍の鎮守府の設置が内定しており、軍港として指定されていたが、地勢的に太平洋側からの攻撃に対して防御が困難であるという理由により、1903年(明治36年)に鎮守府の設置は見送られたという経緯がある(大湊警備府を参照)。そこで、使われていなかった室蘭港を使用することとしたのである。

また海軍のみならず陸軍とも深い関係をもっており、日本軍最大級の試製四十一糎榴弾砲の砲身製造などを手がけている。





第一次世界大戦での三井財閥の鉄鋼業界
北海道炭鉱鉄道は、鉄道国有化のさいの買収資金を投じて、鉄鋼・兵器製造部門に進出しました。 明治40年、北炭(前年の固有化に際し、北海道炭鉱汽船と改称)は、イギリスのアームストロング、ヴィッカース両者(どちらもロスチャイルドのGr会社)との共同出資と海軍の受注保証により、日本製鋼所を設立しました。

さらに、明治42年に北海道鉄鉱石-砂鉄を原料とする輪西製鉄場の操業を開始します。しかし、輪西製鉄場は20日で操業停止に追い込まれました。 技術的障害と北炭の経営破綻が原因でした。

結局大正2年、三井財閥が北炭を傘下に入れ(3分の1の株式を集中)、団琢磨が会長に就任して、北炭の経営を再建することになり、輪西製鉄所(改称)も操業を開始しました。





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ロスチャイルド財閥-94  大正バブル、大財閥、新規財閥の台頭、そして松方財閥 

2022-11-07 13:59:45 | 国際政治・財閥


川崎重工業株式会社のロゴマーク

川崎重工業株式会社(以降カワサキ)は、他のメーカーと違い、唯一の重工業メーカーである。カワサキの創始者は川崎正蔵と松方幸次郎の二人がいる。まずは創始者について説明しよう。

川崎正蔵は天保7年(1836)に薩摩国鹿児島城下で生を受けた。藩命で長崎に出て貿易に従事し、金・米などを扱う。鹿児島町吏、大阪の蔵屋敷御用達を命ぜられるが、貿易に着目して藩庁を説き、西洋型帆船を数隻購入し薩摩の国産物を畿内に輸送して巨利を得た。また明治4年には上京し、帝国郵便汽船会社の副社長に就任。東京-琉球間の郵便航路開始に尽力した。この時、琉球反物の輸送販売で得た巨利を元手に念願の造船業を開始する。明治19年には官営兵庫造船所の払い下げを受けて、川崎造船所を設立する。しかし、後継者がいなかった川崎正蔵は、同郷の先輩であり自分の事業の恩人であった松方正義の三男・松方幸次郎を後継者に選ぶ。ちなみに川崎正蔵は男爵である。

さて、もう一人の創始者である松方幸次郎は第4・6代内閣総理大臣を務めた公爵、松方正義の三男である。慶応元年(1866)に薩摩国鹿児島に生まれ、東京帝国大学を中退し、エール大学に留学。明治24年(1891)に第一次松方内閣組閣に伴い、父松方正義の首相秘書官となる。その後は一時、新聞事業の経営などを行う。明治29年(1896)に川崎財閥創始者の川崎正蔵に要請されて、株式会社川崎造船所の初代社長に就任する。その後は、衆議院議員に当選し、国際的に活躍するが、世界大恐慌による金融恐慌において無謀とも取れる多角化戦略を行い、川崎造船所を破綻させてしまう。

さて、もう一人の創始者である松方幸次郎は第4・6代内閣総理大臣を務めた公爵、松方正義の三男である。慶応元年(1866)に薩摩国鹿児島に生まれ、東京帝国大学を中退し、エール大学に留学。明治24年(1891)に第一次松方内閣組閣に伴い、父松方正義の首相秘書官となる。その後は一時、新聞事業の経営などを行う。明治29年(1896)に川崎財閥創始者の川崎正蔵に要請されて、株式会社川崎造船所の初代社長に就任する。その後は、衆議院議員に当選し、国際的に活躍するが、世界大恐慌による金融恐慌において無謀とも取れる多角化戦略を行い、川崎造船所を破綻させてしまう。

川崎正蔵と松方幸次郎は共に、美術蒐集者としても有名である。共に文明開化の時代を生きた二人は、開国に伴い国外に流出する美術品を買い集め、日本文化の保護を行おうとしていた。また、松方が欧州に滞在した折にはモネとも交流を深めており、直接モネから絵画を購入していった。有名なモネの「睡蓮」も松方が買い集めた作品のひとつである。これらの作品は「松方コレクション」と呼ばれる。松方はこれからの日本人は本物を学ばねばならないと考え、「共楽美術館」という美術館を設立する構想を持っていたが、前述した世界大恐慌の影響で、負債整理のため松方も私財を提供せざるをえなくなり、国内で保管していた美術品は散逸してしまう。

また、国外で保管していた美術品は第二次世界大戦後にフランス政府に押収されてしまった。日本政府は戦後、フランス政府に松方コレクションの返還交渉を行なっていたが難航した。というのも、連合国に管理されている日本の財産はそれぞれの国が没収するが、個人の財産は所有者に返還される条約があった。しかし、ゴーギャンやゴッホといった作品に関してはフランス側が譲らず、合計370点の作品が、美術館を建設して展示するという条件付きでフランスから「寄贈」された(フランスは「寄贈だ」と主張したため、「寄贈返還」という言葉が使用された)。だが、「ファンゴッホの寝室」と「アルジェリア風のパリの女たち」は返還が認められなかった。これらの作品はフランスから寄贈返還される際の条件で建設された国立西洋美術館にて展示されている。奇しくも松方の構想した共楽美術館が実現することとなったのである。

さて、企業としてのカワサキを見ると、重工業メーカーだけあって多種多様なジャンルの業務を執り行っている。まず、読者諸兄もご存知の川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー。これはバイクやジェットスキー、バギーを製造しているグループである(ジェットスキーはカワサキの登録商標である)。大型のタンカーやフェリー、海上自衛隊の巡洋艦などを製造している船舶海洋カンパニー。東北新幹線「はやぶさ」をはじめとする新幹線、鉄道車両を製造する車両カンパニー。飛行機やヘリコプターを製造し、自衛隊の次期固定翼機構想のC-Xなどを研究開発している航空宇宙カンパニー。ジェット機のエンジンとなるガスタービンエンジンを製造するガスタービン・機械カンパニー。ガスタービン技術を流用して開発された発電機や放射性廃棄物処理施設などを製造するプラント・環境カンパニー。上記の機械製造技術からノウハウを得た精密機械カンパニーなどがある。以上のカンパニーの集まりが川崎重工業株式会社である。

また、関連企業には神戸新聞社、昭和シェル石油、川崎設備工業(現関電工)、日本興亜損害保険などがある。さて、ここまで川崎重工業の製造するものを並べてみたが、勘の良い読者諸兄はお気づきだろう。川崎重工業で製造する製品のうちモーターサイクル&エンジンカンパニーで製造しているもののみが個人向けの商品である。あとの全ての商品が国や企業向けであることがわかると思う。

川崎重工業は三菱重工業やIHI(旧石川島播磨重工)と共に、日本の経済成長や近代史、産業史を支えた主要企業のひとつである。また、川崎財閥はGHQの要求した財閥解体司令に指定された15大財閥の一つでもあった。

出所
http://chugen06a.web.fc2.com/crc/crc012.html






財閥の大陸進出
日清戦争に勝利した日本は、台湾を領土として獲得し、それまで清国の勢力圏内にあった朝鮮半島に対する支配力を強めました。 また、中国各地の開市開港と低関税の約束を勝ち取ります。 この結果、中国、台湾、朝鮮は、日本経済にとって絶好の輸出市場、原料供給地、資本投下先となりました。

日露戦争の勝利は、樺太の獲得、「満州」(現中国東北省)・朝鮮の勢力圏編入をもたらすとともに、日清戦争以後、急速な発展を遂げつつあった対中国貿易・投資活動をいっそう活発にします。 

巨大な資本力と人材を有する財閥は、諸権益を営利活動の機会として積極的に活用しました。 しかし中国・朝鮮民族の利益は考慮の外に置かれました。 日本企業の中で、財閥だけが中国・朝鮮民族の利害を無視したというわけではありませんが、投入する力量が強大であるために、財閥のアグレッシブな活動はひときわ目立ちました。以下、いくつかのケースを紹介します。



三井物産の中国ビジネス
三井財閥とロスチャイルド財閥はよく似ています。 金融(三井は両替商、リスチャイルドは金貸し)ビジネスから始め、繊維産業で儲け、政府・王家と癒着した政商となり大きくなりました。

また、この時代、明治維新などロスチャイルド家が背後で操る大英帝国と日本は同盟を結んでいて、三井家とロスチャイルド家は何かと関係を深めています。 三井銀行が帝国銀行となり、金融面でも接点がありますし、鹿鳴館をつくったのは三井の井上馨、三井物産もロスチャイルドとビジネスで何かと提携しています。まあ、阿片戦争で中国(清)を支配していたのはロスチャイルド財閥がバックの大英帝国ですから。

明治26年7月、三井物産が合名会社に改組された時点で、同社の海外店は、上海、香港、シンガポール、ロンドンの四支店と天津出張店、ボンベイ(阿片戦争の阿片は主にインドのボンベイから中国に輸入され、阿片王サッスーンの拠点)出張所の六か所だけでした。 

それが一挙に増加するに至ったのは、日清・日露量戦争の後の朝鮮・中国における我が国権益の拡大と植民地領有の結果でした。
明治29年から37年までに増設された三井物産の海外店は18、そのうち5が欧米、2がマニラとジャワ、残りの11が営口、台北、仁川(インチョン)、厦門(アモイ)、漢口、京城、北京、広東、台南、大連、杭州の新「勢力国の重要都市に設置されました。

明治38年から45年までの8年間に増設された海外店は、そのうち4が欧米(ロシアのウラジオ含む)、4がカルカッタ、バンコック、ラングーン、サイゴンに置かれ、残りの13店が福州、汕頭、高雄、安東、鉄嶺、奉天、青島、吉林、長春、ハルピン、釜山、阿緱、台中に設置されました。

とりわけ、中国本土において、三井物産の商取引の伸長が目立ちました。 店数の増加だけではなく、取引きの形態でも斬新な方法が試みられ、成功を収めました。その一つに、買弁の廃止と直接取引の開始が挙げられます。買弁とは、中国独特の仲介商人で、中国の言語・監修・精度に通じていない外国商人と国内商人・生産者の間を仲介して手数料を稼いでいました。 

外国商人は、中国取引に当たって、この買弁に頼るのが一般的でm三井物産も同様でした。しかし、手数料支払いを節減し、かつ現地にできるだけ密着した取引を拡大するため、三井物産は、明治30年に買弁を廃止する方針を決めました。

その一方で、物産は買弁に頼らないで現地の商人・生産者と直接取引できる、中国の言語・慣習・制度に習熟した社印の養成に努めました。  そのため、清国商業見習い生(あるいは志那研修生)制度を設け、中学卒業生を選抜し、有給で中国に派遣し、中国人の中での生活を通じ、直接取引の能力を身につけさせることにしました。

これら卒業生の中からは、森恪(つとむ)・天津支店長、のち政界に転じて政友会幹事長。 児玉一造・綿花部長、東洋綿花の創立に当たり、同社会長。 らの人材が育ち、三井物産の中国取引にも貢献しました。

また、たとえば、日露戦争の最中、森恪が山本丈太郎・上海支店長の命を受け、小舟に乗ってバルチック艦隊の動向を探った事実が物語るように、朝鮮や中国の現地事情に通じた物産社員は、戦争と軍部の大陸政策にとってのよき協力者として動員される傾向がありました。

三井物産の中国取引に取り入れられた斬新なやり方は、中国物産と欧米製品を取引する三国間貿易でした。 明治28年に上海支店が開始した中国・欧米間の三国間貿易は拡大の一途をだどりました。 中でも有名なのは、明治41年に開始した満州大豆の欧州向け輸出で、三井物産の重要な収益源の一つに発展するとともに、満州を世界的な大豆産地として育て上げました。

大豆は食用は勿論の事こと、当時、化学の技術が発展し、一大産業となっていた欧州では、大豆からとれる油は、ユニリーバ社の石鹸やシャンプーに、そしてマーガリン・ユニ社のマーガリンの原料として使われていたのです。

ちなみに、イギリスのユニ・リーバ社、オランダのマーガリン・ユニ社は、どちらもロスチャイルドGrの会社です。






三菱(岩崎家)の朝鮮進出
岩崎弥太郎の次女(久弥の妹)の夫・木内重四郎は、元農商務省将校局長でしたが、日露戦争後に締結された日韓保護条約の結果、明治38年に韓国統監府が設置されると、同府の農商工部長官に任命されました。

統監府は、41年の東洋拓殖設立、42年の韓国銀行(後朝鮮銀行)設立を推進し、韓国経済を日本の利益に即して再編・開発する計画に着手しました。

統監府は43年の「日韓合併」とともに朝鮮総督府になりました。 木内は義兄の岩崎久弥三菱合資社長に対し、39年頃から、統監府の「韓国経済開発」計画に協力するよう要請し、三菱合資あるいは岩崎家が、韓国に100万円程度の投資によって新事業を起こすことを求めました。

久弥は、調査の上、これを承諾し、2つの方向から朝鮮進出に着手します。 第一は岩崎家の小作血経営です。 久弥は40年、岩崎家の資金を投じて約2500ヘクタールの農地を買収し、東山農場と名付けて小作地経営を開始しました。

東山農場の規模はのちには5000ヘクタールにまで」拡張。 産米の改良や農民に対する生活資金の低利貸し付けなどで、韓国農業に寄与する面もないわけでしたが、韓国農民の民族感情に根差した抵抗活動に直面させられました。 第二は、三菱合資の鉱山業です。 同社は、43年から韓国工業資源の調査を進め、44年に兼二浦鉄鉱山を買収し、大正6年の三菱製鉄設立に至ります。





第一次世界大戦と財閥 ~対戦ブームの概況~
第一次世界大戦にさいし、日本は参戦国であながら、基本的には交戦圏外に身を置き、経済的利益を満喫することができました。
欧米諸国の戦時需要が増大し、ヨーロッパ工業製品がアジア市場から姿を消したため、日本経済は輸出の急増・工業製品輸入の杜絶(とぜつ)・国産工業製品に対する内需の拡大という空前の好機に恵まれました。

日本経済は飛躍的成長を遂げました。 大正3年から8年にかけて、工業生産は4.9倍、工業労働者数は1.7倍に拡大しました。 会社数と払込資本金総額も、同じ時期に約2万社、21億円から約3.7万社、65億円と急激に増大しました。

すでに明治時代に確立した各財閥は、このブームに積極的に対応することにより、さらに巨大化しました。 資本蓄積の面で量的に大きくなっただけでなく、重化学工業と海外貿易という大戦中の史上的機会に最も恵まれた部門の強化、創設に勤め、多角的事業網を質的に充実させました。


この第一次世界大戦の高景気の詳細がこちら。

ロスチャイルド財閥-89 大正バブル(第一次世界大戦景気)https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/04b93e99ce176648b9db4e38aaba74f6






新財閥の台頭
第一次大戦中のブームは、維新前あるいは直後以来の歴史を有する既成財閥を巨大化させただけでなく、新しい財閥の台頭を促しました。

新財閥に数えられるのは、久原(日立製作所の前身)、鈴木、岩井、村井、松方(ロスチャイルドとズブズブ)、野村などでありますが、代表格は久原房之介と鈴木商店です。 

岩井財閥は、岩井勝次郎の経営する岩井商店の事業の多角化に基づいて形成されました。 同商店は工業製品の輸入を主たる業務として営んでいるうちに、これら工業製品の国産化に乗り出していきました。

第一次世界大戦期に設立もしくは改組した岩井系企業群を列挙してみると、大阪鉄板(現日新製鋼)、日本曹達(現徳山曹達)、関西ペイント、中央毛糸紡績(現東亜紡績等)です。

また、財閥本社として、大正5年に合資会社岩井本店(資本金300万円)を設立しました。 村井財閥は、たばこ王・村井吉兵衛が、煙草専売法(明治37年公布)によって煙草製造事業を国に譲渡した後、村井銀行、村井農場(韓国)、村井貯蓄銀行、村井鉱業(主として石油採掘)、帝国製糸を設立、その他台湾の植林事業をも含めて多方面に資本を投下したところに成立しました。

これらは第一次世界大戦前に創始した事業で、大戦期には村井汽船、村井倉庫、村井貿易を設立しました。 この貿易会社の破綻が引き金となって、村井財閥は崩壊に向かいます。 村井銀行の廃業は、昭和2年の金融恐慌の時点でありました。



ロスチャイルド家とズブズブだった松方財閥は、財閥と呼びえるかどうか問題ですが、川崎造船所社長の松方幸次郎,十五銀行頭取の松方巌(幸次郎の兄)ら、松方正義の子息たちが多方面な事業分野に投資し、投資先の諸企業を松方一族の意志の下にグループとしてまとめたものの総称です。  前記2社のほか、合資会社松商などがありますが、財閥としての封鎖性、総合性に欠けていました。



ロスチャイルド財閥-90 ロスチャイルド家と松方正義https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2937f6a912651bdd2e98d71af2d889df






規模は小さいですが、野村財閥も見逃すことはできません。 しかも、同財閥は貿易事業の失敗にもかかわらず、財閥全体の破綻をまぬがれ、財閥解体に至るまで財閥の体裁をたもつことができました。 

財閥解体時に、野村一族は、三井、岩崎などとともに十大財閥の56家族の一員として指定されています。 今日でも旧野村財閥系企業グループは、金融・不動産部門に偏ってはいるものの、野村證券。大和銀行、東京生命、野村不動産などの有力企業を擁し、その活動は活発です。

野村財閥の起点は、大阪の両替商からスタートし、株式の現物取引で大をなした野村徳七焦点です。 第一世界大戦中の巨利と市場環境を生かして、多方面に事業展開を図りました。 大正6年の南洋事業部設立とボルネオ農園の経営開始、株式会社野村商店設立、7年の野村銀行(資本金1000万円)設立、貿易事業のための大東物産設立、財閥本社としての野村総本店設置などがあります。


後発ながら、大戦後の不況による打撃にもめげず、よく多角的事業網を伸ばした野村財閥ですが、事業内容が偏っていた上にスケールが小さく、二流財閥の範囲を出ませんでした。






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